上記の写真は「夏椿」です。夏に咲く白い椿です。(「さらそうじゅ」とも呼ばれます。)
お釈迦様が亡くなる時にそばにあった木が「沙羅双樹」の木であり、彼が涅槃に向かうその際にこの木の芳香と共に白い花びらがはらはらと舞い落ちたとの言い伝えがあります。日本においては、夏椿がこの「沙羅双樹」となっているそうです。
毎年、輪王寺において行われる華道「本原遠州流」の「花供養」の時期に、この花は境内で涼やかに咲いています。
「本原遠州流」は仙台の伊達藩の華道指南役として二百年以上続く華道の流派です。
その昔、京都の庭師「小堀遠州」を祖とする生け花日本橋遠州流から独立して伊達藩士松本一草が興した華道の流派です。幕末に仙台に移動し、仙台藩の華道指南役として活躍したとのことです。
そんなわけで、毎年催される伊達正宗の法要の際には、その会場のお花は「本原遠州流」の歴代お家元が生けています。
さて、「花供養」という名前は聞きなれないかもしれません。
でも、おそらく「針供養」や「人形供養」などの名前は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
日々、お世話になっていたりするものに対しても、感謝やいたわりの気持ちを表し気持ちを新たにするというような意味合いがあると思っています。
本堂において一人ひとりが一輪ずつ花を手向け(たむけ)てから式が始まります。
お家元が白椿のお生花「おせいか」を生け献花します。その後読経があり全員がお焼香をします。
そして式の後、境内の花塚に向かい、それぞれ花とお線香をあげて合掌します。
竹筒には手向けられた菊の花。そしてお線香の煙がけぶっています。
その後、会食がありますが、それまでの間しばし、輪王寺のお庭を散策します。
輪王寺は昔、映画のロケ地になったこともあるという素晴らしい庭園です。いつもはちょうど「花菖蒲」が見ごろなのですが今年はもう終わっていました。睡蓮の花がさいていて暑さに涼を添えています。そして、色とりどりの鯉がゆるやかに泳いでいます。
よく見ると、なんと、メダカの群れがいます。最近では自然の中ではめったに目にすることもなくなったメダカに思わず歓声をあげてしまいます。
メダカ 小さすぎてよくは写りませんでしたがちょと、見えませんか?
「むべ」の木です。今年初めて気づきました。
水芭蕉かな?
さて、そして会食となりますが、ここに参加する方々の年齢は10代から80代(多分90代の方はいらっしゃらないかと思いますが...。)と時代の流れを感じさせる年齢差があります。ここに参加すると、自分が若いと言われたりすることもあるくらいの世界になってしまいます。
参加者の中でもとりわけ、高校生の方々の姿はその場を華やいだものにします。
お家元はじめ生け花に関わる業者の方々の列席もあり、仙台にまつわる様々な分野や時代のエピソードなどを聞くことができます。
今回は、来賓の方の花に関する現代の状況の他、ご自分の親族の集まりの際のエピソードを話されました。
なんでも、お子様の配偶者に外国人も何名かおり、ハーフのお孫さん子も何人かいて話題にも国による考え方の違いがあるそうです。
特に、宗教に関しては、なかなか強い思いがあり、難しいと感じるそうです。そして日本人の宗教感等を尋ねられるそうです。そこでその来賓の方は、「日本には八百万の神様がおり、『これは本当の神様ではない』とか『これだけが本当の神様だ。』といわず様々な神様を認めている。」というと、納得するそうです。ちょっと面白い話でした。
また、前お家元からは「沙羅双樹」についての逸話を伺いました。
お釈迦様が亡くなる時、ふつうは春~初夏に咲く花が2月にもかかわらず咲いて、はらはらと舞い散り、さながら鶴が舞うようだったとか...。その「沙羅双樹」の白椿が境内にあります。とのことでした。
ふつう椿は冬の花の代表各だとおもっていたわたしは、毎年、境内に咲く白椿の美しさに感動するだけで通り過ぎていたのですが、ちょっと、調べたくなり調べてみました。
すると、意外なことが分かりました。
実は、ふつう見る赤やピンクの椿と、この白椿は別の品種だということでした。赤椿等は「ツバキ科ツバキ属」であり、白椿は「ツナキ科ナツツバキ科」なのだそうです。
「平家物語」の一説「..略 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ」 そうなんだ!沙羅双樹は日本では白椿のこと、そして椿の花は大きく爛漫に咲いた形のままでまるごと散る。その様とリンクさせているのだ。と腑に落ちたのでした。(でも、この白椿はお釈迦様の亡くなる時にその場にあった本当の沙羅双樹ではないから、はらはらと散る花びらではないのでしょう。)
さて、喧騒とした日々の生活の中で、ポッと足を踏み入れた途端、穏やかで厳粛で、でも、ぬくもりも感じられるような供養の空間。なんだか心が洗われるようなそんな居心地の良さを感じたのでした。
最後になりますが、ついでに、「供養」の意味も調べてみました。そこでも目からうろこ!
なんと、「供養」にもいろいろあって、ある禅・曹洞宗僧侶の方によると、3つの種類があると述べています。
1 「利供養」・・・亡き人に対して何かをお供えすること
2 「敬供養」・・・仏教を敬う。具体的には お経を読む等。
3 「行供養」・・・仏道修行をすること。つまり善行をすること。この3つ目は自分の生き方が供養になるという考えです。
正しい行いによって生まれた善業は良い報いとなって現れるという考えから、良い報いを亡き人に廻らすという思いです。因果の応報を踏まえた供養の在り方です。
とのことで、善行をすることは功徳を廻らすという考え方で自と他を隔てない豊かさがあると言っています。
なるほど!よくは分からないけど、良いことをすることが故人に対する供養になり、また身に回りの人をもいくばくか幸せにするということなんですね。
最近の世相を見ると、なんだか反対のことがたくさん起きているようで...、これでは個人も生きている人も悪い因果応報が増えそうで怖いです。
ちょっと勉強になった花供養でした。現実離れしているところがほっとします。
仙台では、このようなゆかしい行事が行われています。