石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

ひつじあかねさんからのお便り [無題]

2024年04月20日 | お便り

                  

 本当に久しぶりに、ひつじあかねさんからお便りが届きました。

ひつじあかねさんは「つなみてんでんこ」の絵本の執筆者です。東日本大震災直後にその絵本を出版した方です。

津波がおきたら、それぞれてんでんに(家族を心配して家に戻ったりせず)それぞれがそれぞれ高台にいち早く逃げる等、助かる行動をとることの大切さを知らせる言い伝えをもとにした内容でした。

 

そのひつじさんが、今回は次のような物語を寄せてくださいました。(題はありません)

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 しばらくは幸せに暮らしていました。

 そんな若夫婦に待望の赤ちゃんが産まれることになりました。
 嫁は働き者の夫に負けず劣らぬ知恵者でありました。
 怠けるということを知りません。美味しいご飯を作りながらも文字を学んだり、知らないことを知ることが大好きで楽しかったのでした。が、もうそろそろ生まれる頃になったその時に、嫁は赤ちゃんを迎える準備がもう少し足りないと気がついて、夫に買ってきてもらいたい品物を頼みました。

 お天気の良い日に夫は小銭と風呂敷を持って町へ出かけました。その日は小春日和。桜の花が咲き始める頃のことでした。
 嫁は夫が帰るまではまだ赤ちゃんは生まれないだろうと思っていました。産婆さんも近くにいるし、村人たちも優しいし大丈夫、心配ないと思っていました。
 今日一日で済む話しなのだから。

 


 大工の夫は町で仕事がある日は大工仲間が迎えに来ます。いつもは町まで仲間達と歩くのですが、今日は一人で歩きます。
 大工の夫は思いました。
「あ〜ぁ、なんて自由なんだろう」今、自分を縛るものは何もありません。
 今日一日のご用は単なる買い物だけ。
 頼まれた品物を調達したら、町でのんびりと、くいと酒でもひっかけて夕方までには帰れば良いだろう。
 大工はそう思いました。


 普段は真面目な夫は、ちょいとだけ、今日だけはのんびりしてみたいと思いました。それは悪いことではないだろうと。
 いつもは大工仲間達と仕事上がりにちょいと一杯ひっかけてから一緒に帰るのですが、今日は珍しく一人です。

 町に着いて店で買い物を済ませるとご用は終わりました。品物を包んだ風呂敷を肩に担ぐとお日様が真上に来ていて腹が空いて来ました。

 団子屋で食べる昼飯は美味しいのですが、何かが足りない気がします。

 大工の夫の足はいつのまにか自然といつもの酒場に向かっていました。
 お天道様の高いうちはお酒を飲んだことがないのですが、今日は特別な自由の日です。
 それに、おでんにはお酒が良く合うのです。お釣りの小銭も重いので、全部お酒に変えて飲み干しました。

 そしてふらふらした足どりで、川沿いの土手を歩き、大きな桜の木の下でコロンと眠ってしまいました。
 危なっかしい酔っ払いめ!が。

 昼間の酒は体を温めて酔いが回るのが早いのかも知れません。
 穏やかな春風が草花の甘い香りを運び、若い酔っ払いを包みます。風呂敷包みを枕に大工はしばらくの間夢の中。
 何の記憶もありません。

 はっとして目覚めると、辺りはまだ陽が落ちる前でした。まだ明るい。
 「帰らなければ!」
 大工は慌てて、風呂敷包みを抱えると歩き出しました。


 家に着く頃には暗くなってしまう。
 いつもの道を夢中で歩きました。
 急いで歩きました。
 もうそろそろ家に着く頃と思いながら歩きました。

 昼間の酒とおでんのおかげで大工は疲れません。
 睡眠も充分でしたから朝になるまで夜通し歩き続けました。これは…。
 実は、人間には見えていないのですが、近くの森の中に住んでいる狐や狸など色々な動物達の精霊が面白がって大工をバカして楽しんでいるのです。                             

                                        

 朝になってうっすらと明るくなり、周りが見え始めた時に大工は気がつきました。
 自分が同じ田んぼの中をぐるぐると歩き回っていた事を。

 大工は全身ドロだらけになって朝やっと家にたどり着きました。

 赤ちゃんは父親が狐に騙されて田んぼの中をぐるぐる回っていた夜のうちに、朝までには生まれていました。
 珠のような男の子。

 息子を授かり喜んでいた嫁は帰って来た夫の姿を見て笑いました。
 全身ドロだらけでみすぼらしい。
 その話しを聞いて、またまた笑い転げ、たいそう笑ったんだとさ。

 

 でも、生まれてきたその子どもはなぜか、つまらないウソをつく子どもでした。

 親になった大工の夫婦は子どものウソつきを直そうと頑張りました。
 一生懸命に愛情を注いで育てました。
 そして、小さな祠(ほこら)の前ではお稲荷様に呪文を唱えました。
「いつも商売繁盛ありがとうございます」
「いつも豊年満作ありがとうございます」
「イタズラしないでください」
   などと唱え続けました。

 そのおかげ様かどうかは分かりませんが、大人になるまでにはその子どもは、人を騙す「ウソ」は悪いことだと反省する人間になったんだとさ。

 そうなんだってさ。
         おわり

                 

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以上のようなお話です。

童話のようなファンタジーのような、でもちょっと怖いお話でした。

ひつじさん、ありがとうございます。久しぶりに新鮮な物語を読むことができました。

 

ところで、ひつじさんは写真3枚についての説明もつけてくださいました。以下に紹介致します。

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 しろにじ、白虹は夜の空を半分くらい占拠するほどの広大なものです。

 見たらびっくり‼です。

 写真だとその広大さが出ませんね。

 そして、消えるのも早い。運が良ければ?見ることが出来るかも?です。ウチの家族は何故か何度も観ているので、昼間のダルマ虹🌈とか幻日とか…環天上アーク、環水平アークなどなど、驚くほどヘンテコリンな、美しい空の展開ショーを。

 何故観るのか?分かりませんが、このような「美しいこの世」を。   

 最近では、二重になる大型の虹🌈がでることが多く日本各地で聞かれます。

 夫にそそのかされて一冊目の絵本を描いたのが50才代の頃です。

 科学的に言えば、太陽と地球🌏☀の電磁波の変化や大気の変化のせいで光の屈折率が変わってきているのかも分かりません(?)が、そうは思いたくないのです。

 神さまが見せてくれている、こんな美しいこの世を。と信じたい。きっと、未來は美しい良い世界になるよと。

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 そんなにいろいろな姿をお月様は持っているのですね。

 私は子どもの頃、「お月様の周りに白い輪ができている時、お月様がかさをかぶっているから、明日は雨だね。」等と聞かされていたような気がします。この頃は、星をじっくり見ることはあっても、月はいつもの月にしか見えていませんでした。大きい月、小さい月、赤っぽい月、白っぽい月等とね。多分住宅地だからでしょうね。松島あたりで見た空は、本当にこぼれ落ちそうなくらいの大小の星がびっしりと詰まってきらきら瞬いていて、思わずしばらく見とれたことがありました。そんな空で見たら月もまた、今まで知らなかった姿を見せてくれるのでしょうか?

虹と言えば、現在の天皇陛下が天皇に即位する日に空の端から端まで長くくっきりとした色鮮やかな虹が晴れた空にかかり、その下にも少し薄い色ですがはっきりと虹がかかっていたことを思い出します。しばらくの間続いていてそれは見事でした。

虹は晴れやかで心を浮き立たせます。空は自然の見ごたえのあるショーですね。

 

ということで、今回は終わりなのですが、最後にもう一つ。

東日本大震災の後、避難の仕方として「つなみってんでんこ」の言葉が報道でよく聞かれました。

その言い伝えについて、あるコメントで、「途中であった困っている人も見捨てていくのですか?」という疑問が出されていたことがありました。それはこの言い伝えの趣旨を理解していませんよね。そういうことを言っているのではなく、家族もそれぞれ一人でもいち早く高台に避難することを申し合わせておくことを前提にする話で、途中で会った人を見捨てましょうということではありませんよね。

もっと柔軟性を持った想像力を持ってほしいと思っていました。

 

災害が多い現在ですが、そんな中でもひつじさんがおっしゃるように、「美しい未来」をつくるべく努力をするのは我々一人ひとりの心なのでしょう!

 

 

 

 

 


9月17日 北多摩3市福島県人会主催映画観賞会「霧幻鉄道」ーどんぐりさんからのお便り

2023年09月30日 | お便り

   

前回の投稿からから随分間があいてしまいました。秋のお彼岸以降やっと暑さが和らぎ普通の感覚で生活できるようになり、ほっとしました。

どんぐりさんからは少し前に原稿をいただいていたのに、載せるのが遅くなってごめんなさい。どんぐりさん。

では、以下にその内容うを紹介いたします。

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9月17日 北多摩3市福島県人会主催映画観賞会「霧幻鉄道」

 

春に、東久留米市福島県人会主催の講演会に参加したばかりだったが、この秋は東久留米市、小平市、西東京市の北多摩3市による映画観賞会が開かれたので行ってきた。会場は東久留米の生涯学習センターまろにえホール。

会場に着くと、入れない20人ほどの人がホールの入り口にたむろしていた。私は前売券を持っていたのですぐ入れたが、会場500席のほか100人分の補助いすが用意されていても、入りきれない人が出ていた。

これは「只見線」の魅力のせいなのかな。県人会でない方も多そうだった。

                

(主催者の挨拶。簡単なものだった)

 

映画は我孫子亘監督の「霧幻鉄道」。福島県の会津若松と新潟県の小出をつなぐJR只見線を撮り続けてきたカメラマン星賢孝さんの話だ。(2022年制作80分)

 

JR只見線は2011年7月、新潟・福島豪雨と呼ばれる大災害によって、途中の鉄橋が3か所も流され、線路の崩壊もあり、その区間(会津川口駅~只見駅)は不通となった。すぐに代行バスの運行が始まったが、もともと利用者が少ない赤字路線であり、只見線はこれで終わったと誰もが思ったという。しかし奥会津と呼ばれるその沿線の風景の美しさは、日本で類を見ない絶景鉄道といわれていて、住民や自治体の熱意で、2017年JRの赤字覚悟の復旧が決まり、2022年10月1日に完全復旧された。

いちばん問題となる赤字路線の経営については、上下分離方式というやり方で、電車の運行はJRが、駅舎など鉄道施設の維持管理を自治体が負担することになった。

復旧費はその時赤字ローカル線支援の法律の改正などもあり、国の補助金も出て、結果的に地元とJRと国で3分割で受け持つことになった。

 

(只見線の地図の一部。福島県・只見線利活用推進協議会のパンフより) 

 

その只見線復活に奔走した星さんは、霧幻峡に渡し舟を浮かべ自ら船頭になってお客を写真の撮影ポイントまで連れて行ったり、撮影ポイントの環境整備をしたり、SNSで只見線の美しさを発信し続け、そのおかげで外国から写真を撮りに来る人が増えたという。

星さんは、その人たちは電車に乗ってくれないがその周辺の町に経済効果をもたらしてくれると盛んに言う。でもそのことで映画1本を貫くのは、私は難しいのではないかと思った。途中で飽きがくる。

何か月か前に、テレビのBSプレミアムの「新日本風土記」で放送された只見線の話では、町のいろいろな人がどんなに只見線と思いを共にし、今待ち望んでいるかを、数人の人を取材して展開していた。それはつらい出来事を持った方もいらしたが、今は心がほっこりしてくる話ばかりだった。

只見線の美しさを映画の画面として訴えて来てもらいたいというのも監督のねらいだろうが、何度も第一只見川橋梁と電車の図をこれはどうだ、ではこれはどうだと提示されるより、自分がそこに行って見た風景がいちばんいいとなるのだから、見に行くとどういう人に会えたり、どういう食べ物が食べられるのか、人との交流を見せてもらいたかった。

最後に我孫子監督と星さんがいらしていて壇上でトークしてくれたが、監督はぜひ来て電車に乗ってほしいと繰り返し、星さんは外国に広めたいと発言していて、主張の違いを感じた。

 

終わってからも大混雑だったので、早々に引き上げてきた。だけど、3市の福島県人会の方々は、ずいぶんがんばっているなあと肌で感じてきた。

        

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ご苦労様でした。どんぐりさん。

最近は、歳のせいか、コロナのせいか出不精になってきていた私でしたので、感謝です。

鉄道というのは、いろいろなかたちでできているのですね。人々の気持ちが集まってことを成し遂げるというのは素晴らしいですね。

私は映画を見ていないので、その只見線の景色の良さや土地の雰囲気が伝わりませんが、どんぐりさん以外の人たちはどんな気持ちで鑑賞したでしょうか?懐かしいというだけで喜んだ方も、もしかしたらいたかも....、

とにもかくもこのような場を提供できることが素敵ですね。

 

嬉しい情報有難うございました。


「福島県人会講演会 (東久留米市にて)」~どんぐりさんからのお便り 

2023年05月14日 | お便り

 

 ゴールデンウィークも終わり、いよいよ本格的に今年度が始まろうとしている時、また、震度6強の地震が石川県に起きました。水道はまもなく復旧し始めたようで少しほっとしましたが、雨の悪天候もあり、そして地震も頻発し、かたずけは思うように進まないとのこと。心が痛みます。

 忘れた頃にやってきたかどうかわかりませんが、間もなく別の地方でも震度マグニチュード5以上の地震がいくつか起き、本当にいつどこでまた、大きな地震が起こるか油断ができません。

 地震のたびに防災リュックを思い浮かべますが、実際は必要なものを全部詰めることができずにいることを感じます。なにしろ、背負って避難することも考えなければなりませんから。

 何年か前に前の家の老夫婦のおばあちゃんに避難の話をした時、「その時はあきらめるのっしゃ。」とおっしゃって笑ったことがあります。

 

 さて、あの東日本大震災で甚大な被害を被った福島の方々のその後の一端を知ることのできるかもしれない福島県人会主催の講演会が東久留米市にて行われたそうです。

どんぐりさんが参加してその様子を伝えてくれました。

以下に紹介いたします。

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     福島県人会主催の講演会(東久留米市にて)

 

 地域新聞に目を通していて、「発酵食品と免疫力」という講演会のお知らせを見つけた。隣町東久留米市の福島県人会主催だという。結成10周年の会だから、震災後の結成で、その記念の講演会だという。

 問い合わせ先に電話したら、福島人でなくてもいいというので、隣町まで出かけて講演会の券を買った。講師は免疫学者として有名な東京農業大学名誉教授の小泉武夫先生。先生は福島県いわき市の出身だという。だからあの日以来、講演会などで被災地を支援しているのだという。

 4月22日(土)午後、会場は300人くらい入ると思われた。早く着いて、福島の方のお話を少しでも聞けるかと思ったが、お隣に座った方は、亡くなったご主人が福島のいわき出身だったという方だった。15年も前にご主人はなくなられたという。お住まいも東久留米市ではなく東村山市とのこと。今回は私のように、県人会に入ってないけど、免疫の話が聞きたくて来たとのこと。

 その方とは、東村山市にある国立ハンセン病資料館の話になった。1907(明治40)年からハンセン病療養所の多磨全生園があった場所である。私は周りは何度か通っているが、中に入ったことはない。緑の多い、広い敷地のところだ。

 

 

 講演会が始まる前の会場は、知り合いとにぎやかに話をかわしている人たちが目立ったが、福島のなまりが飛び交うわけではない。若い方はいなく、皆さん70~80代。福島県人だけではなく、県人会の人が身近な習い事とかの仲間を誘って来ているという感じだ。西東京市や小平市の福島県人会の方たちもいるはずだったが、会場で紹介されるわけではなく、講演のほかに特別な話があるわけでもなかった。

 小泉先生の講演は、話慣れしている方のしゃべりで、とてもわかりやすかった。

 お忙しいらしく、4時にはここを出なければならないからと、休憩をとらずに話された。

 いわきのつくり酒屋の出身で、今は親戚の方が郡山でその酒蔵を継いでいるとのこと。

   

 

 家業を継がないで研究に夢中になるとは、なんだか今テレビで始まったばかりの朝の連続ドラマの牧野富太郎に似ているなあと思った。

 先生があわただしく帰られたあとは、観客がゆっくりと動き出した。仲間同士で会場を出た人の中には、打ち上げに出席するとかしないとか言っていた方たちもいたので、その方たちは県人会の人たちだったのだろう。震災から12年もたてば、東京の県人会の人たちも、普通の生活の中でゆったりとしているようだ。

 受付の方にうかがったら、被災して福島から東京に移った人もいらっしゃるそうだから、もう東京の生活が出来上がっていることだろう。

 この会の現在の会員数は240名、新年会、春の花見、まろにえ祭り出店、福島県内に1泊2日の応援バスツアー、市民祭り出店、講演会、各種サークル活動など、会員の親睦・交流と福島県への応援活動をしているとのことだった。福島のためになることが生きがいだという。

 

 久しぶりの東久留米駅北口は、以前とはすっかり変わって、駅もりっぱな建物になって、にぎやかになっていた。以前は狭い路地に、小さい商店が個々に営業しているというふうだったが、その旧商店街の東側に新しい駅広場ができていた。

 黒目川のタヌキを見に来た20年前とは全然違う。神社の神藤像を見に来た10年前とも違う。あの時は工事中だった。こうして街って変わっていくのだなあとしみじみ思った。

 

 

 

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 どんぐりさん、ありがとうございます。

 読ませていただいて、時の移り変わりを感じさせられました。そして、今後この世の中がどのように変わっていくのか?どのように変えていかなければいけないのか?と考えさせられました。

それにしても、福島の方々が土地を離れても、新たな場所で集まって活動をしている姿に少しほっとしました。

 

 

 

 

 

 

 

 


石巻訪問ーどんぐりさんからのお便りー

2022年05月28日 | お便り

                   写真は石巻市博物館内

 

どんぐりさんからお便りが届きました。

久しぶりに訪れた石巻の様子を送ってくれました。

さっそくご覧ください。

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不幸があって、何年ぶりかで石巻に行った。

あわただしく、見たいところをタクシーで回った。

  • 仙台で

仙台駅で新幹線を降りて一度外に出たら、仙石線の駅がわからなくなった。駅の端っこだと思ったのに、駅の中央寄りに石巻ライナーの乗り場があって、右往左往した。

震災のあとは松島のあたりは、海岸線を走らないことにしたようだ。松島海岸に降りるには、乗り換えるのか。

 

  • 石巻に着いて

石巻について、駅のタクシー乗り場に直行して「博物館へお願いします」と言ったら、「わからない。それどこにあるの?」と返事が返ってきて面食らった。あの建物全体をなんて言ったかなあ。

「まきあーとのこと?」と言われて、そうそうそれ、となって発車した。

どうなっているのよ、宣伝不足だねえ。せめてタクシーの運転手さんには知らせておいてほしいねえ。

あとで博物館で聞いたところによると、東京の大学の学長さんを、博物館へと言われて震災前に文化センターがあった浜のほうにお連れして降ろしたそう。それはあまりにひどいよね。あきれられるよねえ。

 

  • 石巻市立博物館

博物館の常設展はこぢんまりとしていたけど、高橋英吉の彫刻と石巻ゆかりの人々のコーナーと毛利コレクションを見てきた。千石船を見なかったけど、そのコーナーを見落としたらしい。毛利コレクションのアイヌの衣装は模様がステキだった。衣装は時代を経てきたことを表すようで色のクスミがあったが、アイヌの人々の豊かな感性を感じさせる。青森で見てきたものはもっと鮮やか紺と白だったように思う。ゆっくり味わっていられないのは残念だった。

 

珈琲工房いしかわでコーヒーをいただいた。

 

  • 伝承館

そのあとタクシーで博物館に来た方が降りてすぐそれを利用して、南浜津波復興祈念公園へ。やはり移動するにはそのたびにタクシーを利用しないと動けない。公共交通機関がないんだねえ。

石巻震災遺構の門脇小学校を横に見ながら公園内の伝承館へ。

天気のよい日だったので空の色は青く、景色は遠くまでよく見えるが、ここまで海を全く見ないで来た。

波の音も聞こえないし、海の風も吹いてこない。

しかし雲雀野海岸と言われるだけあって、ヒバリの声がにぎやかに聞こえる。

すごい。それだけは心和む声。

丈の低い草原が広がって、そこにいくつか巣があるのだろう。

伝承館の中は、順路に沿って見て行くと、よくわかる構成になっていた。

窓から見えるのが海をさえぎる丘というのが残念だったが。

外に出て北を見ると小さく門脇小学校が。そこまでけっこう距離がある。

西を見ると日本製紙石巻工場の煙突が、白い煙を吐いている。

南は丘。海は見えない。

 

またタクシーを呼んで、次の予定地へ。

 

  • 自然の驚異はまた起こる

地震・津波から10年以上たって、こんなに変わったんだと肌で感じた一日だった。

だが、今年3月の震度6の地震は、11年前の地震と津波を思い出させ、石巻の人々の心を震え上がらせた。新しい災害予測は10年前より深くまで水が入るそうで、そのうちハザードマップが出るそうだが、厳しい現実が見えてくる。

1000年に1度の災害と言われたのに、それ以上の津波がやってくる予測とは……。

そんなことを考えると、海の町はつらいねえ。

 

上の写真は現在の旧門脇小学校。

先日から、震災遺構として公開されています。

写真は石巻駅です。

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どんぐりさん、お便りありがとうございます。

何年かぶりで訪れた石巻にいろいろ驚いたり戸惑ったりだったようですね。

言われてみると、確かに石巻はちょっとのんびり(?)しているような面もありますよね。サービス精神が少ないというか・・・。

急ぎ足で回られたようで大変でしたね。普段生活している東京との違いを感じてしまったことでしょう。

今度もっとゆっくり過ごせれば、現在の石巻の良いところを発見できるのではないかと思います。

東日本大震災はまだ爪痕を残していますが、その後世界的に様々な災害や厄災がありさらに人災ともいえる戦争までも起こり、本当に時代が変わってきているように思います。

先日は、震度6の地震の後、避難袋の点検をしてみましたが、第一避難のリュックに入る容量は少なく、重いものは入れたくないと思ったりし、これで安心などとは思えませんでした。

でも、これは長い歴史の中で人類が今まで通過してきたことなのですよね。

「備えあれば憂いなし」と心構えをしていきたいものです。

 


サンファンバウテスタ号の夢~~その4  

2022年02月03日 | お便り

  

ひつじあかねさんからのお便り「サンファンバウテスタ号の夢」3回にわたって紹介しましたが、今回が最終回です。

 

今までのお話に関係する年表と参考文献のお知らせです。

忘れてたことも改めてより詳しく知ることができ興味深く読ませていただきましたが、それには様々な文献を調べての裏付けがあってのことだったのですね。

ありがとうございました。

 

 

ところで、今日から北京オリンピック開催という現在。オミクロン株の不安の中ではありますが。テレビでは連日盛んに見どころが紹介されています。

その紹介の中で注目されている選手の一人が仙台出身の羽生結弦選手です。

今回も新たなチャレンジ(4回転半ジャンプ)を目指し世界の注目を集めています。何度か怪我をしての挑戦でありながらの素晴らしい結果には常人とは違った心の強さを感じさせられます。そしてその都度羽生選手の言葉の中に自分が頑張ることによって皆に元気を感じてほしいし、災害に見舞われた人たちにも勇気と力を持ってほしいと願っている気持ちが感じられます。

金メダルをとったらもう競技生活をやめるフィギアスケートの選手も多い中、稀有の存在かもしれません。

そんな羽生選手を応援したり幸せを願う場として有名(?)な神社が宮城県にあるそうなのでついでに(サンファンバウテスタ号の話)紹介させてください。

その一つは大郷町羽生地区にある羽生天神社。「羽生」姓ゆかりの地と言われています。

社務所に置かれた芳名帳には羽生選手の回復を願う思いなどが記されているそうです。

 

もう一つあります。

秋保神社です。世界中から参拝に訪れるとのことで羽生選手を応援するのぼりの申し込みが700件を超えるそうです。体調の回復を願うのぼりも増えたそうです。

今度のオリンピックで金メダルがとれてもとれなくても彼の偉大さは変わらないと思うので、ケガをせず力を出し切ることを祈らずにはいられません。

ちょうど冬季オリンピックの時期と支倉常長のお墓があるという話のある大郷の話題が偶然繋がりました。

世界のオリンピック! 世界に羽ばたいたサンファンバウテスタ号! やっぱり繋がりを感じます。

 

遅くなりましたが、以下にサンファンバウテスタ号関連の年表と参考文献を掲載します。

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〇年表

1600年 

   オランダ船リーフデ号が豊後に漂着する   地元民に助けられた  

   水先案内人のウィリアム・アダムスは航海士のヤン=ヨーステンと共にすぐに家康公に招かれて立派なお城で謁見する。

 

1609年 

   スペイン領フィリピン総監ドン・ロドリゴ含め373名(スペイン人とメキシコ人)が乗ったガレオン船サンフランシスコ号が台風に遭遇し漂流後、千葉房総岩和田海岸に座礁。  地元民は317名を救助した。

 

1610年 

   家康が三浦按針(ウィリアム・アダムス)に建造させた新しい船でドン・ロドリゴ含め317名は無事にメキシコに帰国した。

1611年 

   メキシコの聘礼使ビスカイノが来日。 仙台藩を巨大な津波が襲う。

1613年 

   500t級のサンファン・バウテスタ号が完成。支倉常長のメキシコ、スペイン、ローマ派遣。

1614年 

   常長がメキシコのアカプルコに到着。 常長他30名がスペイン艦隊に便乗して大西洋を渡りスペインに上陸

1615年 

   スペイン国王に会い政宗公の手紙を渡す。  常長、国王列席の元キリスト教の洗礼を受ける。国王から政宗へ  の返書を得られないままローマへ向かう。 ローマ市入市式の行進を行う。

同年  バチカンのパウロ5世に政宗公の手紙を渡す。ローマで貴族の位を与えられ、ローマ市民権を授与される。  ローマ教皇から返事を得た後、スペインのマドリードに戻ったがセビリアへ移される。 ソテロと共にスペイン国王に良い返事を求める。

 

1617年 

   スペイン国王からの返書を得られないまま、ヨーロッパを離れメキシコへ向かう。

   アカプルコからサンファン・バウテスタ号でフィリピンのマニラに行く。

  そのままマニラに2年間 滞在する。

1620年 

   常長が仙台に帰る  三浦按針が死去する

1622年 

   支倉常長が死去。

1993年 サンファン・バウ テスタ号が復元され、石  巻の観光地となる。

2021年 秋、観光地サンフ  ァン・バウテスタ号の  解体工事に着手。何らかの理由により

  縮小される。

 

 

〇参考文献

 1、ジュニア版 伊達政宗 仙台市博物館発行

 2、ジュニア版 支倉常長 仙台市博物館発行

 3、千葉県いすみ市 千葉県指定重要史跡 ドン・ロドリゴ上陸の地 日・西・墨(日本、スペイン、メキシコ)交通発祥記念の碑

 4、改訂版 新詳説 日本史(株)山川出版社

 5、新詳 日本史図説(株)浜島書店

 6、他、ネット情報、NHKプレミアム番組参考

 

 

 

 


津波に呑み込まれた「東北第一代表の『青獅子旗』」  

2022年01月01日 | お便り

2022年  新年おめでとうございます  

ご挨拶がちょっと遅くなりましたが、実は新年早々のお便りをどんぐりさんから届いていたのですが、手違いのためUPがおそくなってしまいました。

元日のあたりはまだ、オミクロン株の感染は少なかったのですが、年末年始を過ぎてみると、その感染力の勢いが爆発的で、日本も新たな対応を考えざるを得ない状況になってしまいました。

ちょっとほっとしていた時期のお便りです。

では、どうぞ!

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2021年の師走。ワクチンがなくて大騒ぎとなったコロナ禍も、ワクチン接種が2回接種でひとしきり国民にいきわたったところで、感染者数は少ない数で推移していた。次がオミクロン株ということで、水際で食い止める策の効果が一応出ていて、人の動きが活発になっていた。

しばらく会わなかった小学生の孫が、いつの間にか野球少年になっていて、私自身は野球に関心はないのだが、夫や息子の言うがままに、東京ドーム方面で会うことになった。

 都市対抗野球の決勝戦がそのころで、それが見られるのではと夫が言ったのだが、2日前の9日木曜日に終わっていて、11日の土曜はコンサートとのことで、若い人であふれていた。

 野球に関係したところで開いているのは野球殿堂博物館というわけで、そこを覗くことにした。 

2021年度の第92回都市対抗野球では、東北の代表は仙台市のJR東日本東北で2回戦まで勝ち進み敗退、優勝は東京都の東京ガスだった。いろいろ展示があったけど、こんなことがあったのかという驚きの歴史を物語る展示も。

 それがこの色が褪せて糸のほどけた青獅子旗だ(初めの写真)。その展示にはこんな説明が付いていた。

 

【東北第一代表の「青獅子旗」

青獅子旗は、都市対抗2次予選地区大会で優勝し、全国大会出場を決めたチームに与えられる優勝旗。

東北大会の青獅子旗は2010年優勝の日本製紙石巻(宮城県石巻市)が応接室に展示していたが、2011年3月11日の震災による津波で建物ごと流されてしまった。しかし、7月に敷地内のがれき撤去作業中に奇跡的に発見された。色あせて破れてはいるが、何十年も受け継がれた東北第一代表の「青獅子旗」は、復興の象徴として第82回都市対抗野球大会の開催期間中(2011年110月22日~11月1日)京セラドームで展示された。】

よくぞ残ってくれた、という関係者の思いが読み取れる説明だった(下の写真参照)。

因みに、全国大会の優勝旗は黒獅子旗。

 

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どんぐりさん、お便り有難うございました。

あの災害から生き残った(?)旗!強い!! そんな気持ちで勇気が湧いてきますよね。

そのような旗を目にする機会を得て良かったですね。おかげで私たちも知ることができました。

これもコロナが少し収まってお孫さんとお出かけできたおかげですね。

 

「2022年 この旗を心に、新たな気持ちで進んでいこう!!」という気持ちが湧きました!

 

(※ サンファンバウテスタ号関係の年表等は次回にさせていただきます。)

 

 

 

 

 

      


サンファンバウテスタ号の夢~~その2

2021年12月09日 | お便り

右のイラストは按針(あんじん)さんです。

どんぐりさんに期待されているので、少しでも早くと思い、続きを紹介します。

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前回は確か

 

 彼らを帰国させるためにガレオン船を作ろうと考えた家康公は、ポルトガル人やスペイン人に頼むのですが、一向に聞き入れてもらえませんでした。

 

 そこでウィリアム・アダムスに頼んだところ、快く引き受けてくれて、ガレオン船はすぐに出来上がりました。

 

というところまででしたね。

ではその続きをどうぞ!

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 翌年、スペイン人とメキシコ人を帰国させる時に、家康はスペインとの貿易とメキシコとの通商を求めて、京都の商人田中勝介を派遣しました。

 とても喜んだ家康はウィリアム・アダムスに三浦按針(みうらあんじん)と言う日本名を与えて召し抱え、外交と貿易の顧問としました。領地も与えました。

 按針は日本人の妻をめとり、娘が生まれました。

 

 諸々の情報が早馬によって仙台藩の伊達政宗公に伝わりました。政宗公も東北では一番の武将です。それを見て聞いて、自分もガレオン船を造ろうと考えました。そして友人であるソテロの言う外交と貿易に胸を躍らせました。

 こうして僕が生まれるキッカケになりました。

 ところが、サンファン建造に夢中になっていたその時に、仙台藩を巨大な津波が襲いました。

 

 それはそれは大きな打撃でした。が、しかし、その復興財源を作る為もあり、年後には使節団をヨーロッパへと向かわせます。

 既に幕府から正式な許可を取ってあります。

 

 さあ、いよいよ出発です。

 (按針さんの銅像の写真です。)

 

 サンファン号には大使として家臣の支倉常長が乗り、その他宣教師ソテロ、メキシコ大使ビスカイノ、スペイン人船乗りたち、日本人のキリスト教徒や商人など総勢180人が乗り組みました。

 

 政宗は常長に3通の手紙を持たせました。

 1通はローマ教皇パウロ5世宛てに、仙台藩へキリスト教布教の為に宣教師派遣とメキシコとの貿易に関してスペインへの仲立ちをお願いする旨、2通目はスペイン国王フィリペ3世宛てにメキシコとの貿易を希望する旨、3通目はソテロの出身地セビリア市宛てに、市との友好親善を図りたい旨でした。

 

 その頃はメキシコはスペインの植民地でした。

 

 僕サンファンは常長さんを乗せて石巻の月ノ浦を出帆してからわずか3ヶ月でメキシコのアカプルコに着きました。

 常長はそこで降帆します。

 

 ところがその頃、日本では大きな変化が起こっていました。

 

 家康の家臣になっていた按針はポルトガルやスペインが日本を植民地化しようとしている事に気付き、家康に強く進言しました。

 キリスト教布教は日本人の心を奪う為のもの、測量は植民地化する為のもの。

 驚いた家康はすぐに決断を下します。

 キリスト教禁止令を出し、鎖国を進める事としました。

 日本を守ること。せっかく築いた幕府の封建体制を守ること。これが大切です。

 今までは自由貿易でしたが、これからは貿易を幕府の統制下に置く事としました。

 

 常長がメキシコのアカプルコに着く頃には、日本では全国にキリスト教禁止令が出ていたのです。

 でも、常長は政宗公の命令に忠実でした。

 

 そのまま命令の遂行を続けるのです。

 

 

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今日は、ここまでです。続きは次回に!!

 

 

 


サンファンバウテスト号の夢

2021年11月28日 | お便り

ひつじあかねさんからお便りがきました。

長い間石巻の観光地の一つとして賑わいを添えてきた「サンファンバウテスタ号」に捧げる物語を書いてくださいました。

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ここで、ちょっと「サンファンバウテスタ号」にまつわる情報をお知らせいたします。

1993年に復元された「サンファンバウテスタ号」は、老朽化に伴い2017年に解体されることが決まったのでした。県慶長施設船ミュージアム「サン・ファン館」(石巻市)にあります。

宮城県石巻市の市民団体「サンファン号保存を求める世界ネットワーク」が県庁で記者会見し、白田正樹代表は「保存を願う声が多く寄せられる中で、ざんきに堪えない」と抗議したそうです。

また、市民団体は6月に、県が充分検討せずに復元船を解体するのは違法だとして村井知事に費用の差し止めを求める訴えを仙台地裁に起こしました。

そして、2月以降に集めた署名1万2876筆を9日までに村井知事に渡そうと、県議を通じて申し入れたが「受け取りを拒否された」と主張したとのこと。

県消費生活・文化課は「拒否した事実はない。(訴訟で)係争中のため意思決定する立場の知事は受け取れないが、署名を提出するのであれば担当課で受け取る」と説明したとのことです。

 

なんだかんだと物議をかもしながらも、決定は覆らず11月10日に遂に大型クレーンを使った解体作業に向けた準備が行われたのでした。

3月下旬には解体を終える見通しです。

テレビのニュースでも解体を惜しむ声は聴かれました。

私もその一人です。

私が見たのは、石巻の河口で、多分まだ完成はしていなかったかと思いますが、家族で見学に行き写真を撮った覚えがあります。素晴らしかったです。

実物大の大きさの船の前で撮ったのですが、船は大きかったです。

県は、復元船の後継として四分の一のサイズの繊維強化プラスチック製の船を造り、ドック棟や展望棟の改修を経て24年度内にリニューアルオープンすると言っていますが、その大きさでは常長の偉業まで小さく感じられてしまうような気がします。

まあ、費用のことがネックになっているので、難しさはあるとは思いますが、県民の心に響く力は....。

 

そんな中、そんなサンファンバウテスタ号に捧げる物語をひつじあかねさんが書いてくださったのです。

 

子どもたちにも分かりやすい形態で書いてくれました。

ちょっと遅くなりましたが、以下に紹介いたします。

 

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サンファンバウテスタ号の夢

 

〜あんじんとつねながを乗せて〜 

 

 僕はサンファンです。ガレオン船という大型帆船です。正式名はサンファン・バウテスタ号といいます。

洗礼者ヨハネと言う意味で、政宗さんが名前をつけてくれました。

 

 僕は1613年に作られてからメキシコに2度行ってきました。2回太平洋を往復しています。

 そのあとでスペインに買い取られて軍艦にもなりました。

 

 僕が生まれた所は仙台藩石巻の雄勝の浜辺でした。

 藩主伊達政宗公が、友人のスペイン人宣教師ソテロにすすめられて、ローマに使節を送る事になったので僕は造られました。

 浜辺には雄勝や仙台藩、江戸幕府の船大工が大勢集まり、メキシコ大使ビスカイノの部下たちと共に力を合わせて造りました。

 とても穏やかで友好的な雰囲気でした。

 

 僕が2度目に生まれたのは平成になってからで、石巻の浜辺で観光地になりました。

遊びに来て下さいね。

 

 僕の夢はあんじん(按針1564〜1620)さんとつねなが(常長1571〜1622)さんを乗せて乗せて、もう一度太平洋を渡ること。

 

 えっ、もう2人はいないって?そんなぁ!

 

 それでは、これから二人の物語を始めましょう。

 

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 按針さんは、本名をウィリアム・アダムスと言ってイギリス人です。大分沖で彼が乗ったオランダ船(リーフデ号)が座礁して、わずか数人が助けられ、そのうちの一人が彼でした。すぐに徳川家康公に招かれて江戸城で謁見します。

家康公は日本一強運の武将です。(あとで分かるのですが、その強運が日本人の幸運の元になるのです)

 一方、その頃、ポルトガル人やスペイン人は家康の許可を得てキリスト教を布教したり、測量をやったりしていました。

 世界は大航海時代で、植民地政策を広げていたポルトガルやスペインは領土を拡大していました。

 

 それから9年後、千葉房総の御宿岩和田村の沖合いで、スペイン人とメキシコ人373名が乗ったガレオン船(サンフランシスコ号)が座礁しました。そのうち317名が地元住民に救助されました。

 

 彼らはその後、江戸城で徳川秀忠公に会い、駿河に至り家康公に謁見しています。

 オー、フジサン!トッテモウツクシイ、オオキイ!と感激していました。

 

 彼らを帰国させるためにガレオン船を造ろうと考えた家康公は、ポルトガル人やスペイン人に頼むのですが、一向に聞き入れてもらえませんでした。

 

 そこでウィリアム・アダムスに頼んだところ、快く引き受けてくれて、ガレオン船はすぐに出来上がりました。

 

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次回に続く(ちょっと長いので、とりあえず今日はここまでにします。)    ~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 


「 懐かしい石巻の風景」  どんぐりさんからのお便り

2021年05月23日 | お便り

 ご無沙汰しております。

 東日本大震災から10年経過の今年となりました。

 一口に10年と言っても、この10年は誰にとっても変化の多い時の流れと言えるのではないでしょうか?

 当たり前に年齢を重ねる中で個人的には、身体の変化を認めざるを得ませんが(特に私たちの年代)、日本や世界の中の変化が大規模に起こってしまっています。

 新型コロナにワクチンが開発され猛烈な勢いで接種が行われ始めているとは言え、予断を許さない状況が続いています。(時にオリ・パラを2か月後に控えている日本では)

 そんな中で、どんぐりさんから久しぶりにお便りが届きました。

 さっそく紹介いたします。

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お久しぶりです。

  今年は、東日本大震災のあとに石巻から連れてきて同居していた母が、入院を繰り返して、とうとう立てなくなったので、施設にお願いすることになり、先日入所が完了しました。

このコロナ禍の状況の中でなかなか会えないことではありますが、母にとっても、10年間介護を手伝ってくれていた夫と私にとっても、最善の選択となりました。

 入所の用意をするため、母の持ち物を整理していて、母が持っていた親戚のおじ(叔母のご亭主)の写真集を見返しました。懐かしい石巻を振り返るためにと、その方がプレゼントしてくれたもので、震災の前までの写真が20枚ほど入っていました。

 そのとき私も見た覚えがありますが、ゆっくり眺めたことはありませんでした。

ところが10年もたつと、それは震災で立ち切られた懐かしい過去の石巻の風景なのです。私は18歳までしかいなかったのですから、石巻の印象は薄く、その風景もあまり記憶にないのですが、マスコミの人が撮った写真にない、地元の人が撮った温かさがある風景写真なのです。

早速それで見本帳を作り、おじに送って写真集にしないか聞いたところ、「88歳だよ。写真はフィルムもなにも全部捨てたよ」と言うのです。子供たちに迷惑かけたくないのですべて断捨離したと言うのです。なんと潔いこと。

私の提案は受け入れられなかったのですが、せっかくの石巻の写真ですから、ここで何枚か紹介させてください。こんな石巻があったのかというような風景なのです。

撮影者©は佐藤瑞夫氏。日付けはわかりませんが、すべて震災前の風景です。

① ふるさと雪景 (日和山から中洲方面を眺める)

 

② 冬の追波川 (旧北上川)

 

③ 西日を浴びてカヤ刈り

 

④ 秋深し 鮭遡上

 

⑤ 石巻市脇谷閘門 (北上川)

 

⑦ 朝日の中でサンマ干し (女川港)

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  本当に今その場所にいるような気持ちになるような心が和んでくる写真ですね。 

  あの頃の平和で落ち着いた時代を懐かしく思います。

 皆さんもどうぞゆっくりご覧くださいね。

 


変わりゆく季節

2020年10月01日 | お便り

 やっと、秋晴れのすがすがしい今日、メロリンさんからお便りが届きました。

さっそく紹介いたします。

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昨年は台風による風水害にみまわれ、今年はコロナで人生初の疫病感染予防の生活中のところへ又、台風の季節を迎えています。みな様お元気ですか?

 

被災者の方々にお見舞い申し上げますと共に、亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

「変わりゆく季節感」

 

野に咲く花たちは最近の季節をどのように感じているのでしょう。

数年前の記事で私はアジサイとオシロイバナを一緒に生けた写真を掲載致しました。  あの年の季節はアジサイの花とオシロイバナの花が同時に咲いていたのです。

花の時期が同じだったのです。

去年も今年もそうはいきませんでした。

オシロイバナが咲く時にはアジサイの花はとっくに終わって枯れていました。今年もそうです。

今は9月末、周りの景色はオシロイバナのショッキングピンクの色で華やかです。が、庭のアジサイといえば枝も葉もすっかり枯葉色です。

 

あの年のあの時のあの写真はとても貴重だと思います。

アジサイとオシロイバナが同時に咲いていたのです。ふしぎです。

 

今日はスーパーの花コーナーで買ってきた小菊にオシロイバナを入れて見ました。

菊の花はハウスで温度調節されて育ち一年中手に入ります。

野に咲く花とは生まれも育ちも違うけれど、ただ固体としての花の命は皆同じ、一緒に眺めて過ごしましょうね。長持ちするのは菊の花が一番。

 

例年はいつも一、二本しか咲かないヒガンバナが今年は増えました。

ヒガンバナの近くの雑木林で3年前の5月に山火事が有りました。10メートルもある杉木数本が燃え消防車五台が駆けつけ火を消し止める事ができ、幸いにも近くの民家に燃え広がる事もなく大事に至らずに済みました。近くの民家とは我が家も含まれます。

 

山火事というものをこんなに間近で眺めて初めて分かった事は地下でも木の根っこが燃えているということでした。火はあっという間に広がり恐ろしい光景でした。

消防士たちの勇ましい働きぶりも頼りがいがあり印象的でした。炎が消えてもまだまだ放水は終わりません。まだ地下に火の気があるというのです。地面の熱がコンクリート道路を越えて周辺に伝わります。

 警察官も数名かけつけて取り調べもありました。原因ははっきりとはせず推測に留まったようです。

その日の朝のニュースで、『今日は空気が異常に乾燥しますのでご注意ください』と言っていた、その日の午後の昼下がりの出来事てした。

煙が少なくなってきた頃に夫がゴルフから帰ってきて何事かという顔をしました。

日が暮れて辺りが暗くなってようやく鎮火しました。

その後、炭素が増した土には草木が元気に生え出しています。

ヒガンバナが増えました。

 

今年の記録はヒガンバナとオシロイバナが同時に咲いたということです。

 

因みに長野県では同時に五つの花が咲くところと聞いています。りんご、梅、桜、桃、杏子の花…かな。

 

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 メロリンさん、いつものことながら自然の息吹きが間近に感じられる記事をありがとうございます。

 年によって花の咲く時期の違いのあることがよく分かりました。

 我が家の山吹(やまぶき)の花は、春に満開になるのですが今年は今頃になって、また2~3輪さいていて「あれっ!」と思いました。

 自然は微妙にその環境の変化をとらえてそれに応じた結果を示しているのでしょうね。

人間よりも敏感かもしれませんね

 それにしても、長野県の五つの花が同時に咲くとの話、我が家では、確かに春に桃、梅、リンゴの花が咲きました。当然桜も咲いている頃かと思いますが、杏の花はどんなものか見たことがないのであるのかどうか分かりませんでした。

 少し開く時期に差があったような気がしますが、長野県ではほんとに同時に咲いているのが見られるということなのでしょうか?長野県の人に聞いてみたいものです。

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 以下は、メロリンさんからのヒガンバナの写真、秋たけなわという感じです。