(本間家の蔵...なまこ壁が重厚さを示す)
上の写真は、どんぐりさんが撮影した、石巻の門脇に現在ある本間家の蔵の写真です。
この蔵について、どんぐりさんが取材?してきてくれました。門脇にお住まいだった方はもちろんご存じでしたよね。
でも、あの大津波の後の蔵のことは知らない方が多いのではないかと思います。
その様子を紹介してくれます。
それでは、どうぞ!
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門脇の本間家の蔵
この夏、石巻の友人たちと、門脇町2丁目の本間英一さんの蔵を訪ねました。日和山のすぐ下にあります。3・11の震災の際、津波で本間家の母屋も周辺の家々もすべて流されたなか、この蔵だけが、2階の一部まで浸水しながらも、奇跡的に残ったのでした。
その後、全国の220人の方たちの合計360万円ほどの寄付と願いを受けて修復され、震災を伝える蔵として甦り、殺風景な野原となった門脇地区に、ぽつねんと建っています。蔵の中は無料で公開されています。
蔵の中には、東日本大震災のときのこの蔵周辺の被害の様子を伝える展示をはじめ、石巻の繁栄を物語る江戸時代の地図や、幕末1868(慶応4)年に箱館に向かう途中に石巻湾に立ち寄った開陽丸の歴史の紹介もあります。
また、本間さんのご先祖は、江戸時代回船問屋をなさっていたそうですが、ご祖先が千石船の船主だった方たちによって歴史の掘り起しがされている若宮丸に関する展示もありました。
若宮丸は、1793(寛政5)年に江戸を目指して米と材木を積んで石巻を出発した千石船です。途中遭難して、漂流の末にアリューシャン列島の中の小島に着き、石巻に戻るまで結果的に乗組員のなかの4人が、日本で初めて世界一周をしたのだということです。
そういう石巻のあれやこれやの歴史がその狭い蔵の中いっぱいにつまっていて、資料を丹念に読んでいくと、異空間にいるような錯覚に陥ってしまいます。
本間家のこの蔵には、回船問屋を営んでいた時代の貴重な古文書がたくさんあったのだということです。水に浸かってだめになったものもあったそうですが、箱に入っていて、まったく濡れなかったものもあり、見せていただきました。そういう意味でも、蔵というのはなんと丈夫な金庫かと今更ながらに驚いてしまいます。
津波の後、北上川の川岸を歩いたときに、川から50mくらいの場所に、相当古いもので傷んでいましたが、やはりがっちりした蔵が残っていました。江戸時代の人たちが、蔵を火事や水害、泥棒にも対応できるりっぱな金庫としていたことがこの事実からもよくわかります。
本間さんが震災当日から撮られた写真は、津波の恐ろしさを生々しく伝えていました。石巻の歴史を冷静に伝える語り部の目ではありましたが、それは門脇に生まれてこの土地や家を愛する人の愛着と哀しみの表れでもありました。本間さんの手製の写真集(コピー)は、コピー代相当でそこで分けていただけます。特に門脇の出身者にはぜひ見ていただきたい写真集です。
今後、3・11の津波の悲惨さを物語るこの蔵は、石巻の過去の栄枯盛衰の歴史をも語っていくことでしょう。
泥をかいてくださったボランティアの方たち、蔵の前に花壇を作って花を植えてくださったボランティアの方たち、蔵の補修の費用を出してくださった方たち……etc、そういう方たちの思いを一つに合わせ、津波で亡くなった方たちへの鎮魂と祈りを後世に伝えていく蔵は、今こうして門脇にしっかりと残っているのです。
蔵の中の展示パネル(上)と若宮丸についての展示パネル(下)
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私が震災1か月後に日和山から眺めた門脇の辺りにこの蔵もあったのですね。でもあの時はまだ瓦礫が片付いていなかったせいか印象に残ってはいませんでした。
でも、こんな風にきちんと津波に耐えたことに驚きました。本間英一さんと全国のみなさんの温かい応援のもとに、このように後世に伝えるべき貴重な資料が残されるということは、なんと素晴らしいことでしょう!資料とともに江戸時代の蔵の性能の素晴らしさも確認できるという、まさに生き字引のような
存在です。
津波と縁の切れない日本にあって、津波被害を免れる方法の示唆となりえるのではないでしょうか?
そして、若宮丸の当時の雄姿と門脇の賑わいが目に浮かんでくるような気がします。
そのうち、是非見に行きたいと思いました。