石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

「石巻学 6号」が発売されています

2021年09月17日 | 紹介

     まとめ】海のフリーイラスト素材集|イラストイメージ

どんぐりさんからお便りが届きました。

以下に紹介いたします。

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『石巻学』6号紹介

『石巻学』6号が刊行された。特集は「海を渡った人々」。

石巻と言えば、遠くに・迅速に・大量に、という運送手段がまだ船しかない時代の、仙台藩や北上川を利用する南部藩などの米の積出港として、海の要衝だった。

この地に生まれ育った男で毎日海を見ていれば、海の向こうに何があるか、国内であろうが国外であろうが、海を渡って違う土地に行ってみたい、今と違う人生を生きてみたいという夢を抱いたに相違ない。

まあ、単純には言えないだろうが、鉄道や自動車や飛行機が日本中をくまなく結ぶようになるまで、日本の各港と、どんな国かはわからないが海の向こうの世界と、つながる可能性があったのが石巻の港だった。

海にはロマンがあった。たしかに板子一枚下は地獄だが、石巻の男なら、一度は海に漕ぎ出してみたいと思ったことだろう。女性は絶対思わないだろうが、女は女でそんな男に魅力を感じたことだろう。

 

新田次郎が著わした『アラスカ物語』の主人公フランク安田は海を渡った成功例の典型だろうが、誰もが成功するわけではなく、途中で挫折したり、海で亡くなった人のほうがはるかに多いと思われる。

また若宮丸で遭難してたまたまロシア船に助けられ、望まなかったにもかかわらず世界一周して戻ったり、かの地に住み着かざるを得なかった乗組員たちもいる。

支倉常長は伊達政宗の命を受け、遣欧使節としてスペインの王やローマ教皇に謁見しながら、帰国後は不遇のうちに亡くなっている。

この本には、石巻をめぐる海の男たちの人生模様と、海にこぎ出たあとの余波と言おうかその後の周辺の話を知ることができる。

うまく海にこぎ出ても、未知の世界はさらに困難が待ち受けていたのは当然で、困難に、あえて石巻から船出する人たちの物語は、読みだしたら最後までひきつけられて、途中で気を抜けない。一気に読んだ後は人生をいくつも経験したような疲労感が残る。男たちと一緒に、何度も海に漕ぎ出るのはかなり疲れる。

しかしそれだけ読みごたえがあった。

私個人としては、幕末に蝦夷地に向かう開陽丸が石巻の海の水平線に見える姿を何度も連想する。北海道という新天地に、なんらかの活路を見いだしたいと石巻(折浜)に集結して乗り込んだであろう、敗残の兵となった幕府軍の人々を、開陽丸が乗せたという歴史が強烈に印象に残り、それらの人々の一人一人の人生模様を知ることができないだろうかと興味をいだくのだが……。

たかだか北海道の箱館では海を渡った人たちにはなり得ないだろうが、それなりに北の新天地を目指した人々ではあった。

番外編で誰かに書いてほしかったなあ。細かい記録がないだろうから難しいか。

 

それでは本の主な内容を列挙しておこう。

 

日本の漂流記について……吉村昭

紺色の衣服の行方

石巻若宮丸漂流民の会二〇年の‶航路″

極北アラスカ フランク安田残照

ハワイに渡った元年者、牧野富三郎

希望と絶望と鎮魂の航路―三度、大海を渡った高橋英吉

北洋漁業の大恩人平塚常三郎

慶長遣欧使節のドラマをいま

阿部豊―ハリウッドに渡った男

加藤九祚半生を語る—シベリア大学、出会い、そして石巻

ホヤパイ、海を渡る

船乗り人生を振り返る

 

このほか、連載ものの本間家蔵出しエッセー⑥の「祖父のアメリカ日記」は、日記という本人直筆の資料で構成されているので、状況がよくわかって、興味深かった。

 

連載はほかに、

石巻さかな族列伝⑥

岡田劇場物語⑥

 

『石巻学』6号

2021年8月20日発行

発行=石巻学プロジェクト(代表・大島幹雄)

発売=(有)こぶし書房

定価­­=(本体1500円+税)

本は、本屋さんでもネットでも直接大島さんでも買えます。

 

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どんぐりさん、ありがとうございます。

この紹介文を読んだだけでも、いろいろなことが頭に浮かんできました。

 

私たちも海を渡らないまでも、海に関する体験をたくさんして来ています。

遊覧船に乗って潮風に当たりながらの旅(?)はいつもワクワクドキドキしていました。

青い大きな海は身近で魅力的でした。そんな海に漕ぎ出した強者(つわもの)達の話はどんなでしょうか?私も読んでみたいと思います。

                            かわいい太陽と海


「仙台せんべい 小萩堂」

2021年08月29日 | 紹介

 

上の左写真は、おせんべいです。上は仙台七夕の絵が描いてあり、下は大崎八幡宮の絵が描いてあります。

 

先日、いつものようにお花を買って有料駐車場に向かっていた時、いつもは視界に入っていなかった一つの看板が目に入りました。(この手前の方向から歩き、店の手前が駐車場で、お店は目立たなかったのですね。)

「たばこ」とその上の「仙台せんべい 小萩堂」という看板です。(小さすぎますが写真中央上の部分です。)

 

お店とは気づかないような一昔風(?)の普通のお家のような設えです・「仙台せんべい」という言葉につられて入ってみることにしました。

店内にはいると、どうやらたばことせんべいしか扱っていないようです。

店内はなんとも自分が子ども(幼児)の頃にタイムスリップしたようなレトロな雰囲気。

 

金魚鉢のように透き通った入物に、これも昔懐かしい形や色のせんべいが入っています。

 

最初の絵柄の他に、「仙台城」「政宗」「萩」等があります。

 

味噌せんべいやイカせんべい生姜せんべい、小豆せんべい等々....。味も形も様々です。

「ビンズせんべい」という豆がたっぷり入ったものもありました。

  

 

写真2枚はビンズせんべい        次の写真  左上は生姜せんべい(甘辛く美味しかったです。)

 右上は小豆せんべいかな?(これもちょっと甘くて美味しい。)

 

いろいろ買って食べてみました。添加物のあまりなかった頃の素朴だけどしっかりした味がして食べ応え満点、後味も良いので気に入りました。

シニアのおやつにも良さそうでお土産にもよさそうです。

 

ちなみに、2回目に来店した時に応対した奥様(?おばあさん?)の話によると、このお店は100年も続く老舗で今でもせんべいは自分のお店で焼いているのだそうです。(せんべいとはいっても食感は普通の味噌せんべいのようにわりと柔らかめなのです。)

自宅工場だから豆いっぱいの「ビンズせんべい」もできるんですね。

 

そして、なんとこの方は石巻出身で門脇小学校・門脇中学校の卒業生だったのです。私たちよりちょっと年上です。中学校では入れ違いという感じです。

門脇や南浜町の道路が随分変わった話などをしました。

世間は狭いですね。

 

ところで、中でもびっくりしたせんべいは、

 

 

このせんべいです。ケースの表に「憲法9条せんべい 1項 2項 読めます。  5枚入 150円」と書いてありました。

そしてせんべいを出すと、上右の写真のようにせんべいに印字してあります。

ちょっと読みにくい部分がありますが大体は読めます。

このお店のご主人の思いがこもっているのでしょうか?

 

ウサギの暖簾が可愛いです。

 

 

というわけで、知っている仙台名物が一つ増えました。ネットで調べると「仙台せんべい」として、カレーせんべい等いくつかが紹介されていますが、パッケージからしてもおそらく味は小萩堂の方が添加物などが少なくせんべい本来の味がしているのではないかと思います。そして面白いです・

 

場所は宮町で東照宮の近くです。   青葉区宮町3-8-10     ☎  022-2223569

                  営業時間   7:00 ~ 19:00      です。

 

 

余談ですが、東照宮では、毎月第4日曜日に「仙台 古民具 骨董市」を開催しているとのこと。ちょっと興味あります。

 

まだまだ仙台の古き良きものがあるのですね。歴史ある地域ですものね。

 

下の写真はショウウインドウ?手細工のものが飾ってあります。

 

 


「石巻手作りCMプロジェクト」 ファーストシーズン 7作品等

2020年12月07日 | 紹介

 

    上の写真は石巻の現在の「尾張屋(おわりや)」さんのお店です。ガラス戸にはボランティアさんに向けた張り紙がありました。     

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  どんぐりさんからメールが届きました。

「石巻手作りCMプロジェクト」作成の石巻の街のCMのお知らせです。

 「石巻手作りCMプロジェクト」前書きは、以下の通り

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「石巻の人に会いたくなっちゃう!

 

復興を支援したい人がいる。

でも知らない街に行くのはちょっと勇気がいるみたい。

行きたくても行けない人もいる。

 

それなら、街の人の顔が見えるCMを作ろう!

 

CMを見たら自然に行きたくなっちゃうから、世界中からたくさんの人が来るかも。

合ったことないけれど石巻のことは知っている気分。

被災した悲しみを乗り越えるにはエネルギーが要る。

乗り越えられた一人一人の姿やドラマを届けたい。

 

街中がCMをもっている不思議な町石巻」

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インターネットで見られます。

URLは次の通り。   http://tezukuricm.cdx.jp/

石巻・手作りCMプロジェクト」で検索してもユーチューブがすぐ出てきます。

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CMでは、震災当時からのお店の様子が語られ、頑張ってきた気持ちや状況を文で知ることができます。

そして、リズミカルで明るい歌ののって動画でお店やお店の方が紹介されていきます。飽きずに楽しく見られます。そして親しみがわいてしまいます。

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【ファーストシーズン  7作品】で紹介された店舗は次の通りです。

 軽快でリズミカルな現代的な歌で、お店の様子を歌っています。楽しい感じの音楽です。

 〇 「COFEE SHOP ROOTS」さん       橋通り商店街

 〇 「かめ七呉服店」 さん     アイトピア商店街

 〇 「カネナオ金物店」 さん     アイトピア商店街

 〇 「プロショップ まるか」 さん    市役所大通り商店街

 〇 「向山靴店」 さん      アイトピア商店街

 〇 「大町品川や」 さん     アイトピア商店街

 〇 「復興バー」 さん   広小路通り   

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※ 「手作りCMプロジェクト」は、東日本大震災からの復興を頑張る石巻の商店に、アーティストによる手作りCMをプレゼントしました。お店の人や現地の人たちに笑顔と元気を届け、日本中の人達にも興味を持ってもらい、石巻を応援しようというプロジェクトです。

 2012年2月から現在までにファーストシーズン7作をはじめとして番外編うを含め25本の作品を制作しています。

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 CMの一部を紹介します。

一店舗ごとに紹介文と「石巻・手作りCMプロジェクト」創作のコマーシャルソング、そしてお店の動画があげられています。

 紹介文とコマーシャルソングの歌詞を一部紹介させていただきます。

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 「COFEE SYOP ROOTS」 さん  のCM

 

  震災前は洋品店を営んでいたご夫婦

  津波で全てうを失い喫茶店として出発される事になりました。

  伝説の「グレートフル・デッド」の大ファンのお二人、

  店内には「デッドもの」がたくさん。

  販売もしています。

 

  北上川のすぐそばにあり、

  震災で寂しくなった橋通り商店街の「楽園計画」を

  立てていらっしゃいます。

 

  キャラクター「さるとびエッちゃん」 が目印です。

  とてもチャーミングなご夫婦に

   是非会いに行ってください。

     (原田博行 with SIESTA)

 歌詞は割愛します。

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  もう一店舗紹介します。

最初の写真のお店「尾張屋」さん。 セカンドシーズンに発表されたものですが、ちょうど現在の写真が撮れたので紹介します。

「尾張屋」さん アイトピア商店街

震災の当日、猛烈な揺れで、陶器店の尾張屋さん店舗内では、商品のほとんどが破損しました。
そこへ押し寄せた津波。
ご主人の近藤夫妻は、犬のモモちゃんと2階へ避難。
店舗内はヘドロとガレキで埋まりました。

毎日毎日、先の見えない復旧作業で、何度も店をたたむ事を考えられたそうです。
そんな時、黙々と作業を手伝ってくれたたくさんのボランティアの人達がいて、「辞めるわけにはいかない」と奮起された近藤さん。
まずはできる事をと、「罹災証明があれば、品物10点まで無料で差し上げます」と新聞に告知を載せました。

「人間は不思議なもので、震災直後は、おにぎりでもなんでも、食器がなくても生きるためには気にならないのですが、少し落ち着いてくると、お茶碗でご飯を食べ、お椀でお味噌汁を飲み、と食器が欲しくなるものなのですね。」と近藤さん。

配布当日、80人を超える方々が店舗前に並び、すべてを失った人々の手に、新しい食器が届けられました。

店舗のシャッターに何か書いてくれる、という申し出に、
色々考えてメッセージを書いていただく事に。

「全国のみなさん 本当にありがとうね
           石巻人も頑張ります」
                くらしのうつわ 尾張屋

あの時支えて下さった、名前も知らないたくさんのボランティアの方々へ、心からの御礼の気持ちを伝えたいそうです。

後期高齢者になられたと笑ってらっしゃるお二人(笑)。

尾張屋さんはアイトピア商店街の入口にあります。
ヨークシャーテリアのももちゃんも大歓迎してくれます。

(「原田博行 with SIESTA」取材&制作ノートより)

 

コマーシャルソング

「尾張屋」

100年前に先々代
尾張の国からやって来た

近藤さんがやっている
くらしのうつわ尾張屋さん

日本中から集まって来る
くらしのうつわと引き換えに

感謝の気持ちと頑張る決意
日本中へと送ります

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等々...。フォーシーズン5作品までUPされています。

CMの店舗のリストを見ると、私が幼おなじみの名前があったり、聞いたことのないお店の紹介があったり、...。(「サルコや楽器」「京屋」お茶の「髙橋園」「まるみ屋呉服店」「京呉服さかぶん」「松竹」「萬楽堂」   居酒屋「千晶」 「和牛乃亀山」「林屋商店」等々もっとたくさん)

 

「大町品川屋」隣同士で2店舗あるんですね。

街並みをちょっと歩いてみると、そこは昔ながらの親しみのある看板のお店があったり、真新しいおしゃれな建物があったり、そしてテナント募集の空き店舗があったり、そしてそここに空地が見られたり....そんな感じの石巻です。

 

     懐かしい名前のお店(左は「ホバラヤ」  右は「立花屋増加生花」)

 

    と    素敵なショーウインドウ

 

 おしゃれなショウウィンドウと空地の写真

  

 テナント募集の建物    と美味しそうな料理どころ

 

 でも、明らかに新しいお店や建物が増えています。

そして、よそでは見られない町つくりの事務所のような建物があったり.....そんな珍しい所が見られるのもこの街の特徴の一つとなっているように思います。

 

 この建物に貼付されていた広告

 

 新しい街の息吹と生まれ変わっていく老舗のお店の活気が感じられる場所となっています。

 自分たちでつくる街、自分たちがつくる街、そんな気持ちがあふれる所と感じます。

 

 もうすぐあの震災から10年。こんなふうに変わると当時は想像できませんでした。

 頑張った石巻の皆さん、そして応援してくださった方々の気持ちが形になってきています。

 ありがとう。と感謝しながら嬉しく思いました。

 

 「石巻手作りCMプロジェクト」の皆さま、こんな素敵なCMを作ってくださってありがとう。

 とても懐かしくまた、素敵な街の様子を垣間見ることができました。

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※ 「石巻手作りCMプロジェクト」のDVDが販売されています。売り上げはプロジェクトの活動にあてさせていただきますとのことです。

※ 今回は、」私事ですが目を傷めており、内容をあまり吟味できませんでした。あしからずご了承くださいませ。

 

 

 

 

  

 


「Beyond The Brokenness("破壊"の向こう側)」

2020年07月27日 | 紹介

 

   2013年7月、日和山から北上川河口を臨む写真

 

 せっかくの4連休も手放しで楽しめない今年の夏となっています。

 国の「ゴー トウー キャンペーン」はじめ、宮城県でも宿泊の際の支援金制度やら仙台の商店街の割り増し商品券の発売等、コロナとの闘いと経済活動の難しい両立を強いられています。

 そして、国内では連日これまでの感染者数の記録を更新する数値が発表されています。

 宮城県でも、今日はなんと5人もの感染者があったとの発表がありました。とても増えてきました。

 しかも、例年になく降り続く雨!豪雨!避難にも今年ならではの配慮が必要な判断が求められるようになっています。そして、被災地へのボランティア活動も思うようにできない状態で、身動きがとれないような今年の夏となっています。

 

 そして、東日本大震災の被災地では、10年近く経過した今、語り部の減少や風化をどう防ぐかといった課題が起きています。

 

 そんな中、河北新報の6月23日付で嬉しい記事が掲載されていました。

「Beyond The Brokenness (”破壊"の向こう側)」という題で動画投稿サイトユーチューブでアメリカの学生らが作った動画が公開されているというものです。東日本大震災後の石巻に関する動画です。

     (URLを入れようと思いましたがうまくいきませんでしたが、題名を入れると見られます。)

  

 言語は当然英語なので私は 見てもどのようなことを話しているのかよくは理解できませんが、雰囲気は伝わるので何度かみていると少しずつ分かるところがあるかもしれません。

 でも、英語が分かる人にとってはとても貴重な内容になることでしょう。つまり世界規模で伝えることができるという点で素晴らしいと思います。しかも日本からではなくアメリカという外国の若者が発信していることにとても意味があると思います。

 

 つい最近、ちょうどテレビで震災後の福島に住み福島や東北の良さをユーチューブで発信している外国人(アメリカ人だったかな?)が紹介されていましたが、それも本当に嬉しいことです。 

 

 この動画は石巻専修大(石巻)と国際国際交流協定を結ぶランドルフ・メーコン(バージニア州)の学生らが、東日本大震災を題材につくったものです。昨年6月に石巻を訪れて被災者にインタビューした内容をもとにしています。

 約37分で人の心まで破壊した震災からの復興過程で見つけた日本、日本人の美しさを伝える趣旨で、学生4人が出演しています。

 石巻専修大や街づくり団体の関係者、遺族ら11人に震災時の体験や思いを聞いたインタビュー内容を学生が読み、イメージ映像として流れる雲の映像を加えています。

 インタビューは、石巻を訪問した学生と教職員ら計11人のうち3人が担当し、今年4月に震災の教訓を演劇で伝える計画だったが新型コロナウイルスの影響で上演が難しくなり、動画制作に変更したとのことです。状況が改善されれば上演する予定だそうです。

 

 ※ メーコン大は、石巻市で外国語指導助手(ALT)を務め、津波でなくなった米国出身のテイラーアンダーソンさん=当時(24)の母校。両親が設立した記念基金の支援を受け、石巻専大と2015年7月に交流事業を開始し、18年1月に国際交流協定を結んでいる。

 

 動画を見た石巻専大の学生(21)は「震災を経験していない人が何かを学んでくれて、うれしい感情が湧いた」と話していたそうです。

 

 震災に限らず、私たちは今、様々な学ぶべき事実に出会っているのかもしれません。

 つらいことにで出会った時、それは何かを学ぶ時なのかもしれません。

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   2013年 7月 日和山より北上川の中瀬を臨む風景

 最近は、石巻に行くと新しい建物も増え、明るい話題もあり、なんとなく復興が進んできているように思うことがありますが、この写真の頃は一体これから石巻はどうなるのだろうと暗たんたる思いでいたことが思い出されます。

 建物や設備は新しいものができると、復興を感じさせますが、人の心には忘れ去ることのできない思いがまだまだあります。そんなところにも焦点をあてながら日本人の心の美しさを伝えてくれるアメリカの学生さんたちに感謝の思いが湧いてきました。

 

 

 

 


蒸しホヤ

2020年05月22日 | 紹介

 3月中旬頃から、新型コロナウイルス感染の広がりでだんだん外出の自粛が要求され、ついに日本全国に「緊急事態宣言」が発せられるに至りました。

 5月連休明けから少しずつ自粛が解除され始めて、宮城県では、やっと種々の活動が再開され始めました。

 

 自粛中は、最近味わったことのない日常を体験しました。

 一時はどこもかしこも自粛となり、デパートもカルチャー教室からスポーツ施設、学校はもちろん塾もみなお休みとなりました。

 「家にいることが、世のため、人のため、自分のため」と言い聞かせると家でぼんやりしていることさえ役にたっているのだという思いになりましたが、 皆さんはどう過ごされましたか?(中には、家族がみな家にいてかえって大変になったという方もたくさんいらっしゃるかとは思いますが..。)

 私は、さすがに何もしないではいられないので、定番通りお料理でもするかということになり、いつになく食事が豊かになりました。

 スーパーは開いているので、出かける回数も多くなり、品ぞろえにも目がゆきます。

 そしたら、見つけました。

 「蒸しホヤ」(写真上)

 ホヤの燻製のようなものでしょうか?初めて見たので購入しました。

 皮の中の身を食べるのです。ホヤ本来の味がして、私にとっては珍味という感じで酒の肴にあいそう。もちろん、食事時にも。290円くらいだったかな?

 イカのキムチというのもありました。これも初めて見ました。美味しかったです。

 

 ホヤについては、東日本大震災の原発事故以来、大のお得意さんだった韓国が輸入を拒否するようになって、宮城県では販路を失い様々な工夫を重ねているところです。

 各地で出店したり、新しい料理法を紹介したりしています。

 「蒸しホヤ」もその一つだと思いますが、美味しいですよ。少しは日持ちもするし。東京あたりでは販売していないのかな?

 イカのキムチもあるならば、いっそ韓国のようにホヤキムチも作ったらどうかな?と思ってしまいました。

 日本中でもホヤの美味しさが広まると良いのですが...。

 

 徐々に外出自粛が解除されつつある日本ですが、今後もコロナ感染症に関して油断できない状況にはあるし、さらに自粛で痛手を受けたたくさんの状況の改善がのしかかってくるという現実があり、「新しい生活様式」が広がってゆくのでしょう。

 世界的な外出自粛のため、空気がきれいになったとか、国内の自殺者が減ったとかも言われ、人間の力だけでは変えられなかった生活習慣が、変更を余儀なくされた結果、一時的に改善?された要素もあったようです。

 

 オンラインでの接触もどんどん増えていくのでしょうね。

 新型コロナ感染症の蔓延は不幸な出来事ではありますが、この機会にそれ以前より良くなっていく道を探していくことで知恵を出してゆきたいものですね。

 

 

 

 


宮城県華道連盟 「春のいけばな展」より

2020年03月21日 | 紹介

 

     庭の梅の木も大分咲いてきました。

 世界中で新型コロナウィルスにおびえる窮屈な日常を送っていて、いささかストレスがたまっているこの頃ですが、春はやってきました。

 東京の桜の便りとともに、いつもとは違ったお花見の様子がテレビで伝えられています。

 宴会中止でのお花見。でもそれが本来のお花見かもしれません。

 そんなわけで、今回はちょっとほっとする花の紹介をしたいと思います。

 今日の記事は3月1日に書かれたものです。

 

 2月中旬に開催された「宮城県華道連盟」による「春のいけばな展」の中の作品の紹介です。

 文章の時期が今とはずれていたりしますが、そのようなわけなのでご了承ください。

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  もうすぐひな祭り。各地でひな人形やつるし雛などの展示が紹介されています。

 

 

 上の写真は先日開催された「宮城県華道連盟  『はるのいけばな展』」の中の作品。

 桃と菜の花の取り合わせです。流派は「本原遠州流(ほんげんえんしゅうりゅう)」。「お生花(おせいか)」と呼ばれる型の古流(こりゅう)の生け方です。伊達藩の華道指南として発展してきたお花です。

 枝の流れが特徴的です。

 ひな人形を飾れば、すぐにお雛祭りができそうです。

 

 これは、櫻の「お生花(おせいか)」です。

 竹で作られたお花器の名前は「二重切り」と呼びます。上と下2か所いける場所があります。

 竹の自然のカーブを生かした花器に、いける桜の木のカーブを調和させ、繊細な線を描いています。高さは2メートル近くあり大きな作品です。

 

 これも同じ流派ですが、型は「現代花(げんだいか)」というもので、自分の個性を存分に生かした現代的な作品です。創作の意図は...、先日見たフィギアスケートの催しでの羽生選手のスケーティングの流れなどからインスピレーションを得たものだそうです。今年開催される「東京オリンピック」も念頭において創作したとのことです。

 そういわれてみると、なるほどという感じがします。

 3作品だけの紹介になりましたが、一つひとつにそれぞれの作者の熱い思いと技術が込められた力作です。(自然の枝の形を 作者のイメージに合わせて枝をカーブさせていく作業においては、技術に裏付けられた細心の心配りが必要なのです。)

 美しくさりげなく整っている姿の裏には目に見えない努力の積み重ねがあるのだと感心します。

 自然を住居の中に取り入れる日本ならでの感性が詰まった展覧会の一部の作品の紹介でした。

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 先が見えない今ですが、その中でのいろいろな工夫や心温まる出来事等も伝えられています。

 花屋さんがお花を提供して親子でのフラワーアレンジ体験を開催したとか、子どもが布で手作りマスクを作って寄付をしたとか等々。

 先日、スーパーに行ったら、青森産のにんにくがいつもの6分の1以下の値段でたくさん売っていました。おそらく飲食店や給食で使用しなくなってしまったものなのだろうと感じました。

 それをたくさん買って長期保存にすることにしました。こんなこともささやかながら物を無駄にしないで生産者に協力することになるでしょうか?

 日本では、少しずつ警戒しながらの外出や活動ができるようになってくるような状況ではありますが、気は許せません。

 先日、ウォーキングをしていると、いつもはそれほど人のいない公園で少年サッカーのチームらしい子どもたちが楽しそうに活動している様子を見てちょっとほっとしました。

 これまでとは違った知恵が要求されているのかもしれません。

 

 でも、このような中でも花が咲き我々の目や心を楽しませてくれています。嬉しいことです。

 

 

 

 

 


林 子平 祭

2019年07月30日 | 紹介

  

  仙台博物館の園庭の林子平の碑

 

 去る7月20日、林子平が眠る仙台市青葉区子平町の龍雲寺で供養祭「林子平祭」が開催されました。

 例年、十数人の僧侶が本堂で子平だけでなく東日本大震災などの物故者供養のため読経、焼香し、墓前でも読経と焼香をするそうです。

 林子平については、教科書で知っていても詳しいことは知らずにすぎてきました。

 昔、友達と北山のあたりを散歩している時に林子平ゆかりの碑かお墓に出くわし、「こんな所にあるんだ!」と意識したことがありました。

 そこは、現在は「子平町」という町名ですが、この地名は林子平にちなんで元の「半子町」という名前を昭和48年(1967年)変更されたそうです。(そんなことも全く分からず今まで「子平町」の名前を自然に受け入れていました。)

 林子平について調べてみると、その業績が大変素晴らしいものだったということが分かりました。

 日本各地を旅し先見の明がを持ち「三国通覧図説」とか「海国兵談」を著し、海防の必要や人材の育成などを説いたのですが、時の江戸幕府は、その思想をいたずらに人心を惑わすものとして、版木没収や蟄居を命じるなど、子平にとっては、不遇な状況になってしまいました。

 自らのことを「親もなし、妻無し、子無し、はん(版)木無し、かねもなければ、死にたくもなし」と述べ、「六無斎(ろくむさい)」と号し、失意のうちに寛政5年56歳で没しました。

 子平は龍雲院に葬られましたが罪人のため墓を建てることも許されなかったのです。

 

 子平は蒲生君平、高山彦九郎とともに「寛政の三奇人(この場合、奇人とは変人という意味ではなく優れた人という意味だそうです。)」と呼ばれますが、時を得ないということは奇人にとっては本当に不幸なことですね。

 でも、やがて時代が進むにつれて、子平の言ったことが現実のものとなり、その優れた才能も認められ、幕府から赦免され墓の建立が認められました。おいの林珍平が建立しましたが子平の死後48年後のことでした。その後、政府の要人伊藤博文が立ち寄った折、自分の慕う子平の墓のあまりの荒廃ぶりを見て嘆き、その偉業を後世に残すべく墓のそばに碑をつくり寄進しました。(それが、私たちが出会ったものだったのかな...?)

 墓は、昭和17年に国の史跡に指定されました。

 

 そんな子平の業績をしのび、祭りが行われてきました。 

 

 「林子平祭」は昭和の初めから命日の6月21日に実施されており、当時は子平の海防論が軍国主義と結びつき、市民、海軍、海洋消防団が参加し、盛大に行われたそうです。

 これが昭和17年(1942)年、海の記念日が制定されたことなどにいり7月20日に変更されたのだそうです。

 戦後、祭りも復活し、子どもたちも参加し、パレードが商店街を行進したそうです。

 ある方のブログに「林子平祭」についての記事があったので紹介します。祭りの写真が掲載されておりその様子がうかがわれます。

 https://blogs.yahoo.co.jp/sai4asamima9/13173544.html?__ysp=5p6XIOWtkOW5syDnpa3jgoo%3D

 

 子供たちが喜んで参加できる小さな手作り感のあるお祭り、懐かしいです。

 「青葉祭り」や「仙台七夕」「六魂祭」等は、観光客向けのお祭りで盛大で豪華さは見事ですが、家族連れで徒歩で参加できる地域の住民たちの小規模なお祭りはまた違った良さがありますよね。

 昔、子どもの頃毎年参加した春頃のお祭りを覚えていますか?どこまでの地域のお祭りだったかよく覚えていませんが、あの頃小学生頃からの参加だったでしょうか?4年生以下?は男女ともはっぴ姿、そしてたしか6年生の女子が巫女さんの姿で白い着物に朱色の袴でとてもあでやかだった記憶があります。

 そして行列を作って地域を歩きながら各場所場所でお菓子をいただきながら最後日和山の鹿島御児神社に着きます。家に帰って、いただいたお菓子を兄弟で出し合うと、普段は手に入らないくらいの量になり、とても嬉しかったものです。

 そんな子どもの頃の楽しい思い出が忘れず残っています。

 そんな体験を今の子どもたちにも味わってほしいと思います。(もしかすると、どんぐりさんはそれに類するような思い出を子どもたちに提供しているかもしれませんね。)

 

 龍雲院の近くに「子平堂」という和菓子屋さんがあります。「子平まんじゅう」が看板商品です。

 

 「林子平祭」は以前に比べてだんだん参加者が減ってきており、以前のように盛んにしたいと願っている方々がいます。

 

 仙台の観光の一つとして「林子平」にちなむ場所を歩くコースも設定されています。

 

 また、初めの写真は、仙台市博物館の園庭にある碑ですが、博物館は、仙台藩主・伊達氏の居城だった仙台城の三の丸跡にあります。中には林子平の肖像画や「海国兵談話」(寛政3年原刻本)、「三国通覧図説」(仏語訳、1832年刊)等を所蔵しています。

 

 子平まんじゅうをいただきながら、子平の偉業をしのぶ ・・そんな散策が楽しめそうな「林子平祭」のお話でした。

 


ー日和山で砲弾が鳴り響く!!!ー 戊辰150年

2019年07月03日 | 紹介

 昨年は「戊辰150年」とうことで、様々な催しがありました。

 河北新報には、「戊辰150年」という特集記事が掲載され私もそれまでに知ずにいた歴史の一端を垣間見ることができました。

 その中に、石巻に関する出来事もあり、改めて石巻の時代的な意味づけを知るきっかけにもなりました。

 今回は、その中の一つ、あの当時の石巻での様子、日和山でのことです。

 

 以下に、2019年1月20日の河北新報の記事を紹介します。

 この中に石巻の名前がでてきています。その関わりを見ることができます。

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 「奥羽の義」  戊辰150年 35 第6部 仙台藩降伏

   「徹底抗戦派が石巻に集結」  「遅すぎた榎本武揚」

 

 仙台藩が新政府に降伏する直前の1868(慶応4)年旧暦8月26日、旧幕臣の榎本武揚率いる海軍が松島湾に入港した。奥羽越列藩同盟を支援するためだった。

 6日前に8隻で江戸・品川沖を出港した榎本艦隊は房総沖で暴風雨に遭い、咸臨丸など2隻を失った。難を逃れた旗艦の開陽など6隻も破損し、修理が必要だった。

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 艦隊は多数の砲門を備え、兵数は1500.さらに会津から新選組副長の土方歳三、旧幕府軍の伝習隊や彰義隊ら各戦線の敗残兵、フランス人の軍事顧問ブリュネら、新政府の徹底抗戦を主張する集団が仙台に続々と集結し始めた。

 9月2日、榎本と土方は仙台城で藩主の伊達慶邦と対面。榎本は「奥羽の地は日本全土の6分の1を占め、兵数は約5万に上る。新政府など恐れるに足りない」と力説した

 しかし、劣勢の仙台藩は藩論が降伏に傾き、主戦派は失脚していた。榎本と議論した勤皇派の執政遠藤文七郎は、「官軍に抵抗するなど大逆無道。今は伊達家の危機を救うとき。諸君も帰順すべきだ」と一蹴。土方に対しては「斗屑の小人。論ずるに足らず」と酷評した。

 榎本らの到着は遅すぎたのだ。

 9月15日、仙台藩降伏。榎本らは同藩に見切りをつけ、蝦夷地(北海道)行きを視野に石巻へ移動、豪商の毛利屋理兵衛の屋敷に寄宿した。

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 石巻市の旧家の古文書萬方記」によると、石巻に集結した兵らは約4300人桑名藩の「谷口四郎兵衛日記」には、土方やブリュネの指導下、市中心部の日和山(現在の日和山公園)一帯で軍事演習を行ったと記されている。降伏した仙台藩に対する怒りのデモンストレーションだったとも言われる。「戦争が始まるのか」大砲の音に住民はおびえ、近隣に家財を避難させる者もいた。

 榎本らの勢力がもし、石巻で新政府と衝突したらー。既に降伏した仙台藩首脳にとって、彼らはやっかいな存在となった。

  文  酒井原雄平 

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 その他の記事

 ※  石巻市住吉町にかつてあった旧毛利屋敷。老朽化のため2008年に解体され、現存していない。(阿部和夫さん提供)

   (家屋の写真げ掲載されています。私たちが中学時代の頃はありましたね。もう解体されていたのですね。)

 

 ※ 仙台藩の降伏直後、石巻に4000人を超える旧幕府軍が集結した。新政府軍との戦闘が始まるのではー。港町は不穏な緊張感に包まれた。との文言で現在の日和山から望む中瀬あたりの風景の写真が掲載されています。

 ※  榎本武揚  1836年に幕臣の次男として誕生。62~67年オランダ留学。帰国後、幕府海軍副総裁。戊辰戦争では函館で新政権樹立を宣言するが、69年、五稜郭の戦いに敗れて降伏。72年特赦で出獄後、新政府に登用され、北海道開拓などに尽力し、諸大臣を歴任した。1908年死去。

 

 ※ 土方歳三  新選組副長。1835年現在の東京都日野市で富農の四男として誕生。剣術の出張稽古で訪れた局長の近藤勇と親交を深め、63年、近藤らと京都で新選組結成。草創期からの隊士として池田屋事件などに関わった。69年、函館五稜郭の戦いで戦死。

 

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 ということで、当時の日和山では大砲の音がとどろいたのですね。砲筒は海岸の方に向いていたのでしょうか?その頃の南浜町あたりはまだ家もなく野原が広がっていたのでしょうか?

 港町としての石巻の存在感が感じられる出来事です。

 時間軸の中で石巻にも様々な出来事が眠っているのですね。

「戊辰150年」の節目にまた、石巻の歴史の一部を知ることができました。


仙台 青葉祭りの頃 「日本いけばな芸術東北展」

2019年05月24日 | 紹介

  

 ご主人の言いつけをよく聞いて ・・「さあ!出発!!」・・・・・・・・・・「ブオー!!」

 

 こんな光景に出会いました。

 仙台は青葉の季節。花菖蒲も咲くころです。

  

 仙台は青葉の季節。花菖蒲も咲くころです。

 5月18日19日は、仙台では「青葉祭り」が開催されました。今年も天候に恵まれ街はすずめ踊りの掛け声や武者行列の衣装の人々があちこちに見かけられる日となりました。

 その盛り上がりは上の写真のワンちゃんを見ても分かります。

 その頃5月16日(木)~21日(火)「日本いけばな芸術東北展」が9年ぶりに藤崎総業200周年を記念して開催されました。

 公益財団法人日本いけばな芸術協会主催です。

 名誉総裁は常陸宮妃殿下です。

 

                      

 

  会場には、1m~2mほどの作品が所せましと並んで美しさを競っています。

 3人でそれぞれの作品を組み合わせて一つの作品とする「3人席」という大きなものもあります。

 

 今回のイベントでは、東日本大震災復興応援企画として、いけばなのデモンストレーションが行われました。

 お客様の前で作品を作っていきます。私は見られませんでしたが、とても盛況だったそうです。

 また、堤焼や玉虫塗の花器にいける宮城の伝統工芸品とのコラボレーションもありました。

 見事な花器にいけられた見事な花木がお互いを引き立てあっています。

 

 そして、18日には~伝統文化にふれよう~こどもいけばな体験教室を開催して、18日19日の2日間に参加した子どもたちの作品も展示されていました。

 いろいろ工夫しているのですね。「頑張れ!伝統文化!」と言いたくなります。

 

 私は20日(日)に鑑賞しました。日曜日でもあり、青葉祭りと重なっていることもあり、会場は入場する前から行列!入場してもぞろぞろ並んでみるような有様なので、思うようにゆったりと楽しむような感じにはなれず、写真も隙間から斜めに撮ったりでした。

 盛況は良いことですが、ちょっとせわしかった感じでした。

 それにしても、この展覧会には37流派が参加したとのことですが、流派がそんなにたくさんあったなんてご存じでしたか?

 

 そして、作品も様々。

 特に現代的な作品は、2mほどもある大掛かりなものが多く、花材も人工的なものから珍しい見たこともないようなものなどがあり、その面白さも見ごたえがあります。

 

 そして、それとは対照的に、昔から身近にある花材(ナツハゼ、かきつばた、花菖蒲、ナルコラン、松、等々)を使って枝や葉を整理して全体の線の美しさを見せる古流のいけかたもあります。

 また、古流のいけかたをもとにしながら現代風の花材を使って大きさも少し小ぶりにいける新しい形の作品もあります。(現代の住宅環境を考慮したものです。)

 いけばなも進化しているのですね。

 

 それぞれの作品がバランスをしっかりと意識しながら、常に生き生きとした新鮮な姿を見せようと細心の注意をしながら努力している様子が感じとれます。

 

 前期後期合わせて396の作品が展示されました。

 

 自然を美しい形で取り入れようとする日本の心がしっかり味わえます。     

 

 作品をお見せできないのが残念ですが、住んでいる地域で展覧会などがあったらぜひご覧になってみて感じていただけたらと思います。

 

  参加の流派は、 

  池坊、草月流、小原流くらいは耳にしたことがあっるかと思いますが、その他遠州流の各派(本原遠州流ほんげんえんしゅうりゅう、浅草遠州流一濡流、櫻花遠州流)清泉古流、龍生派、古流松鷹会,閑潤流、梶井宮御流、千家生花、大和華道、道風流、東池坊、草楓流、嵯峨御流、京都古流、利休古流、広山流、松風花道会、都未生流、古流理恩会、宣法未生流、等々・・・。

 元は池坊だそうですが、それに庭師の小堀遠州さんの考え等が入ったり、京都でそれを学んだ弟子たちが、各地に行き、新たな名前をつけて流派をおこしたのでしょう。

 私たち若かりし頃の時代には安達とうこさんが父親の流派から独立して「安達流」を起こしたことが話題になったことがありますよね。

 

 それにしても、こんなにそれぞれが名前を冠して新たな流を起こすなんて、いかにも情報網や交通網が発達していなかった昔の時代ならではのことと感じます。フランチャイズが発達し、マニュアル化した接客の現代とは真逆のようで、ちょっと面白く感じます。 様々あってうらやましい感じもするなあ...。

 

 あー。とりあえず第2期の展覧会見終わりましたー。作品も人もぎっしりだったなー。9年ぶりだから力が入っていたのかな?それにしても、今息づいている花や木を3日間大勢の客の鑑賞目に耐えるように生き生きと保つ努力に頭が下がります。

 

 そんな令和元年の仙台の5月のひと時でした。

 ※ 今回の展示作品は残念ながら、紹介できませんが、前回9年前の展示された私のお気に入りの作品の一つの写真をUPさせていただきたいと思います。

   

 右側の花材は「シマフトイ」左側は「杜若(かきつばた)」です。花器は木製の屋形船です。花材と花器の調和も大切な要素です。最新の心遣いが感じられる和の趣あふれる作品です。

 高さは1mくらいあります。

 もちろん現代的な作品もたくさんありましたよ。紙コップをたくさん使ったものに緑のアンスリウムをあしらったもの等々。

 


石巻 長浜での出来事 ー戊辰150年ー

2019年04月25日 | 紹介

 

 上の写真は確か長浜海岸だったような気がしますが、今から60年余り前の門脇小学校の当時1年生の子どもたちと当時の確か1年3組(?だったかな?)の担任の先生、保護者のお母さん2名ほどが写っている海浜学校の写真の上部です。

 後ろの景色に見覚えのある方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 渡波出身の方がこの写真を見たとき、「ああ、あそこが〇〇ね。」と話していたので、近辺に住んでいた方にとってはおなじみの風景なのかもしれません。

 

 この長浜にも、「戊辰150年」の生々しい事実があったことが分かりました。

 伊達藩でも新政府軍派と旧幕臣派とに分かれ様々な混乱があったことは、以前の「戊辰戦争150年」の記事でちょっと紹介しましたが、この長浜での事件もその頃のことです。

 

 以下の内容は、2019年2月3日の河北新報によるものです。(途中省略があります。)

 

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 1868(明治元)年旧暦10月12日、旧幕臣の榎本武揚、新鮮組副長土方歳三、仙台藩額兵隊長の星恂太郎(じゅんたろう)ら2000人を乗せた艦隊は石巻の折浜から蝦夷地(北海道)へ向けて出航した。

 当時、石巻にいた旧幕府兵らは4300人。全員は乗せられず「不動の決心を有する忠誠の士」(戊辰役戦史)を選抜した。 

 この後乗船できなかった者たちは追跡してきた政府軍により、150人が捕縛、斬首されたのだ。

 

 これほど大規模な処刑は戊辰戦争を通じても異例なのに、新政府や仙台藩の記録には載っていない。

 目撃者の口伝で語り継がれてきた。

 元石巻市図書館長で郷土史家の故橋本昌氏は祖父から目撃談を聞いたという。石巻の生き字引と称された橋本氏の著書などによると、処刑は長浜(現在の石巻漁港周辺)であり、目抜き通りに首がさらされた。

 さらに裏付ける証言が2005年、歴史継承の市民団体「石巻千石船の会」(石巻市)の機関紙「ふるさとのかたりべ」に載った。市内の女性(匿名)が1944年に目撃者の高齢女性から聞いた話だという。

 話によると、路地を逃げ回る旧幕臣兵が家の雨戸をたたき「入れてくれ」と請う。しかし、助けると責めを受けると恐れた住民はみな知らんぷり。山に逃げた兵たちは空腹や寒さに耐えかね下山して捕まった。手向かおうにも刀や羽織は借金のかたに取られていたらしい。

 「処刑がある」というので長浜に見に行くと、兵たちはうなだれていた。斬首の時には「助けてくれ」と泣いた。暴れる時には取り押さえられ、やりで刺された。「威張って歩いていた兵が泣いて殺される姿は見ていられなかった。」という。100人できかない数と振り返っている。

 これほどむごたらしい出来事が歴史に埋もれたのはなぜか。

 元石巻教育長で郷土史家の阿部和夫さん(80)=同市芸術文化振興財団理事長=は「住民は旧幕府の関係者と思われて処罰されたり、逆に旧幕府兵から報復されたりするのを恐れて口をつぐんだ」と指摘する。

※ 石巻の敗残兵

 旧幕府軍の敗残兵らは石巻周辺の各集落や島に潜んだ。現地では民家に押し入って略奪したり、宿泊させるよう強要するなどの事件が相次いだ。仙台藩の統制を離れた脱走兵たちも地域の富豪や米穀船を襲い、軍資金と称して強制的に金品を差し出させた。東北三大地主の一人、前谷地の斎藤善右衛門は現在の貨幣価値だと1億数千万円に上る2200両を奪われた。仙台藩士二関源治の率いる脱走兵らの組織「見国隊」は徴発した軍資金で英国商船を雇い、石巻から函館に渡って榎本武揚と合流。二関は1869年、函館五稜郭の戦いで戦死した。

   文・酒井原雄平

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 子どもの頃、みんなで楽しくキャーキャーと波と戯れ遊んだ砂浜にそのような歴史が秘められていたとは全く思いもよりませんでした。この年齢になって初めて知って驚きました。

 

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 おまけ (上の記事とは関係ありません。)

 「ある晴れた冬の日のカフェテラスの出来事」

 スズメがきました!

セグロセキレイも来ました!

私はパンのかけらを投げて与えました。

「アッ!! 食べ物だ!」とセグロセキレイ君?が気がつきました。

「さあ、いただくとしようか..」

大きいのでちぎって一部分を食べました。あっ!!陰にはスズメちゃんがいますね!

いつの間にかスズメちゃんが近づいてきています。右上です。

しかし、セグロセキレイ君は立ち去ろうとしません。

「ああ、まだいる...!」一定の距離を保ってスズメちゃんはその辺にいます。

「まだいるなあ...」スズメちゃんも待っているようです。

「まだいるけど、欲しいなあ..」少しづつ近寄ってくるスズメちゃん。

そして、ついに!! セグロセキレイ君は飛び去っていきました!

「ヤッター!!」スズメちゃんは素早く飛んできて、私たちをも警戒してあっという間にパンくずを加えて立ち去ったのでした。

めでたし!めでたし!