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歴史選択 梟雄 松永久秀 2018.02.19 「3」

2021-12-25 16:58:56 | 歴史

歴史選択 

梟雄 松永久秀   2018.02.19

 

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松永久秀 1510年? 〜 1577年

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。松永弾正(まつなが だんじょう)の別名でも知られている。


永正7年(1510年)に生まれとされるが、前半生には不明な点が多く確証はない。

1577年10月10日に日本発の爆死を遂げる。


裏切り、暗殺など悪逆の限りをつくすが、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られているという一言ではくくれない人物である。

斎藤道三、宇喜多直家とともに、戦国三大梟雄に数えられる松永久秀。

あの織田信長を2度も裏切った(1度は許されている)

松永久秀は出自不詳の人物。しかし有能な男であり、信長よりも先に事実上の天下人となった三好長慶の家宰となり重用されます。

また、室町幕府13代将軍・足利義輝からも信頼されるほどでした。

長慶が没すると、三好家の家宰として実権を掌握し、ほぼ家を乗っ取った状態となります。


永禄8年(1565)には、三好家の3人の重臣「三好三人衆」と久秀の息子・久通によって、

将軍義輝を暗殺する永禄の変が起きますが、久秀自身も一枚噛んでいたのではと推測されています。

その後、三好三人衆と対立し、永禄10年(1567)の東大寺大仏殿の戦いでは大仏が焼け落ちるほどの熾烈な争いを繰り広げました。

やがて、織田信長が勢力を拡大してくると、あっさりと臣従。一度は信長を裏切り挙兵しますが、敗戦後なぜか許されています。

しかし再び久秀は信長を裏切り、石山本願寺攻めの最中に突如撤退し、居城・信貴山城に立て籠もりました。

信長すら戸惑い、理由を問いただすも、久秀は答えることはなく、50日間の籠城の末、天守に火を放ち自害しました。

名茶器「古天明平蜘蛛」を差し出せば許すと信長に言われたそうですが、久秀は嘲笑うかのようにそれを叩き割り、仕込んでいた火薬もろとも爆死したとも言われています。

    

 

  

 

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