こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

イズァローン伝説。-【3】-

2021年09月10日 | 日記

(※竹宮惠子先生の漫画『イズァローン伝説』のネタばれ☆がありますので、一応御注意くださいませm(_ _)m)

 

 ――だれも、もう覚えていないほんのしばらくまえ、

 魔王が猛威をふるい、世界を「滅」にまきこもうとしたこと

 

 樹海にはありとあらゆる妖精がいて

 人の世界にたまに顔を出しては悪さをすること

 

 人の心には必ず影があり

 その中に魔が潜んでいること

 

 人が人らしさを失うと、必ず魔王は顕現し

 魔と人との戦いが再び始まること……

 

 魔王が人を愛すればこそ

 世界は救われるのだということを――

 

 これはまだ、ヒトと自然とが分かたれないころのものがたり

 なんという地であったのか……

 

 かつてこの地に

 ティオキアという王子がいて

 

 姿やさしく心清く

 小さな獣や鳥を愛し

 

 ただ愛するという力のみで

 人を救った

 

 地球に月がふたつあったころのことか

 それとも知らない星のことか

 

 未だヒトの心に

 神の生まれない時代のこと――

 

―【イズァローン伝説、完】―

 

 

 これが『イズァローン伝説』の終わりなわけですが、そもそも『イズァローン伝説』とはなんだったのかというと、<魔>が復活する時にイズァローンから「陽と陰の境にあって、魔でありながら人の子」が現れ、この<魔>を封じるであろう……といった、そうしたことだったのではないかと思います(たぶん☆)。

 

 前回、ティオキアは自らとともに魔王を封じ込め、結界した……といったように書きましたが、この結界もまた永遠のものではなく、いつかはこの結界も解ける時がやって来、まあ大体のところいずれかの未来におんなじよーなことが繰り返されるのではないかという、そうしたことなのではないでしょうか。。。

 

『アンドロメダ・ストーリーズ』の第1巻の巻末に、竹宮先生のあとがきっぽいお言葉があって――光瀬先生の作品はこの『イズァローン伝説』にも影響を与えている……みたいに書いてあったと思います

 

 

 >>連載中とても印象的だったのは、「機械に侵食されていく」シークエンスや物語の結末における壮大な流れなど、私では思いつかない光瀬先生だからこその世界観に気づかされる〃何か〃が多々あったこと。私もわりとハードな面を持った性格ですが、光瀬先生は私以上にハードな面をもった方なのでとても新鮮でした。これは、その後の私の作品に多大な影響を与えているといって過言ではなく、実際『イズァローン伝説』には『アンドロメダ・ストーリーズ』での経験が活かされているのではと。やはり、持っているものが違う方と組んでお仕事をするのは刺激的ですし、自分自身の世界が広がるので、今後も機会があればチャレンジしてみたいと思います。

 

 

 主人公のティオキアくんがイエス・キリストっぽい死に方をすることから、たぶんそれは『百億の昼と千億の夜』といった作品も含めて、ということなのかなあみたいに、読んでて漠然と思ったわけですが、『百億の昼と千億の夜』でイエス・キリストが悪役であるように、竹宮先生も魔王=救世主といったように表現しておられて、この逆転の発想については、わたしも面白い設定なんじゃないかな~と思ったりしていました。魔王として奇跡を行えば行うほど、人々がティオキアくんをメサイアとして慕うようになる……というところが特に。

 

 ただ、ティオキアくんは、キリストが十字架にかかるのと同じような形で火刑に処されたわけですが、『百億の昼と千億の夜』を読んだ時にわたしが思ったのは、「地球の惑星管理委員になるのもてえへんなもんだな」ということだったかもしれません。

 

 何故かというと、イエス・キリストの死因というのは何かといえば、それは「窒息」だからなんですよね。手足を釘で打ち抜かれたというだけでは、人は死なない。手足を打ち抜かれてのち、十字架に上げられると、手足を釘で打ち抜かれていることによって、人はどうにか体を支えようと上へ上へずり上がろうとする。ところが、手を釘で打ち抜かれていることにより、いずれは体を支えきれず、まず肩のあたりが脱臼するわけです。すると、今度は気道が塞がれて呼吸が苦しくなり……こうして最後には呼吸困難に陥り、窒息して死へと至るのです。

 

 いえ、仮に三日後に甦ることが出来るという約束があったにせよ、こんな究極の苦しみだけはご免被りたい……というのが、普通の人の心情と思うんですよね。だから、『百億の昼と千億の夜』のイエス・キリストがそのあたりどう考えてたのかが気になるので、いずれ光瀬先生の原作のほうは必ず読んでみたいと思っています(「あんなに苦しいだなんて、オラ聞いてねがっだど!」と思うのが普通でないかなと思うので^^;)。

 

 それで、イエス・キリストの十字架上の死にはどこに愛があったかというと、のちには残酷すぎる刑罰だとして廃止されたこの十字架刑にかかることによって、イエス・キリストを信じる者には罪の赦しと永遠の命が与えられるという、教義的にはそうしたことだと思います。また、イエス・キリストの行為というのは、自分を神の子と信じた狂信者の愚行……ではないからこそ、今も世界中に信者がこれだけいるということも、一応付け加えておこうかな、なんて

 

 で、ですね。ティオキアくんも、キリストが命を投げだしたように、同じような動機による自己犠牲的精神によって世界を救った少年と思うわけです。また、ティオキアのことを愛し、彼がイシュカへ人質となった時から仕えているカウス・レーゼンが、自分の主君が火刑に処されて死にゆこうとする時、剣で自らの胸を刺し自害してのち生き返っているのも……たぶん、聖書のキリスト復活を模してのことだったのではないでしょうか。その前にもカウスはティオキアのために命を投げだし、完全に死んだところをティオキアの力により甦っています。この時、カウスの死んだ魂を一度自分の中へ取り込み、その後カウスの中に戻していることから――この部分が一応伏線に当たるとはいえ、「そこまでなんでもアリというのもなんだかなあ」という気がしなくもありません。

 

 また、ティオキアくんの救世主としての行動というのは、かなりのところ聖書にあるイエス・キリストの行動をなぞっているわけですけど――カウス・レーゼンの甦りと彼に与えられた永遠の命というのは、キリスト復活や彼が信者に与える永遠の命を模しているというより……単に作者である竹宮先生自身でさえ、「ティオキアが報われなさすぎて可哀想」といった気持ちから、カウス・レーゼンが永遠に生きるいつの日かに、再びティオキアと出会い、結ばれる日が来るかもしれない――という多少の希望を物語に残しておきたかった……そうしたことだったのではないかと、個人的には想像したり。

 

 いえ、なんというか、物語の最後のほうで、実はティオキアがルキシュ本命でカウスはセカンド(?)だったとわかるわけですが、いくらティオキアが両性体でも、このあたりはやっぱりBL的展開としかわたしには思えなかったかもしれません(それが悪いとか言ってるわけではなく^^;)。

 

 で、肝心のわたしがそもそも『イズァローン伝説』を読もうとしたきっかけである、「少女漫画における性表現の進化」云々ですが、結局のところ『イズァローン伝説』という作品が物語として最後成功していないだけでなく、そのあたりのことも、同時にあまりうまくいってない感じでお話のほうは幕引きとなる――という、自分としては何かそうした印象だったんですよね(なので、議論のまな板に乗せる以前の問題ということになってしまいました)。

 

 萩尾先生もそこから着想を得られたのだろう、アーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』は、自分的に相当面白い作品だったと思いますまた、『11人いる!』の11人のひとり、フロルも、ある程度成長してから男になるか女になるかを自分で決めることが出来るという異星人で……この「男になるか女になるかを自己決定できる両性体」という設定は、おそらく誰しもが「おおっ!」となる斬新な設定と思うんですよね。

 

 でも、『イズァローン伝説』は、物語として(最終的に)失敗しているだけでなく、こうした設定も生かしきることの出来なかった残念な作品だった……というのが、自分的な感想でした(すみません。べつにだからといって責めてるとか、特段腹が立ったとか、そうした感情は本当に一切ないというのが、わたし個人の本音です^^;)

 

 それで、「両性体という設定は面白いが、物語として扱うのが非常に難しい」ということで済ませるのもなんなので、最後に、似た設定でとてもよく成功している……と思う、清水玲子先生の『月の子』について触れて、本文の終わりにしようかなと思ったり

 

 

『月の子』は清水玲子先生の代表作のひとつとして、あまりに有名と思うんですけど……物語の中にジミーとセツとティルトという、3つ子が出てきます。それで、彼らも異星人で、今は中性体なんだけれど、産卵の時期になって相手が見つかれば女性体になるという、確かそうした設定だったと思うんですよね(読んだの相当昔なので、ど忘れしちゃっててごめんなさい)。

 

 ところが、魚のクマノミと一緒で、産卵には順序というか、一番大きな個体がメスとして卵を産むようになっているのと同じで(つまり、群れの中にどんなに個体が増えても、メスは常に一匹しかおらず(これが個体して一番大きい)、そのメスがいなくなれば、一番大きなオスが性転換してメスになる)――他の個体はメス化せず、中性体として留まるわけです。そして彼らの場合は、ジミーに今はその権利があって、彼(彼女)はアートという青年に恋をしている……ジミーがメス化すれば、セツもティルトも中性体のまま留まることになるわけですが、ティルトは心から愛するセツに産卵……というか、子供を生ませたい(笑)。

 

 そこで、人魚姫が海の魔女と取引したようにティルトはある取引をし、セツの幸せを願って色々と画策するわけですが――セツは、結局のところメス化する前に、彼が恋するショナという男性と結ばれます。そしてその後、ジミーが不慮の死を迎えるなどして、順番がまわってこなくても……セツの体は女性になりました。何故でしょうか?それは中性体というありのままでも、セツが心からショナを愛し、ショナのほうでもセツを愛していたからこそ起きた、そうした魔法だったのだと思います。

 

 心から愛されたからこそ、そうした奇跡が起きた……この時に受けた心の感動というのは、わたしの中で今も少しも色褪せませんし、清水玲子先生は萩尾先生の大ファンで、萩尾先生の作品を読んでそうした着想を得られたそうなのですが、そのことを知った時もパクリ☆とかなんとかいうことは、少しも脳裏をよぎることがありませんでした。。。

 

 本当の感動、本物の作品というのは、簡単にいえばそうしたことなのだと思います

 

 例の倒錯疑惑云々☆といったことから、竹宮先生、萩尾先生双方の作品を読みはじめたという、非常に後ろ向きな動機からはじまって(笑)、今回『イズァローン伝説』まで読むことになったわけですが、多くの方が「最後のほうの展開が……」と嘆かれていることを除けば――それ以外のところでは、竹宮先生の絵がファンタジー作品としてぴったり嵌まっているところなど、他にも読みどころはいくつもある作品なんじゃないかな~と、自分的にはそのように思う次第でありますm(_ _)m

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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