こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

レディ・ダイアナ。-【7】-

2022年03月25日 | レディ・ダイアナ。

 

 ええと、今回は本文が少し長めで、例によってここの前文にあんまし文字数使えないってことで、どうしようかなと思ったんですけど……↓の中で「999人の患者を手術で救っていたとしても、千人目の患者の命を救えなかったとしたら、成功した999人の人々の命をもってすら贖えない」――みたいな話が、医大の講義では必ず語られる、みたいにギルバートは言ってるわけですけど、これはあくまでユト大医学部限定です(^^;)

 

 また、トップ画の『脳外科医マーシュの告白』(超名著!)の冒頭に、

 

 

 >>「外科医はだれしも自分のなかに小さな共同墓地をもっており、ときおりそこを訪れ、祈りを捧げる――そこは苦渋と悔恨の場所であり、外科医はそこで自分が犯してきた失敗の数々の言い訳をさがさなければならない」

 

(ルネ・ルリッシュ)

 

 とあるのですが、「外科医」という道を選んだ時点で、失敗という言葉とは無縁でいられないということだと思うんですよね(^^;)

 

 また、何度か取り上げてるアトゥール・ガワンデ先生の本にも、自分のミスを認めて率直に告白している箇所があり、日本人の感覚としては結構驚かされるというか

 

 それと、人間の痛みシステムと言いますか、腕や腰などに激痛を訴えても、実際は患部のほうは治っており、レントゲンその他でも異常は認められないにも関わらず、激痛を訴える患者さんの中には――その痛みをすっかり完全に覚えてしまった脳細胞が脳内にあって、その脳細胞からのダウンロードがはじまると、患部に異常はないにも関わらず、まったく同じように激痛を訴える場合がある……ということをわたしが知ったのも、ガワンデ先生の『コード・ブルー~外科研修医 救急コール~』によってでした。

 

 このあたり、とても興味深いので、本文を引用したいくらいなんですけど、今回はあんまり文字数が使えないっていうことで(汗)……それでも、この理論でいくと、人間の脳内には何億も脳細胞があって、「この細胞こそが間違いなく腰痛に関わっている」という部分のみ特定して焼却することさえ出来れば――たとえば、パニック障害などで苦しんでいる方であれば、パニック障害に関わる脳細胞のみ覚醒下手術で焼却できれば治るということになると思うわけです(一応、理論上は)。

 

 ただ、危険性のある手術でもあり、まったく関係ない脳細胞を焼却してしまう可能性もあり……それでも、手の震えが激しく、日常生活に支障がある患者さんや、そのことでピアノやヴァイオリン、ギター演奏に支障がでるといった場合、患者さんの希望で手の震えに関わる視床細胞に電気プローブを入れていって焼却する手術というのがあるっていうことなんですよね。

 

 それで、ガワンデ先生の本の中には、パニック障害と手の震えを持っている患者さんが、覚醒下でこの手術を受けた時……手の震えを制御する細胞を突き止めようとして、その近くにある細胞に脳外科医の先生が触れてしまい――その瞬間、この患者さんはパニック障害が起きた時と同じく、呼吸困難や死への強い恐怖を伴ういつもの発作に襲われたということでした。

 

 随分前のことですけど、わたし、ここ読んだ瞬間、パニック障害といった症状に関しても、それを発動させる脳細胞というのが確かに存在するんだ……と思い、物凄く衝撃を受けたのです。何故といって、この理論でいったとすれば、神経症といった、人からは「君の気にしすぎは気の持ちようだよ」とか、「なんでそんなことをそんなに気にするのかわからない」、「まったく馬鹿げてるよ」といったある種の精神疾患も――それを司っている脳細胞を特定さえできれば(これが実際には何億もあるため難しいにしても)、それを同じように電気プローブで焼却したなら……外科的処置で治るなり、症状が極めて軽減する可能性があると思ったからなのです(^^;)

 

 そして、この理論でいくと、ある精神疾患の症状としての幻聴といったものも、幻聴に関わっている脳細胞を確実に突き止めて焼却することさえ出来れば……こちらも、治るかあるいはほとんど幻聴が聞こえてこないということになるのかどうか。

 

 このあたり、わたしも専門家ではまったくないのでわからないわけですけど(当たり前!笑)、ちょっとこの方向性で色々調べてみたいとは、ずっと前から思っているのです。。。

 

 それではまた~!!

 

 

P.S.↓に出てくるギルバートが言ってる「青たんすがわら」って、どうも方言みたいなんですよね(笑)。わたし自身は自分で使ったことないとはいえ……母が「奥さんが青たんすがわらになるまで殴る旦那さんだったらしいよ」みたいに言ってるのを聞いたことがあったのです(^^;)でも、青たんが青痣って意味らしいところまでは理解できても、「菅原ってどこの誰?」みたいな。なので、自分的には「その昔、菅原さんという人がいて、青痣だらけになるまで殴られたさまがあまりに凄まじく、それが伝説になった→青たんすがわら」と理解することにしました(絶対違うから!笑)。

 

 

 

       レディ・ダイアナ。-【7】-

 

「医者は医者でも、歯科医と耳鼻科医が心臓手術とかありえねえだろ!」

 

「あとは長~い問診の果てに、全然違う診断下したりとかさ」

 

「あの人たち、あんなに面白いのになんであんまり売れてないんだろうなあ」

 

「まあ、ちょっとコントの内容がマニアックすぎるからじゃない?」

 

 ダイアナは最初遠慮したが、結局のところ最後、キャデラックの後部席にギルバートと一緒に収まることを承知していた。指導医が無茶振りをし、そのたびに医学生が心臓マッサージを繰り返すのだったが、最後には患者自身が「おまえらいいかげんにしろっ!」と怒って終わるというコントを思いだし――四人は再び大笑いした。他に、ありえない組み合わせの薬を処方するなど、確かに医師や医学生でなければわからないネタが多かったというのは事実である。

 

 ――この日の夜、ギルバートとディックとシェルドンは、ダイアナ・ロリス医師が持つ顔の、別の側面を見た。推測するに、おそらく彼女は病院で医師として働いている時や、レスリングやトライアスロンに挑戦中の時などは、性格の男性的な面が全開になるのだろう。事実、この翌週の月曜には、「あんたたちとコントを見て笑い転げた?そんなことあったかしらね」といった相変わらずの厳しい態度だったといえる。だが、三人はもうそんなことに対してあれこれ思わなくなった。人間関係といったものには、ほとんど必ず理不尽さというものが含まれているものである。それが上司と部下という関係性であれば尚更だった。けれど、仕事が終わったプライヴェートな時間の間まで、ダイアナ・ロリスは怪獣というわけではない――そうわかっただけで、彼らは彼女と格段につきあいやすくなったのである。

 

 このあたりの微妙な空気感というのは、他の医学生たちにもすぐ伝わったようで、ダイアナの態度が変わらず厳しいものであっても、ギルバートにも同じように鋭い質問を浴びせたり、「フォード、次はおまえがやってみろ」と、手術の簡単な部分を任せてくれたりと、彼女は全員に対し一律に接するよう変わったわけである。

 

 この時、三人はもちろん「医局のパーティへ行ったら、あんれまあびっくり!怪獣がなんとも趣味の悪い水玉ワンピースを着て骨付き肉にかぶりついてるじゃござんせんか」などという話は一切しなかった。なんとも不思議なことではあったが、ギルバートもディックもシェルドンも、フォーシーズンズホテルの例のパーティで、ダイアナ・ロリスのことがすっかり好きになっていた。かといって、彼女のプライヴェートな側面を二、三知ったところで――実習時のダイアナの態度が男勝りで居丈高なものであることにはその後も一切変わりはない。だが、彼らは彼女がそんな人間であればこそ、尚のこと好きなのだった。

 

「実際のところ、指導医ってのも大変だよな。オレたち医学生だけじゃなく、言ってみりゃインターンやレジデントのドジだって、最終的には指導医の責任ってことになるわけだから」

 

「ほんと、ストレスの溜まる仕事だよなあ。ダイアナくらいの手術の腕があったら、開業して今の給料以上に儲けられそうなのに……いつまで大学に籍置くつもりなんだろ」

 

 パーティのあった帰り道、ディックとシェルドンとギルバートはそんな話をした。彼女は市内の一等地にある高級住宅街に暮らしており、中世風の素敵な石造りの豪邸に住んでいた。まるでファンタジー映画に出てくる妖精でも住んでいそうな屋敷だったが、彼女は最後、薔薇の絡みついた門の前で手を振っていたわけである。

 

「なんにしても、俺たちが大学卒業して一人前になるくらいまでいてくれるといいんだけどな」

 

 ギルバートがそう言うと、助手席のディックが「マジかよ、ギルバート!」と、信じられないといった顔をして後ろを振り返る。シェルドンも同様に、バックミラー越しにギルバートに視線を送った。

 

「なんだろうな。病院におけるあの女を一切感じさせない相撲取りのような力強いどすこい感と……かと思えば、あんな理解できないワンピースを着てガニ股歩きしながらバイキングを漁ってたり。あんな人間、初めてだ。恐れいったよ――なんて言うんじゃなく、人が何をどう思うかなんて、ダイアナは一切気にしてないんだ。ああいうところ、本当に尊敬する。その点、俺は全然ダメだな。自分がこの場でこんなことを言ったら周囲にこんなふうに影響するだろうとか、変に空気を読みすぎる。言ってみれば、器の小さい凡人ってことだ。かといって、彼女みたいな天才肌の人間になんて到底なれそうもないし……どう頑張っても今の俺じゃせいぜいが秀才クラスで終わるんじゃないかって、なんかそんな気がするくらい。あのダイアナのことを見てるとさ」

 

「へえ。ギルバートにそこまで言わせるとは、あの女、やっぱりただもんじゃねえな」

 

 シェルドンがそう言って口笛を吹くと、ディックも続けて口笛を吹き、そして言った。

 

「医局主催のパーティになんぞ出席したところで、一体なんの懇親になるもんかいな……てっきり最初はそうとばかり思ってたのに、実際は違ったな。なんにしても、いい夜だった」

 

「いや、最高の夜だった!」

 

 ギルバートが言い直すと、シェルドンも笑って繰り返した。

 

「そうだな。確かに最高の夜だった!ホッホーウッ!!」

 

 奇声を発してひとり盛り上がるシェルドンに負けじとばかり、ディックもギルバートもげらげら大声で笑う。何故といって、彼らは三人とも、パーティ会場へダイアナ・ロリスが現れた時には――まるで女装が趣味の上司の見てはいけない姿を見てしまったような、居心地の悪さを感じていたからだ。また、さらには「自分たちは何も知らぬ、存ぜぬ」という振りをして、一度はホテルから逃げ帰ろうとしていたくらいなのだから。

 

「人間ってのは実際、一面を見ただけではわからんもんだよな」

 

 一しきり笑って、その笑いがようやく静まってくると、ディックがそう言った。

 

「今じゃおれ、なんでダイアナに対して、『あんな女と結婚したがる男がこの世に存在するとは思えん』とか、そんなことばっか言ってたのか、自分で自分がわからんくらいだし」

 

「問題はそういうことじゃないのさ。ダイアナに釣り合うほどの男が存在しないということが問題なんだろうよ。本人も、小さい頃から『なんであんたは女じゃなく、男に生まれなかったのか』って言われて育ったっていうことだし……」

 

 ダイアナがちらほら自分の身の上について話したところによると、大体のところ彼女の生育歴というのは、次のようなところだったらしい。オリンピックでメダルを獲得するほどの、心身ともに逞しい父親ではあるが、唯一美人の妻には頭が上がらなかったため――長女の奇妙な怪物的遺伝子は父親から受け継いだものとし、ダイアナの面倒はすべて丸投げにして寄越したのだという。もともと男児の欲しかったこの父は、ダイアナのことを男とまったく変わらないように育てたらしい。その六年後、妹のピッパが生まれると、赤ん坊の頃から丸々太って生まれた長女とは違い、妖精のように小さくて可愛らしいその様子を見、母親は妹のことばかり可愛がって育てたという。

 

『妹のピッパったら、ほんとひどいのよ。「今日、友達が来るけど、お姉ちゃんはわたしのお姉ちゃんじゃなく、赤の他人ってことでよろしくね!」なんて言うんですからね。小さい頃からずっとそう。まったく、可愛いらしいのは容姿だけの憎らしい子よ。母さんが甘やかして育てたから、我が儘放題だし、あの子の学費もわたしのお給料から出てるようなものなんだけど、全然感謝するって態度がないんですものね』

 

 車の後部席で、ダイアナは何気なくそう言っただけだったが、実はそれだけでもギルバートには彼女と話したいと感じることが山ほどあった。『うちの母も、見てくればかり気にする鳥頭なんですよ』とか、『実は俺、家にほとんどいない母に代わって、家政婦に育てられたようなものなんです』とか、そういった類の家族に関することである。

 

(まさか、脳外の病理や手業に関すること以外で、あの女と話したいと感じる事柄が他にでてくるとはな……)

 

 ギルバートはその後も、ディックやシェルドンとイリュージョニストの華麗なショーのことを話したり、<ドクターズ>のコントの物真似をしたりしたのち、再びダイアナ・ロリスのことへ話を戻し――「俺たちのダイアナ最高っ!万歳っ!!」などと笑いつつ、最後に別れるということになった。

 

 シェルドンに屋敷の門の前で降ろしてもらうと、彼は生体認証ののち、鍵を開けて実家のドアをくぐった。まだ夜の十時前のことだったが、一階のフロアはどこもしんとしており、(父さんも母さんも、今日は早く休むことにしたのかな)と、ギルバートはそう思った。

 

 だが、ガレージに続く廊下の奥から、微かに物音が聞こえたような気がして……ギルバートはそちらへ向かうことにした。もし父がいたら、少し話したいことがあったのである。

 

 数段の階段を下り、半地下のようになっている広いガレージのほうへ行ってみると、そこではテレンスが黄のシトロエンのボンネットを開け、何か作業しているところだった。

 

「父さん、今ちょっといい?」

 

「おお、ギルバート……どうした?」

 

 自慢の息子がダークスーツ姿で立っているのを見て、テレンスは少しばかり驚いた。彼は自分の妻が『あなた、今ちょっといい?』と言ったとすれば、その瞬間から動悸がしてきたろうが、相手が実の息子であれば話は別である。

 

「俺さ……先のことはまだわかんないけど、脳外科領域のことにちょっと興味あるっていうか、まだ三回生だけど、一通りあちこち実習に行ってみて――今一番興味あるのが脳外なんだ。でも、父さんは俺に何科の医師でも、好きなのになれって言ってくれたけど……本当は同じ整形外科医になって病院の看板継いでほしいとか、そっちのほうが本音なのかどうか、先にそのあたりのはっきりしたことを知りたくて……」

 

「う~ん。そうだな……」

 

 額にファサッとかかる髪の毛をかきあげると、テレンスは最後、工具箱の中を整理して閉じ、ガレージの片隅にあるガーデンチェアを目で示した。実はここはテレンスの隠れ家のような場所で、彼は休日の午後はここに閉じこもっていることが多い。ガレージには黄色のシトロエンの他に、白のマイバッハ、ブルーのマスタング、赤のランボルギーニ、銀のトランザム、深緑色のベントレーなど……彼が毎週、瞑想でもするように磨きに磨いている、ピカピカの高級車がずらりと並んでいる。

 

「どうやら、父さんとギルの間には誤解があるようだな」

 

 ブロンズのアンティークな椅子に腰かけて、テレンスは笑った。

 

「確かに父さんはな、ギルバートに医者にはなって欲しかったかもしれん。だがな、それは自分の病院を継いで欲しいとかなんとか、そんなことが理由じゃないのさ。ギルバートも、実習に出てるんならわかるだろ?医者って奴は、案外孤独な生き物でな。世間じゃそりゃ、『おエライ先生さま』ってな扱いを受けたりするが、「あいつらは実際のところ、診察と手術以外では何やってんだ?」というその部分だな……そのあたりのことってのは、医者以外の人間には決してわからない。だから父さんはいつか――息子が自分と同じ整形外科医じゃなくてもいい、そのあたりのことを話せる間柄になれればと願っていたという、これはそうした話なんだ」

 

 リーフ模様のガーデンテーブルには、コーヒーマシンが一台置いてあり、テレンスはスイッチを入れるとコーヒーを落としはじめた。ここで心静かに愛車の手入れをし、好きなコーヒーを飲んだり、ちょっとした美味しい食事をするというのが、彼にとっては何よりの息抜きなのだった。

 

「そっか。でもさ、俺の上に兄貴がいるか、優秀な弟でもいればいいけど……もし俺が四流以下の私立医大にも引っかからないような感じで、どうやらこいつに医者は無理らしいってことになったとしたらどうしてた?」

 

 これは、ギルバートにとって極めて重要な問いだった。何故といって、今までにも休日の午後に父が飽きもせず愛車を磨く姿を見ながら――同じことを聞こうとしてどうしてもそう出来ずにきたからである。

 

「まあ、その場合はな……仕方ないだろうな。それに、突然ミュージシャンになりたいだなんだ、ギルバートのほうで強く主張してくることだってあるだろうと、父さんにしたって一応覚悟してたさ。あとは、かの伝統ある素晴らしきフェザーライル校を何かの問題で放校処分になるとか……だがまあ、自分の息子の素晴らしさには、誰より父さん自身が一番驚いている。今の今まで、何かのことで警察に呼びだされるでもなく、学校の先生たちも褒め言葉しか並べない。だから……なんというかまあ、父さんのほうでは時々、おまえに対して申し訳なく思うことさえあったよ」

 

「……なんで?」

 

 この父親の本音の吐露に、ギルバートは心から驚いた。何故といって、彼と母シャーロットの間には、本当の意味での親子の絆のようなものが欠如している。ゆえに、この父からも見捨てられたとすれば自分は一体どうなるのだろう……そうした無意識の揺らぎのようなものを小さな頃から抱えていればこそ、ギルバートは父が望むのだろう、「優等生のいい子」を必死に演じ続けてきたからだ。それを今さら、「もしそうじゃなくても父さんはおまえを愛してたよ」と匂わされても、彼としては了承しがたいものがある。

 

「なんでって、そりゃもちろん父さんにも悪いところはあるが、根本的に言って、母さんがあんなだからさ」

 

(これ以上は自分たちの間で、説明は不要だろう)とばかり、テレンスは軽く肩を竦めてみせる。

 

「まあな。自分で結婚したいと思って結婚した女だし……母さんが天然の家事オンチというか料理オンチで、あまり家庭向きの女でないということは、結婚前から父さんにもわかってたよ。が、まあ、そのあたりのことは家政婦さんを雇うとかすればいいんだし、何も父さんの身のまわりの世話をさせるために結婚するわけじゃないんだから……なんて、結婚前は思ってたんだ。けどまさか、自分の赤ん坊のことまで家政婦まかせにするとは、父さんも想像していなかった。というより、結婚前に父さんが抱いていた母さんの理想像に、その瞬間はっきりヒビが入った。料理も洗濯も掃除もしない……それはまあいいよ。結婚前からわかってたことだから。でも、自分に子供が出来たら、母さんもずっと家にいて、親子三人仲良く暮らしていけるみたいに、ずっとそう思ってたんだがな……」

 

 ギルバートはテレンスの言った言葉以上に、彼が何を言いたいのかを十分理解していた。また、父はこのガレージに医学生時代の友人らと集まることがあるが、そうした時に語られる仲間内の話をこっそり聞き……父がどういった経緯で母と結婚したのかも知っていたのである。

 

 その恋はテレンスの一目惚れではじまり、彼は不器用ながら誠実な人柄によってシャーロット・ドハティを徐々に魅了し、他に何人もいた対抗馬の男たちを最終的に打ち負かしたらしい。だが、そのことを後悔しているわけではなく、その時シャーロットに振られ、他のもっと家庭を大切にするタイプの女性と堅実な結婚をしていれば……息子のギルバートのためにはきっと良かっただろうにと、テレンスはそう言いたかったのだろう。

 

「父さんさ、俺が十歳くらいの時、母さんが子宮筋腫で短い間入院した時のこと、覚えてる?」

 

「ああ。そういや、そんなこともあったっけな……」

 

 テレンスは紙コップをふたり分だすと、そこにコポコポとコーヒーを注いだ。ふたりとも、いつもコーヒーはブラックで飲む。

 

「俺さ、あの時すごく不思議だった。そんなに大した手術じゃない……みたいには聞いてたけど、それでも入院は入院だからね。でも、父さんはいくら一緒に見舞いに行こうって誘っても、頑として来ようとしなかっただろ?最初は父さんのこと、ちょっとどうなんだみたいに思ったけど……最終的にさ、そういう父さんの気持ちが俺にもよくわかったんだ。母さんのダンスパートナーだったエドウィン・カーターのこと、覚えてる?」

 

「あ、ああ……っ」

 

 エドウィン・カーターの名前を聞き、テレンスは若干狼狽した。シャーロット・ドハティに求婚していた男の中で、最終的に二大候補として残ったのが、テレンスとエドウィンだった。だが、彼女と結婚してギルバートという可愛い息子が生まれてからまでも……嫉妬の情に悩まされることになろうとは、彼は当時考えてもみなかったのである。

 

(この子は一体、どこまでのことを知っているのだろう?)そう思い、テレンスとしては極めて落ち着かない気分になってくる。

 

「母さん、入院中のすっぴんの顔を誰それに見られたくないだの、子宮筋腫で手術だなんて恥かしいだかなんだかで、人に一切知らせないで入院したろ?だから俺、毎日必ず病院に行った。いつもは学校から帰ってきても母さんはいないけど、その時だけは独り占めできると思って……だからさ、俺は自分の何かが悪くて母さんがあまり息子を構いつけないんだみたいに思ってたから、そういう親子の距離っていうの?なんかそんなのをこの機会に埋めたいと思ってた。そしたら母さん……割とうんうん俺の話とか聞いてくれて、退院したらもしかしたらこれからはずっと家にいて、普通の母親っぽくなるかもしれないって、俺は少しだけ期待してたんだ。ところが、退院するって日に例のエドウィン・カーターの奴がやって来て、すべておじゃんだよ。母さん、毎日俺が一生懸命する話を聞く時より、すっごく嬉しそうな顔しちゃってさあ。その瞬間、わかったんだ。父さんが言ってたのはコレなんだって。ダンス仲間やセレブな友人やらには一切知らせないでの入院ってことだったけど、それでも誰かしら見舞いには来るかもしれない……父さんはそういう人たちと顔を合わせるのも嫌だし、何よりエドウィン・カーターと鉢合わせるのが一番嫌だったんだろうなって」

 

「あっは……ハッハッハッ!!」

 

 一人息子が、実は誰よりそんな事情について、そんな小さな頃から察知していようとは――テレンスには思いも寄らないことだった。

 

「確かにな……あいつ、父さんと母さんが結婚した翌年には、別の女性と結婚したんだ。母さんはな、結婚する前から言い寄る男どもに思わせ振りな素振りをするのが好きだった。それこそ誰か、ストーカーみたいな変な奴が現れてグサッと刺されても不思議じゃないというくらいな。父さんは、結婚したらこの嫉妬の苦しみからも解放されるとばかり思ってた。それに、エドウィンの奴も結婚したし、これで万々歳だと……ところがだな、彼らはダンスのパートナー自体は解消しなかったんだ。もちろん、母さんに直接聞けばこうは言うよ。『あの人もわたしも結婚してるし、今はただの純粋なダンス・パートナーっていうそれだけよ』ってな。だが、父さんはその疑いを長く捨てられなかった。『本当にそうなのか?』、『あいつらの間にあるのは本当にそれだけなのか?』ってな……」

 

 この話に相応しいのはコーヒーじゃないと思ったのだろう。テレンスは後ろの棚に並ぶ、エンジンオイルの後ろに隠したウィスキーを取りだすと、紙コップに注いだ。

 

「氷やソーダで割りたかったら、キッチンから持ってきてくれ」

 

「いや、いいよ。ストレートでも」

 

 だが、自分が氷やソーダで割りたかったのだろう。テレンスは結局、キッチンから氷とソーダで割ったウィスキーを持ってきた。

 

「さて、肝心のさっきの話の続きだ。とりあえずな、父さんは母さんのことを信じることにした。一応、このことにも理由はいくつかある……実際、相手がエドウィンでも誰でも、不貞の事実らしきものが一度でもはっきりわかったとしたら、父さんも母さんとは暮らしていけなかったろう。簡単にいえばな、エドの奴は恐妻家なのさ」

 

「へえ、そうだったんだ」

 

 ギルバートはウィスキーのソーダ割を飲みながら、そう相槌を打った。このあたりのことも大体、母が友人と話す会話や電話の内容から、ギルバートはずっと前から知っていることである。

 

「ここからは、父さんの想像の域を出ないことではあるが……父さんと違って、エドの奥さんのトーニャのほうは、ダンス大会の応援には毎回必ず駆けつけてるし、母さんとも仲がいい。で、エドウィンの奴はまあ男っぷりも悪くないし、トーニャじゃなくても結婚相手は他にもいたろう。だが、エドはおそらく、金目当てで彼女と結婚したんじゃないかと思うんだ」

 

「うん……なんかそこらへんのことは、母さんのダンス仲間の友人なんかも言ってた気がする。それで、ほんの何年か前だけど、そのトーニャさんが重役に就いてるIT企業の都合でノースルイスのほうへ引っ越していったんだよね?業績の悪化の立て直しだかなんだかで……とにかく、奥さんのトーニャさんの様子ってのがさ、烈火の姉御肌っての?あの様子を見ただけでわかる。あの人、本気で怒りだすと英語から母語のスペイン語になってまくしたてる感じの人だし、もし母さんとエドウィンが隠れてそんな関係を持ってたとしたら――父さんが母さんのことを殴って青タンすがわらにするより、もっと凄絶な地獄がエドウィンを待ってたに違いないよ」

 

「そうなんだ、そうなんだ」

 

 よもや、いつか自分がこんな話を息子相手にすることになろうとは……テレンスには思いも寄らないことだった。だが、何故今までそうと気づかなかったのだろう。ギルバートはとっくに大人になり、こうした話をしても問題ないくらい人間としても成長しているのだ。

 

「父さんはな、結婚後も、母さんは何故エドウィンを選ばなかったかと後悔することがあるんじゃないかと悩んだこともある。本当は、男として本質的に好きなのはあいつのほうなのに、残念ながらしがないダンス講師には大した貯金も給料も経済力もない。だから、総合的に考えて父さんのほうを便宜的に選んだんじゃないか……なんてな。が、まあ、そんなことも今はもう過ぎ去ったことさ。父さんは自分の病院のことで忙しいし、気になる患者のことに集中していれば、大抵のことは誤魔化しがきく。だけど、こんなことは全部父さんと母さんが結婚する前からある問題であって――ギルバート、息子のおまえには何も関係のないことだ。だから、そのことについては本当に申し訳なく思ってるよ」

 

「べつにいいさ。結果オーライっていう意味では、俺は今のところ自分の人生について概ね満足してるわけだし……ただ、ダイアナがもしいなかったとしたら、俺もどうなってたかわかんないよ。結構前のことだけど、小児精神科医の先生の講義で、こんなのがあった。孤児院っていうか、養護施設みたいな場所ではね、子供たちっていうのは、親に代わって自分に愛情を抱いてくれそうな相手にしがみつこうとするものなんだって。もちろん、子供なんて何人もいる中で、職員の数はそれよりずっと少ない。だから、自分だけ特別扱いしてもらうことは出来ないってわかった上で……一生懸命その人に自分をアピールしたり、どうにか振り向いてもらおうと頑張ったり。あからさまというくらいそうした行動を取ったり、その人を自分の独り占めに出来ないってことで我が儘言って暴れたり、癇癪を起こして泣いたり出来る子ほど――実は健全に育つらしい。ところが、『自分だけ特別扱いしてもらうのは無理だから』ってことで、クールな振りして誰にも頼らなかったり、甘えようともしない子供っていうのは……将来問題を起こしやすい傾向にあるらしいよ。その話を聞いた時も思ったんだ。俺は間違いなく後者のタイプだけど、幸いうちにはダイアナがいたから……突然おかしくなって非行に走るでもなく、まあ割と健全に育つことが出来たんじゃないか、なんてさ」

 

「ギルバート……」

 

 何故なのかわからなかったが、ギルバートは涙が出てきた。返すがえすも、実家を出て独り暮らしをはじめたことが悔やまれる。あの時は、今も『ギル坊ちゃま』などと呼ばれ、ダイアナの作ってくれる料理を楽しみに帰る大学生活というのは……何やら恥かしいような気がしたのだ。今、自分は彼女と最後に何を話したのだったかすら覚えていない。彼女が死んだと聞いて以来、ずっと一生懸命思いだそうとしているのだけれど……。

 

「確かに、ダイアナはずっと我が家の太陽だったよ。今、うちにはメアリーが来てくれてて、彼女もすごくいい家政婦ではある。だけど、ダイアナはうちの家政婦なんかじゃなかった。家族だったんだ。それなのに、旦那が借金まみれで苦労してるなんて話、父さんは一度も聞いたことなかったし……」

 

「うん。それに聞いたって、どうせダイアナは家庭には何も問題はないみたいにしか言わなかっただろうしね。それでね、父さん……脳外科の俺の上司がさ、ダイアナ・ロリスって言うんだ」

 

「そうか。時代も随分変わったな。父さんの医学生時代には、女性外科医の上司なんてひとりもいなかったくらいだから。それで、おまえが脳外科医になりたいと思ったことに対して、彼女が何か大きな影響を与えたってことなのか?」

 

 ここで、テレンスは初めて若干眉を曇らせた。自分の息子がもしや、そのちょっと美人の脳外科医に憧れに近い気持ちを持っていることが――脳外科の徒弟になろうという理由なのかと、少しばかり訝しむような顔つきだった。

 

「違うよ」

 

 そう言って、ギルバートは吹きだすようにして笑った。彼には父が考えそうなことが、手にとるようにわかったからである。

 

「そのダイアナ・ロリスっていうのは、医学生が陰でこっそり女怪獣だの、女ゴジラって呼んでるくらい、とにかくおっかないんだよ。俺も他の友達なんかもさ、最初は女の脳外科医だなんて聞いて、医療ドラマに出てくるような美貌の凄腕外科医を想像してたもんだから……まあ、そんなイメージは最初に会った瞬間粉々に砕かれたっていう、そんな感じかな。でさ、俺、こっちのダイアナにはすこぶる受けが悪くて……つい最近っていうか、ついほんのさっきまで、ちょっとした誤解から彼女は俺のことを『女たらしのしょうもない奴』みたいに決めつけてるところがあったわけ。俺が脳外科の徒弟になりたいってことと、女ゴジラの間にはあまり関係はない。だけど、ダイアナが男だからとか女だからとか関係なく、すべての医学生を厳しく仕込もうとする姿勢を見てると……俺だけ、まともにものを教える価値のない奴、みたいな、ずっとそんな態度だったんだ。だけど、そのうちこう思うようになった。ダイアナ・ロリスは手術の腕も大したものだし、指導してもらえるとしたら、他の指導医よりも絶対彼女のほうがいいって。でも、個人的に嫌われてるようだからどうしようと思ってたら……なんか今日、医局主催のパーティみたいのがあって、少し親しくなったんだ。だから、これからは俺のことも頭数に入れたような感じで指導してくれると思うし、だったら俺が将来なりたいと思う専門医は脳外科医だってことに落ち着いたっていうか」

 

「それはもしかして、ダイアナが脳血栓で倒れたこととも関係があったりするのか?」

 

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

 

 ギルバートは父親が作ってくれたハイボールを飲むと、続けて言った。

 

「いや、ダイアナが亡くなる前から、脳外科っていうか、脳内の構造自体に人間の臓器の中では一番興味があった。でも、もうひとりの、俺のことを嫌ってるダイアナの存在があったから、どうしたもんかなと思ってて……実際、なんの専門医になるのか、はっきり決めるまでまだ十分時間はあるしね。けどたぶん、自分の中の直感としては、最終的にそうなるだろうなとは今から思ってるんだ」

 

「そうか……いや、父さんはギルバートが整形外科医にならないのが残念っていうんじゃなく――ただ、脳外科医ってのは大変だぞ。そもそも父さんがヘルニアの専門医として開業したのはな、それで十分儲けが出るという試算がすでに出ていたってことと……あとは医学生だった頃や、インターンやレジデント時代を通して、まあわかってたわけだ。そういう大学病院の中央集権制みたいなものに自分は馴染めないし、父さんは実際、少し落ちこぼれ気味の学生ですらあった。だが、誰しもひとつくらいは何か、得意分野があるもんだ。ギルバートも知ってる、父さんの親友のマイク・オコーネルな。あいつも父さんと大体似たような口で、今は人工股関節置換術に特化したような病院で十分儲けてるし、ユト国中でその分野にかけては一番の名医と言われたりしているわけだ」

 

「うん。俺の割と仲良くしてる奴にさ、自分が手術した結果患者が死んだだの、その後の人生がすっかり狂っただの、そんな責任を負うのは絶対嫌だって奴がいて……でも父親が内科医より外科医のほうが偉い的な、古くさい考えを持ってるらしいんだ。で、そのシェルドンの親父さんってのが心臓外科医で、最終的に息子に自分の病院を継いでもらいたいらしいんだけど、そうなるまでには相当修行を積まなきゃなんないし、さてどうしたもんかってな話をするんだよ。それに比べたら俺、父さんが整形外科医で良かったって、ほんと心からそう思う」

 

「そのシェルドンくんっていうのは……もしかして、ギーガー循環器・心臓血管外科センターの息子さんってことかい?まあ、確かにそりゃ大変だろうな。ギーガー先生はユトランド医学界の名士みたいなものだし、息子さんにかかるプレッシャーも相当なものだろう」

 

「そうなんだ。あと、ディック・デヴィッドソンの奴は、俺があまり魅力を感じないガンの専門医になるつもりらしい。なんか本人の話だと、臨床医っていうより、出来れば医大施設の研究員になりたいみたいなんだよな。ほら、iPS細胞を使ったガン治療の研究をしてるセンターが大学内にあるだろ?そういうことに興味があるらしい。なんにしても、俺が脳外に興味持ったのは……父さんの影響も結構あると思ってて」

 

「父さんのか」

 

 テレンスはウィスキーのソーダ割を飲みつつ笑った。いつかこんなふうに息子と酒を飲みながら医療の話でもしたい……そんなふうに思ってはいたが、こんなに早く実現するとは思ってもみなかった。

 

「うん、そう。ほら、いつだったか忘れたけど、父さん言ってたことあるだろ。腰痛を訴える患者で、何をどうしても治らない患者の場合――患部自体にはもう病気の原因になるものは何もない。それなのに激痛に悩まされるのは、脳の中にその腰痛の痛みをすっかり覚えてる細胞があって、その細胞が痛みをダウンロードすると、患部のほうは治ってるにも関わらず、変わらず激痛を覚えるような場合があるって。それで、その場合は覚醒下手術によってその腰痛の痛みをすっかり覚えてる脳細胞を取り除くしかないって……」

 

「ああ。だが、口で言うのは簡単だがな、相当難しい手術だぞ。なんでって、父さんが説明するまでもないだろうが、人間の脳内には何億という細胞があって、まずはその中から腰痛の元になってるのだろう脳細胞を特定しなけりゃならん。局所性ジストニアっていう、ピアニストやヴァイオリニストが手の震えによって楽器が弾けなくなる、その震えの原因を止めるのに、手の震えを制御する視床細胞を特定したのち、除去することがあるが……下手をすると、まったく別の関係ない正常な細胞や神経を傷つけることだってあるだろうからな。いや、ギルバート。父さんはな、自分の病院の看板を継いで欲しいとかいうことじゃなく、脳外科ってのはあまり賛成できんかもしれん。ほら、今だって、脳外の手術後に意識が戻らず植物状態に……なんていう患者の姿を、ギルバートだってもう何人も見ているだろう?」

 

「俺の見たところ、大体が、そもそも脳梗塞を起こしてかなり時間が経ってるとか、事故で頭部を大きく損傷して、それをどうにか助けようとしてっていう、そういう場合が多いのかなっていう印象だけど……」

 

 ギルバートは、自分の父親の言いたいことが、すでに大体わかっていた。外科医のミスで患者が死ぬより悪いことがあると、そう言いたいのだろうということが。

 

「そうだな。腫瘍外科医であれば、問題はガンの病巣を取り除けるかどうかであって、手術中に患者が死ぬってことはまずない。だが、脳外科医ってのはな……術後に自分のちょっとしたミスの結果がわかって打ちのめされることがある。たとえば、体のどこかに麻痺が残るとか、あとは父さんが考えるにもっとも嫌なのが、手術前は患者の意識は清明だったのに、難しい手術の後に意識が戻ってこないとか、あるいは気違い状態になることだって……」

 

 この時、テレンスは突然にして、自分の意識が医学生時代に呼び戻されるのを感じた。大学病院の輝かしい経歴の脳外科医が、ちょっとしたミスによって患者を意識不明の植物状態にしてしまい……だが、患者家族には「最善を尽くした、やむをえない結果でした」といったように報告がされたのである。いや、医者を長くやっていれば、そうしたことは最低一度か二度はあるであろう……というのがテレンス自身の実感ではある。だが、この二十歳を過ぎても性格に純粋なところの残っている息子は、これからそうした苦悩に直面することになるのだ。もちろん、外科医を目指す以上、避けて通れないことではあるにしても……。

 

「わかってるよ。父さんはさ、仮に九百九十九人の人を何かの病気から救ったとしても……その後千人目の人を手術で死なせたり、あるいは脳外の手術だったらその後意識が戻って来ないような場合もある。そのひとりの人の死や悲劇を、残り九百九十九人救っていたにせよ贖えるものではないっていう、医大の講義で必ず言われることを言いたいってことだよね?」

 

「まあ、簡単につづめて言えばそういうことになるかな」

 

「うん……俺さ、そのダイアナ・ロリスって指導医に興味あるのは、そういうことも含めてなんだ。ええと、こんなこと言っちゃなんだけど、ロリス先生は身長が180ばかりもあって、体重のほうもなんかすごくどっしりしてる。だから、仕事でつらいことがあっても、恋人に救いを求めるとか、そういうタイプには全然見えない。それなのに毎日毎日アホな医学生から陰でこっそり怪獣なんて呼ばれつつ、インターンやらレジデントの上に立つ人間としての責任もあって……それで、結局患者が助からないなんてことがあった場合――どうやってこの人は乗り越えてるんだろうなと思ったんだ。まあ、馬鹿食いっていうのはあの体型からしてあるのは間違いないんだけど……俺もロリス医師みたいにレスリングとトライアスロンにでも励めば、あの人みたいな頑丈な怪物に……じゃない。強靭な精神の持ち主になれるのかなと思ったりして」

 

 ここで、テレンスは急に言い方を変えた息子のことを笑った。医学生時代、自分にもそんな、本人が近くにいないにも関わらず、何故か聞いているのではないか、知っているのではないか……そのように気にしてしまう、怖い指導医がいたものだった。

 

(そうか。この子には、自分たちの将来について話し合える友人もいれば、医師の手本に出来るような先生もすでに存在しているんだ。何もわざわざ俺が老婆心からあれこれ言って、今から余計な知恵をつけるような必要は一切ない……)

 

「そうか。父さんもこんなこと言っちゃなんだが、レスリングにトライアスロンか。そりゃ、男顔負けの脳外科医にもなるはずだよな。だが、ギルバートだって、パブリックスクール時代はフェンシングをやってたわけだし……」

 

「いや、あんなフェンシングの剣なんかじゃ、ダイアナ・ロリスにはさっぱり刃が立たないよ。かといって今からレスリングっていうのもなんだし……あとはトライアスロンか。なんか全然気が進まないけど、とりあえず今からもっと体力をつける必要だけはある気がしてる。じゃないとたぶん、彼女からせっかくチャンスを与えてもらっても、「あら、あんた結局その程度なの」なんてことで終わっちゃいそうな気がしてさ」

 

「ほうほう。なるほど」

 

 息子と大人同士の男として、この時色々話せたことがテレンスは嬉しかった。実際、彼の息子のギルバートはこれから、整形外科医が患者の手や足を切り落としたくはないが、足を切断しなければ命が助からない……といった、そうした厳しい選択についても、ERにおいて学んでいくに違いない。いや、もうすでに交通事故のケースなどで、自分が直接関わっていなくても、そうした患者とは遭遇しているに違いなかった。

 

(本当に、俺は金をだすこと以外において、ギルバートには何もしてやれなかったな……)

 

 それにも関わらず、ここまで息子が立派に成長したことに対し、テレンスはあらためて感慨深いものを感じていた。ギルバートのほうでは、「父親は優等生以外の自分は決して受けつけまい」として、今まで彼にとっての息子の理想像であろうと思われる姿を演じてきたのだったが、実は彼の本音というのはこちらであった。テレンス自身、親の与えるプレッシャーに耐えつつ成長してきたので――ギルバートがもし、パブリックスクール時代に問題を起こすなどして帰ってきても、彼は少しも息子を叱りつけはしなかったことだろう。また、先ほど「今ちょっといい?」と言ったギルバートの自分に対する話というのが……仮に「ミュージシャンになりたい」とか、「医者ではなく、別の職業に就くのに学部変更したい」など、そうしたものであったにしても――ギルバートがどの程度そのことについて本気なのか、納得できたとすれば、最終的に息子の言うとおりにはしたに違いなかった。

 

 何故といって、息子のギルバートは今に至るまで、テレンスにとって本当に手のかからない、すべての親が欲しがるような理想の息子だったからである。そろそろ何かひとつくらい問題を起こしたとしてもなんら不思議でないし、今までの状況にしてからが彼にとっては<奇跡>以外の何ものでもなかったと言ってよい。

 

 またこの夜、ギルバートのほうでは父の愛情がそのくらいにまで深いものであるとは気づかなかったが、大学病院で実習をはじめるようになってから――彼にとって父テレンスの偉大さというのは日々増してゆくばかりだったといえる。時折(父さんもこんなに大変だったのかな……)と実感することで、『医者の仕事で忙しく、金以外のことではあまり世話になった記憶がない』といったことは、ギルバートの中ではもっと大きな川の奔流に押し流され、最早どうでもいいことと化していたといってよいほどに

 

 この時、テレンスとギルバートは、初めて親子で酒を酌み交わしつつ、本音で語りあったのだが――こののち、自然と定期的に半地下のガレージで、彼らは医学界の今後の未来についてや、今話題になっている最先端の医療技術について、あるいはギルバートが医学生としてその時々で悩んでいることなど……親子というよりは、まるで親友のような距離の近さで、時に大笑いしながら語りあうということになっていく。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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