【黄金の階段】エドワード・バーン=ジョーンズ
今回ちょっと本文長めなので、あんまし前文に文字数使えないっていうことで……どうしようかなって思ったり(^^;)
前回の前文で、「詩神(ミューズ)とは何者か」といったことに軽く触れたような気がするんですけど、エミリー・ディキンスンはこれを「大勢の客」といったように表現しています。また、フェルナンド・ペソアの元を訪れていた詩神にもそうした性質があったみたいですよね。
>>独りで私はいられない
大勢客が訪れるから
記録のないこの仲間たちには
鍵は役立たない
かれらは着物もない 名前もない
年鑑もない 気候もない
ただ小人のように
雑多な家がある
かれらが来るのは
心のなかの急使で知れるが
去るのはわからない
彼らは決して去らないから
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
ペソアの場合は、この<詩神>にそれぞれ人格があったと思うのですが、言葉というのは数え切れないほどたくさんあるという意味では「大勢」であり、ディキンスンにとってそれをひとりに集約したとすれば「マスター」と呼んでいい存在だったのではないでしょうか。
ディキンスンの残した手紙に「マスター・レター」というのがありまして、結局のところ投函しなかったらしいのですが、この手紙の中で「マスター」と呼ばれている人物がいます。架空の人物、あるいはおそらく実在していて、投函するつもりだったらしい手紙や……それが「誰か」というのは謎なのですが、ディキンスンのちょっと変わった恋愛詩の相手っていうのは、わたし個人はその全員が<詩神(ミューズ)>だったのではないかといったように想像しています(^^;)
彼女が恋していたワズワース牧師や、あるいはサミュエル・ボウルズなど、マスターの候補者はいるわけですが、結局のところ詩神って目に見えませんからね(天使や悪魔と同じく霊的存在なので)。そこで目に見える肉体を備えた人物にそのイメージを覆い被せることによって、彼女は優れた詩を描いた……ということなのではないでしょうか。
ペソアの場合は、これはもう憑依現象といっていいと思います(笑)ある人格を備えた詩神(ミューズ)とも呼ぶべき存在が憑依することによって、異名をいくつも使って詩や文章を書いています。つまり、その詩人ごとに生い立ちや性格などが異なり、詩や文章のスタイルもそれぞれ異なるということですよね。
もちろん、ディキンスンもそうした詩神(ミューズ)の憑依現象とでも呼ぶべきことがあったからこそ、1700篇以上もの詩を残し、後世の人々からペソア同様「天才」と呼ばれ、その詩人としての地位を不動のものとしたわけです。
また、ディキンスンはこの詩神(ミューズ)のことを「不滅」と呼んでもいるわけですが、これ以上の言葉はわたしにも見つからないような気がします(^^;)
今回はあんまし文字数入れられないもので、何か説明不足な文章で申し訳ないのですが(汗)、ディキンスンファンの方やペソアファンの方にはある程度わかっていただけるかな~なんて。。。
ではでは、次回は確か、セスvsアンディくんの第二ラウンドだったっけな~といったように記憶してます(笑)
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【18】-
とはいえ、この二学期、アンソニーはある事件をきっかけにして、危うく停学処分を受けそうになった。その事の起こりはこうである。
歴史の授業を受けている最中、ノートを破った切れ端がアンディの席にまで届いた。クラスのほうは普段、Ⅰ組とⅡ組とに別れているのだが、Ⅰ組のほうにはザックがおり、Ⅱ組のほうにアンディやアーサー、それにアンソニーがいた。歴史担当のベンジャミン・アダムスは生徒が眠くなる授業をするのを極めて得意としており、アンソニーなどは「不眠症患者にベン先生の授業のテープを送ったら、即日ぐっすり眠れるようになるだろう」と言っているほどだった。ゆえにこの、いかにも真面目一本やりで単調な話し方のアダムスが黒板にものを書く時、生徒たちは眠気防止のため、何やかやの手紙のやりとりをするのが常であった。
アンディは一番後ろの、窓際の席にいるため――生徒たちがアダムスの目を盗んでは一瞬くるりと後ろを振り返り、また元通り真面目にノートを取る振りをする姿というのがよく見えた。そして最後、自分の元にまでそのノートの切れ端が届いてみると、危うくアンディは大声で吹きだしそうになった。しかもその場面を他でもないベンジャミン・アダムスにばっちり見られてしまったのである。
「何がそんなにおかしいのかね、フィッシャーくん」
「いえ、なんでもありません、アダムス先生」
だが、時すでに遅し。アンディが何かを机の中に隠そうとするのを、分厚い眼鏡をかけたアダムスが見逃すはずもなく――彼は、地図などを指し示す時に使う棒を手にしたまま、つかつかとアンディの元までやって来た。
「今、一体何を隠したのかね。見せなさい」
「なんでもないんです、先生。本当に……」
(こんなもの、死んでも先生には見せられない)
というのがアンディの本音ではあった。そこでどうにかして一番前の廊下側の席にいるアンソニーから回ってきた紙切れを手の中で握り潰そうとした。だがこの時アダムスはこう心に決めていたのである。
(生徒たちが時折、わしが黒板に向かっているのをいいことに手紙や落書きなんかをやり取りしているらしいとは知っている。今日こそ実にいい機会だ。これを見せしめにして今後同じことが起きたらどうなるかということを、思い知らせてやる)
アンディは最後まで右の握り拳を開こうとはしなかったが、アダムスは赤毛の奇妙な髪型を振り乱し、どうにかして三十六歳も年下の生徒の手をこじ開けこうと頑張った。結果、アダムスのこめかみには青い血管が浮き上がる形となったが、その紙切れを見た瞬間――彼のその血管はさらに大きく膨らむことになった。
「アンドリュー・フィッシャー!!放課後に居残って百行清書!!いいかね!?」
ぐしゃぐしゃになった紙片をベンジャミン・アダムスが開いてみると、そこにはなんと――女物のブラジャーとパンティ、それに網タイツをはいたアダムスが鞭を振り回している姿が漫画風に描かれていたのだった。しかも上のほうには「鞭を振り振りチーパッパ!」などという言葉まで付け加えられている。
最初、アンソニーは女物のパンティをはいた全裸のアダムス教師の絵を描き後ろへ回したのだが、それを受けとった生徒が次にブラジャーを描き加え、さらに次の生徒が手に鞭を持たせ、また何番目かに受け取った生徒が網タイツをはかせ――などとやっているうちに最後、アンディの元にまでほぼ完成形のベンジャミン・アダムス御乱心のお姿なるものが回ってきたというわけである。
「いやあ、悪かったなあ、アンディ」
「アダムス先生もさ、ちょっと考えりゃわかりそうなもんなのにな。アンディは前の生徒が描いたものを最後に受けとったに過ぎないとか、そういうことがさ」
「まあ、しょうがないよ。笑いを堪えきれなかった僕も悪かったんだから」
「しっかし、あの絵は秀逸だったよなあ。俺もアンディと百行清書の罰を受けてもいいから、アダムス先生あれ返してくんないかな」
ここでまた何人かの生徒がどっと大笑いし、アンソニーや最終的にアダムス先生の絵がどうなったかを知らない生徒がベンジャミン・アダムス御乱心の最終形態を知りたがり――再び先生の素晴らしい漫画絵を復元させたのであった。
「おいおい、ひどいな。俺は奴にパンティ一枚しかはかせなかったってのに」
「寒そうだったから、僕がブラジャーを着せてやったのさ」
「そうそう。俺の描き加えた網タイツで保温効果がさらに上がったはずだぜ」
「ちょうどいい具合に鞭をもたせるのにいい角度に手が上がってたからな」
「僕は裸足じゃバランスが悪いから、ハイヒールをはかせてやったよ」
休憩時間の間、生徒らはこんなことを話しては大笑いした。とはいえ、ひとりだけ罰を受けることになったアンディに対してはみな同情的で、放課後になると「この埋め合わせは必ずするからな」などと言っては、部活動へ出ていったのである。
百行清書などという古くさい罰をアンディが食らうのは、これが初めてのことだった。最後のほうは流石に指が痺れてきたが、アンディはソフィおばさんのことを思うと、途中のつらさをどうにか克服できたかもしれない。というより、束の間楽しい瞬間さえあった。だが、歴史の成績についてアンディは、一年級の頃より常にAプラスであったとはいえ、今学期はもしかしたらA、もしくはAマイナスかもしれないと心の中で溜息を着いた。教師にもよるのだが、正式なテストなどよりも普段の授業態度によって成績表の評価をつけるタイプの先生がおり、ベンジャミン・アダムスは明らかにそちらのタイプであった。つまり、テストの点数で仮に100点を取ったとしても、普段の授業態度が悪ければBくらいの成績で終わる可能性もあるということである。
(他の歴史の先生はみんな好きなタイプの、話せる先生ばかりなのに……唯一アダムス先生だけはな。あの先生、いまだにユトレイシア大の黒い角帽に法衣を着て寮内をうろつくことのある変人だってだけじゃなく、同じ教師連からも堅物として倦厭されてるって話だし。なんにしても、みんながもう一度描いたアダムス先生の絵をもらえたのは良かった。もし今学期の歴史の成績でAプラスをもらえなかったとしたら、それはかくかくしかじかの理由によると、僕はソフィおばさんに説明できるだろうから……)
アンディは手紙に同封された<ベンジャミン・アダムス先生御乱心の様子>の絵を見て、ソフィがきっと大笑いするに違いないと思うと愉快だった。どの道ソフィは自分の成績がすべてCやDなどしか並んでいなかったとしても、「次に頑張ればいいわよ」くらいにしか言わないと知っている。だがいまやアンディには、これから先何年もかかる壮大な夢があった。ユトレイシア国立大学を卒業したという肩書きは、将来立派な職に就き、ソフィに十分楽な暮らしをさせてやれるだけの切り札となるだろう。そう思うとアンディは勉強にも熱が入ったが、それでも四番以上の成績にはどうしてもなれないという歯痒さを噛み締めてもいた。
こういう時ふと、夢想の中にソフィが現れるということがアンディにはよくあった。そして彼女は口を開いてこう言うのである。「五十二名もいる生徒の中で四番だなんて凄いじゃない」、「国内一の名門校に息子が通ってるってだけでも、おばさんとても嬉しいわ」……といったようなことを。こうした言葉は過去に実際、アンディが言われたことのある科白ではある。だが以前と決定的に違うのは、今ではそうした夢想の中に性的な要素が含まれているということだった。彼女が彼の名前を呼ぶ時、そこにはどこか艶かしいような優しさが含まれている。そしてキスして欲しいというように彼のことを誘った。唇だけではなく、ソフィの胸――というよりも、胸の谷間の白い肌に浮き上がった青い静脈もまた、彼に優しく誘いをかけた。「いつか、わたしを貴方のものにしてちょうだい」というように……。
アンディはこうした夢想にどっぷりと耽りつつ百行清書をこなしていたため、誰もいない教室の入口に、一学年上の生徒であるデイモン・アシュクロフトが立っていることに気づかなかった。彼はチェスの名手であるだけでなく、美少年として校内で非常に目立つ存在であり、一部では「男も女もどっちでもイケるらしい」という噂まで立っている少年だった。ちなみに父親はユトランド共和国の現国防大臣を務めており、本人は将来的には政治家になるらしいという専らの噂であった。
「あの人、ゆくゆくはダミアンになるつもりらしいよ」
西階段の脇にある非常口でアンソニーが煙草を吸っていると、そこにデイモン・アシュクロフトが一度やって来たことがあった。彼は一本煙草を吸うと、どうということもない世間話を下級生にひとつふたつばかりしていなくなったのだが――そのあとにアンソニーがポツリとそんなことを言ったのである。
「えっと、でもあの人の名前はダミアンじゃなくて……」
と、そこまで言いかけて、アンディは口を噤んだ。彼は仲間内では<アッシュ>と呼ばれており、一度教師がデイモンとファーストネームで呼んだところ、物凄い目で睨んで相手教師を黙らせたというのは有名な話だったからである。
「あー、そっか。アンディはホラー映画なんて見なさそうだもんな。ほら、ホラー映画に『オーメン』ってのがあるじゃん。あれに出てくるダミアンくんが世界の政治を後ろから操ろうとしてたのと同じく、アッシュ先輩はユトランド共和国の政治を裏で牛耳りたいらしい。で、目ぼしい政治家とか実業家の息子なんかに声をかけてさ、我がフェザーライル校の闇の組織といわれるダークフェザーテンプルに誘うんだって。会の会員として認められると、夜中に裏の校庭にある秘密の洞窟で会合を行ったりするらしいよ。で、仲間同士で絆を強めあい、ユトランド共和国を将来的にどう牛耳っていったらいいかとか、そんな相談をするんだって」
この時アンソニーの話を聞いていて、アンディが一番驚いたのが――ネイサン・ハートフォードが卒業する前までこの闇の会の会長を務めていたという話だったかもしれない。
「なんで俺がこんな話を知ってるかっていうとさ、ここで煙草を吸ってると時々……今みたいに先輩たちの誰かがいることがあって、それで小耳に挟んだってわけ」
確かにアンディがアンソニーにつきあっていると、他の隠れ喫煙者たちがここへやって来ることがあった。そして煙草を吸おうとしないアンディのことを奇妙な目線で眺めたり、「副流煙で肺ガンになるなよ」などと笑いながら去っていったりしたものである。
アンディが西階段の非常口そばでデイモン・アシュクロフトと出会ったのはただ一度きりのことではあったが、チェスを通して結構会話していたため、先輩の中でも割と親しい部類に彼のことを数えてもいいはずであった。もっとも、彼には一見親しくなったように思えて、底の知れない何かを他人に感じさせるところがあったため、アンディは彼のことを「割と親しい先輩」とは、口に出しては言えない気がしていたのだが……。
教室の窓から西日の差す中、アンディが百行清書に打ち込んでいると、不意に<アッシュ>ことデイモン・アシュクロフトがそば近くに寄ってきた。だが最初、アンディはあまりに自分の夢想に夢中になっていたため、彼がそばに近づいてきたことにまるで気づかなかった。
「やあ、君らしくもなく一体なんの罰を受けたというんだい?」
もし目を閉じて聞いたなら、男とも女ともつかない甘い声で、デイモン・アシュクロフトは話しかけてきた。黒い髪に黒曜石のような瞳をした彼は、西日の中でギリシャ神話の美少年の像か何かのように見えたものである。
「これは、その……」
ソフィとはまたまったく別の美の塊が近づいてきたことに、気構えが出来てなかった分、アンディは狼狽した。チェスの勝負をしている時には、こうした彼の美貌にアンディが惑わされることはない。だが今彼は心理的にあまりに無防備だった。
「まあ、歴史の時間にちょっとやらかしましてね。アダムス先生の素敵な似顔絵が僕のところまで回ってきた時、ちょうど運悪く先生に見つかってしまったというか……」
「ふうん。あの老いぼれの授業はさぞかし退屈だろうね。僕もニ学年の時はあいつの睡眠授業に随分やられたよ。時折、こうさ、シャープペンシルの先で自分の指先を突き刺してやらないと、どうにも目蓋が重くてしょうがなかった。しかも本人にはどこか、それを楽しんでるような節さえあるんだからな。噂によると奴さん、閻魔帳に生徒ひとりひとりの相当細かいことを書きつけてるらしいぜ。『デイモン・アシュクロフトの奴は生意気だ。口では自分を教師として敬いながら、目では軽蔑しきってやがる。こんな生徒はテストの点数がいかによくともAプラスなぞ絶対につけてやるものか』――というわけで、あいつが歴史担当の時、僕の成績はいつもAマイナスだった。百点を取ってさえそうだったんだから、あいつはまったくカス以下の存在だよ」
「アダムス先生の閻魔帳を実際に見たことがあるような口ぶりですね」
「もちろんあるとも」と、デイモンはアンディの机に片手をかけ、もう一方の肩を竦めて言った。「フェザーライルの警備は相当な旧式だからな。生徒のことをそれだけ信頼してるってわけだ。そこで僕はだね、夜中に寮をこっそり抜けだし、職員室のアダムスの机を開けてその閻魔帳を見たってわけさ。他の生徒の記述なんかもパラパラ読んで気づいたんだが、奴さんは目が節穴なんだな。たとえば――これはあくまでもたとえばということだが、君の友達のアンソニー・ワイルが一見成績のよろしくないワルのように見えて、実は光るところを持った生徒だとか、あいつにはそういうことを見抜く才覚がまるでないんだ。あんなに四角四面で判子を鉄槌か何かみたいにまったく同じところに押せる人間も珍しい。まあ、そんなわけだからあんな低脳に百行清書を命じられたからって、何もめげることはないよ」
「僕もたぶん……今学期の成績は仮にテストで百点を取ったとしても、いいとこいってAマイナスという気がします。だって、こんなものをアダムス先生に見つかってしまったんですから」
アンディは最初、まったく見せるつもりのなかったもの――ベンジャミン・アダムス御乱心の様子――の漫画絵を思わずデイモンに渡していた。途端、哄笑がデイモンの喉から迸り出、アンディもいささか驚いてしまった。もしかしたら意外に彼は笑い上戸なのかもしれない。
「なんだ、これ。最高じゃないか、フィッシャーくん。これを三学年のみんなにも……いや、あいつの睡眠授業に苦しめられた全生徒に見せてやりたいよ。なんだったらネットで流してみるとか」
「流石にそれは駄目ですよ。これはあくまで内輪受けを狙ったもの、アダムス先生の睡眠授業を笑いで紛らわすために描かれたものなんですから」
「確かにそうだな。第一、もしそんなことをしたら君がいの一番に疑われて、今度は百行清書なんかじゃ到底済まない重い罰を受けそうだもんな。なんにしても僕はね、フィッシャーくん、君に個人的な話があったのさ」
「個人的な話、ですか」
アンディは少しびっくりして、あらためてデイモン・アシュクロフトの顔を見上げた。短いのに、どこか女のような黒い髪をゆらめかせ、彼はどこか魅惑的に――というか、見ようによっては悪魔的に――微笑んでいた。
「君、最近少し変わったんじゃないかい?」
デイモンのような美少年にそう問われ、アンディはかなりのところドキリとした。アンディにとってここ最近の一番の変化といえば、それは何よりも性的なことだった。性的な目覚め……それはアンディの場合かなり遅かったと言えるだろう。アンソニー・ワイルの場合は周囲の環境が悪かったにせよ、彼はかなり早く、八歳の時にはそのことに目覚めていた。ところがアンディの場合、例のはしかの病気を境に、突然第二次性徴がはじまったようなところがあり、あの時と同じような清らかな気持ちでこれからもソフィと接していきたいという気持ちと、それ以後に抱いた義母に対する性的思いの狭間で引き裂かれ、苦しんでいたのだった。いや、苦しんでいたなどといっても、それは多分に甘いところのある、甘くて苦い、複雑な味のするものではあったのだが。
「どうして、先輩にそんなことがわかるんですか。第一、学年も違うのに……」
「そりゃわかるさ」と、事もなげにデイモンは言った。「君は僕同様、どちらかといえば目立つ生徒だ。チェスのことでもそうだし、テニスのことでもそうだね。それにルックスもいい。そして学年は違っても、僕らはスポーツや何かを通して時々一緒になるし、食堂なんかでも顔を合わせる……君もそうだろうけど、そういう時に思わず視線が惹きつけられる生徒っていうのはいるものさ。僕の見たところ、一学年じゃ君が一番だね。ザカリアスもいい奴ではあるよ。でも僕は彼みたいな生徒をわざわざ――闇の会に誘いたいとまでは思わない」
自分が思った以上にデイモン・アシュクロフトから買われていると知って、アンディは驚くと同時に嬉しかった。そしてその嬉しさにはどこか、ソフィに褒められた時にも似た、甘美な響きが入り混じっていたのである。
「……闇の会って、ネイサン先輩が卒業するまでは彼が会長だったっていう……」
「そうなんだ。あの人、一見いかにも穏やかそうでさ、同級生受けも下級生受けも教師受けもいいって人だったけど――ああ見えて結構怖い人だったんだぜ。僕は彼の指名を受けて今は闇の生徒会の会長なんてのをやってるけど、ネイサン先輩に比べたら、まあ僕なんかまだまだひよっ子だね。君宛の郵便受けのところに正式な会への招待状を挟んでおいたから、まあ気が向いたら来てくれ」
アンディは百行清書をすでに終えてはいたが、デイモン・アシュクロフトがいなくなってからもⅡ組の教室で暫くぼんやりしていた。おそらく、闇の生徒会から声がかかるなど、とても光栄かつ名誉なことに違いなかったが、なんとなく部活動以外に厄介な活動事が増えたようにも思え、アンディは鉛筆を器用にくるくる回しながら(どうしたものかな)と考えていたのである。
(いや、ダークフェザーテンプルとやらには、僕も興味はある。けど、夜中に抜け出して裏の校庭で落ち合うだなんて、本当にそんなことが出来るんだろうか。もちろん、同室者がふたりとも会のメンバーだっていうんならいい。けど、アーサーは僕が夜にこっそり外へ出たりしたら、三度目あたりには「自分の良心にかけて先生に言わないわけにいかない」といったことを口にしだすだろう。まあ、そうした細かいことは後でまた考えるとして、僕はまず今日はこの百行清書に反省文を添えてアダムス先生のとこへ持ってかなきゃだな)
アンディは西日の完全な美しさと魔力が教室から去ってのち、首をコキコキ鳴らしたり、肩のあたりを手で揉んだりしながらⅡ組のクラスを出ていった。これからテニス部へ直行し、遅れた理由を部長や顧問の先生に説明せねばならない。おそらく級友のひとりがすでにその旨報告してくれているに違いないが、アンディにしてみれば百行清書などまったく時間の無駄以外の何ものでもなかった。他校との練習試合も近いことだし、この時間をテニスの練習に当てることが出来たほうが、どれほど有意義なことだったろうと、つくづくそう感じる。
そしてアンディはこの時、まったく気づかなかった。気づいたのは部活動を終えてシャワーを浴び、食事を済ませたあと、自習室で勉強したのちのことである。部屋でソフィおばさん宛てに手紙を書き、最後に例のアダムス氏の滑稽な漫画絵を同封しようとして、それがなくなっていることに気づいたのだ。
アンディは教科書という教科書、ノートというノートを引っくり返したが、やはり例の漫画絵は見つからなかった。教室へ引き返し、体育館へと続く廊下を辿ってみたりもしたが、やはりないものはない。無論、ベンジャミン・アダムス御乱心の体などアンディにとって何がなんでもなくては困るという類のものではない。他の生徒、あるいは教師が拾ったにしても、「ぷっ」と笑ってから他のみんなにも見せるといった程度で被害は食い止められるに違いなかった。
だが、結果としてその漫画絵はインターネットの世界に流出してしまったのである。それも「名門校の破廉恥教師の姿」というタイトルで、私立校をバッシングしている系統のホームページで画像がアップされてしまった。「変態!」、「絶対コイツ独身だろ」、「女装癖のある教師、キモい」、「これが我が国最高と言われる私立校の教師の姿」などなど、ひどい書き込みがそのあとには長く続いていた。
もちろん、アンディはそんなことをまったく知らずに、その後の一か月ほどを過ごしていた。そして学期末テストも終わり、あとは春休みの訪れを待つばかり……という頃になって、突然校長室へ呼ばれたのである。この時アンディはとても上機嫌で、何か良いことのためにアームストロング先生は自分のことを呼んだのだろうという気がしていた。アンディはこの校長と実に気が合い、アームストロングは全校生徒を折に触れ、順に自分の部屋へ呼ぶのだったが、アンディはこの居心地のいい場所で美味しいスコーンや紅茶を御馳走になったといったような、楽しい記憶しかなかったのである。
ところが、校長室に入ってみると、アームストロングは机の上で気難しい顔をして手を組み合わせており、何より、すぐその脇に顔が青ざめているのと同時に、どこか朱が差してもいるような顔のベンジャミン・アダムスが控えていたことで――アンディもまたサッと顔を深刻な表情に変えるということになったのである。
「すまないが、インターネットのこちらの画像を見てもらえるかね、フィッシャーくん」
青いスーツ姿の校長は、マホガニー製の机にのったノートパソコンを、アンディにも見えるようくるりと回転させた。アンディは一瞬「あっ!」と息を飲んだ。今度ばかりは流石に笑いなど、少しもこみ上げては来なかった。
「ぼ、僕はね、フィッシャーくん」と、すっかり狼狽した様子でアダムスは言った。「確かにこんなことも今学期、あるにはあったが、君にはちゃんとAプラスの成績をつけたよ。君がまさか、罰のことを恨みに思って、こんなことをするなどとは、夢にも思ってみなかった」
「違います、僕じゃありません、アダムス先生。そりゃ百行清書は面倒でしたし、こんなことで手首を痛めてテニスが出来なくなったらどうしてくれるとか、そんなことを少しくらいは思ったにしても……だからって僕は、匿名でこんな卑劣な真似をしたりはしません」
アンディは自身の身の潔白を証明するため、目に力を込めてアームストロング校長とベンジャミン・アダムスとを見返した。目を逸らして狼狽したりすれば、それこそ犯してもいない罪を認めることになると、そう思ったのである。
そうして三者は数秒の間見つめあったままでいたのだが、最初に視線を外したのはベンジャミン・アダムスであった。彼は心底ほっとしたような顔をして吐息を洩らし、額の汗を拭っていた。
「いいんです、校長――僕はね、自分が信頼してる生徒に裏切られたことが一番ショックだったんですよ。フィッシャーくんは普段の素行もいいし、他の生徒とは明らかに出来の違う子です。そういう自分が見込むところのある生徒に裏切られたというんでないのなら、別に僕は構わない。もっともフィッシャーくん、懺悔するなら今のうちでもあるがね。これから、一体誰がこういうことをしたのか、調査の手が入ることになっているものだから」
「調査の手って?」
この時アンディは何故だか良心の痛むものを感じていた。確かに、あの漫画絵を再度復元したものを紛失したのは事実ではある。だがそうしたことではなく、自分はもしやこの堅物の教師に対して誤った心象を抱いていたのではあるまいかという気がして、良心が痛んだのである。
「事と次第によっては警察に調査してもらい、犯人を特定することになるかもわからないということだ。もしうちの生徒がこの画像を投稿したというのなら、IPアドレス――つまり、パソコンの住所みたいなものがだね、うちから送信されたということがわかるはずなんだよ。明日、全校生徒を集めてわたしはこの話をして犯人は名のりをあげるようにと促すつもりだ。何分、このことを知らせてきたのは、我が校のOBに当たる先輩たちなのだよ。名門としての誇りを保ってきたフェザーライルも落ちたものだと、みな一様に落胆していてね……その手前もあってこの件は、もしかしたら厳罰に処すということになるかもしれない」
「あの、僕……確かに先生の絵を失くしはしました。ええと、非常に言いずらいのですが、みんながあの絵をもう一度描いて僕にくれたというか……でも僕がその日寮の自分の部屋へ戻ってみると、なかったんです。僕のおぼろげな記憶としては、歴史のノートに挟んだはずだというくらいのもので……何分百行清書のあとで疲れてもいましたし、今はもう記憶のほうも相当曖昧なんです。ただ……」
アンディはここでハッとした。確か自分はその前に、デイモン・アシュクロフトにアダムス先生の絵を見せたのだ。そして彼は言っていなかったか?この画像は是非ネットにでも流すべきだといったようなことを。
「ただ、なんだね?」と、アームストロングはいつになく厳しく強い口調で言った。アンディは尊敬する校長先生からこんな態度で当たられたことがなかっただけに、なおのことつらいものを感じた。「もし君が誰か庇っている人間がいるというのなら、ここで今すぐ名前を挙げたまえ。紳士らしく正直に最初から自分の罪を告白するというのならばいざ知らず、最後に言い逃れが出来なくなってから白状する……そんな生徒は我がフェザーライルに相応しくない。即刻退学してもらうということになるだろう」
「そんな……っ!!」
今となってはアンディは、胸ポケットからハンカチを取りだし、額を拭っているアダムスなどより、普段から親しみと尊敬の念を感じているアームストロング校長のほうがよほど恐ろしいように感じていた。校長室に最初足を踏み入れた時は、まったくこの真逆だったような気がするのだが。
「厳しすぎるというのかね?わたしはね、フィッシャーくん。生徒が教師の物真似をしたり、おかしな似顔絵を描いたりといったことは、まあどこの学校にでも普通にあることだと考えているよ。だが、インターネットに流出させて我々教師を生徒が笑いものにするというのは決してあってはならないことだと思っている。わたし自身がもし教師としてそれに類することをされたとすればだ、非常に傷つくし、「あんなことはすぐみんな忘れるさ」といかに自分に言い聞かせようとも、暫くの間はそのことが頭を離れんだろうね。犯人がすぐ自分から名乗りをあげてくれればいいが……そうでない場合、停学処分とするところでも退学とせざるをえないかもしれないんだ」
「……………」
アンディは言葉を失った。そして、あの紙を本当に失くしたかどうか、もう一度探してみるのと同時に、記憶のほうを丹念に甦らせてみようと思うといった約束を、校長とアダムスの双方と交わしたのであった。
アダムス先生はアンディと一緒に校長の邸宅を出ると、松の林を抜けて寮のほうへと戻った。ベンジャミン・アダムスはハウスマスターのひとりでもあるので、普段あまり意識したことはないにしても、彼とは本来ならもっと親しくしていておかしくないはずであった。事実、他のハウスマスターとは、アンディは割と打ち解けた話をしていたし、他の生徒などはもっと深い悩みごとの相談などもしているようだった。だがこのアダムス先生はといえば、ようするに生徒たちに人気がないのである。けれど、おそらくはまったく同じ思いで卒業していったであろうフェザーライルの卒業生たちが、これだけ文句を言うのには、それなりに理由があってのことだろうと、アンディはそう理解していた。
「僕が教師になってすでに、二十数年もの時が流れたけれどね、まあこの間色んなことがあったよ。僕は小さい頃から日陰者の人生を歩んできて、それは教師になってからも変わらなかった。けどまあ、生徒たちの中にもまた、そういう子ってのはいるもんだ。僕はそういう子たちに対して、「それでも人生どうにかなるもんだ」ってことを教えてあげられるんだよ。もっとも、フィッシャーくんのように目立つ日向で咲くタイプの子には、ちょっとわかりにくいことかもしれないけどね……」
松の林の間の埃っぽい道を歩く間、ベンジャミン・アダムスはそんな話をしていた。よく考えてみると、彼もまたこのフェザーライル校の卒業生なわけで、それなりにスポーツのほうもよくこなしていたはずである。アンディは初めてそのように思い至ると、「得意なスポーツ科目はなんだったんですか」などと、初めてアダムス先生と<普通の>会話をしたのだった。
「膝を痛めるまではバスケットをやってたよ。万年ベンチの控えの選手ではあったけど、他に陸上競技も得意だったな。あとはマラソン。このフェザーライル校にいて僕が唯一輝けたのが、三年級の時に一位になったここリース湖近辺で行われるマラソン大会だったんだ」
このあと、アダムスが自分の部屋へ寄っていけとしつこく言うので、アンディは初めて入る彼の部屋で、ミルクティーを御馳走になりつつ、歴史や哲学の話をえんえんとした。アダムスは特にこれといって面白いことを話すわけでもなかったが、それであればこそ感じられる安らぎや親しみやすさのようなものがあると、アンディは初めて気づいた。そして、彼が自分の口でそう言ったわけではないのだが、あの漫画調の絵のことなどは、彼にとってはそう大したことではないようだった。自分を赤いトサカの立ったニワトリとして描かれたこともあったし、教師といったものはそんな程度の生徒の悪戯をいつまでも執念深く覚えてはおられんと言い、「そんなことよりも、むしろ校長先生のほうが御立腹でね」と、これから裁かれる生徒のことのほうを心配しているようだった。
アダムス先生が昔飼っていたという、フクロウの剥製が見守る部屋で、アンディはミルクティを大体飲み終わろうかという頃――思わず、話の前後の脈絡関係なく(実際その前にはローマの五賢帝について話していた)、こう問いかけてしまっていた。
「その、先生……先生は三年級のデイモン・アシュクロフト先輩のことをどうお考えになっておられますか?」
アンディの心臓はこの時、いつになく踊っていた。彼の話した例の閻魔帳の件――あれは実は少し違うのではないかという気がしたのだ。アダムス先生が日記のようにつけている閻魔帳と照らし合わせて生徒の成績を決めるというのは有名な話であったが、むしろ逆に彼のことだけ的確に性格を見抜くようなことを書いてあったのではないだろうか?それでプライドの高い彼は、今回軽い復讐の意味をこめて、あの絵をインターネットに流したのではないかという気がしたのである。
「まあ、こんなことはあまり教師が言ってはいけないんだがね」
アダムスは全体に茶色い家具ばかりの配された、本と書類ばかりの部屋で、これもまた茶色いアンティークな革のソファに深々と身を沈め――すっかり寛ぎきった様子でこう本音を洩らした。
「彼は一言でいえばまあ、<魔少年>だね。彼の美貌や話術にみな夢中になるが、アシュクロフトくんにとって人間関係というのは言わばチェスの駒みたいなものなんじゃないかね。彼は将来政治家になる予定だそうだが、僕には今から目に見えるようだよ。アシュクロフトくんがチェスの駒よろしく都合が悪くなった時に周囲の人々を捨てていく姿というのがね」
アンディはここまでアダムスの話を聞くと、「すみません、僕、急用を思いだしました」と言って、ハウスマスターの部屋を辞去した。この退出の仕方はいかにも不自然なものだったが、アダムスが気を悪くしなければいい、などとはアンディはまったく思わなかった。何故といって、アダムスは基本的に夢想家なので、アンディが部屋を出た五分後にはおそらく、夢の梯子に捕まり、その天辺にあるものを垣間見る思想的作業をしているに相違なかったからである。
(デイモン・アシュクロフト……彼が犯人なのだろうか?)
アンディは一度そう疑ってはみたものの、アダムスの部屋を出て廊下へ出るなり、その可能性はあまり高くないように思われた。何故といってアンディは、確かに彼からあの漫画絵を返してもらったはずだし、自分の目を盗んでこっそりそれを彼が盗みだすといったような芸当は、あの場合出来ようはずがないように思われたからである。
(しかし、人間の記憶ってのはまったく曖昧なもんだな。一か月前にあったことですらすでに記憶の彼方とは……僕にはあの時、オレンジ色の綺麗な西日の中で、憧れの一年上の先輩といい話をしたといったような印象しか残っていない)
そしてアンディは、彼にこのことを問い詰めたほうがいいのかどうかと、寮のF号室でひとり煩悶した。もちろん、部屋には同室者であるアーサー・ウォルシュもいたのだが、アンディは彼は存在しないものとして自分ひとりの世界に浸りこむことに、すっかり慣れていたのである。
(もちろん、<確かめる>こと自体は簡単だ。まずは軽い調子でこう聞けばいい。「あの漫画絵の画像をアップロードした犯人を校長が躍起になって捜していてさ。見つかった暁には退学処分だってことらしいよ」……もし彼が犯人なら、さらに色々と僕に探りを入れてくるだろうから、その過程である程度、彼が犯人かそうでないかは見当がつくような気がする。けど、もし彼が犯人であるとわかったとして、果たして僕はどうするのか……いや、どうしようがあるのかという点が問題なんだ)
例の、ダークフェザーテンプルの集まりに、アンディはすでに二度ほど参加していた。会合は常に満月の夜に行われ、詩や文学、哲学や政治についてなど、真面目な討論が長時間に渡って続けられた。正直、<闇の会>などと言うから、てっきりアンディはもっと黒魔術的な要素のある入会の儀式であるとか、何かそんなようなことを想像していた。だが、最初に届いた黒に銀の文字で描かれた封筒の中には、会の開催の日時や場所が書き記されていただけであり、入会の儀式のほうもまた、「自分が今悩んでいることや弱みについて話す」という、それだけであった。
アンディは中央の岩のテーブルの上に置かれたランタンの光が届く場所で、十数名の生徒たちに囲まれる中、自分の義母に対する欲情を抑えられないといったような話をした。アンディにとってこのことはあまりに切実なことだったので、彼はいかにも真面目な口調で話したのだが、周囲の上級生たちの受けがすこぶる良かったのである。
「俺なんか、小学三年までおねしょが治らなかったって話をしたってのに」
「僕は中学の時に万引きしたって話」
「アッシュが十三の時に人妻と寝たって話ほど刺激的じゃないにしても、その次くらいにはイケてる話だよな、確かに」
『イケてる話』などと言われ、アンディは軽くムッとしたが、周囲の生徒たちにとってはそんな彼の反応すら面白いようであった。会のメンバーはみな、政財界の大物の子息ばかりであり、その中には映画配給会社社長の息子であるボビー・ボールドウィンの姿もあった。そしてここでアンディは、何故自分が<闇の会>のメンバーのひとりに選ばれるに至ったかを知った。ダークフェザーテンプルの会員となるためには、同じ会員の推薦及び、すべてのメンバーの過半数の同意が必要であり、アンディの場合はほぼ満場一致で採決が取られたということであった。
話は最初、アンディの義母のソフィのことに集中したが、「義理の母親のどんなところにグッと来るのか」などと聞かれ、アンディは真面目に話したことを後悔したものである。おねしょや万引きなど、実はちょっとしたことで構わなかったと知らなかっただけに、つい話し振りにも熱がこもってしまった。
彼が会長なので当たり前といえば当たり前なのだが、議題のほうはデイモン・アシュクロフトによって進められ、その日はユトランド共和国の政治について長く討論された。これと同じことなら、<闇>ではなく、<光>の表サイドでもまったく似たことが行われていたが、会の特徴として重要だったのはやはり、実際にこれから巨額の富を動かして政治や実業界の大物になる子息の「考え方」を知ることが出来るという点だっただろうか。
たとえば、デイモン・アシュクロフトと同じ、父親が上院議員のカルヴィン・フェレーラなどは、理想高く「イエス・キリストが子羊を導くような王国」を築きたいといったことについて熱弁を振るっていた。無論、聞いている周囲の生徒たちは――特にアメフト部のクォーターバックであるチャーリー・クロフォードなどは――小指を耳の穴に突っ込み、いかにも「ナンセンスだ」といった仕種をしてみせたし、彼が理想に挫折する日が目に見えるようだといった顔を、みな一様にしていたものである。
だがこういう時、意外にもアシュクロフトは「自分も政治家になった暁には君の高邁な理想に貢献しよう」といったようなことを口にして、メンバー全員の思想の均衡を保つのであった。次に<闇の会>が満月の夜に開催された時、アンディは新人として討論の議題を任されることになった。というのも、アンディが義母への愛について熱弁を振るったことをみなが面白がり、次は是非アンディに議題のほうを任せようじゃないかということになったのである。
そこでアンディは、その時たまたま読んでいた仏教の本の中から、自分なりに「こう思い、考えた」といったことを話すことにしてみたのである。つまり、我々が暮らすキリスト教圏内では、「~すべからず」という禁制があまりにも多い。だが、仏陀が説いた四諦八生道をキリスト教の思想と合わせてみると、そう脅迫的になることもなくイエスの教えを実践できると説いたのである。
「四諦(したい)とは、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の四つのことで、諦とは真理(悟り)という意味なんだ。まずこの苦諦というのは、人生は苦しみであるという真理を指している。これは四つ、あるいは八つの苦しみに分けられていて、四苦とは、生老病死、すなわち、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみのことを指す。そして八苦っていうのが……」
アンディはわかりやすいように、わざわざノートに大文字で書いた文章を順に指差していった。
・愛別離苦(あいべつりく)――愛する人と別れなければならない苦しみ。
・怨憎会苦(おんぞうえく)――嫌な相手と会わなければならない苦しみ。
・求不得苦(ぐふとくく)――欲しいものが得られない苦しみ。
・五蘊盛苦(ごおんじょうく)――肉体と精神が生み出す苦しみ。
「先に言った四苦にこの四つを加えたものが八苦。で、集諦(じったい)っていうのは、人生の苦しみ(苦諦)の原因に関する真理で、様々な煩悩や執着によって苦しみの原因を実は自分自身が作りだしていると気づくことが重要だってことらしい。滅諦(めったい)とは、苦の滅した状態、すなわち涅槃の境地のことをさす。仏陀はあらゆる苦脳や束縛から離れた状態を滅諦(めったい)としてとらえているんだ。それから道諦(どうたい)とは――こうした人生上の苦しみを滅するための方法についての真理っていうこと。すなわちこれが八正道と呼ばれるもので、以下の八つ」
一、正しいものの見方(正見・しょうけん)……四つの真理(四諦)を明らかにして、原因・結果の道理を信じ、誤った見方をしないこと(世の中、人生に対して正しい智慧と見解をもって見ること)。
二、正しいものの考え方(正思惟・しょうしゆい)……欲にふけらず、貪らず、瞋(いか)らず、害(そこ)なう心のないこと。
三、正しいことば(正語・しょうご)……偽りと、無駄口と、悪口と、二枚舌を離れること。
四、正しい行い(正業・しょうごう)……殺生と、盗みと、よこしまな愛欲を行わないこと。
五、正しい生活(正命・しょうみょう)……人として恥ずべき生き方を避けること。
六、正しい努力(正精進・しょうしょうじん)……正しいことに向かって怠ることなく努力すること(今まで起こっていない悪は絶対に起こさないよう努力し、今まで起こっていない善はこれを起こすよう努力し、すでに起こっている善については、これをさらに増大するよう努力する)。
七、正しい念(おも)い(正念・しょうねん)……正しく思慮深い心を保つこと。
八、正しい心の統一(正定・しょうじょう)……誤った目的を持たず、智慧を明らかにするために、心を正しく静めて心の統一をすることである。
――アンディがここまで説明し終えると、中央の岩のテーブルにあるランタンに映しだされた上級生から口笛が上がった。
「なるほどなあ」と、感心して五年級のマルセル・ヴァンガード。彼の父親もまた政治家で、上院議員だった。「ようするにアンディが言いたいのはこういうことだろ。べつに、仏教の聖典を読んだからって、当然キリスト教を捨てるってわけじゃない。だが、キリスト教一辺倒ってことじゃなく、他の宗教ではこういうことを言ってるっていうことがわかると、また別の新しい視点からキリスト教やイエスの教えを見返すことが出来る……そうした思索の過程で、キリスト教しか知らないとその教えだけにがんじがらめにされるところがあるが、もうひとつ別の「視点」を持つことで――確かに物の見方が楽になる、確かにそういうところはあるな」
賢い先輩がそううまくまとめてくれたことで、アンディはただ黙って頷くだけで済んだ。見ると、マルセルの隣にいたデイモン・アシュクロフトもまた、彼にしては珍しく本当に感心したような顔をしている。
だがここで、ボビーがこう付け加えて茶化した。
「ま、確かにな。イエスの教えってのは、『女を情欲の目で見る者はその目を抉りだせ』ってものだからな。確かにこりゃ、今のアンディには必要な教えだぜ。何せ、義理の母親のことを姦淫の眼差しで眺めてるわけだから、仏陀の教えも混ぜてそこのところはマイルドにぼかす必要があるってわけだ」
ここで、みなの者がどっと笑うのと同時、アンディは耳まで真っ赤になった。そして、両隣にいた先輩たちから肘で小突かれたわけだが、こうしたアンディの純情さを笑うつもりは彼らにはなく、ただますますアンドリュー・フィッシャーという後輩に対し、好感を持つというそれだけだった。
そしてこのあと、アンディはさらに、仏陀の説話を続けてふたつほどした。その後、先輩たちから仏陀の生涯や仏陀の教えについての質問を受け、それらに答えているうちに――洞窟の外の世界は白々と明け初めていたのだった。
この日の議論は実に白熱し、地平線上にすっかり太陽が顔を出した頃になってようやく<闇の会>のメンバーたちは寄宿舎へ戻るということになった。ちなみにこのダークフェザーテンプルという組織は、校長公認の組織であり(現校長も在学中はこのメンバーであった)、満月の夜の集まりを仮に誰かに密告されたとしても、罰を受けるということは決してない。つまりこれもまた長い歴史を持つ名門フェザーライル校の<古き良き伝統>というわけであった。
アンディが<闇の会>の会合に参加したのは、たったの二回だけではある。だがアンディはこの会にすでに非常な親しみを感じていたし、何より、洞窟の中が実に居心地良くしつらえられていて、ランタンの明かりに照らされただけでも、何やら魔術的な気分に酔うことが出来た。また、アンディはもしアダムス先生の件に関してデイモン・アシュクロフトと対立するようなことがあったとすれば――おそらく自分はただでは済むまいとわかっていた。彼がもし退学とまではいかなかったにしても、停学処分でも食らったとすれば、自分は<裏切り者>として白眼視されながら、残り四年ほどの歳月を怯えながら過ごさねばならなくなるだろう。
(この件についてはやっぱり、うやむやにするしかないのかな)
この日、アンディはプラトンの本を読むとはなしに読みながら、そんなことを考えていた。デイモン・アシュクロフトには当然、聞くだけのことは聞いてみるつもりではあった。そしてその時の彼の反応次第によって、自分はこれから校長先生になんと言うべきかを考えねばならないと、そう思っていたのである。
「アンディ、何か悩みごとかい?」
学期末試験が終わるなり、授業以外で教科書をまったく開かなくなったアーサーが、コミック誌を手に持ったまま、ベッドの上でそう聞いた。気の利く弟が定期的に送ってきてくれるものらしい。
「まあね。でも、自分でなんとかするしかないことだから」
「そう言うなって。僕は君がこれまでに二度、夜中に寮を抜けだして、明け方に戻ってきたのを知ってるよ。けど、これも同室者の礼儀かなと思って黙っておくことにしたんだ。けどもし君が、何かのっぴきならないことに巻きこまれて悩んでるっていうんなら、話くらい聞かせてくれてもいいじゃないか。アンディ、君、今日校長室に呼ばれていたろう?それって一体なんの話だったのさ」
「うん……」
ザックであるというのならばいざ知らず、アーサーでは悩みごとの相談相手としてまったく役不足であるようにアンディは感じていた。だが彼の良いところは何より、好奇心を丸だしにして人から話を聞こうとしないことだったかもしれない。
「もちろんね、僕だってわかってはいるよ。君が本心を打ち開けるのに僕は不適切らしいってことくらいはね。僕と君とは同室者になって半年ほどにもなろうとしてるけど、君と僕との間にはやっぱり、見えない壁があるみたいだ。どうせ君もこう思ってるんだろう?ウォルシュの奴とは話してもつまんないし、こんな小物をまともに相手にしたってしょうがないみたいに」
「そんなことはないよ」
アンディは反射的にそう答えていたが、アーサーが鈍そうに見えて意外に的確に自己評価していると気づき、何故か居住まいを正していた。そして(そういえば)と、アンディはここでもひとつのことに気づく。自分は今日、アダムス先生と腹を割って話してみるまで、先生のことを「四角四面の判子で押したようなつまらない教師」といったようにずっと思いこんでいたのだ。もちろん、こうしたことに気づいて以後も、やはり彼の授業は殺人的なまでに眠いままではあるだろう。だが、もしかして<偏見>といったものは、こうしたところから生まれてくるのではあるまいか?
「いや、正直なところを言って確かに、僕は君に自分の本当の悩みなんてものを打ち明けようと思ったことはないよ。ほら、ロザリーのこともあったし……」
「そんなのはもう大昔のことさ」と、アーサーは笑って応じた。「今は弟とロザリーは結構うまくいってるみたいだよ。もしふたりが結婚したら、あいつは一生ロザリーの尻に敷かれて暮らすことになるだろうけど、そんなのは本人がそうと望んでる以上、兄である僕の知ったことじゃなし。それよりも、ほら、話してくれたまえ。僕じゃなんの役にも立てないかもしれないけど、それでも話すだけでも楽になるってことが、人には誰しもあるものだろ?」
「確かに、君の言うとおりかもしれない」
アンディは校長に呼ばれた経緯と、もしかしたらアダムス先生の漫画絵をネットに流したのはデイモン・アシュクロフトかもしれないといった話をした。それで、自分はどうするのがもっとも道義に適ったことなのかと、たった今プラトンの本を読む振りをしながら悩んでいた……といったことをかいつまんで説明したのである。
「そうかあ。なるほどねえ」
ここで初めてアーサーは、同室者に悩みごとを打ち明けられた兄貴分のように、どこか満足そうな顔をした。だが、すぐにまた至極真面目な顔つきに戻り、優秀な学校カウンセラーよろしく、アンディの身になって色々なことを提案したのである。
「僕はアンディ、当然君自身ってわけじゃないから、むしろ逆に見えるものが少しあると思うんだ。つまり、まず小心者の僕が一番に思うのはだね、デイモン・アシュクロフト先輩には逆らえないっていうことさ。彼がまあ、来年に卒業する六年級の生徒だっていうんならまだしも、一年上ってだけじゃ、特にね。君、あれだけ他の生徒に影響力を持ってる人に逆らう勇気なんてるあるかい?何分この閉鎖的な寄宿舎なんて場所じゃ、学校のグラウンドとか廊下とか、図書室とか食堂とか、どこでも顔を鉢合わせる機会がてんこ盛りだよ。ゆえに、僕だったらまずアシュクロフト先輩には楯突いたりしない。そうだ、アンディ、君、こうしたまえよ。アシュクロフト先輩とその件について話して、彼がどうも犯人っぽそうだと思ったら、特に何もせずに黙っておくのさ。校長先生は明日にでも臨時で全校生徒を集めて、その話をするんだろう?で、警察の手が入るってんなら入るでどうぞお好きなようにやってもらえばいいのさ。結果としてもし先輩が捕まったとしても、アンディ、君が何も直接手を下したってわけじゃないんだから、君はこれからもこの一流校の目立つ生徒のひとりとして陽の光の下を安心して歩んでいけるというわけさ」
「……なるほどね。アーサー、君の意見は実に参考になったよ」
自分で言っているとおり、小心者らしい彼のいかにもな説得力ある理論であった。だがアンディは確かに、アーサーの言うことにも一理あると思った。それから就寝時間となり、ベッドの中に入ってからもアンディはこの件について考え続けた。すると、アンディの着いた溜息を聞きつけたアーサーが、さらに参考になる意見をひとつ述べてくれたのである。
「アンディ、君は僕以上に真面目ないい人間だからさ、こう考えてるんだろう?自分の身の保身のことなどではなく、道義的に正しいことであるとしたら、自分は正義を行わねばならない、なんていうことをさ。けど、そんなこと考えないほうが君の身のためだってことだよ。なんでって、たぶん警察が介入してもしなくても、犯人はわからずじまいで終わるだろうからね。僕がなんでこう言うかわかるかい?理由その1、アームストロング校長は警察云々といったことを明日生徒全員に向かって言うだろうけど、そんなのはただの脅し文句であって実際は警察まで入ってくる可能性は低い。理由その2、我が校は携帯電話持ちこみ禁止だけど、実際は隠れて所持している生徒が少しはいる……イコール、うちの学校のパソコンルームの履歴をいくら漁ったところで犯人は出てこない可能性が高いってことさ。このふたつが、君がアシュクロフト先輩に楯突かないほうがいいと僕が思う一番の理由だよ。第一、あんな頭のいい人が証拠を残すような真似をするはずがない。だろ?」
「うん。ありがとう、アーサー。なんか僕、君に対して随分誤解してたみたいだ、ごめんな」
「まあ、べつにいいさ。そのうち、もし機会があったらユトレイシアにあるうちの屋敷にも遊びに来いよ。割とザックの家から近いんだぜ。弟のクリスのことは気にしなくていいから。っていうか、あいつ、むしろ逆に今じゃアンディに会いたいって。ロザリーがいまだにアンディ病の後遺症を引きずってるから、実際に本人のことを見てロザリーを虜にする参考にしたいんだってさ。僕に似て実に馬鹿だろう、うちの弟って。でもああいう単純さは人から愛されるのにいいよ。その点僕は、人より少しひねくれちゃったかもなあ」
「そんなの、アーサーよりも僕のほうがずっとひどいよ」
この日、アンディとアーサーは同室者になって初めて、互いに笑いながらそれぞれのベッドの中で眠った。そしてこの翌日、講堂で校長先生による臨時の講話があってのち、アンディはデイモン・アシュクロフトが所属しているフットサル部へ彼に会いにいった。テニス部の練習が終わってからフットサル部のほうへ行ってみると、下級生たちがグラウンドの整備など、後片付けに追われているところだった。
「校長の例の話を聞いて以来、たぶん君が会いに来るだろうと思ってたよ」
シャワーを浴び、濡れた髪のままシャワー室からロッカー室へ出てきたデイモン・アシュクロフトは、どこかあやし気な雰囲気さえ帯びていた。上級生たちが「俺、ゲイじゃないけど、アシュとはいけるかもしれないな」と笑って言い合うのがよく理解できる、ギリシャ彫刻ばりの美少年そのものの肉体美を彼は誇っていたからである。
もちろんアンディのほうでは知らない。大抵の人間が自分の美貌の前に無条件に平伏すというのに、アンディだけは「それとこれとは別のことだ」というように、冷静にこちらを眺めてくるのを彼が楽しんでいる、などということは。
「あの画像、アップしたのは僕だよ。けど、校長の奴も案外馬鹿だよ。あの警察云々ってのは脅しだろうけどね、でも万一そんな不名誉な事態がこの伝統あるフェザーライル校に許された場合……捕まるのは結局冤罪者だからね。なんでって僕、パソコンルームで手に入れた、他の生徒のIDでその画像を流したからなんだ。可哀想に。彼、繊細だからたぶん、そんなことになったらひどく傷つくだろうな」
「君は、自分の言ってることがわかっているのか」
他のフットサル部の部員たちは、おのおの自分たちの馬鹿話で盛り上がっていたため、ロッカー室の片隅でされているデイモンとアンディの深刻な会話にはまるで気づいていない。
「もちろん、わかっているとも、アンドリュー・フィッシャー」と、アンディのほうを見もせず、着替えを続けながらデイモンは言った。「君には、ここにふたつばかり選択肢がある。今僕が言ったとおりのことを校長の奴に言う自由が君にはある。もっとも、アンディ、君はそんなことしやしないだろう?第一したって無駄なだけさ。うちの親父はこの学校のOBで、講堂のひとつをぽんと寄付した過去を持ってもいるしな。どのみち、僕はお咎めなしってわけさ。それでも言いたければご随意に。そのかわり、あとで吠え面かいて僕に泣かされる覚悟が当然君にはあるんだろうね?」
「他の生徒に成りすますために使ったっていう、その相手のID所有者のことを教えてくれ」
「そんなこと聞いて、一体どうする?」
ロッカーの鏡を見ながら制服のネクタイを締め、デイモンは鏡ごしにちらとアンディのことを見た。
「当然、校長に話すんだよ。今後もし、君がまた同じような不正を働いたとしたら、その生徒が迷惑するかもしれない。だからさ」
ここでデイモン・アシュクロフトは、体を折り曲げ、今にも倒れんばかりになって大笑いした。そんな様子の彼を見て、他のフットサル部の部員たちも「何ごとが起こったか」とばかり、こちらのほうを注視するようになった。
「ハッハハハハハハッ!!馬鹿だな、アンディ。僕は君のIDを使って例のアダムスの哀れな姿を送信したんだよ。前にパソコンルームで僕と君が出会った時のこと、覚えてないかい?そこで順番待ちしてる時にさ、たまたま君の次に僕がパソコンを使ったことがあったんだよ。君はログアウトするのを忘れてて、僕はその時にIDを入手したってわけさ」
「けど、パスワードが――」
「悪いな、アンディ。僕は趣味でハッカーの勉強をしてる。でも僕は君にこの罪を着せようなんていうふうには最初から思っちゃいなかった。ただ念のための用心と思っただけのことなんだ。その点については素直にあやまるよ。悪かった」
ここで話を聞きつけた部員たちがデイモンを取り囲み、「あの傑作な漫画絵、おまえがやったってのか」とばかり、盛り上がりはじめた。「自首したほうがいいかな」、「いや、黙っとけよ。校長の言う警察云々なんてのは所詮ハッタリさ」、「ここにいる全員がおまえのことを必ず守ってやる」、「しっかし、やっぱりおまえはやってくれるなあ、アシュ」……これではてんでお話にならないと思ったアンディは、部外者として弾かれるようにしてフットサル部のロッカー室から出ていくことになった。ドアを閉める直前、「なんだったらあの小生意気な二年坊、締めてやってもいいぞ」、「いや、彼は今時珍しい、正義感の塊なのさ。天然記念物は大切に保護しておかないと」……などという会話まで聞こえて来、アンディはつくづく自分の校内における無力さを思い知ったものである。
この時アンディの頭の中は極めて混乱していた。もちろんアンディも、いずれ大人になるにしたがい、仮にいかに自分が正しくとも、正しくない側に屈せねばならない体験をするかもしれないとは、漠然と感じてはいた。けれど、そこに信頼する人間のひどい裏切りまで加わったとあっては、まだ十四歳の彼の心には荷が重すぎたのである。
そしてこのこともまた、アンディの成長しきっていない子供らしさによるところが大きい行動だったと思うが、翌日、アンディはアームストロング校長に向かって、「あの漫画絵をアップロードしたのは僕です」といったように自白したのである。黒い羊のようなデイモン・アシュクロフトの、もし体の一度にでも白いブチ毛が残っていたとすれば、彼が良心を痛めて自分から罪を告白するかもしれないと、アンディは極めて薄い望みに賭けたのであった。
だが、やはりアームストロング校長もアダムスも、伊達に長く教師生活を送っているわけではない。アンディは己の罪を告白し、アダムスに深々と頭を下げあやまったのだが、彼が校長室から出ていくなり、ふたりはそれまで目と目で会話していたことを実際に言葉にしたのであった。
「あれはたぶん、誰かを庇っているんでしょうな」と、アダムス。
「だろうね」と、アームストロング。「もし彼のような人間が、ああした罪を告白するというのであれば、あんなに冷静な顔で、まるで舞台の科白を喋るような口調で淡々と話したりするはずがない。もっと泣き崩れて、「本当にごめんなさい、アダムス先生」といったように、感情を丸だしにして許しを乞うているだろう。でもそうじゃなかったらからね」
「きのう、僕は初めてフィッシャーくんと……なんと言いますか、腹を割って随分親しく話したんですよ。彼と僕とは一脈通じるところがあると感じたんですが、そのことで寮の部屋へ戻ってから突然、悔恨したなんて言ってましたけど、間違いなく違いますよ。きのう僕と話していた時の彼の瞳を思いだしただけでもわかる。あの目は、後ろ暗いところなどまったくないといった感じの、素直で正直な少年の瞳でした。ただ、最後のほうの会話で少し、気になることを話してはいましたね。それまでイタリアの五賢帝のことを話していたはずなのに、なんの脈略もないところで突然、デイモン・アシュクロフト君の話が出て……」
「彼か」
アームストロング校長はふうっと、長い溜息を着いた。デイモン・アシュクロフトはフェザーライル校の出身者である議員の父親を持っているというだけでなく、恐ろしく頭の切れる<模範生>でもある。彼が最上級生になった時、アームストロングは自身の権限においてアシュクロフトをプリーフェクト(監督生)に任命せねばならないと思ってはいる。つまり、個人的には彼にその地位を与えるのはどうかと感じながらも、生徒間の心を牛耳っているという意味において、アシュクロフトをもし任命しなかったとすれば問題が起きるだろうということだ。
「それで、アダムス先生は彼のことでどんなことをお話になったのですか」
「まあ、その……校長先生の前で言いづらいことを、ですよ。アシュクロフト君はいわゆる<魔少年>で、これから彼が将来的に政治家になったとすれば、まるでチェスの駒のように都合の悪くなった人間を排除していくんじゃないかっていうようなことを話しました。もちろん、生徒相手に話していいことじゃありません。その点については僕も反省してます」
「うむ。でもまあ、僕も大体同じような見解をアシュクロフト君には抱いているからね。彼は実に注意の必要な生徒だ……そして、なんの脈絡もないところで彼の名前が出たということには、やはり意味があるのではあるまいか。アダムス君、僕はフィッシャー君が心から愛しているという義理の母君にこれから電話してみようと思う。おそらく彼は彼女にであれば本当のことを洗いざらいすべて話すだろう。全校生徒を前にして、大弁舌を振るったばかりで何やら恥かしいが、結局のところ、この件はうやむやにする以外はないようだ。無論、先生の例の漫画絵は削除してもらうということにしたよ。ホームページの管理者は表現の自由がどうのとほざいたらしいが、強制的に削除してもらったから、このこともまた時の風化にさられされて、人々の記憶に残ることもさしてあるまい」
「そうですね、アームストロング校長」
アームストロングは十歳も年下の、アダムスのいわば上司であったが、ふたりはとても気が合い、細君も交えて三人で月に一度は会食するといった仲である。アダムスはずっと独身であり、このことは終生変わりなくそうであろうと彼は信じている。だが、彼は幸せだった。何故といってここフェザーライル校には彼のすべてが詰まっていたし、教師間及び生徒間の評判はどうあれ、彼自身は教職こそが己の天職であると信じきっていたからである。
>>続く。
今回ちょっと本文長めなので、あんまし前文に文字数使えないっていうことで……どうしようかなって思ったり(^^;)
前回の前文で、「詩神(ミューズ)とは何者か」といったことに軽く触れたような気がするんですけど、エミリー・ディキンスンはこれを「大勢の客」といったように表現しています。また、フェルナンド・ペソアの元を訪れていた詩神にもそうした性質があったみたいですよね。
>>独りで私はいられない
大勢客が訪れるから
記録のないこの仲間たちには
鍵は役立たない
かれらは着物もない 名前もない
年鑑もない 気候もない
ただ小人のように
雑多な家がある
かれらが来るのは
心のなかの急使で知れるが
去るのはわからない
彼らは決して去らないから
(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)
ペソアの場合は、この<詩神>にそれぞれ人格があったと思うのですが、言葉というのは数え切れないほどたくさんあるという意味では「大勢」であり、ディキンスンにとってそれをひとりに集約したとすれば「マスター」と呼んでいい存在だったのではないでしょうか。
ディキンスンの残した手紙に「マスター・レター」というのがありまして、結局のところ投函しなかったらしいのですが、この手紙の中で「マスター」と呼ばれている人物がいます。架空の人物、あるいはおそらく実在していて、投函するつもりだったらしい手紙や……それが「誰か」というのは謎なのですが、ディキンスンのちょっと変わった恋愛詩の相手っていうのは、わたし個人はその全員が<詩神(ミューズ)>だったのではないかといったように想像しています(^^;)
彼女が恋していたワズワース牧師や、あるいはサミュエル・ボウルズなど、マスターの候補者はいるわけですが、結局のところ詩神って目に見えませんからね(天使や悪魔と同じく霊的存在なので)。そこで目に見える肉体を備えた人物にそのイメージを覆い被せることによって、彼女は優れた詩を描いた……ということなのではないでしょうか。
ペソアの場合は、これはもう憑依現象といっていいと思います(笑)ある人格を備えた詩神(ミューズ)とも呼ぶべき存在が憑依することによって、異名をいくつも使って詩や文章を書いています。つまり、その詩人ごとに生い立ちや性格などが異なり、詩や文章のスタイルもそれぞれ異なるということですよね。
もちろん、ディキンスンもそうした詩神(ミューズ)の憑依現象とでも呼ぶべきことがあったからこそ、1700篇以上もの詩を残し、後世の人々からペソア同様「天才」と呼ばれ、その詩人としての地位を不動のものとしたわけです。
また、ディキンスンはこの詩神(ミューズ)のことを「不滅」と呼んでもいるわけですが、これ以上の言葉はわたしにも見つからないような気がします(^^;)
今回はあんまし文字数入れられないもので、何か説明不足な文章で申し訳ないのですが(汗)、ディキンスンファンの方やペソアファンの方にはある程度わかっていただけるかな~なんて。。。
ではでは、次回は確か、セスvsアンディくんの第二ラウンドだったっけな~といったように記憶してます(笑)
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【18】-
とはいえ、この二学期、アンソニーはある事件をきっかけにして、危うく停学処分を受けそうになった。その事の起こりはこうである。
歴史の授業を受けている最中、ノートを破った切れ端がアンディの席にまで届いた。クラスのほうは普段、Ⅰ組とⅡ組とに別れているのだが、Ⅰ組のほうにはザックがおり、Ⅱ組のほうにアンディやアーサー、それにアンソニーがいた。歴史担当のベンジャミン・アダムスは生徒が眠くなる授業をするのを極めて得意としており、アンソニーなどは「不眠症患者にベン先生の授業のテープを送ったら、即日ぐっすり眠れるようになるだろう」と言っているほどだった。ゆえにこの、いかにも真面目一本やりで単調な話し方のアダムスが黒板にものを書く時、生徒たちは眠気防止のため、何やかやの手紙のやりとりをするのが常であった。
アンディは一番後ろの、窓際の席にいるため――生徒たちがアダムスの目を盗んでは一瞬くるりと後ろを振り返り、また元通り真面目にノートを取る振りをする姿というのがよく見えた。そして最後、自分の元にまでそのノートの切れ端が届いてみると、危うくアンディは大声で吹きだしそうになった。しかもその場面を他でもないベンジャミン・アダムスにばっちり見られてしまったのである。
「何がそんなにおかしいのかね、フィッシャーくん」
「いえ、なんでもありません、アダムス先生」
だが、時すでに遅し。アンディが何かを机の中に隠そうとするのを、分厚い眼鏡をかけたアダムスが見逃すはずもなく――彼は、地図などを指し示す時に使う棒を手にしたまま、つかつかとアンディの元までやって来た。
「今、一体何を隠したのかね。見せなさい」
「なんでもないんです、先生。本当に……」
(こんなもの、死んでも先生には見せられない)
というのがアンディの本音ではあった。そこでどうにかして一番前の廊下側の席にいるアンソニーから回ってきた紙切れを手の中で握り潰そうとした。だがこの時アダムスはこう心に決めていたのである。
(生徒たちが時折、わしが黒板に向かっているのをいいことに手紙や落書きなんかをやり取りしているらしいとは知っている。今日こそ実にいい機会だ。これを見せしめにして今後同じことが起きたらどうなるかということを、思い知らせてやる)
アンディは最後まで右の握り拳を開こうとはしなかったが、アダムスは赤毛の奇妙な髪型を振り乱し、どうにかして三十六歳も年下の生徒の手をこじ開けこうと頑張った。結果、アダムスのこめかみには青い血管が浮き上がる形となったが、その紙切れを見た瞬間――彼のその血管はさらに大きく膨らむことになった。
「アンドリュー・フィッシャー!!放課後に居残って百行清書!!いいかね!?」
ぐしゃぐしゃになった紙片をベンジャミン・アダムスが開いてみると、そこにはなんと――女物のブラジャーとパンティ、それに網タイツをはいたアダムスが鞭を振り回している姿が漫画風に描かれていたのだった。しかも上のほうには「鞭を振り振りチーパッパ!」などという言葉まで付け加えられている。
最初、アンソニーは女物のパンティをはいた全裸のアダムス教師の絵を描き後ろへ回したのだが、それを受けとった生徒が次にブラジャーを描き加え、さらに次の生徒が手に鞭を持たせ、また何番目かに受け取った生徒が網タイツをはかせ――などとやっているうちに最後、アンディの元にまでほぼ完成形のベンジャミン・アダムス御乱心のお姿なるものが回ってきたというわけである。
「いやあ、悪かったなあ、アンディ」
「アダムス先生もさ、ちょっと考えりゃわかりそうなもんなのにな。アンディは前の生徒が描いたものを最後に受けとったに過ぎないとか、そういうことがさ」
「まあ、しょうがないよ。笑いを堪えきれなかった僕も悪かったんだから」
「しっかし、あの絵は秀逸だったよなあ。俺もアンディと百行清書の罰を受けてもいいから、アダムス先生あれ返してくんないかな」
ここでまた何人かの生徒がどっと大笑いし、アンソニーや最終的にアダムス先生の絵がどうなったかを知らない生徒がベンジャミン・アダムス御乱心の最終形態を知りたがり――再び先生の素晴らしい漫画絵を復元させたのであった。
「おいおい、ひどいな。俺は奴にパンティ一枚しかはかせなかったってのに」
「寒そうだったから、僕がブラジャーを着せてやったのさ」
「そうそう。俺の描き加えた網タイツで保温効果がさらに上がったはずだぜ」
「ちょうどいい具合に鞭をもたせるのにいい角度に手が上がってたからな」
「僕は裸足じゃバランスが悪いから、ハイヒールをはかせてやったよ」
休憩時間の間、生徒らはこんなことを話しては大笑いした。とはいえ、ひとりだけ罰を受けることになったアンディに対してはみな同情的で、放課後になると「この埋め合わせは必ずするからな」などと言っては、部活動へ出ていったのである。
百行清書などという古くさい罰をアンディが食らうのは、これが初めてのことだった。最後のほうは流石に指が痺れてきたが、アンディはソフィおばさんのことを思うと、途中のつらさをどうにか克服できたかもしれない。というより、束の間楽しい瞬間さえあった。だが、歴史の成績についてアンディは、一年級の頃より常にAプラスであったとはいえ、今学期はもしかしたらA、もしくはAマイナスかもしれないと心の中で溜息を着いた。教師にもよるのだが、正式なテストなどよりも普段の授業態度によって成績表の評価をつけるタイプの先生がおり、ベンジャミン・アダムスは明らかにそちらのタイプであった。つまり、テストの点数で仮に100点を取ったとしても、普段の授業態度が悪ければBくらいの成績で終わる可能性もあるということである。
(他の歴史の先生はみんな好きなタイプの、話せる先生ばかりなのに……唯一アダムス先生だけはな。あの先生、いまだにユトレイシア大の黒い角帽に法衣を着て寮内をうろつくことのある変人だってだけじゃなく、同じ教師連からも堅物として倦厭されてるって話だし。なんにしても、みんながもう一度描いたアダムス先生の絵をもらえたのは良かった。もし今学期の歴史の成績でAプラスをもらえなかったとしたら、それはかくかくしかじかの理由によると、僕はソフィおばさんに説明できるだろうから……)
アンディは手紙に同封された<ベンジャミン・アダムス先生御乱心の様子>の絵を見て、ソフィがきっと大笑いするに違いないと思うと愉快だった。どの道ソフィは自分の成績がすべてCやDなどしか並んでいなかったとしても、「次に頑張ればいいわよ」くらいにしか言わないと知っている。だがいまやアンディには、これから先何年もかかる壮大な夢があった。ユトレイシア国立大学を卒業したという肩書きは、将来立派な職に就き、ソフィに十分楽な暮らしをさせてやれるだけの切り札となるだろう。そう思うとアンディは勉強にも熱が入ったが、それでも四番以上の成績にはどうしてもなれないという歯痒さを噛み締めてもいた。
こういう時ふと、夢想の中にソフィが現れるということがアンディにはよくあった。そして彼女は口を開いてこう言うのである。「五十二名もいる生徒の中で四番だなんて凄いじゃない」、「国内一の名門校に息子が通ってるってだけでも、おばさんとても嬉しいわ」……といったようなことを。こうした言葉は過去に実際、アンディが言われたことのある科白ではある。だが以前と決定的に違うのは、今ではそうした夢想の中に性的な要素が含まれているということだった。彼女が彼の名前を呼ぶ時、そこにはどこか艶かしいような優しさが含まれている。そしてキスして欲しいというように彼のことを誘った。唇だけではなく、ソフィの胸――というよりも、胸の谷間の白い肌に浮き上がった青い静脈もまた、彼に優しく誘いをかけた。「いつか、わたしを貴方のものにしてちょうだい」というように……。
アンディはこうした夢想にどっぷりと耽りつつ百行清書をこなしていたため、誰もいない教室の入口に、一学年上の生徒であるデイモン・アシュクロフトが立っていることに気づかなかった。彼はチェスの名手であるだけでなく、美少年として校内で非常に目立つ存在であり、一部では「男も女もどっちでもイケるらしい」という噂まで立っている少年だった。ちなみに父親はユトランド共和国の現国防大臣を務めており、本人は将来的には政治家になるらしいという専らの噂であった。
「あの人、ゆくゆくはダミアンになるつもりらしいよ」
西階段の脇にある非常口でアンソニーが煙草を吸っていると、そこにデイモン・アシュクロフトが一度やって来たことがあった。彼は一本煙草を吸うと、どうということもない世間話を下級生にひとつふたつばかりしていなくなったのだが――そのあとにアンソニーがポツリとそんなことを言ったのである。
「えっと、でもあの人の名前はダミアンじゃなくて……」
と、そこまで言いかけて、アンディは口を噤んだ。彼は仲間内では<アッシュ>と呼ばれており、一度教師がデイモンとファーストネームで呼んだところ、物凄い目で睨んで相手教師を黙らせたというのは有名な話だったからである。
「あー、そっか。アンディはホラー映画なんて見なさそうだもんな。ほら、ホラー映画に『オーメン』ってのがあるじゃん。あれに出てくるダミアンくんが世界の政治を後ろから操ろうとしてたのと同じく、アッシュ先輩はユトランド共和国の政治を裏で牛耳りたいらしい。で、目ぼしい政治家とか実業家の息子なんかに声をかけてさ、我がフェザーライル校の闇の組織といわれるダークフェザーテンプルに誘うんだって。会の会員として認められると、夜中に裏の校庭にある秘密の洞窟で会合を行ったりするらしいよ。で、仲間同士で絆を強めあい、ユトランド共和国を将来的にどう牛耳っていったらいいかとか、そんな相談をするんだって」
この時アンソニーの話を聞いていて、アンディが一番驚いたのが――ネイサン・ハートフォードが卒業する前までこの闇の会の会長を務めていたという話だったかもしれない。
「なんで俺がこんな話を知ってるかっていうとさ、ここで煙草を吸ってると時々……今みたいに先輩たちの誰かがいることがあって、それで小耳に挟んだってわけ」
確かにアンディがアンソニーにつきあっていると、他の隠れ喫煙者たちがここへやって来ることがあった。そして煙草を吸おうとしないアンディのことを奇妙な目線で眺めたり、「副流煙で肺ガンになるなよ」などと笑いながら去っていったりしたものである。
アンディが西階段の非常口そばでデイモン・アシュクロフトと出会ったのはただ一度きりのことではあったが、チェスを通して結構会話していたため、先輩の中でも割と親しい部類に彼のことを数えてもいいはずであった。もっとも、彼には一見親しくなったように思えて、底の知れない何かを他人に感じさせるところがあったため、アンディは彼のことを「割と親しい先輩」とは、口に出しては言えない気がしていたのだが……。
教室の窓から西日の差す中、アンディが百行清書に打ち込んでいると、不意に<アッシュ>ことデイモン・アシュクロフトがそば近くに寄ってきた。だが最初、アンディはあまりに自分の夢想に夢中になっていたため、彼がそばに近づいてきたことにまるで気づかなかった。
「やあ、君らしくもなく一体なんの罰を受けたというんだい?」
もし目を閉じて聞いたなら、男とも女ともつかない甘い声で、デイモン・アシュクロフトは話しかけてきた。黒い髪に黒曜石のような瞳をした彼は、西日の中でギリシャ神話の美少年の像か何かのように見えたものである。
「これは、その……」
ソフィとはまたまったく別の美の塊が近づいてきたことに、気構えが出来てなかった分、アンディは狼狽した。チェスの勝負をしている時には、こうした彼の美貌にアンディが惑わされることはない。だが今彼は心理的にあまりに無防備だった。
「まあ、歴史の時間にちょっとやらかしましてね。アダムス先生の素敵な似顔絵が僕のところまで回ってきた時、ちょうど運悪く先生に見つかってしまったというか……」
「ふうん。あの老いぼれの授業はさぞかし退屈だろうね。僕もニ学年の時はあいつの睡眠授業に随分やられたよ。時折、こうさ、シャープペンシルの先で自分の指先を突き刺してやらないと、どうにも目蓋が重くてしょうがなかった。しかも本人にはどこか、それを楽しんでるような節さえあるんだからな。噂によると奴さん、閻魔帳に生徒ひとりひとりの相当細かいことを書きつけてるらしいぜ。『デイモン・アシュクロフトの奴は生意気だ。口では自分を教師として敬いながら、目では軽蔑しきってやがる。こんな生徒はテストの点数がいかによくともAプラスなぞ絶対につけてやるものか』――というわけで、あいつが歴史担当の時、僕の成績はいつもAマイナスだった。百点を取ってさえそうだったんだから、あいつはまったくカス以下の存在だよ」
「アダムス先生の閻魔帳を実際に見たことがあるような口ぶりですね」
「もちろんあるとも」と、デイモンはアンディの机に片手をかけ、もう一方の肩を竦めて言った。「フェザーライルの警備は相当な旧式だからな。生徒のことをそれだけ信頼してるってわけだ。そこで僕はだね、夜中に寮をこっそり抜けだし、職員室のアダムスの机を開けてその閻魔帳を見たってわけさ。他の生徒の記述なんかもパラパラ読んで気づいたんだが、奴さんは目が節穴なんだな。たとえば――これはあくまでもたとえばということだが、君の友達のアンソニー・ワイルが一見成績のよろしくないワルのように見えて、実は光るところを持った生徒だとか、あいつにはそういうことを見抜く才覚がまるでないんだ。あんなに四角四面で判子を鉄槌か何かみたいにまったく同じところに押せる人間も珍しい。まあ、そんなわけだからあんな低脳に百行清書を命じられたからって、何もめげることはないよ」
「僕もたぶん……今学期の成績は仮にテストで百点を取ったとしても、いいとこいってAマイナスという気がします。だって、こんなものをアダムス先生に見つかってしまったんですから」
アンディは最初、まったく見せるつもりのなかったもの――ベンジャミン・アダムス御乱心の様子――の漫画絵を思わずデイモンに渡していた。途端、哄笑がデイモンの喉から迸り出、アンディもいささか驚いてしまった。もしかしたら意外に彼は笑い上戸なのかもしれない。
「なんだ、これ。最高じゃないか、フィッシャーくん。これを三学年のみんなにも……いや、あいつの睡眠授業に苦しめられた全生徒に見せてやりたいよ。なんだったらネットで流してみるとか」
「流石にそれは駄目ですよ。これはあくまで内輪受けを狙ったもの、アダムス先生の睡眠授業を笑いで紛らわすために描かれたものなんですから」
「確かにそうだな。第一、もしそんなことをしたら君がいの一番に疑われて、今度は百行清書なんかじゃ到底済まない重い罰を受けそうだもんな。なんにしても僕はね、フィッシャーくん、君に個人的な話があったのさ」
「個人的な話、ですか」
アンディは少しびっくりして、あらためてデイモン・アシュクロフトの顔を見上げた。短いのに、どこか女のような黒い髪をゆらめかせ、彼はどこか魅惑的に――というか、見ようによっては悪魔的に――微笑んでいた。
「君、最近少し変わったんじゃないかい?」
デイモンのような美少年にそう問われ、アンディはかなりのところドキリとした。アンディにとってここ最近の一番の変化といえば、それは何よりも性的なことだった。性的な目覚め……それはアンディの場合かなり遅かったと言えるだろう。アンソニー・ワイルの場合は周囲の環境が悪かったにせよ、彼はかなり早く、八歳の時にはそのことに目覚めていた。ところがアンディの場合、例のはしかの病気を境に、突然第二次性徴がはじまったようなところがあり、あの時と同じような清らかな気持ちでこれからもソフィと接していきたいという気持ちと、それ以後に抱いた義母に対する性的思いの狭間で引き裂かれ、苦しんでいたのだった。いや、苦しんでいたなどといっても、それは多分に甘いところのある、甘くて苦い、複雑な味のするものではあったのだが。
「どうして、先輩にそんなことがわかるんですか。第一、学年も違うのに……」
「そりゃわかるさ」と、事もなげにデイモンは言った。「君は僕同様、どちらかといえば目立つ生徒だ。チェスのことでもそうだし、テニスのことでもそうだね。それにルックスもいい。そして学年は違っても、僕らはスポーツや何かを通して時々一緒になるし、食堂なんかでも顔を合わせる……君もそうだろうけど、そういう時に思わず視線が惹きつけられる生徒っていうのはいるものさ。僕の見たところ、一学年じゃ君が一番だね。ザカリアスもいい奴ではあるよ。でも僕は彼みたいな生徒をわざわざ――闇の会に誘いたいとまでは思わない」
自分が思った以上にデイモン・アシュクロフトから買われていると知って、アンディは驚くと同時に嬉しかった。そしてその嬉しさにはどこか、ソフィに褒められた時にも似た、甘美な響きが入り混じっていたのである。
「……闇の会って、ネイサン先輩が卒業するまでは彼が会長だったっていう……」
「そうなんだ。あの人、一見いかにも穏やかそうでさ、同級生受けも下級生受けも教師受けもいいって人だったけど――ああ見えて結構怖い人だったんだぜ。僕は彼の指名を受けて今は闇の生徒会の会長なんてのをやってるけど、ネイサン先輩に比べたら、まあ僕なんかまだまだひよっ子だね。君宛の郵便受けのところに正式な会への招待状を挟んでおいたから、まあ気が向いたら来てくれ」
アンディは百行清書をすでに終えてはいたが、デイモン・アシュクロフトがいなくなってからもⅡ組の教室で暫くぼんやりしていた。おそらく、闇の生徒会から声がかかるなど、とても光栄かつ名誉なことに違いなかったが、なんとなく部活動以外に厄介な活動事が増えたようにも思え、アンディは鉛筆を器用にくるくる回しながら(どうしたものかな)と考えていたのである。
(いや、ダークフェザーテンプルとやらには、僕も興味はある。けど、夜中に抜け出して裏の校庭で落ち合うだなんて、本当にそんなことが出来るんだろうか。もちろん、同室者がふたりとも会のメンバーだっていうんならいい。けど、アーサーは僕が夜にこっそり外へ出たりしたら、三度目あたりには「自分の良心にかけて先生に言わないわけにいかない」といったことを口にしだすだろう。まあ、そうした細かいことは後でまた考えるとして、僕はまず今日はこの百行清書に反省文を添えてアダムス先生のとこへ持ってかなきゃだな)
アンディは西日の完全な美しさと魔力が教室から去ってのち、首をコキコキ鳴らしたり、肩のあたりを手で揉んだりしながらⅡ組のクラスを出ていった。これからテニス部へ直行し、遅れた理由を部長や顧問の先生に説明せねばならない。おそらく級友のひとりがすでにその旨報告してくれているに違いないが、アンディにしてみれば百行清書などまったく時間の無駄以外の何ものでもなかった。他校との練習試合も近いことだし、この時間をテニスの練習に当てることが出来たほうが、どれほど有意義なことだったろうと、つくづくそう感じる。
そしてアンディはこの時、まったく気づかなかった。気づいたのは部活動を終えてシャワーを浴び、食事を済ませたあと、自習室で勉強したのちのことである。部屋でソフィおばさん宛てに手紙を書き、最後に例のアダムス氏の滑稽な漫画絵を同封しようとして、それがなくなっていることに気づいたのだ。
アンディは教科書という教科書、ノートというノートを引っくり返したが、やはり例の漫画絵は見つからなかった。教室へ引き返し、体育館へと続く廊下を辿ってみたりもしたが、やはりないものはない。無論、ベンジャミン・アダムス御乱心の体などアンディにとって何がなんでもなくては困るという類のものではない。他の生徒、あるいは教師が拾ったにしても、「ぷっ」と笑ってから他のみんなにも見せるといった程度で被害は食い止められるに違いなかった。
だが、結果としてその漫画絵はインターネットの世界に流出してしまったのである。それも「名門校の破廉恥教師の姿」というタイトルで、私立校をバッシングしている系統のホームページで画像がアップされてしまった。「変態!」、「絶対コイツ独身だろ」、「女装癖のある教師、キモい」、「これが我が国最高と言われる私立校の教師の姿」などなど、ひどい書き込みがそのあとには長く続いていた。
もちろん、アンディはそんなことをまったく知らずに、その後の一か月ほどを過ごしていた。そして学期末テストも終わり、あとは春休みの訪れを待つばかり……という頃になって、突然校長室へ呼ばれたのである。この時アンディはとても上機嫌で、何か良いことのためにアームストロング先生は自分のことを呼んだのだろうという気がしていた。アンディはこの校長と実に気が合い、アームストロングは全校生徒を折に触れ、順に自分の部屋へ呼ぶのだったが、アンディはこの居心地のいい場所で美味しいスコーンや紅茶を御馳走になったといったような、楽しい記憶しかなかったのである。
ところが、校長室に入ってみると、アームストロングは机の上で気難しい顔をして手を組み合わせており、何より、すぐその脇に顔が青ざめているのと同時に、どこか朱が差してもいるような顔のベンジャミン・アダムスが控えていたことで――アンディもまたサッと顔を深刻な表情に変えるということになったのである。
「すまないが、インターネットのこちらの画像を見てもらえるかね、フィッシャーくん」
青いスーツ姿の校長は、マホガニー製の机にのったノートパソコンを、アンディにも見えるようくるりと回転させた。アンディは一瞬「あっ!」と息を飲んだ。今度ばかりは流石に笑いなど、少しもこみ上げては来なかった。
「ぼ、僕はね、フィッシャーくん」と、すっかり狼狽した様子でアダムスは言った。「確かにこんなことも今学期、あるにはあったが、君にはちゃんとAプラスの成績をつけたよ。君がまさか、罰のことを恨みに思って、こんなことをするなどとは、夢にも思ってみなかった」
「違います、僕じゃありません、アダムス先生。そりゃ百行清書は面倒でしたし、こんなことで手首を痛めてテニスが出来なくなったらどうしてくれるとか、そんなことを少しくらいは思ったにしても……だからって僕は、匿名でこんな卑劣な真似をしたりはしません」
アンディは自身の身の潔白を証明するため、目に力を込めてアームストロング校長とベンジャミン・アダムスとを見返した。目を逸らして狼狽したりすれば、それこそ犯してもいない罪を認めることになると、そう思ったのである。
そうして三者は数秒の間見つめあったままでいたのだが、最初に視線を外したのはベンジャミン・アダムスであった。彼は心底ほっとしたような顔をして吐息を洩らし、額の汗を拭っていた。
「いいんです、校長――僕はね、自分が信頼してる生徒に裏切られたことが一番ショックだったんですよ。フィッシャーくんは普段の素行もいいし、他の生徒とは明らかに出来の違う子です。そういう自分が見込むところのある生徒に裏切られたというんでないのなら、別に僕は構わない。もっともフィッシャーくん、懺悔するなら今のうちでもあるがね。これから、一体誰がこういうことをしたのか、調査の手が入ることになっているものだから」
「調査の手って?」
この時アンディは何故だか良心の痛むものを感じていた。確かに、あの漫画絵を再度復元したものを紛失したのは事実ではある。だがそうしたことではなく、自分はもしやこの堅物の教師に対して誤った心象を抱いていたのではあるまいかという気がして、良心が痛んだのである。
「事と次第によっては警察に調査してもらい、犯人を特定することになるかもわからないということだ。もしうちの生徒がこの画像を投稿したというのなら、IPアドレス――つまり、パソコンの住所みたいなものがだね、うちから送信されたということがわかるはずなんだよ。明日、全校生徒を集めてわたしはこの話をして犯人は名のりをあげるようにと促すつもりだ。何分、このことを知らせてきたのは、我が校のOBに当たる先輩たちなのだよ。名門としての誇りを保ってきたフェザーライルも落ちたものだと、みな一様に落胆していてね……その手前もあってこの件は、もしかしたら厳罰に処すということになるかもしれない」
「あの、僕……確かに先生の絵を失くしはしました。ええと、非常に言いずらいのですが、みんながあの絵をもう一度描いて僕にくれたというか……でも僕がその日寮の自分の部屋へ戻ってみると、なかったんです。僕のおぼろげな記憶としては、歴史のノートに挟んだはずだというくらいのもので……何分百行清書のあとで疲れてもいましたし、今はもう記憶のほうも相当曖昧なんです。ただ……」
アンディはここでハッとした。確か自分はその前に、デイモン・アシュクロフトにアダムス先生の絵を見せたのだ。そして彼は言っていなかったか?この画像は是非ネットにでも流すべきだといったようなことを。
「ただ、なんだね?」と、アームストロングはいつになく厳しく強い口調で言った。アンディは尊敬する校長先生からこんな態度で当たられたことがなかっただけに、なおのことつらいものを感じた。「もし君が誰か庇っている人間がいるというのなら、ここで今すぐ名前を挙げたまえ。紳士らしく正直に最初から自分の罪を告白するというのならばいざ知らず、最後に言い逃れが出来なくなってから白状する……そんな生徒は我がフェザーライルに相応しくない。即刻退学してもらうということになるだろう」
「そんな……っ!!」
今となってはアンディは、胸ポケットからハンカチを取りだし、額を拭っているアダムスなどより、普段から親しみと尊敬の念を感じているアームストロング校長のほうがよほど恐ろしいように感じていた。校長室に最初足を踏み入れた時は、まったくこの真逆だったような気がするのだが。
「厳しすぎるというのかね?わたしはね、フィッシャーくん。生徒が教師の物真似をしたり、おかしな似顔絵を描いたりといったことは、まあどこの学校にでも普通にあることだと考えているよ。だが、インターネットに流出させて我々教師を生徒が笑いものにするというのは決してあってはならないことだと思っている。わたし自身がもし教師としてそれに類することをされたとすればだ、非常に傷つくし、「あんなことはすぐみんな忘れるさ」といかに自分に言い聞かせようとも、暫くの間はそのことが頭を離れんだろうね。犯人がすぐ自分から名乗りをあげてくれればいいが……そうでない場合、停学処分とするところでも退学とせざるをえないかもしれないんだ」
「……………」
アンディは言葉を失った。そして、あの紙を本当に失くしたかどうか、もう一度探してみるのと同時に、記憶のほうを丹念に甦らせてみようと思うといった約束を、校長とアダムスの双方と交わしたのであった。
アダムス先生はアンディと一緒に校長の邸宅を出ると、松の林を抜けて寮のほうへと戻った。ベンジャミン・アダムスはハウスマスターのひとりでもあるので、普段あまり意識したことはないにしても、彼とは本来ならもっと親しくしていておかしくないはずであった。事実、他のハウスマスターとは、アンディは割と打ち解けた話をしていたし、他の生徒などはもっと深い悩みごとの相談などもしているようだった。だがこのアダムス先生はといえば、ようするに生徒たちに人気がないのである。けれど、おそらくはまったく同じ思いで卒業していったであろうフェザーライルの卒業生たちが、これだけ文句を言うのには、それなりに理由があってのことだろうと、アンディはそう理解していた。
「僕が教師になってすでに、二十数年もの時が流れたけれどね、まあこの間色んなことがあったよ。僕は小さい頃から日陰者の人生を歩んできて、それは教師になってからも変わらなかった。けどまあ、生徒たちの中にもまた、そういう子ってのはいるもんだ。僕はそういう子たちに対して、「それでも人生どうにかなるもんだ」ってことを教えてあげられるんだよ。もっとも、フィッシャーくんのように目立つ日向で咲くタイプの子には、ちょっとわかりにくいことかもしれないけどね……」
松の林の間の埃っぽい道を歩く間、ベンジャミン・アダムスはそんな話をしていた。よく考えてみると、彼もまたこのフェザーライル校の卒業生なわけで、それなりにスポーツのほうもよくこなしていたはずである。アンディは初めてそのように思い至ると、「得意なスポーツ科目はなんだったんですか」などと、初めてアダムス先生と<普通の>会話をしたのだった。
「膝を痛めるまではバスケットをやってたよ。万年ベンチの控えの選手ではあったけど、他に陸上競技も得意だったな。あとはマラソン。このフェザーライル校にいて僕が唯一輝けたのが、三年級の時に一位になったここリース湖近辺で行われるマラソン大会だったんだ」
このあと、アダムスが自分の部屋へ寄っていけとしつこく言うので、アンディは初めて入る彼の部屋で、ミルクティーを御馳走になりつつ、歴史や哲学の話をえんえんとした。アダムスは特にこれといって面白いことを話すわけでもなかったが、それであればこそ感じられる安らぎや親しみやすさのようなものがあると、アンディは初めて気づいた。そして、彼が自分の口でそう言ったわけではないのだが、あの漫画調の絵のことなどは、彼にとってはそう大したことではないようだった。自分を赤いトサカの立ったニワトリとして描かれたこともあったし、教師といったものはそんな程度の生徒の悪戯をいつまでも執念深く覚えてはおられんと言い、「そんなことよりも、むしろ校長先生のほうが御立腹でね」と、これから裁かれる生徒のことのほうを心配しているようだった。
アダムス先生が昔飼っていたという、フクロウの剥製が見守る部屋で、アンディはミルクティを大体飲み終わろうかという頃――思わず、話の前後の脈絡関係なく(実際その前にはローマの五賢帝について話していた)、こう問いかけてしまっていた。
「その、先生……先生は三年級のデイモン・アシュクロフト先輩のことをどうお考えになっておられますか?」
アンディの心臓はこの時、いつになく踊っていた。彼の話した例の閻魔帳の件――あれは実は少し違うのではないかという気がしたのだ。アダムス先生が日記のようにつけている閻魔帳と照らし合わせて生徒の成績を決めるというのは有名な話であったが、むしろ逆に彼のことだけ的確に性格を見抜くようなことを書いてあったのではないだろうか?それでプライドの高い彼は、今回軽い復讐の意味をこめて、あの絵をインターネットに流したのではないかという気がしたのである。
「まあ、こんなことはあまり教師が言ってはいけないんだがね」
アダムスは全体に茶色い家具ばかりの配された、本と書類ばかりの部屋で、これもまた茶色いアンティークな革のソファに深々と身を沈め――すっかり寛ぎきった様子でこう本音を洩らした。
「彼は一言でいえばまあ、<魔少年>だね。彼の美貌や話術にみな夢中になるが、アシュクロフトくんにとって人間関係というのは言わばチェスの駒みたいなものなんじゃないかね。彼は将来政治家になる予定だそうだが、僕には今から目に見えるようだよ。アシュクロフトくんがチェスの駒よろしく都合が悪くなった時に周囲の人々を捨てていく姿というのがね」
アンディはここまでアダムスの話を聞くと、「すみません、僕、急用を思いだしました」と言って、ハウスマスターの部屋を辞去した。この退出の仕方はいかにも不自然なものだったが、アダムスが気を悪くしなければいい、などとはアンディはまったく思わなかった。何故といって、アダムスは基本的に夢想家なので、アンディが部屋を出た五分後にはおそらく、夢の梯子に捕まり、その天辺にあるものを垣間見る思想的作業をしているに相違なかったからである。
(デイモン・アシュクロフト……彼が犯人なのだろうか?)
アンディは一度そう疑ってはみたものの、アダムスの部屋を出て廊下へ出るなり、その可能性はあまり高くないように思われた。何故といってアンディは、確かに彼からあの漫画絵を返してもらったはずだし、自分の目を盗んでこっそりそれを彼が盗みだすといったような芸当は、あの場合出来ようはずがないように思われたからである。
(しかし、人間の記憶ってのはまったく曖昧なもんだな。一か月前にあったことですらすでに記憶の彼方とは……僕にはあの時、オレンジ色の綺麗な西日の中で、憧れの一年上の先輩といい話をしたといったような印象しか残っていない)
そしてアンディは、彼にこのことを問い詰めたほうがいいのかどうかと、寮のF号室でひとり煩悶した。もちろん、部屋には同室者であるアーサー・ウォルシュもいたのだが、アンディは彼は存在しないものとして自分ひとりの世界に浸りこむことに、すっかり慣れていたのである。
(もちろん、<確かめる>こと自体は簡単だ。まずは軽い調子でこう聞けばいい。「あの漫画絵の画像をアップロードした犯人を校長が躍起になって捜していてさ。見つかった暁には退学処分だってことらしいよ」……もし彼が犯人なら、さらに色々と僕に探りを入れてくるだろうから、その過程である程度、彼が犯人かそうでないかは見当がつくような気がする。けど、もし彼が犯人であるとわかったとして、果たして僕はどうするのか……いや、どうしようがあるのかという点が問題なんだ)
例の、ダークフェザーテンプルの集まりに、アンディはすでに二度ほど参加していた。会合は常に満月の夜に行われ、詩や文学、哲学や政治についてなど、真面目な討論が長時間に渡って続けられた。正直、<闇の会>などと言うから、てっきりアンディはもっと黒魔術的な要素のある入会の儀式であるとか、何かそんなようなことを想像していた。だが、最初に届いた黒に銀の文字で描かれた封筒の中には、会の開催の日時や場所が書き記されていただけであり、入会の儀式のほうもまた、「自分が今悩んでいることや弱みについて話す」という、それだけであった。
アンディは中央の岩のテーブルの上に置かれたランタンの光が届く場所で、十数名の生徒たちに囲まれる中、自分の義母に対する欲情を抑えられないといったような話をした。アンディにとってこのことはあまりに切実なことだったので、彼はいかにも真面目な口調で話したのだが、周囲の上級生たちの受けがすこぶる良かったのである。
「俺なんか、小学三年までおねしょが治らなかったって話をしたってのに」
「僕は中学の時に万引きしたって話」
「アッシュが十三の時に人妻と寝たって話ほど刺激的じゃないにしても、その次くらいにはイケてる話だよな、確かに」
『イケてる話』などと言われ、アンディは軽くムッとしたが、周囲の生徒たちにとってはそんな彼の反応すら面白いようであった。会のメンバーはみな、政財界の大物の子息ばかりであり、その中には映画配給会社社長の息子であるボビー・ボールドウィンの姿もあった。そしてここでアンディは、何故自分が<闇の会>のメンバーのひとりに選ばれるに至ったかを知った。ダークフェザーテンプルの会員となるためには、同じ会員の推薦及び、すべてのメンバーの過半数の同意が必要であり、アンディの場合はほぼ満場一致で採決が取られたということであった。
話は最初、アンディの義母のソフィのことに集中したが、「義理の母親のどんなところにグッと来るのか」などと聞かれ、アンディは真面目に話したことを後悔したものである。おねしょや万引きなど、実はちょっとしたことで構わなかったと知らなかっただけに、つい話し振りにも熱がこもってしまった。
彼が会長なので当たり前といえば当たり前なのだが、議題のほうはデイモン・アシュクロフトによって進められ、その日はユトランド共和国の政治について長く討論された。これと同じことなら、<闇>ではなく、<光>の表サイドでもまったく似たことが行われていたが、会の特徴として重要だったのはやはり、実際にこれから巨額の富を動かして政治や実業界の大物になる子息の「考え方」を知ることが出来るという点だっただろうか。
たとえば、デイモン・アシュクロフトと同じ、父親が上院議員のカルヴィン・フェレーラなどは、理想高く「イエス・キリストが子羊を導くような王国」を築きたいといったことについて熱弁を振るっていた。無論、聞いている周囲の生徒たちは――特にアメフト部のクォーターバックであるチャーリー・クロフォードなどは――小指を耳の穴に突っ込み、いかにも「ナンセンスだ」といった仕種をしてみせたし、彼が理想に挫折する日が目に見えるようだといった顔を、みな一様にしていたものである。
だがこういう時、意外にもアシュクロフトは「自分も政治家になった暁には君の高邁な理想に貢献しよう」といったようなことを口にして、メンバー全員の思想の均衡を保つのであった。次に<闇の会>が満月の夜に開催された時、アンディは新人として討論の議題を任されることになった。というのも、アンディが義母への愛について熱弁を振るったことをみなが面白がり、次は是非アンディに議題のほうを任せようじゃないかということになったのである。
そこでアンディは、その時たまたま読んでいた仏教の本の中から、自分なりに「こう思い、考えた」といったことを話すことにしてみたのである。つまり、我々が暮らすキリスト教圏内では、「~すべからず」という禁制があまりにも多い。だが、仏陀が説いた四諦八生道をキリスト教の思想と合わせてみると、そう脅迫的になることもなくイエスの教えを実践できると説いたのである。
「四諦(したい)とは、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の四つのことで、諦とは真理(悟り)という意味なんだ。まずこの苦諦というのは、人生は苦しみであるという真理を指している。これは四つ、あるいは八つの苦しみに分けられていて、四苦とは、生老病死、すなわち、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみのことを指す。そして八苦っていうのが……」
アンディはわかりやすいように、わざわざノートに大文字で書いた文章を順に指差していった。
・愛別離苦(あいべつりく)――愛する人と別れなければならない苦しみ。
・怨憎会苦(おんぞうえく)――嫌な相手と会わなければならない苦しみ。
・求不得苦(ぐふとくく)――欲しいものが得られない苦しみ。
・五蘊盛苦(ごおんじょうく)――肉体と精神が生み出す苦しみ。
「先に言った四苦にこの四つを加えたものが八苦。で、集諦(じったい)っていうのは、人生の苦しみ(苦諦)の原因に関する真理で、様々な煩悩や執着によって苦しみの原因を実は自分自身が作りだしていると気づくことが重要だってことらしい。滅諦(めったい)とは、苦の滅した状態、すなわち涅槃の境地のことをさす。仏陀はあらゆる苦脳や束縛から離れた状態を滅諦(めったい)としてとらえているんだ。それから道諦(どうたい)とは――こうした人生上の苦しみを滅するための方法についての真理っていうこと。すなわちこれが八正道と呼ばれるもので、以下の八つ」
一、正しいものの見方(正見・しょうけん)……四つの真理(四諦)を明らかにして、原因・結果の道理を信じ、誤った見方をしないこと(世の中、人生に対して正しい智慧と見解をもって見ること)。
二、正しいものの考え方(正思惟・しょうしゆい)……欲にふけらず、貪らず、瞋(いか)らず、害(そこ)なう心のないこと。
三、正しいことば(正語・しょうご)……偽りと、無駄口と、悪口と、二枚舌を離れること。
四、正しい行い(正業・しょうごう)……殺生と、盗みと、よこしまな愛欲を行わないこと。
五、正しい生活(正命・しょうみょう)……人として恥ずべき生き方を避けること。
六、正しい努力(正精進・しょうしょうじん)……正しいことに向かって怠ることなく努力すること(今まで起こっていない悪は絶対に起こさないよう努力し、今まで起こっていない善はこれを起こすよう努力し、すでに起こっている善については、これをさらに増大するよう努力する)。
七、正しい念(おも)い(正念・しょうねん)……正しく思慮深い心を保つこと。
八、正しい心の統一(正定・しょうじょう)……誤った目的を持たず、智慧を明らかにするために、心を正しく静めて心の統一をすることである。
――アンディがここまで説明し終えると、中央の岩のテーブルにあるランタンに映しだされた上級生から口笛が上がった。
「なるほどなあ」と、感心して五年級のマルセル・ヴァンガード。彼の父親もまた政治家で、上院議員だった。「ようするにアンディが言いたいのはこういうことだろ。べつに、仏教の聖典を読んだからって、当然キリスト教を捨てるってわけじゃない。だが、キリスト教一辺倒ってことじゃなく、他の宗教ではこういうことを言ってるっていうことがわかると、また別の新しい視点からキリスト教やイエスの教えを見返すことが出来る……そうした思索の過程で、キリスト教しか知らないとその教えだけにがんじがらめにされるところがあるが、もうひとつ別の「視点」を持つことで――確かに物の見方が楽になる、確かにそういうところはあるな」
賢い先輩がそううまくまとめてくれたことで、アンディはただ黙って頷くだけで済んだ。見ると、マルセルの隣にいたデイモン・アシュクロフトもまた、彼にしては珍しく本当に感心したような顔をしている。
だがここで、ボビーがこう付け加えて茶化した。
「ま、確かにな。イエスの教えってのは、『女を情欲の目で見る者はその目を抉りだせ』ってものだからな。確かにこりゃ、今のアンディには必要な教えだぜ。何せ、義理の母親のことを姦淫の眼差しで眺めてるわけだから、仏陀の教えも混ぜてそこのところはマイルドにぼかす必要があるってわけだ」
ここで、みなの者がどっと笑うのと同時、アンディは耳まで真っ赤になった。そして、両隣にいた先輩たちから肘で小突かれたわけだが、こうしたアンディの純情さを笑うつもりは彼らにはなく、ただますますアンドリュー・フィッシャーという後輩に対し、好感を持つというそれだけだった。
そしてこのあと、アンディはさらに、仏陀の説話を続けてふたつほどした。その後、先輩たちから仏陀の生涯や仏陀の教えについての質問を受け、それらに答えているうちに――洞窟の外の世界は白々と明け初めていたのだった。
この日の議論は実に白熱し、地平線上にすっかり太陽が顔を出した頃になってようやく<闇の会>のメンバーたちは寄宿舎へ戻るということになった。ちなみにこのダークフェザーテンプルという組織は、校長公認の組織であり(現校長も在学中はこのメンバーであった)、満月の夜の集まりを仮に誰かに密告されたとしても、罰を受けるということは決してない。つまりこれもまた長い歴史を持つ名門フェザーライル校の<古き良き伝統>というわけであった。
アンディが<闇の会>の会合に参加したのは、たったの二回だけではある。だがアンディはこの会にすでに非常な親しみを感じていたし、何より、洞窟の中が実に居心地良くしつらえられていて、ランタンの明かりに照らされただけでも、何やら魔術的な気分に酔うことが出来た。また、アンディはもしアダムス先生の件に関してデイモン・アシュクロフトと対立するようなことがあったとすれば――おそらく自分はただでは済むまいとわかっていた。彼がもし退学とまではいかなかったにしても、停学処分でも食らったとすれば、自分は<裏切り者>として白眼視されながら、残り四年ほどの歳月を怯えながら過ごさねばならなくなるだろう。
(この件についてはやっぱり、うやむやにするしかないのかな)
この日、アンディはプラトンの本を読むとはなしに読みながら、そんなことを考えていた。デイモン・アシュクロフトには当然、聞くだけのことは聞いてみるつもりではあった。そしてその時の彼の反応次第によって、自分はこれから校長先生になんと言うべきかを考えねばならないと、そう思っていたのである。
「アンディ、何か悩みごとかい?」
学期末試験が終わるなり、授業以外で教科書をまったく開かなくなったアーサーが、コミック誌を手に持ったまま、ベッドの上でそう聞いた。気の利く弟が定期的に送ってきてくれるものらしい。
「まあね。でも、自分でなんとかするしかないことだから」
「そう言うなって。僕は君がこれまでに二度、夜中に寮を抜けだして、明け方に戻ってきたのを知ってるよ。けど、これも同室者の礼儀かなと思って黙っておくことにしたんだ。けどもし君が、何かのっぴきならないことに巻きこまれて悩んでるっていうんなら、話くらい聞かせてくれてもいいじゃないか。アンディ、君、今日校長室に呼ばれていたろう?それって一体なんの話だったのさ」
「うん……」
ザックであるというのならばいざ知らず、アーサーでは悩みごとの相談相手としてまったく役不足であるようにアンディは感じていた。だが彼の良いところは何より、好奇心を丸だしにして人から話を聞こうとしないことだったかもしれない。
「もちろんね、僕だってわかってはいるよ。君が本心を打ち開けるのに僕は不適切らしいってことくらいはね。僕と君とは同室者になって半年ほどにもなろうとしてるけど、君と僕との間にはやっぱり、見えない壁があるみたいだ。どうせ君もこう思ってるんだろう?ウォルシュの奴とは話してもつまんないし、こんな小物をまともに相手にしたってしょうがないみたいに」
「そんなことはないよ」
アンディは反射的にそう答えていたが、アーサーが鈍そうに見えて意外に的確に自己評価していると気づき、何故か居住まいを正していた。そして(そういえば)と、アンディはここでもひとつのことに気づく。自分は今日、アダムス先生と腹を割って話してみるまで、先生のことを「四角四面の判子で押したようなつまらない教師」といったようにずっと思いこんでいたのだ。もちろん、こうしたことに気づいて以後も、やはり彼の授業は殺人的なまでに眠いままではあるだろう。だが、もしかして<偏見>といったものは、こうしたところから生まれてくるのではあるまいか?
「いや、正直なところを言って確かに、僕は君に自分の本当の悩みなんてものを打ち明けようと思ったことはないよ。ほら、ロザリーのこともあったし……」
「そんなのはもう大昔のことさ」と、アーサーは笑って応じた。「今は弟とロザリーは結構うまくいってるみたいだよ。もしふたりが結婚したら、あいつは一生ロザリーの尻に敷かれて暮らすことになるだろうけど、そんなのは本人がそうと望んでる以上、兄である僕の知ったことじゃなし。それよりも、ほら、話してくれたまえ。僕じゃなんの役にも立てないかもしれないけど、それでも話すだけでも楽になるってことが、人には誰しもあるものだろ?」
「確かに、君の言うとおりかもしれない」
アンディは校長に呼ばれた経緯と、もしかしたらアダムス先生の漫画絵をネットに流したのはデイモン・アシュクロフトかもしれないといった話をした。それで、自分はどうするのがもっとも道義に適ったことなのかと、たった今プラトンの本を読む振りをしながら悩んでいた……といったことをかいつまんで説明したのである。
「そうかあ。なるほどねえ」
ここで初めてアーサーは、同室者に悩みごとを打ち明けられた兄貴分のように、どこか満足そうな顔をした。だが、すぐにまた至極真面目な顔つきに戻り、優秀な学校カウンセラーよろしく、アンディの身になって色々なことを提案したのである。
「僕はアンディ、当然君自身ってわけじゃないから、むしろ逆に見えるものが少しあると思うんだ。つまり、まず小心者の僕が一番に思うのはだね、デイモン・アシュクロフト先輩には逆らえないっていうことさ。彼がまあ、来年に卒業する六年級の生徒だっていうんならまだしも、一年上ってだけじゃ、特にね。君、あれだけ他の生徒に影響力を持ってる人に逆らう勇気なんてるあるかい?何分この閉鎖的な寄宿舎なんて場所じゃ、学校のグラウンドとか廊下とか、図書室とか食堂とか、どこでも顔を鉢合わせる機会がてんこ盛りだよ。ゆえに、僕だったらまずアシュクロフト先輩には楯突いたりしない。そうだ、アンディ、君、こうしたまえよ。アシュクロフト先輩とその件について話して、彼がどうも犯人っぽそうだと思ったら、特に何もせずに黙っておくのさ。校長先生は明日にでも臨時で全校生徒を集めて、その話をするんだろう?で、警察の手が入るってんなら入るでどうぞお好きなようにやってもらえばいいのさ。結果としてもし先輩が捕まったとしても、アンディ、君が何も直接手を下したってわけじゃないんだから、君はこれからもこの一流校の目立つ生徒のひとりとして陽の光の下を安心して歩んでいけるというわけさ」
「……なるほどね。アーサー、君の意見は実に参考になったよ」
自分で言っているとおり、小心者らしい彼のいかにもな説得力ある理論であった。だがアンディは確かに、アーサーの言うことにも一理あると思った。それから就寝時間となり、ベッドの中に入ってからもアンディはこの件について考え続けた。すると、アンディの着いた溜息を聞きつけたアーサーが、さらに参考になる意見をひとつ述べてくれたのである。
「アンディ、君は僕以上に真面目ないい人間だからさ、こう考えてるんだろう?自分の身の保身のことなどではなく、道義的に正しいことであるとしたら、自分は正義を行わねばならない、なんていうことをさ。けど、そんなこと考えないほうが君の身のためだってことだよ。なんでって、たぶん警察が介入してもしなくても、犯人はわからずじまいで終わるだろうからね。僕がなんでこう言うかわかるかい?理由その1、アームストロング校長は警察云々といったことを明日生徒全員に向かって言うだろうけど、そんなのはただの脅し文句であって実際は警察まで入ってくる可能性は低い。理由その2、我が校は携帯電話持ちこみ禁止だけど、実際は隠れて所持している生徒が少しはいる……イコール、うちの学校のパソコンルームの履歴をいくら漁ったところで犯人は出てこない可能性が高いってことさ。このふたつが、君がアシュクロフト先輩に楯突かないほうがいいと僕が思う一番の理由だよ。第一、あんな頭のいい人が証拠を残すような真似をするはずがない。だろ?」
「うん。ありがとう、アーサー。なんか僕、君に対して随分誤解してたみたいだ、ごめんな」
「まあ、べつにいいさ。そのうち、もし機会があったらユトレイシアにあるうちの屋敷にも遊びに来いよ。割とザックの家から近いんだぜ。弟のクリスのことは気にしなくていいから。っていうか、あいつ、むしろ逆に今じゃアンディに会いたいって。ロザリーがいまだにアンディ病の後遺症を引きずってるから、実際に本人のことを見てロザリーを虜にする参考にしたいんだってさ。僕に似て実に馬鹿だろう、うちの弟って。でもああいう単純さは人から愛されるのにいいよ。その点僕は、人より少しひねくれちゃったかもなあ」
「そんなの、アーサーよりも僕のほうがずっとひどいよ」
この日、アンディとアーサーは同室者になって初めて、互いに笑いながらそれぞれのベッドの中で眠った。そしてこの翌日、講堂で校長先生による臨時の講話があってのち、アンディはデイモン・アシュクロフトが所属しているフットサル部へ彼に会いにいった。テニス部の練習が終わってからフットサル部のほうへ行ってみると、下級生たちがグラウンドの整備など、後片付けに追われているところだった。
「校長の例の話を聞いて以来、たぶん君が会いに来るだろうと思ってたよ」
シャワーを浴び、濡れた髪のままシャワー室からロッカー室へ出てきたデイモン・アシュクロフトは、どこかあやし気な雰囲気さえ帯びていた。上級生たちが「俺、ゲイじゃないけど、アシュとはいけるかもしれないな」と笑って言い合うのがよく理解できる、ギリシャ彫刻ばりの美少年そのものの肉体美を彼は誇っていたからである。
もちろんアンディのほうでは知らない。大抵の人間が自分の美貌の前に無条件に平伏すというのに、アンディだけは「それとこれとは別のことだ」というように、冷静にこちらを眺めてくるのを彼が楽しんでいる、などということは。
「あの画像、アップしたのは僕だよ。けど、校長の奴も案外馬鹿だよ。あの警察云々ってのは脅しだろうけどね、でも万一そんな不名誉な事態がこの伝統あるフェザーライル校に許された場合……捕まるのは結局冤罪者だからね。なんでって僕、パソコンルームで手に入れた、他の生徒のIDでその画像を流したからなんだ。可哀想に。彼、繊細だからたぶん、そんなことになったらひどく傷つくだろうな」
「君は、自分の言ってることがわかっているのか」
他のフットサル部の部員たちは、おのおの自分たちの馬鹿話で盛り上がっていたため、ロッカー室の片隅でされているデイモンとアンディの深刻な会話にはまるで気づいていない。
「もちろん、わかっているとも、アンドリュー・フィッシャー」と、アンディのほうを見もせず、着替えを続けながらデイモンは言った。「君には、ここにふたつばかり選択肢がある。今僕が言ったとおりのことを校長の奴に言う自由が君にはある。もっとも、アンディ、君はそんなことしやしないだろう?第一したって無駄なだけさ。うちの親父はこの学校のOBで、講堂のひとつをぽんと寄付した過去を持ってもいるしな。どのみち、僕はお咎めなしってわけさ。それでも言いたければご随意に。そのかわり、あとで吠え面かいて僕に泣かされる覚悟が当然君にはあるんだろうね?」
「他の生徒に成りすますために使ったっていう、その相手のID所有者のことを教えてくれ」
「そんなこと聞いて、一体どうする?」
ロッカーの鏡を見ながら制服のネクタイを締め、デイモンは鏡ごしにちらとアンディのことを見た。
「当然、校長に話すんだよ。今後もし、君がまた同じような不正を働いたとしたら、その生徒が迷惑するかもしれない。だからさ」
ここでデイモン・アシュクロフトは、体を折り曲げ、今にも倒れんばかりになって大笑いした。そんな様子の彼を見て、他のフットサル部の部員たちも「何ごとが起こったか」とばかり、こちらのほうを注視するようになった。
「ハッハハハハハハッ!!馬鹿だな、アンディ。僕は君のIDを使って例のアダムスの哀れな姿を送信したんだよ。前にパソコンルームで僕と君が出会った時のこと、覚えてないかい?そこで順番待ちしてる時にさ、たまたま君の次に僕がパソコンを使ったことがあったんだよ。君はログアウトするのを忘れてて、僕はその時にIDを入手したってわけさ」
「けど、パスワードが――」
「悪いな、アンディ。僕は趣味でハッカーの勉強をしてる。でも僕は君にこの罪を着せようなんていうふうには最初から思っちゃいなかった。ただ念のための用心と思っただけのことなんだ。その点については素直にあやまるよ。悪かった」
ここで話を聞きつけた部員たちがデイモンを取り囲み、「あの傑作な漫画絵、おまえがやったってのか」とばかり、盛り上がりはじめた。「自首したほうがいいかな」、「いや、黙っとけよ。校長の言う警察云々なんてのは所詮ハッタリさ」、「ここにいる全員がおまえのことを必ず守ってやる」、「しっかし、やっぱりおまえはやってくれるなあ、アシュ」……これではてんでお話にならないと思ったアンディは、部外者として弾かれるようにしてフットサル部のロッカー室から出ていくことになった。ドアを閉める直前、「なんだったらあの小生意気な二年坊、締めてやってもいいぞ」、「いや、彼は今時珍しい、正義感の塊なのさ。天然記念物は大切に保護しておかないと」……などという会話まで聞こえて来、アンディはつくづく自分の校内における無力さを思い知ったものである。
この時アンディの頭の中は極めて混乱していた。もちろんアンディも、いずれ大人になるにしたがい、仮にいかに自分が正しくとも、正しくない側に屈せねばならない体験をするかもしれないとは、漠然と感じてはいた。けれど、そこに信頼する人間のひどい裏切りまで加わったとあっては、まだ十四歳の彼の心には荷が重すぎたのである。
そしてこのこともまた、アンディの成長しきっていない子供らしさによるところが大きい行動だったと思うが、翌日、アンディはアームストロング校長に向かって、「あの漫画絵をアップロードしたのは僕です」といったように自白したのである。黒い羊のようなデイモン・アシュクロフトの、もし体の一度にでも白いブチ毛が残っていたとすれば、彼が良心を痛めて自分から罪を告白するかもしれないと、アンディは極めて薄い望みに賭けたのであった。
だが、やはりアームストロング校長もアダムスも、伊達に長く教師生活を送っているわけではない。アンディは己の罪を告白し、アダムスに深々と頭を下げあやまったのだが、彼が校長室から出ていくなり、ふたりはそれまで目と目で会話していたことを実際に言葉にしたのであった。
「あれはたぶん、誰かを庇っているんでしょうな」と、アダムス。
「だろうね」と、アームストロング。「もし彼のような人間が、ああした罪を告白するというのであれば、あんなに冷静な顔で、まるで舞台の科白を喋るような口調で淡々と話したりするはずがない。もっと泣き崩れて、「本当にごめんなさい、アダムス先生」といったように、感情を丸だしにして許しを乞うているだろう。でもそうじゃなかったらからね」
「きのう、僕は初めてフィッシャーくんと……なんと言いますか、腹を割って随分親しく話したんですよ。彼と僕とは一脈通じるところがあると感じたんですが、そのことで寮の部屋へ戻ってから突然、悔恨したなんて言ってましたけど、間違いなく違いますよ。きのう僕と話していた時の彼の瞳を思いだしただけでもわかる。あの目は、後ろ暗いところなどまったくないといった感じの、素直で正直な少年の瞳でした。ただ、最後のほうの会話で少し、気になることを話してはいましたね。それまでイタリアの五賢帝のことを話していたはずなのに、なんの脈略もないところで突然、デイモン・アシュクロフト君の話が出て……」
「彼か」
アームストロング校長はふうっと、長い溜息を着いた。デイモン・アシュクロフトはフェザーライル校の出身者である議員の父親を持っているというだけでなく、恐ろしく頭の切れる<模範生>でもある。彼が最上級生になった時、アームストロングは自身の権限においてアシュクロフトをプリーフェクト(監督生)に任命せねばならないと思ってはいる。つまり、個人的には彼にその地位を与えるのはどうかと感じながらも、生徒間の心を牛耳っているという意味において、アシュクロフトをもし任命しなかったとすれば問題が起きるだろうということだ。
「それで、アダムス先生は彼のことでどんなことをお話になったのですか」
「まあ、その……校長先生の前で言いづらいことを、ですよ。アシュクロフト君はいわゆる<魔少年>で、これから彼が将来的に政治家になったとすれば、まるでチェスの駒のように都合の悪くなった人間を排除していくんじゃないかっていうようなことを話しました。もちろん、生徒相手に話していいことじゃありません。その点については僕も反省してます」
「うむ。でもまあ、僕も大体同じような見解をアシュクロフト君には抱いているからね。彼は実に注意の必要な生徒だ……そして、なんの脈絡もないところで彼の名前が出たということには、やはり意味があるのではあるまいか。アダムス君、僕はフィッシャー君が心から愛しているという義理の母君にこれから電話してみようと思う。おそらく彼は彼女にであれば本当のことを洗いざらいすべて話すだろう。全校生徒を前にして、大弁舌を振るったばかりで何やら恥かしいが、結局のところ、この件はうやむやにする以外はないようだ。無論、先生の例の漫画絵は削除してもらうということにしたよ。ホームページの管理者は表現の自由がどうのとほざいたらしいが、強制的に削除してもらったから、このこともまた時の風化にさられされて、人々の記憶に残ることもさしてあるまい」
「そうですね、アームストロング校長」
アームストロングは十歳も年下の、アダムスのいわば上司であったが、ふたりはとても気が合い、細君も交えて三人で月に一度は会食するといった仲である。アダムスはずっと独身であり、このことは終生変わりなくそうであろうと彼は信じている。だが、彼は幸せだった。何故といってここフェザーライル校には彼のすべてが詰まっていたし、教師間及び生徒間の評判はどうあれ、彼自身は教職こそが己の天職であると信じきっていたからである。
>>続く。