本当に久しぶりの、萩尾先生と竹宮先生の例の件(?)に関しての記事となりますm(_ _)m
なんとなくタイトル「スラン」にしてみましたけれども、SF作家、A・E・ヴァン・ヴォクトの「スラン」の感想ではまったくない……ということを先にお断りしておきたいと思います。というのもわたし、まだ「スラン」読み終わってないからなんスよ(殴☆)。
でも、ある程度内容のほうは把握できたということで、ちょっとこの件について、そもそもなんでわたしがヴォクトの「スラン」を読もうと思ったかについてから説明してみようかな~なんて
ええとですね、わたし前にどこかで、竹宮先生の『地球へ……』は、冒頭部分のあたり、萩尾先生の『あそび玉』のパクリっぽく感じた――みたいに書いた記憶があります。で、その後某密林さまの「スラン」のレビューのところに、>>「『地球へ……』などに大きな影響を与えた」……みたいに書いてあるのを読んで、こう思ったわけです。「あ、そーいやわたし、最初の頃は特に「萩尾先生は何も悪くないのに~!!」みたいな気持ちが強くて、竹宮先生を悪者っぽくしちゃってたんだよな……」というのを思い出しまして、まあその反省の気持ちから、「スラン」を読んだら「この本が『地球へ……」に大きな影響を与えたもともとのSF作品だそうです」みたいに、一応訂正しとこうとは思ってたわけです。
これがわたしがヴォクトの「スラン」を読もうと思った理由の第一。そして第二が、『一度きりの大泉の話』にこう書いてあったことによります
>>『あそび玉』を描いた時、佐藤史生さんから「ヴォークトの『スラン』を読んだのか?」と聞かれました。
「読んでないけど、なんで?ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』は面白かったよ、『非Aの世界』もすごいね」
【中略】
「『スラン』も超能力があって、社会から排斥されて殺されるのよ」「ああ、やっとわかった」(聞かれたことが『あそび玉』とくっつきました)
ずいぶん後になってヴォークトの『スラン』を読みましたが、面白かったです。スタージョンの『人間以上』もそうですが、SFの小説界では超能力を持った新人種は、結構排斥されたり殺されたり、結果、能力を隠して生きていたりしていて、これが設定の定番のようです。西洋の魔女狩りの伝統がSFにスライドしているのかもしれません。私が『あそび玉』を描いた時のヒントになったのは、『S-Fマガジン』に掲載された短編小説で『ソンブレロ』というタイトルだったと思います。超能力を持った新人種は排斥されるという近未来設定の話でした。娘がどうも超能力者らしいと悩むお父さんの話でした。面白い設定だなあと、超能力を持った新人種は排斥されるという設定でいろんな話を考えました。『精霊狩り』シリーズや『キャベツ畑の遺産相続人』もこのバージョンです。
(『一度きりの大泉の話』萩尾望都先生著/河出書房新社より)
わたしが萩尾先生の「あそび玉」を読んだのは、「十年目の毬絵」も収録されている「10月の少女」の中でだったわけですが、自分的に「10月の少女」に収録されたお話の中でダントツで面白いと感じたお話でした
それで、たぶん萩尾先生の『あそび玉』と竹宮先生の『地球へ……』を読み比べて――「まあ、言われてみれば導入部はちょっと雰囲気的に似てるっちゃ似てるかな」くらいに感じたとしても、パクリ☆とまで強く思う方っていうのは、たぶんいないんだろうな……と、今はわたしも一応そう思ったりはするわけです。
で、今回ヴォクトの「スラン」を途中まで読んでみてわたしが何を書きたくなったかというと(途中までかい!笑)、萩尾先生の『AーA’』のことだったり。いえ、『AーA’』はSF漫画として完成度の高い素晴らしい作品で、パクリ☆などという言葉とはまったく無縁の作品なわけですが……登場人物に一角獣種というのがいて、『AーA’』では、主人公のアデラド、『4/4カトルカース』ではトリル、『X+Y』ではタクトが、一角獣種です。それでこの一角獣種というのは人工的に造られた変異種で、「もり上がった頭部とそこの赤いたてがみ」が特徴で、他に感情に乏しいというか、表面的にそう見えるので周囲から誤解されやすかったり(顔が無表情でいつでも冷静に見える)、ようするに感情表現が下手なんですよね。それでいてストレスに弱く、ストレスを受けると食事量が減って痩せていくようで……元は、宇宙航行用に開発され、冷静に物事に対処し、仕事を効率的にさくさく行えるようにと生み出された種らしいのですが、生真面目すぎる性格が祟って拒食症になりやすい……という、一角獣種というのはそんな大変な種族のようです。
で、わたしが今回「スラン」を読んで、何に少しだけびっくりしたかというと、「スラン」っていうのは人工的に生み出された種で、超能力を持っているがゆえに、そのことに怯えた人間たちに迫害されているといった設定です(スラン狩りというのがあって、スランというのは見つけられ次第即刻通報され、射殺されてしまうのみならず、賞金がかかってるので、一般市民が捕まえて殺しても罪にはならない)。
それでこの「スラン」、髪に一筋だけ「感覚毛」と呼ばれる毛があるっていう、そこだけ「もしかして、スランから来てたりするのかな?」と、そう思ったりしたわけです。そしてその瞬間ふと――わたしの中で例によってちょっとした妄想が炸裂したというか(笑)。
その~、なんというか、『一度きりの大泉の話』って、本の中で一番大事な中心主題(?)みたいのが、「竹宮先生に盗作疑惑をかけられて以降、お互いの間に交流がありません」っていうことだと思うんですよね。なので、『風と木の詩』のクロッキーブックからパクッて、『ポーの一族』の「小鳥の巣」を描いたんじゃないか――ということが、本の中における一番の重要箇所と思うわけです。
でも、自分的にその後、実際に『風と木の詩』を読み、『ポーの一族』を読み、『トーマの心臓』を読み……とやって来て、ようやくわたしにもだんだん本当に「事の重大さ」みたいのがわかってきたというか(^^;)
確かにわたし、今はもうすっかり萩尾信者かもしれませんが、それ以前に読んだことあるのが『残酷な神が支配する』一作のみであり、竹宮先生の作品に至っては一作も読んだことがない――という結構白紙(?)に近い状態からその後、たまたま偶然『一度きりの大泉の話』→『扉はひらく いくたびも~時代の証言者~』→『少年の名はジルベール』と読んできて、正直、この時点では萩尾先生と竹宮先生の間にあったことを角質……じゃなくて、確執とまでは思わなかったんですよね。なんでかっていうと、「若い頃は特に、こうした行き違いっていうのは誰でも経験するものだし、その問題がプロの、少女漫画界の黎明期を担った大御所だったという、それが問題だった」みたいに思う部分があったというか。
でも、『一度きりの大泉の話』とか『少年の名はジルベール』ではなく、むしろ萩尾先生と竹宮先生の漫画を、「大体この頃、萩尾先生/竹宮先生はそれぞれどんな作品を描いていたか」みたいな感じで、交互に読んでいくとわかるわけです。「最初は確執っていう言葉は強すぎると思ったけれど、確かにこれは間違いなく確執だなあ」ということが……。
その~、盗作疑惑をかけられて以降、竹宮先生の作品は一切読んでこなかったという萩尾先生。なので、これは「ありえない仮定の話」ではあるのですが、もし萩尾先生がその後も竹宮先生の漫画を読んでいたとしたら……その中で萩尾先生がもし嫉妬を覚えるとしたら、もしかしたらそれは唯一『地球へ……』かもしれないなと思ったりしたというか
もちろん、萩尾先生は「嫉妬という感情についてよくわからないのよ」と山岸涼子先生にお聞きになって、「ええ、萩尾さんにはわからないと思うわ」みたいに言われているだけあって、そのあたり、漫画に関しては「わたしはわたし」、「あなたはあなた」みたいな感じで、自分が面白いとか素晴らしいと感じた作品については、素直にただ褒めちぎる……といった、そうした方っぽいなとは思ったりするわけです。
でも、嫉妬というのは言葉として強すぎるにしても、読んでなかったにせよ、当時竹宮先生の『地球へ……』の評判というのは凄いものがあったでしょうし、萩尾先生も噂で聞いて多少気になったというか、これだけSF好きな方が「まったく気にならない」ということがあるだろうか、とちょっと思ったんですよね。それで、わたし自身は萩尾先生はどんなに気になっても結局、竹宮先生の作品は読まなかったのではないかと思うものの――でも、「わたしだってSFでもっともっといい漫画描いてみせるわっ!」みたいに、嫉妬とかではなく、あくまでいい意味で奮起するところがあったのではないか……と、勝手ながらちょっとだけ想像したのです。
そんでですね、ウィキ情報によりますと、『地球へ……』の最終回って1980年らしいんですよね(連載が開始されたのは1977年)。そして、『AーA’』がプリンセスに掲載されたのが1981年の8月。その続編の『4/4カトルカース』(プチフラワー掲載)は1983年11月、それで、これ記事にしようと思ってそのままになってたんですけど――『X+Y』(プチフラワー掲載)は、1984年の7月号と8月号です。
で、ウィキ情報によりますと、『風と木の詩』の最終回の掲載がどうも、同じプチフラワー掲載で、1984年の6月らしいのです。それで、『X+Y』もまた、非常に完成度の高い素晴らしい作品であり、これだけのお話描くとしたら、発表月が7~8月号でも、そのかなり前から準備してあっただろうことを考えると、『風と木の詩』に関して萩尾先生の側で何か思うことがあった……というのは間違いなくないと思うんですけど、『X+Y』って、BLっぽいお話なんですよ(^^;)
竹宮先生がプチフラワーに移ってきた経緯については、『少年の名はジルベール』にも言及があるし、わたしも『メッシュ』の感想のところでその文章を引用しました。そして、竹宮先生が『風と木の詩』の続きを連載するため、プチフラワーへ移ってきたというのが1981年冬の号からです。
ですからこの時、萩尾先生のほうでは、あれから相当の時が流れたとはいえ、同じBLという部分でジャンル的に「若干かぶる」ことに対し、「まったく何も思うところはなかった」のかどうか……その~、これはまったくもってわたしの妄想以外の何ものでもないとは思うものの、「SFで負けたくない萩尾先生、そしてBLで負けたくない竹宮先生」と言いますか、萩尾先生的にはそんなふうに竹宮先生に対して対抗意識を燃やすことはなかったのだとは思います。
でも、そうした可能性も3%くらいはあったかも……くらいのあくまで可能性のお話ですが、萩尾先生は少女漫画界のSFの女王であり、その地位は今後とも伝説的なものであり続けると思いますまた、『地球へ……』を、萩尾先生の他のSF作品と比べても、同じSFとはいえ、作品の表現傾向が違うという意味で、比較すること自体無意味ではあるわけです。でも唯一、わたし的に竹宮先生が萩尾先生から「一本とった!」というように感じられる作品が実は『地球へ……』だったりもするというか(^^;)
ちなみにわたし、『地球へ……』はほんとに素晴らしい漫画作品と思っているものの、自分的に思い入れはあまりないという意味で、このあたりのジャッジのほうは冷静そのものです。そして、そんな竹宮先生がプチフラワーへ移ってきて、今度は盗作疑惑をかけた『風と木の詩』を同じ雑誌で連載するという。萩尾先生にその意識はまったくないにしても、ある意味これって「一騎打ち」と言えなくもなかったんじゃないか……という気がしなくもありません
そして、お話の構想として、本当にたまたま偶然だったと思うのですが、萩尾先生は『X+Y』にて、SFでありつつ、BL的要素もある、恐ろしく完璧な作品を描いておられます。その~、これもあくまでわたしの想像なんですけど、萩尾先生的に竹宮先生の漫画を読んでなくても……「大変評判になっている。ということは当然、竹宮先生のことだからすごくいい仕事をされてるんだろう。よし、わたしだって負けないぞ!!」くらいの意識はきっともってあったのではないか――と、そのようにちょっとだけ思ったりしたというか(^^;)
もっとも、『残酷な神が支配する』を読んでわたしが思うのは、「天才を怒らせると恐いぜ」的なものなのですが(笑)、わたしの妄想はさておき……つい先日、「関係を持たないという選択をすることだって、ひとつの関係性だ」みたいな言葉を、とある方から聞きました。つまり、そんなふうに考えたりする相手って、たとえば家族とか友達とか元配偶者とか、なんらかの形で一度は親密な関係にあって、そのあと何かがダメになった……みたいな人が多いんじゃないかと思うわけです。
竹宮先生はある時、「もうこれ以上は限界だ」と感じることがあって、萩尾先生と「以後は関係を持たない」という選択をされた。そして萩尾先生は「はっきりした理由はよくわからないけれども」、竹宮先生のような立派な方にそう言われたということは、きっと自分が悪かったんだろう……みたいに思われ、以後も竹宮先生には気を遣っておられたという、おそらくはそんな関係性。
ところがその後、生身の体としては一切接触せず、会話もしたことない――といった関係であったらしいのに、竹宮先生と萩尾先生の漫画を交互に読んだりすると、読者的にはなんらかの多少の「会話が成立」しているように感じるところが、これまたなんとも不思議なのです(笑)。
そのですね、ヴォクトの「スラン」と『地球へ……』の共通点であり、表現としてわたしが素晴らしいと思ったのが実は、テレパシー能力の描かれ方なんです。テレパシーっていうと、相手が自分が今思ってることをすべて読み取られるなんて絶対イヤだし、薄気味悪い……もしそんな能力持ってる奴がいたら、友達になんてなるのは絶対無理だろう――みたいなイメージですよね。でも、心の奥深くの読まれたくない思考については隠しつつ、あくまで表層意識の「この部分は読んでくれて構わない。いや、むしろ読んでくれ。それでお互いそのような形でテレパシーで会話しよう」というか、そうした設定の「巧さ」に何より舌を巻いたというか、そうしたところがあります。
そして、萩尾先生の描かれた一角獣種っていうのも、すごく不器用なんですよね。きっと、その不器用さというのは、萩尾先生の中にもあって(というか、わたしの中にも他の人の心の中にもきっとある)「うまく相手に言葉や感情を伝えられない」不器用さやもどかしさの反映という部分があると思うわけです。
「なんだ、おまえ。その〆の言葉は」と思われてしまいそうなんですけど……スラン的テレパシーの力があって、萩尾先生の表層意識だけでも竹宮先生が読むことが出来たとしたら、きっとああした行き違いは発生しえず、萩尾先生のほうでも「そっか。わたしがケーコたんを苦しめてるなら、今は少し離れよう」という、何かそんな感じだったかもしれない。でも、おふたりの漫画の中には間違いなく確かに、相手に向けたメッセージでなくても――「テレパシー的ななんかがある」ように読者として感じてしまうということ、このあたりはなんだかほんとに不思議な感じがする……という、「スラン」に関連したそんなお話でした(^^;)
それではまた~!!