【聖愛と俗愛】ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
ええと、アメフトのことや、映画「しあわせの隠れ場所」のことについては、またそのうち何か書こうと思うんですけど……今回は、イーサンの親友のひとりであるラリーくんの赤毛ことについてでも、と思いました♪(^^)
いえ、わたしと同じ方がどのくらいいるかってわからないんですけど……赤毛と聞いてわたしがすぐに思い浮かべるのは「赤毛のアン」のことだったりします(笑)
もちろん、日本人的にはよくわかりませんよね。赤毛の何がそんなにいけないんだろうっていうか、むしろすごく綺麗だなって思うくらいなのに、欧米の方の間では「赤毛だからこの子は短気なんだろう」とか、あるいは「性悪の赤毛の娼婦とでも夫は浮気してるに違いない」とか……赤毛の人でも気の長い方はきっとたくさんいらっしゃるでしょうし、赤毛=性悪の娼婦的イメージについては、わたしこれまで海外のドラマや小説などで、よく言及されているのを見たり読んだりした記憶があります(^^;)
そしてわたし、松本侑子先生の『赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎~』を読んで、初めて「赤毛が嫌われる理由」について知ったというか。。。
>>なぜ赤毛を嫌うのか?
アンの時代は、金髪と黒髪が美しいという美意識に加えて、赤毛には裏切り者のイメージもありました。キリスト教では、イエスを裏切った弟子として新約聖書に描かれるイスカリオテのユダが赤毛だったという伝説があります。旧約聖書でも、アダムとイヴの息子カインが赤毛とされます。カインは嫉妬から弟のアベルを殺害するのです。
髪の色が多様な西洋では、毛髪から人格を推測する、ある種ステレオタイプな分類もあります。金髪の女性は家庭的な良妻賢母、黒髪は情熱的な悪女といった描き分けが従来の映画にはよくありました。
一方、赤毛は、エキゾチックで謎めいた美女というイメージもあります。古くは16世紀イタリア絵画の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90~1576年)が好んで赤毛(金褐色)の美女を描きました。彼の名は『赤毛のアン』にも登場しています(第33章)。
20世紀のハリウッド女優では、鮮やかな赤毛のモーリン・オハラ(オハラはアイルランド系に多い名字)、「赤毛のリタ」と呼ばれたリタ・ヘイワースに人気がありました。
赤毛は、ケルト系(スコットランド人、アイルランド人)に多いとする俗説もあります。そこから、どこか魔法がかった不思議な個性が、文学や映画における赤毛には付加されることもあるのです。
(『赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎~』松本侑子さん著/NHK出版)
「赤毛のアン」のアンもまた、「赤い髪の人でなければその苦労はわからないわ」と言ってるわけですが、ラリーが赤毛で苦労したというエピソードについては、もう少し先のほうで記述が出てくるかと思います(^^;)
そんで、ラリーは瞳の色が緑だったりするんですけど……この<緑>っていうのも、なんかあんまりいいイメージがないみたいで……それが緑=嫉妬深いということと関連あるのかどうかわからないんですけど、わたしこの緑=嫉妬の色というのを聞いた時にも、ちょっとびっくりしたような記憶があります
確かアメリカだったと思うんですけど、男性にアンケートを取ってみたところ、一番人気のある髪の色がダントツでブロンド、そしてその次が黒髪とかで、やっぱり赤毛っていうのは一番人気なかったりするんですよね(^^;)
そして、目の色についても、わたしが小説などで読んだことあるのって、ある女性の青い瞳を男の人が讃えてるとか、あるいは女性が男性に対し、「なんて澄んだ青い瞳かしら」とか「空の水色を溶かしこんだみたい」とか「澄んだ湖のような綺麗な瞳」とか、賞賛されてるのは大抵が青い瞳で、緑色の瞳が褒められてる描写ってほとんど読んだりしたことないような。。。
ええと、緑っていう色が嫉妬と結びつけられる他に、「疑い深そうな緑色の瞳」とか、「きっと詐欺師に違いない」……みたいな描写なら読んだことがあって
つまり、ラリーって、容姿的に格好良い人ではあるんですけど、この赤×緑という最悪(?)な組み合わせにより、継母やその連れ子の妹からはそのことであれこれ言われることが多かったらしく……まあ、このお義母さんがそこそこフツーな人でさえあれば、ラリーは性格いい人なので、親子としても、兄妹としても結構うまくいったはずなのに、何かにつけて「あの子は赤毛だから~~なのよ」みたいな物言いをする人だったらしいですね(^^;)
まあ、なんにしてもラリー・カーライルくんは、炎のような赤毛にエメラルドを嵌めたような瞳という、容姿的にはそんな設定だという話でした。。。
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【16】-
この二日後、ラリーは大学のカフェテリアでイーサンと出会い、キャサリンとふたりで席を取っていた彼の隣に座った。
「プレーオフ進出、おめでとう」
そう祝福の言葉を述べると、イーサンは不敵な笑みを浮かべてニッと笑った。四つあるカンファレンスのうち、一番の激戦区で優勝したのであるから、当然といえば当然すぎる余裕の笑みである。
「なんだか、うちの豚児どもがユトレイシア・スタジアムではおまえの世話になったそうだな」
「いや、それほどでもないさ。あの子たちの面倒を見て何かと心を砕いていたのはマリーさんで、俺はほんの少しだけ困った時に助けてあげたにすぎない」
マリー、という女の名を聞いて、キャサリンが少し神経質そうに眉を上げても――その意味するところは、ラリーにはすぐピンと来なかった。ルーディならばおそらく間違いなくその意味を察し、(おーこわ)と肩を竦めていたに違いないのだが……。
「それで、さ。前にも同じことを言った気がするけど、彼女のこと、正式に紹介してもらえないかな」
「紹介って……」
トレイの上にBLTサンドとコーヒーをのせたラリーは、彼らしくもなく少し照れたように下を向いた。
「前にも言ったろ。俺は彼女みたいのが好みのタイプなんだ。で、この間ユトレイシア・スタジアムで会って……最初に思ったのと同じおしとやかで善良で優しい人なんだなと思ったら、こんな人を逃す手はないと思ったというかさ。おまえ、いつなら都合がいい?」
「何言ってんだよ、ラリー。おまえだってさんざん、他の連中と一緒になって俺の体のきかない親父の前で大股開きしただのなんだの、テキトーなこと抜かしてたくせに、調子よすぎるぞ」
キャサリンとイーサンとは、食事のほうは大体終えていたものの、最後にそれぞれエスプレッソを飲んでいるところだった。キャサリンのほうではマリーのことを話す時、イーサンに不審な点がないかどうかと、じっと彼のことを見つめている。
「だから、それはそれ、これはこれだって。男が何人か集まって誰か女のことを話す時にはそんなものだって、おまえにだってわかるだろ?今じゃ俺も悪いと思ってるんだ。あんな可愛い人のことをそんなふうに言うだなんて……なんにしても反省してる。だから、おまえの都合のついた時に彼女に会わせてくれよ」
「…………………」
こんな展開は予想してなかっただけに、イーサンも戸惑った。横を見ると、キャサリンもまた彼のことを凝視している。その視先の言わんとするところを察して、イーサンにしても言葉を選ばずにはいられなかった。
「あー、その、なんだ。俺もこれ、前にも言ったと思うが、あの女はほんとにつまらんぞ。俺が最高に面白いジョークを言った時でさえ、ガキどもの教育に悪いとなったらぴくりとも笑わんような女だしな。正直ラリー、おまえとは合わないと思う。何故かといえば、俺の知る限りおまえはとても愉快な奴だし、あの女はとにかく陰気なんだよ。性格も内向的だし、大人しくて快活なところがない。一緒にいて三日もすれば飽きるような女だ。そのことは俺が保証する」
「まあ、おまえにとってはそうだろうよ」
ラリーはサンドイッチに齧りつきながら笑った。
「だから快活で外交的で美人なキャサリンとつきあってる。だが、表面的にはどうあれ、俺も突き詰めると根の暗い内向的な男なんでな、マリーさんとはそのあたりで一致してうまくやっていけると思うんだ」
「そこまで言うならしょうがないな。むしろ逆に、おまえはいつなら都合がいいんだ?」
イーサンは溜息を着いた。すぐ隣にもしキャサリンさえいなければ……もう少しどうにか出来たかもしれないのに、これではもはや逃れようがない。
「今日でも明日でも明後日でも、いつでもいいさ。とにかく速いに越したことはない。なんにしても、マリーさんには俺がああ見えて結構いい奴なんだ的に言っておいてくれ。彼女、俺のこと、赤毛のライオンか何かみたいに思ったのかどうか、話しかけるたんびにちょっと脅えてたからな。ライオンに親切にされてもちっとも嬉しくないうさぎみたいに」
ここでイーサンはぶっと笑った。この赤毛のライオンにうさぎを紹介することがわかり、キャサリンのほうでも初めて笑顔になる。
「ねえ、そのマリーって人、そんなに可愛いの?イーサンはわたしに、地味で面白いところのひとつもない女だなんて言ってたけど、その割にルーディとマーティンの言い種じゃあ……子供好きな明るいいい人だ、みたいなこと言ってた気がするけど」
「その通りだよ。あんな感じのいい人はちょっといないくらいじゃないかな。イーサンが何を思ってそんなに彼女のことを下に落とそうとするのか、俺にはよくわからない」
ここでイーサンは少しばかり咳き込んだ。(そりゃ決まってるだろ。ついきのうキャシーに問い詰められて、『地味なつまらないどうということもない女だ』と言ったばかりなのに、そんな矛盾したことを言えるか!)というのが彼の本音でも、そんなことはこの場合口が裂けても言えない。
「そりゃ俺は一緒に暮らしてるからに決まってるだろ。ほんの一度か二度ちょっと顔を合わせたくらいのおまえらにマリーの一体何がわかる。そうだな、あの女の欠点を俺があらかじめおまえに教えておいてやろう。あいつはとにかく道徳的で、宗教的な堅苦しい女なんだ。たとえば、俺が自分の弟たちに勉強を教えていたとするな?で、間違えるたんびに定規で奴ら豚児どもをピシャピシャぶつ。ぶつっていったって、痛くないくらいの可愛らしいもんだ。ところがだな、あの女はそんな俺の様子をじっと見て……口では何も言わないくせして、ちょっと責めるような顔つきをする。こっちがいかに苦労して頭の悪い弟どもにものを教えているかもわからずに、『定規でなんていちいちぶたなくても、もっと優しいお兄さんらしく教えたりできないのから』とでも言わんばかりだ。それで俺が、その不満たらしい目つきが不満で『なんだ。何か文句でもあるのか?』と言ったとするな?そしたら、『いいえ、べつに何も』とか言うっていう、何かそんな感じだ。目でだけこちらを責めておいて口では何も言わないわけだ。今はそうでもないが、最初の頃はそれだけでも腸(はらわた)が千切れそうだったもんだぜ」
イーサンがエスプレッソのカップを片手にそう言うと、ラリーもキャサリンも笑った。
「イーサン、そりゃおまえの被害妄想も少しか混ざってるんじゃないか?でも、今の話を聞いてむしろ安心したよ。おまえみたいな男が身近にいて……何も感じない女がいるとは思えんからな。そうか。ようするに彼女とおまえでは教育方針から何もかも、水と油みたいに正反対なわけだ。ふうむ、なるほどな。そういう意味じゃ俺は彼女と協力して、色々うまいことやっていけそうだ」
「ふん。そう簡単に言うなよ、ラリー。おまえ、どうせアレだろう?マリーとうまくいった暁には、うちのコブどもをあの屋敷に残して、ふたりだけで新婚生活を送ろうとか、そういう……」
「いや、それはない」
ラリーは食事を一旦中断すると、妙にきっぱりとした口調で言った。
「俺はおまえの弟や妹たちのことが好きだし、そこそこ馬も合うんじゃないかと思ってる。それにおまえ、上の男の子はふたりとも、寄宿学校へ入れるつもりなんだろ?そしたら、彼女もその分時間が空くだろうし、ココちゃんとミミちゃんはふたりとも可愛いからな。向こうで俺のことを嫌いさえしなかったら、父親がわりというのはなんだが、それに近いことはしてやれるだろう」
「なんだ、ラリー。おまえ、俺の兄貴としてのお株を奪おうってのか?」
イーサンは冗談めかしてそう言ったが、マリーが彼と結婚式を挙げる場面が頭に思い浮かんで、突然焦りを覚えた。イーサンの知る限り――ラリーのような男に言い寄られて悪い気のする女はまずいないだろう。家柄良し、経歴良し、よほどの赤毛嫌いだとでもいうのでない限り、ラリーのことを愛さずにいる女がいるとは思えない。
「そういうことじゃないさ。何より、あの子たちにとっておまえは誰より特別な存在だからな。俺では当然イーサンのかわりにはなれない。だが、女手ひとつで子育てっていうのは何かと大変だ。そういう時にマリーさんが寄りかかったり、色々相談できる相手になりたいと、俺はそう思ってるんだ」
「やっぱりあんた、変な奴ね、ラリー」
キャサリンはクリームを落としたエスプレッソを飲みながら、ラリーのエメラルドの嵌まったような緑の瞳を見つめて言った。大抵の男が彼女の色仕掛けに引っかかるというのに――彼は鼻にもかけなかった。そこでキャシーは彼が実はゲイなのではないかという疑いまで持ったほどだ。だが今、その謎が解けた。自分と容姿のタイプも性格も何もかも正反対だという女が好みだというのだから、それは当然のことだったのだろう。
「わたしの年の離れた一番上の姉さん……バツイチの子持ち男と結婚したんだけど、最初はそりゃ子育ての理想に燃えてたそうよ。ところがね、旦那との間に自分の子が出来たら――もうその子が可愛くって可愛くって、夫の前妻の子なんか心の中じゃまるでポイよって言ってたわ。でもやっぱり、母親としてはどっちも平等に育てなきゃって思うでしょ。でも本音じゃね、ふたりが同時に溺れてたら、絶対自分の子を助けるんですって。いくら綺麗ごと並べたって、そのマリーって人も同じなんじゃないかしらね」
(マリーはおまえの姉さんとは違うさ)と、イーサンはそう思ったが、口に出しては当然何も言わなかった。
「俺は自分がそういう環境にあって悩まされたからな。そういう意味で、どっちの子も可愛がれるんじゃないかと思ってる。というより、むしろ自分の子のほうにこそ厳しくて、息子や娘のほうで俺に愛情があるとは思えないかもしれないな。とにかく、俺にはそういうところがある」
「ラリー、おまえがもし父親とかいうやつになったら、間違いなくいい親になるさ。ついでに、女にとってのいい夫ってのにもなれるだろう。だが、その相手がマリーとはな……おまえならもっといい女がいるだろうに、あの程度で手を打とうというのは納得しかねるが、おまえが是非にというなら仕方がない。だが、紹介するだけのことはするが、マリーの心のほうまでは保証しかねるぞ。何分、あの女は変わってるからな。マリーが我が家にきてすでに五か月になるが、あの女が本当は何かを考えているのか、俺にはさっぱりわからん」
ここでラリーとイーサンは互いに目を見合わせると、何故か示し合わせたように大声で笑った。キャサリンには彼らがそんなにも何がおかしいのか、まるでわからない。
「そうか。一緒に暮らしてるイーサンにもそこのところがわからないとは……なかなかやるな、彼女も」
「そうさ。ちなみにあいつ、おまえ以外の男にもまるでモテないというわけではないらしい。教会の男やもめどもには人気があるらしくて、ちょっとした競争になってるって話だ。だが、俺の見た限り、マリー自身にはそんな気はまるでないようだな。直接あいつにそう聞いたってわけじゃないが、あいつにとって<自分の子>としてまず責任のあるのはうちの四人の豚児どもで、まずこいつらを満腹にしてから異邦人の子らにもパン屑くらいやるかといったところなんだろう」
ラリーは聖書の話をもじったこのジョークが気に入り、テーブルを叩いて笑った。
「なるほどなあ。ああした若い可愛らしい女性と結婚するためなら、今自分の元にいる子供にプラスして、一気に四人の子持ちになるのも厭わないというわけか。でも彼女、恋愛のことではちょっと鈍そうだものな。あるいは男どもの思惑につきあうのが面倒くさくて、あえて気づかない振りをしているのか……」
「さあて、どうだか。なんだったらラリー、今日早速うちに来いよ。おまえ、午後からは何か受けなきゃならない講義でもあるのか?」
「いや、ないよ。だがイーサンはアメフトの練習があるんじゃないか?」
イーサンは隣のキャサリンのほうをちらっと見てから言った。実は練習後、彼女とデートの約束をしていた。だがまあ、なんとかなるだろうと短絡的にそう考える。
「ほら、今まだ二時前だろ?これからちょっと自宅に戻って、ラリーのことをマリーに紹介して、そのあと部のほうには来ればいいさ」
「じゃあ、善は急げだ。俺、寮にいってちょっと着替えてくるよ」
「着替えって、ラリー、おまえ……」
(べつにそのままでもいいじゃないか)と、そうイーサンは思ったが、次にカフェテリアへ戻って来た時、彼はボタンダウンのシャツにジーンズという格好から、パリッと糊のきいたワイシャツに某ブランドのズボンとベルトという格好をしていた。
「ふうむ。それがおまえの勝負服とはねえ」
「そんな大袈裟なことじゃない。というより、最初からそこまで必死感を出したら、彼女のほうでもどん引くだろうから、このくらいかなと思ってさ」
「なんにしても、行くか。あの女はどうせこの時間はガキどものおやつを作ってるか、ミミの相手をしてるかのどっちかだろうからな。普通に俺が友達を連れてきたっていうふうにすれば、まあ自然だ」
「よろしく頼む」
ラリーを待つ間、カフェテリアにクリスティンや他のチア部員たちがやって来たたため、キャサリンはそちらのほうに席を移していた。イーサンは一瞬だけそちらに顔を向けて「またあとでな」というように手を振った。だが、実際はイーサンはこの日、アメフトのほうも休み、キャサリンとのデートもキャンセルするつもりでいたのだった。
イーサンにしても、マリーに他の男を紹介することなど、本当は気が進まない。けれど、一度紹介するとなった途端、それが無二の親友ということもあり、何か急に面白い部分が出てきた。また、こうした場合に彼女がどういう反応をするのか……その点もイーサンは観察してみたいように感じていたのである。
しかして、マリーはイーサンの思った通りその日も自宅の屋敷にいた。だが、彼の予想に反して彼女は子供たちの三時のおやつを作ってはいなかった。そのかわり、温水プールで子供四人と寛ぎきって遊んでいたのである。
ゆえに、玄関のドアを開けて中に入った時――ロンとランディがウォーター・マシンガンで互いを撃ち合っているのを見て、イーサンは非常に驚いたものだ。というより、今日は午後から授業のほうがなかったのかと思い、この時間に上の弟ふたりがいることを不審にすら感じていた。
「おい、おまえら!学校はどうした!?まさかマリーねえさんが「学校なんか、行きたくなかったらもう行かなくていいわよ」なんて言ったわけじゃあるまい?」
「まっさかあ!」
中央階段の踊り場で、海パン一丁のランディがそう叫ぶ。途端、同じく海パン一丁のロンが、その少し下の位置からウォーターマシンガンで容赦なく打ってくる。
「うわっ!!しゃべってる時くらい、攻撃するのはよせよ、ロン!」
「悪い、悪い。こっちからじゃイーサン兄ちゃんの姿が見えなかったんだもん。おかえ……あっ!!ラリーさんだあ。お久しぶりですねえ。これでルーディさんがいたら、ぼく的には完璧なのに」
イーサンとラリーとルーディ、この三人が揃ってしゃべっているところを聞いているだけでも、まるで小説の中の会話のようで面白いと、ロンは常々そのように感じていた。
「うわっ!!しゃべってる時は攻撃すんなって言ったくせに……何すんだよ、ランディ!」
「へへっ。油断大敵ィっ!!」
ランディは上の階段の優位な位置につくと、弟のことを集中攻撃しはじめた。ロンのほうでも決してやられっぱなしではいない。ふたりは撃ちつ撃たれつしながら、どんどん階段を上へ上へと上がっていった。
「やれやれ。一体どうすんだ、これ……」
水浸しになった階段や踊り場を見て、イーサンは呆れたように言った。まあ、床のほうは大部分が大理石で出来ているため、あとからモップか何かで拭けばいいのだろうが、こんなところを本人たちがまたドタバタ走ったらつるっと滑って頭でも打つのではないかと、イーサンとしてはそちらのほうが心配だった。
「おまえら、裸足の足でつるっとすっ転んだりしないように気をつけて遊べよ!!」
上階のほうに向けてイーサンがそう叫ぶと、「わかってま~す!!」というふたりの声が返ってくる。
「悪いな、ランディ。おまえも足許には気をつけてくれ」
「ああ。だが、ロンのやつ、随分顔色がよくなったもんだな。前までは小学三年生にして胃薬が必要みたいな青い顔をしてた気がするけど……」
廊下の全体に微かな湿気や蒸気のような気配を感じて、イーサンは温水プールのほうへ向かった。何分、きのうイーサンはキャサリンとホテルのほうに泊まったもので、何故子供たちが十二月のこんな寒い時期にあんな遊びをしているのか理解不能だった。また、屋敷全体がセントラルヒーティングによって温められているため、設定温度を上げさえすれば、廊下も夏並みに暖かくすることは簡単なのだった。
「おい、マリー。子供たちは……」
イーサンはそこまで言って絶句した。ココが「きゃっはあっ!!」と叫びながらウォータースライダーから滑ってきてプールに飛び込んだからではない。マリーがミミと一緒に浮き輪をしながら水の上にぷかぷか浮かんでいたという、そのせいだった。
「あら、おかえりなさい」
「兄た~ん。おかえんなさ~い」
イーサンが客人と一緒だったせいもあり、マリーは一度プールから上がることにした。小さなビニールプールの上にいるうさしゃんと一緒に、ミミのことも浮き輪ごと引っ張ってきて、階段から上がろうとする。この時ラリーはちゃっかり彼女に手を貸すためにそちらに走っていたわけだが、マリーはただ不思議そうに「ありがとうございます」と言って彼の手を握っただけだった。
「わあ、ラリーさんがうちに来るのなんて久しぶりじゃない!?一体どうしたの?」
ココがプールの階段近くまで泳ぎつくと、当然ラリーは親友の妹にも紳士らしく手を貸してやった。だが、彼の目線はやはりマリーの水着姿のほうに注がれたままだった。まさか、こんな展開が自分を待っているとは思っていなかっただけに……クレオパトラと初めて出会った時のカエサルもかくやという、新鮮な喜びを胸に覚えていたのだった。
(やれやれ。これで決まりだな……)
実際のところ、自分で想像していた以上にマリーのスタイルがいいのにイーサンですら驚いていた。また、あらかじめ自分がこの時間に帰ってくるとわかっていたら、彼女は水着姿でなどいなかったことだろう。彼にはそのこともわかっているだけに、この時複雑な思いが込み上げていたのだった。
「おい、今日ガキどもは学校のほうはどうしたんだ?」
「今日はお休みなんです。ええっと……」
「創立記念日よ、おねえさん。イーサンはきのうキャサリンとよろしくやってたから知らないのも無理ないけど!」
ここでマリーはくすくすと笑った。イーサンがキャサリンとよろしくやってたのがおかしいわけではない。まだ八つにしてこうした大人びた口を聞くココが面白いのである。そして彼女は「淑女のたしなみ」とでもいうようにパレオをつけるとたたっと先に走っていった。軽くシャワーを浴びて着替えるためだった。
「よく髪の毛を拭いて乾かしてね!風邪ひくといけないから」
「ココ!廊下を歩く時は気をつけろよ。ランディとロンがあっちこっちに水溜りを作ってるからな」
わかってますよーだ、と返事したにも関わらず、彼女が廊下で一度滑りそうになっているのを見て、イーサンもマリーも一瞬ひやっとした。だが、上の兄ふたりよりも精神的にりこうな彼女は、「まったくもう!男ってどうしてこう馬鹿なのかしら」と言いながら、階段を上がっていったものだ。
そして、マリーもミミを連れてシャワーを浴びると、着替えてきてダイニングキッチンのほうへ戻った。おやつの準備をするためである。一方、この屋敷内にいる他の馬鹿な男たちふたりは、三階の応接室で話し合いを重ねていた。
「俺、たぶん彼女と結婚するよ、イーサン」
「はあ!?あんなたかが水着きてたくらいのことがどーしたってんだ。しかもどーってことない、色気も素っ気もない紺色のダサい水着だぞ。それよりもうちょっと先に進んでから結婚なんてのは考えるべきことだろうが!」
それ以上、ラリーは答えなかった。少しばかり頬を赤らめることさえして、下を向いたままでいる。イーサンは彼の向かい側のソファに座ったまま、槍を持つ銀色の甲冑のほうを仰ぎ見た。
(まあな。あいつはたぶん着痩せするとかいうタイプなんだ。胸も思った以上に結構あったし……)
その女を親友にただで明け渡すというのは、イーサンにしても何やら面白くないことだった。しかも、ミミの軽口のせいで自分とチアリーダーのキャサリンとの関係がどのようなものなのかも知れているらしい。実際、イーサンはキャサリンとは別れるつもりでいた。ところが、その気配を察したキャシーのほうで彼に別れ話をさせないべく、あれやこれやと手を打った結果として――昨夜、イーサンが彼女と寝たというのは事実でもあった。
「あんな人、他にいないよ、イーサン。何より、子供たちが懐いてるのを見てるだけでもわかる。心のあたたかい人なんだ、本当に……」
ラリーがどこか夢見る眼差しでぼうっとしているのを見て、イーサンは頭が痛くなった。確かに、子供たちもみなラリーのことは兄の親友として好いているし、その彼とマリーが結婚しても、おそらくそれほど反抗心を覚えたりすることはないだろう。また、ここへ辿り着くまでの道々ラリーが話してくれたことなのだが、自分がマリーと一緒になれば、この屋敷はイーサンにとっても気兼ねなくいつでもやって来れる実家であり続けられるだろうということだった。
「じゃあまあ、その、だな……将来的におまえがマリーにプロポーズするとしてだ。その前に色々しなきゃならんことがあるわな。つきあってくれって言ったり、デートしたりだの、そういうことだが……」
「そう、だよな。なんにしても、そこまでいくには先にデートに誘わないと。おまえ、あの人になんとかうまく言ってくれないか?」
今もまだ、プールの水面が光に揺れ、その光を反射したようなマリーの微笑みがラリーの脳裏には浮かぶ。それを自分のものだけにするにはどうしたらいいのか、また、あの白いうなじや黒い髪や、最初はあまり期待していなかった胸の膨らみや……そんなものをすべて自分のものにするには、一体どうすればいいのだろう?
「うまくって、なんだよ。ここは男らしくビシッと映画か食事にでも誘って、そんなふうに誘う回数が増えていけば、いくら鈍いあの女だって「ラリーさんはわたしが好きなのね。うふふ」くらいには気づくんじゃないのか?」
「だといいがなあ。どうも俺、彼女はガードが堅い気がする。ほら、おまえも言ってただろ?イーサンがどんなに面白いジョークを言っても、それが子供の教育上微妙だったらぴくりとも笑わない、みたいなこと。それと同じでさ、自分から色恋の匂いなんてのがしてたら子供の養育上悪いからっていうような、そんな理由でデートですら断られる気がするんだ」
「そうか。まあ、確かにな……」
ここでコンコン、とドアがノックされて、イーサンもラリーも一瞬ドキリとした。だが、ドアの向こうにいたのはココで、彼女は大好きな兄と大好きな兄の親友に、おやつをどこで食べるのかのお伺いに来たのだった。
「こっちで食べるんだったら、ここまで運んでくるし、ダイニングのほうがいいならそっちに用意するって。ねえ、どっち?」
ラリーが黙ったままでいるのを見て、「下におりるよ」と、イーサンが決めた。この広い屋敷のどこか一室で、「ラリーと少し話してみてくれ」とマリーに言おうかとも彼は思うが、やはりもう少し自然な流れのほうがいいだろうと考え直す。
「ねえ、イーサン。キャサリンってうちにあんまし来ないけど、どうして?」
いい男ふたりに挟まれることを喜びつつ、ココは自分の兄にそう聞いた。
「出来の悪いトンジとは彼女があんまりしゃべりたくないと思ってるから?ねえ、そうなんでしょ」
(妹よ。今何故俺にそれを聞く……)とそう思いながらも、イーサンは答えないわけにもいかない。何より、ココは子供らしい無邪気な心からそう質問しているに過ぎないのだ。
「まあ、そうだな。キャシーは子供がもともとあまり好きじゃないんだよ。だからおまえらの出来がもっとずっと良かろうと、そんなことは全然関係ないんだ。というか、俺のほうで誘えば彼女もやって来るだろうけど、俺もそんな話はほとんどしたことがないからな」
「ふうん。そうなの。イケてる人はやっぱりわかってるわね。わたしも子供なんて大っ嫌いだもの」
ココがそう言ってたたっとダイニングのほうに走っていくと、イーサンとラリーは顔を見合わせて笑った。と、そこへまだ海パン姿の愚弟ふたりが下りてきて、おやつをかっぱらいにダイニングキッチンのほうへ進撃していく。
「おい、おまえら。あの水浸しの床やら何やら、あとでちゃんと掃除しろよ。マリーおねえさんに掃除させるっていうんじゃなくな」
「わかってるって!」
「わかってるよ!」
そう言って一時休戦したふたりは、足の裏をふきふき、ダイニングの自分の席に座った。おやつのほうは梨や桃のクリームパイだった。マリーは人数分の紅茶を入れると、いつもよりひとつ分多くした座席の前にも同じようにそれを置く。
ラリーのほうではもう、言葉もなかった。これこそ、自分が長く夢に見てきた理想の家庭だとすら思ったほどだった。手作りのパイのほうもとても美味しく、(彼女と結婚すれば、これを一生食べられるんだ……)と思うと、胸がいっぱいで、マリーのことを前にしただけで彼はいつものようにはうまくしゃべれないほどだった。
「ねえねえ、イーサンって大学のほうじゃいつもどうなの?」
ここでも子供の純粋な好奇心に助けられたと思い、ラリーは少年のような笑みを浮かべた。
「そうだなあ。まあ、俺とイーサンはそもそも学部が違うからな。だが寮のほうじゃ人気者だし、そこでは月に一回闇鍋大会ってのをやってるんだが、こいつが寮にいた最後の月の闇鍋大会ってのが傑作で、もう見るからに悲惨なんだよな。カレーの匂いのする、なんかお玉でちょっと掬ってみると、ムカデをちぎったみたいのが出てきて……」
ランディとロンは、クリームパイを食べるのをやめると、ラリーの話に聞き入っていた。何故かごくりと喉が鳴ってしまう。
「しかもその時、寮生の中に東南アジアだったか南アメリカあたりから帰ってきたばかりの奴がいて……バッタの佃煮をお土産に持って帰ってきたらしいんだ。だからまあ、そんなのが口に入ったりして吐く奴がいたり、中にはそれをゴキブリか何かだと思って、「ヒィィッ!!」って叫んで本当に泣きだす奴がいたり……」
男の子たちは興味津々顔だったが、ココはただ率直に「おえぇっ!!」と言っていた。
「そうそう、ほんとに「オエェッ!!」て話さ。だがまあ、参加した奴らはみんな金のない貧乏学生ばっかりで、毎日食うのにも事欠くって連中だから、『掬って皿の上に入れたものは絶対に食べる』というルールにのっとり、全部食わねばならんわけだ。まあ、とりあえず死人は出なかったが、全員が全員死ぬ思いをしながら食事をしたってわけさ」
「はははっ。なんでみんな毎月あんなことやってんだろうなって思うんだがな、やっぱり腹のへってる連中は食い気には勝てないんだろうな。せめてスープだけでも……とか思ったら、とんでもないものを食べさせられるというわけだ」
実際はただ気味が悪いだけで、そう面白い話でもないのだが、その時参加した人間にとっては<傑作>とも言えるようなことが起きていたのだろう。イーサンとラリーは彼らしかわからないことで、しきりと笑いあっていた。そしてその「笑い」が感染したことで、子供たちも自然パッと笑顔になる。
「あの時の、バッタの足が口からはみ出た時のサイモンの顔……」
「写真に撮っときゃ良かったよな。実際はただのエビやホタテでも、ああなると虫の内蔵か何かとしか思えなくなってくるんだから、不思議だよ」
そして、ふたりは大笑いしあったのち、マリーの視線を感じた途端、正気に戻っていた。「じゃあちょっと、俺たちはやることがあるから……」などともごもご言いつつ、紅茶のカップを片手に部屋を出ていく。
「うちでも闇鍋やってみるー?」と、ココ。
「えー、そんなのやだよお。普通のごはんで十分だよ!」と、不満気にランディ。
そのあとも子供たちは何やかやとおしゃべりしていたようだが、当然ラリーとイーサンにその内容はわからない。ラリーはといえば、部屋から出た途端、その時のスパイシーなカレーの味でも思いだしたように、顔を真っ赤にしていた。
「俺、一体何言った!?なんで俺、あの人の前で闇鍋の話なんか……」
「まあ、そう気にするなって。あの女はおまえも言ってたとおり善良だから、そう悪いほうに取ることはない。それより、ラリーさんが子供のために面白い話をしてくださったとか、そんなふうにしか考えないと思っておいて間違いない」
「いや、落ち込むよ。あんなに美味しい梨や桃のパイを食べてる時に、ムカデの千切ったのやバッタが鍋の中に入ってただの、そんな話をするなんて……」
(いや、正確にはありゃムカデじゃない)と、イーサンはそう思ったが、とりあえず黙っておいた。しかし、一口に<紹介>などと言っても、意外に難しいものである。とりあえずマリーは、イーサンの友達が彼のところに遊びに来たとしか思ってはいないはずだ。これにちょっとしたきっかけというのを加えて、恋愛にまで発展するようにするには、どうすればいいのか……。
とりあえずイーサンは先に、携帯でマーティンに電話しておいた。そこで、顧問のブル公こと、ケネディ・ジャクソンにうまく言い繕って今日は休むと伝えて欲しいこと、またキャサリンにもデートのキャンセルを自分があやまっていたと言っておいてくれと頼んだのである。
『またこれで貸しひとつだぞ。というかもう、おまえこの借りの山を俺に返す気全然ないだろ?キャシーとも別れるつもりだなんて言っておいておまえ……』
「いや、色々複雑な事情があるんだって。そこのところはまた今度話すから、なっ、頼むよ、マーティン」
このあと、カフェテリアの一番高いメニューを奢るということでマーティンとの間で約束が成立し、イーサンはほっとして電話を切っていた。
「なんか悪いな、イーサン。俺のこんなくだらない恋愛ごとのために……」
「いやいや、気にするな。俺としてもな、あいつに教会員の男やもめなんかと結婚されるよりは、相手としてはおまえのほうが遥かに上級なのは間違いないからな。相手が誰にしろ、あいつがもし結婚したら、俺はこの屋敷の外に自然と弾き飛ばされる形になるだろう。ただ、マリーは何故かはよく知らんが、うちの大して値打ちのないように思われるガキどもの教育を最優先にするつもりらしいから……あいつらが相当でかくなるまでは再婚なんてしないだろうなという気はする。ほら、ラリーがさっき言ってたあれさ。色恋の匂いだのをさせると、子供の養育上よくないとか、そういう理由だな」
「だけど彼女、おまえの親父さんとは何もなかったんだろ?それなのに、なんで……」
先ほどの屈辱の食卓事件からはなんとか立ち直り、ラリーは少しばかり冷静になって聞いた。彼自身、イーサンが「その点が一番よくわからない、腑に落ちない点なんだ」と言うのを、何度も聞いた記憶がある。
「まあもうこうなると、親父と体の関係があろうとなかろうと、大股開きしてようとしてなかろうと、あんまり関係ないんだよな。事実、マリーは毎日親父の遺言通り、あの四人の親父の忘れ種に対して良いことだけをしてやり、しっかり面倒もみてる。おまえもさっき、リビングの様子を見たろ?もうガキどもはあのモミの樹の飾りつけだの、クリスマスまでカウントダウンするカレンダーだの……あんなのがあるってだけで、毎日輝くばかり嬉しそうにしてるんだからな。去年までは、モミの樹なんか飾ってあっても、小さい声で「わーい」とか、義理みたいに言ってたのが、今年は全然違うんだ。ミミなんか毎日、「サンタしゃんはいつ来るの?」ってそればっかりだし、子供たちは……その……ようするに、今年は何かプレゼントをもらうことがじゃなくて、初めてあいつに何か自分たちで「お返し」の出来ることが嬉しいのさ。ここが一番肝要な点で、俺もあいつらからその相談をされた時にはびっくりしたよ。『そうか。この豚児どもにもその程度のことを考えるくらいの知能があったのか』と、そう思ってな」
「素晴らしいことじゃないか。いや、イーサン。これまでだっておまえは本当によくやって来たと思うよ。でも、ほら……やっぱり家庭ってものには「夫人の手」というのが必要だって言うからな。そうか。そう考えるとなんだか、俺はあの子たちからお母さんを奪おうとするムカデが主食の悪魔のように思えてきたな」
「そう深刻に取る必要はないさ」と、イーサンは大笑いして言った。「それに、今は四人ともあのくらいの年だからどうにかなってるが、やっぱり「夫人の手」ってだけじゃなく、男手ってのも絶対的に必要なのは間違いないからな。特に男っていうのは、ある年齢に達すると本当は好きな母親に対してでも「このクソババアっ!」て言ったりするだろ。そういう時に「母さんになんて口を聞くんだ!」と言ってぶん殴る父親の力っていうのは絶対に必要だよ」
「なるほどな……」
ここでラリーは少しの間考えこんだ。マリー・ルイスのようなタイプの女性は、攻略に時間がかかるとは、当然彼も思ってはいた。その点、自分は気が長いし、何分ロースクールにこれから入学して卒業し、一人前になるまでには時間がかかる。そして自分もこれで社会を構成する一員として十分やっていかれるとの確信に達したら――あるいはそれ以前に彼女が承知してくれそうだったらさらにその前に――結婚できたらいいという、ラリーとしてはそのような考えであった。
だが、思った以上に相手は難攻不落の城砦のようにも感じられてきたのである。
「なんにしてもこれからおまえ、足しげくこの屋敷に通えよ。子供たちだっておまえやルーディあたりならいつでも大歓迎だろうし、俺に会いにきたというのであれば、不審に思うこともないだろう。まあ、気長にやれよ。あの女は客人には茶と菓子を出すべきだという強迫観念を持ってるから、おまえが来れば必ずワゴンにそんなものを乗せて運んでくるだろう。そうこうしてるうちに、デートに誘う機会なんかいくらでも出来るさ」
「だといいんだが……」
このあとふたりはマリーのことも当然話しはしたが、それ以外にも大学のことやキャサリンのことや、寮内であった愉快な事件のことなどなど――取りとめもなくしゃべっては時間を潰した。イーサンとラリーの関係というのは、もともとがこうしたものだった。特にこれといって大したことなど話さなくても、ただ一緒に同じ空間にいて話しているというだけで十分楽しいし、面白いのだ。
この日、ラリーは夕食までご馳走になってからマクフィールド家をあとにしていたが、おやつの時の恥辱を払拭するため、ラリーはその点については実に気を配って紳士らしく話を展開していたといえる。イーサンもそのために絶妙な会話のパスを出したし、結果として子供たちは大笑いし、子供たちが笑えばマリーも一緒になって笑うという、実に楽しいひと時であった。
食事のほうもとても美味しく、イーサンは「マグダのほうが料理はうまい」とか「そりゃ超一級の食材を使っているからな」などと言っていたが、ラリーにしてみればとんでもない話だった。あんなに心のこもったものを毎日作るのは大変なことだし、もともと<家庭の味>というものに縁のないラリーにしてみれば、マリー・ルイスの恋人、あるいは妻としてのこの時点での採点は百点を越えていたといってもまるで過言ではない。
最後、ラリーがそろそろ帰ろうかという頃、「おまえ、クリスマスも暇だったらうちに来いよ」とイーサンが言うと、ランディもロンもココも、「うん。来て来て!!」と嬉しそうに言ってくれた。そしてその時、彼がマリーのほうを見ると「よろしかったら、是非……」と、彼女も小さな声で誘ってくれた。ラリーは実家のほうへ戻っても、冷たいお義理のようなクリスマスしか待ってはいない身である。また、親友のイーサンのかつての恩を返そうとの意図もわかって、彼はそのことでも嬉しかった。
――一方、親友のラリーの黒いコートの後ろ姿を見送ったあと、イーサンは溜息を着いていた。自分のしていること、あるいはしようとしていることが正しいことなのかどうか、確信が持てなかったからである。
そして食器の後片付けをするマリーの後ろ姿を見ながら、新聞を読む振りをし……考えこんだ。ラリーの突然の愛の告白のことがなくても、彼は恋人のキャサリンとは別れるつもりでいた。ところが、ある種の確信が揺らいでしまったのだ。ルーディとマーティンからあの話を聞いて以来、イーサンは間違いなく彼女のほうから探りを入れてくるだろうと思っていた。そしてその時が別れ話を切り出すべき瞬間だとも考えていたのに……よく考えると、シーズン中もっとも大切な試合が間近に迫っているのである。
もしキャサリンがチア部のリーダーでなかったら、イーサンにしてもすぐにその話をしていただろう。だが、もっとも大事な決勝戦が終わってからのほうがいいだろうと思いもし、とりあえずキャサリンのことを避けるような態度を取っていたところ、突然「ものすごくムラムラしてるから会いに来て」と言われ、昨日はついそんなことになってしまった。大体、試合で勝利したあとはいつもそうしているのに、初めてそれがなかったのだから、イーサンにしても彼女に悪いような気がしたのである。
だが、すでに心のほうは他の女に移っているのに、まだ恋人であるとはいえ、キャサリンと寝たというのは――イーサンの心に小さな罪悪感をもたらしていた。正直、セックスのほうは最高だった。そしてそれと同じものをマリーが自分にもたらしてくれるとは、イーサンは今の段階では思っていない。けれど、そんなことは自分が教えればどうにかなることであって、その過程もまた楽しいものだろうというのが彼の本音であり、今日、マリーの水着姿を見たことで、彼女を他の男に渡すのは惜しいという気持ちも募っていた。
(マーティンは今日、俺に貸しがあると言っていたっけ。そういう意味じゃ俺には、ラリーに対しても随分借りがある。もっとも、あいつは気前のいい奴だから、俺に貸したこと自体を忘れているという、そういう奴ではあるが……)
そしてここまで考えた段階で、イーサンの心の中で結論は出た。何分、相手は本当にマリー・ルイスに対して恋をしているだけではなく、彼ならばマリーのことを大切にし、四人の子供たちの父親役をも十分務められるような男だ。これ以上の話はマリーにとっても、子供たちにとっても、あるいはイーサンにとっても、ラリーに感謝すべきような最高の条件がすべて揃っているような縁談である。
(ようするにこれは、俺がこの女と寝たいという欲望を退ければいいという、早い話がそういうことだ……)
キャサリンには申し訳ないが、イーサンにとって、彼女よりも大切なのはラリーやルーディやマーティンやサイモンといった親友たちのほうである。また、これまでつきあったことのある女性のうち、彼にとって男の友情よりも優先された女性はひとりもいなかった。そうした意味でもイーサンは、ここは自分が男の友情を優先させるべきなのだと、そう結論を下したのである。
「マリー、おまえ、赤毛とブロンドの男、どっちがいい?」
食器洗浄機に皿やフォークやスプーンなどをすべて突っ込むと、マリーはうさしゃんの新しいお洋服を縫いはじめた。これ以外にもマリーはうさしゃんのクリスマスプレゼント用に、外出用の赤いオーバーを作っているが、そちらは秘密なので、ミミが眠ってからこっそり作業をはじめるのである。
「えっと……」
質問の意図を理解しかねるといった顔をマリーがしたため、イーサンは聞き方を変えた。
「今日来てたラリーの奴、ものすごい赤毛だろう?ちょっと赤っぽいってくらいなら、『君の髪は赤毛なんかじゃないよ。赤味がかった褐色……いや、茶褐色といっていい』とでも言って慰められる。だが、あそこまで真っ赤だと、どうにも誤魔化しようがない。おまえ、自分に生まれてきた子があんなに赤い髪の毛をしてたら、愛せるか?」
「髪の色とか、関係ないと思いますけど……それが自分の子だったら、ただ健康だというだけで、十分なんじゃないでしょうか」
(ははは。来たぜ来たぜ、いつものとおりの模範回答が)と、そう思いながらイーサンは、もう慣れっこになっているので、肩を竦めただけで会話を終えた。それから、『おまえなんかと話していてもまるでつまらない』とでもいうように席を立った。彼は心を決めた。自分から今のように余計なことを話して距離を縮めようとしたり、変に近寄っていこうとするから何かの拍子に手が触れるだのなんだのして、(この女と寝たい)という感情を持つようになるのだ。
イーサンはラリーとはこれからも生涯を通じて無二の親友同士でいたいと思っている。キャサリンとはいずれ別れることにはなるだろう。だが、ラリーとの友情を大切にするように、マリーとの奇妙な家族の絆のほうを彼は優先するということにした。そしていつかそうしておいて良かったと思えればと、そう願ったのだ。
>>続く。
ええと、アメフトのことや、映画「しあわせの隠れ場所」のことについては、またそのうち何か書こうと思うんですけど……今回は、イーサンの親友のひとりであるラリーくんの赤毛ことについてでも、と思いました♪(^^)
いえ、わたしと同じ方がどのくらいいるかってわからないんですけど……赤毛と聞いてわたしがすぐに思い浮かべるのは「赤毛のアン」のことだったりします(笑)
もちろん、日本人的にはよくわかりませんよね。赤毛の何がそんなにいけないんだろうっていうか、むしろすごく綺麗だなって思うくらいなのに、欧米の方の間では「赤毛だからこの子は短気なんだろう」とか、あるいは「性悪の赤毛の娼婦とでも夫は浮気してるに違いない」とか……赤毛の人でも気の長い方はきっとたくさんいらっしゃるでしょうし、赤毛=性悪の娼婦的イメージについては、わたしこれまで海外のドラマや小説などで、よく言及されているのを見たり読んだりした記憶があります(^^;)
そしてわたし、松本侑子先生の『赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎~』を読んで、初めて「赤毛が嫌われる理由」について知ったというか。。。
>>なぜ赤毛を嫌うのか?
アンの時代は、金髪と黒髪が美しいという美意識に加えて、赤毛には裏切り者のイメージもありました。キリスト教では、イエスを裏切った弟子として新約聖書に描かれるイスカリオテのユダが赤毛だったという伝説があります。旧約聖書でも、アダムとイヴの息子カインが赤毛とされます。カインは嫉妬から弟のアベルを殺害するのです。
髪の色が多様な西洋では、毛髪から人格を推測する、ある種ステレオタイプな分類もあります。金髪の女性は家庭的な良妻賢母、黒髪は情熱的な悪女といった描き分けが従来の映画にはよくありました。
一方、赤毛は、エキゾチックで謎めいた美女というイメージもあります。古くは16世紀イタリア絵画の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90~1576年)が好んで赤毛(金褐色)の美女を描きました。彼の名は『赤毛のアン』にも登場しています(第33章)。
20世紀のハリウッド女優では、鮮やかな赤毛のモーリン・オハラ(オハラはアイルランド系に多い名字)、「赤毛のリタ」と呼ばれたリタ・ヘイワースに人気がありました。
赤毛は、ケルト系(スコットランド人、アイルランド人)に多いとする俗説もあります。そこから、どこか魔法がかった不思議な個性が、文学や映画における赤毛には付加されることもあるのです。
(『赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎~』松本侑子さん著/NHK出版)
「赤毛のアン」のアンもまた、「赤い髪の人でなければその苦労はわからないわ」と言ってるわけですが、ラリーが赤毛で苦労したというエピソードについては、もう少し先のほうで記述が出てくるかと思います(^^;)
そんで、ラリーは瞳の色が緑だったりするんですけど……この<緑>っていうのも、なんかあんまりいいイメージがないみたいで……それが緑=嫉妬深いということと関連あるのかどうかわからないんですけど、わたしこの緑=嫉妬の色というのを聞いた時にも、ちょっとびっくりしたような記憶があります
確かアメリカだったと思うんですけど、男性にアンケートを取ってみたところ、一番人気のある髪の色がダントツでブロンド、そしてその次が黒髪とかで、やっぱり赤毛っていうのは一番人気なかったりするんですよね(^^;)
そして、目の色についても、わたしが小説などで読んだことあるのって、ある女性の青い瞳を男の人が讃えてるとか、あるいは女性が男性に対し、「なんて澄んだ青い瞳かしら」とか「空の水色を溶かしこんだみたい」とか「澄んだ湖のような綺麗な瞳」とか、賞賛されてるのは大抵が青い瞳で、緑色の瞳が褒められてる描写ってほとんど読んだりしたことないような。。。
ええと、緑っていう色が嫉妬と結びつけられる他に、「疑い深そうな緑色の瞳」とか、「きっと詐欺師に違いない」……みたいな描写なら読んだことがあって
つまり、ラリーって、容姿的に格好良い人ではあるんですけど、この赤×緑という最悪(?)な組み合わせにより、継母やその連れ子の妹からはそのことであれこれ言われることが多かったらしく……まあ、このお義母さんがそこそこフツーな人でさえあれば、ラリーは性格いい人なので、親子としても、兄妹としても結構うまくいったはずなのに、何かにつけて「あの子は赤毛だから~~なのよ」みたいな物言いをする人だったらしいですね(^^;)
まあ、なんにしてもラリー・カーライルくんは、炎のような赤毛にエメラルドを嵌めたような瞳という、容姿的にはそんな設定だという話でした。。。
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【16】-
この二日後、ラリーは大学のカフェテリアでイーサンと出会い、キャサリンとふたりで席を取っていた彼の隣に座った。
「プレーオフ進出、おめでとう」
そう祝福の言葉を述べると、イーサンは不敵な笑みを浮かべてニッと笑った。四つあるカンファレンスのうち、一番の激戦区で優勝したのであるから、当然といえば当然すぎる余裕の笑みである。
「なんだか、うちの豚児どもがユトレイシア・スタジアムではおまえの世話になったそうだな」
「いや、それほどでもないさ。あの子たちの面倒を見て何かと心を砕いていたのはマリーさんで、俺はほんの少しだけ困った時に助けてあげたにすぎない」
マリー、という女の名を聞いて、キャサリンが少し神経質そうに眉を上げても――その意味するところは、ラリーにはすぐピンと来なかった。ルーディならばおそらく間違いなくその意味を察し、(おーこわ)と肩を竦めていたに違いないのだが……。
「それで、さ。前にも同じことを言った気がするけど、彼女のこと、正式に紹介してもらえないかな」
「紹介って……」
トレイの上にBLTサンドとコーヒーをのせたラリーは、彼らしくもなく少し照れたように下を向いた。
「前にも言ったろ。俺は彼女みたいのが好みのタイプなんだ。で、この間ユトレイシア・スタジアムで会って……最初に思ったのと同じおしとやかで善良で優しい人なんだなと思ったら、こんな人を逃す手はないと思ったというかさ。おまえ、いつなら都合がいい?」
「何言ってんだよ、ラリー。おまえだってさんざん、他の連中と一緒になって俺の体のきかない親父の前で大股開きしただのなんだの、テキトーなこと抜かしてたくせに、調子よすぎるぞ」
キャサリンとイーサンとは、食事のほうは大体終えていたものの、最後にそれぞれエスプレッソを飲んでいるところだった。キャサリンのほうではマリーのことを話す時、イーサンに不審な点がないかどうかと、じっと彼のことを見つめている。
「だから、それはそれ、これはこれだって。男が何人か集まって誰か女のことを話す時にはそんなものだって、おまえにだってわかるだろ?今じゃ俺も悪いと思ってるんだ。あんな可愛い人のことをそんなふうに言うだなんて……なんにしても反省してる。だから、おまえの都合のついた時に彼女に会わせてくれよ」
「…………………」
こんな展開は予想してなかっただけに、イーサンも戸惑った。横を見ると、キャサリンもまた彼のことを凝視している。その視先の言わんとするところを察して、イーサンにしても言葉を選ばずにはいられなかった。
「あー、その、なんだ。俺もこれ、前にも言ったと思うが、あの女はほんとにつまらんぞ。俺が最高に面白いジョークを言った時でさえ、ガキどもの教育に悪いとなったらぴくりとも笑わんような女だしな。正直ラリー、おまえとは合わないと思う。何故かといえば、俺の知る限りおまえはとても愉快な奴だし、あの女はとにかく陰気なんだよ。性格も内向的だし、大人しくて快活なところがない。一緒にいて三日もすれば飽きるような女だ。そのことは俺が保証する」
「まあ、おまえにとってはそうだろうよ」
ラリーはサンドイッチに齧りつきながら笑った。
「だから快活で外交的で美人なキャサリンとつきあってる。だが、表面的にはどうあれ、俺も突き詰めると根の暗い内向的な男なんでな、マリーさんとはそのあたりで一致してうまくやっていけると思うんだ」
「そこまで言うならしょうがないな。むしろ逆に、おまえはいつなら都合がいいんだ?」
イーサンは溜息を着いた。すぐ隣にもしキャサリンさえいなければ……もう少しどうにか出来たかもしれないのに、これではもはや逃れようがない。
「今日でも明日でも明後日でも、いつでもいいさ。とにかく速いに越したことはない。なんにしても、マリーさんには俺がああ見えて結構いい奴なんだ的に言っておいてくれ。彼女、俺のこと、赤毛のライオンか何かみたいに思ったのかどうか、話しかけるたんびにちょっと脅えてたからな。ライオンに親切にされてもちっとも嬉しくないうさぎみたいに」
ここでイーサンはぶっと笑った。この赤毛のライオンにうさぎを紹介することがわかり、キャサリンのほうでも初めて笑顔になる。
「ねえ、そのマリーって人、そんなに可愛いの?イーサンはわたしに、地味で面白いところのひとつもない女だなんて言ってたけど、その割にルーディとマーティンの言い種じゃあ……子供好きな明るいいい人だ、みたいなこと言ってた気がするけど」
「その通りだよ。あんな感じのいい人はちょっといないくらいじゃないかな。イーサンが何を思ってそんなに彼女のことを下に落とそうとするのか、俺にはよくわからない」
ここでイーサンは少しばかり咳き込んだ。(そりゃ決まってるだろ。ついきのうキャシーに問い詰められて、『地味なつまらないどうということもない女だ』と言ったばかりなのに、そんな矛盾したことを言えるか!)というのが彼の本音でも、そんなことはこの場合口が裂けても言えない。
「そりゃ俺は一緒に暮らしてるからに決まってるだろ。ほんの一度か二度ちょっと顔を合わせたくらいのおまえらにマリーの一体何がわかる。そうだな、あの女の欠点を俺があらかじめおまえに教えておいてやろう。あいつはとにかく道徳的で、宗教的な堅苦しい女なんだ。たとえば、俺が自分の弟たちに勉強を教えていたとするな?で、間違えるたんびに定規で奴ら豚児どもをピシャピシャぶつ。ぶつっていったって、痛くないくらいの可愛らしいもんだ。ところがだな、あの女はそんな俺の様子をじっと見て……口では何も言わないくせして、ちょっと責めるような顔つきをする。こっちがいかに苦労して頭の悪い弟どもにものを教えているかもわからずに、『定規でなんていちいちぶたなくても、もっと優しいお兄さんらしく教えたりできないのから』とでも言わんばかりだ。それで俺が、その不満たらしい目つきが不満で『なんだ。何か文句でもあるのか?』と言ったとするな?そしたら、『いいえ、べつに何も』とか言うっていう、何かそんな感じだ。目でだけこちらを責めておいて口では何も言わないわけだ。今はそうでもないが、最初の頃はそれだけでも腸(はらわた)が千切れそうだったもんだぜ」
イーサンがエスプレッソのカップを片手にそう言うと、ラリーもキャサリンも笑った。
「イーサン、そりゃおまえの被害妄想も少しか混ざってるんじゃないか?でも、今の話を聞いてむしろ安心したよ。おまえみたいな男が身近にいて……何も感じない女がいるとは思えんからな。そうか。ようするに彼女とおまえでは教育方針から何もかも、水と油みたいに正反対なわけだ。ふうむ、なるほどな。そういう意味じゃ俺は彼女と協力して、色々うまいことやっていけそうだ」
「ふん。そう簡単に言うなよ、ラリー。おまえ、どうせアレだろう?マリーとうまくいった暁には、うちのコブどもをあの屋敷に残して、ふたりだけで新婚生活を送ろうとか、そういう……」
「いや、それはない」
ラリーは食事を一旦中断すると、妙にきっぱりとした口調で言った。
「俺はおまえの弟や妹たちのことが好きだし、そこそこ馬も合うんじゃないかと思ってる。それにおまえ、上の男の子はふたりとも、寄宿学校へ入れるつもりなんだろ?そしたら、彼女もその分時間が空くだろうし、ココちゃんとミミちゃんはふたりとも可愛いからな。向こうで俺のことを嫌いさえしなかったら、父親がわりというのはなんだが、それに近いことはしてやれるだろう」
「なんだ、ラリー。おまえ、俺の兄貴としてのお株を奪おうってのか?」
イーサンは冗談めかしてそう言ったが、マリーが彼と結婚式を挙げる場面が頭に思い浮かんで、突然焦りを覚えた。イーサンの知る限り――ラリーのような男に言い寄られて悪い気のする女はまずいないだろう。家柄良し、経歴良し、よほどの赤毛嫌いだとでもいうのでない限り、ラリーのことを愛さずにいる女がいるとは思えない。
「そういうことじゃないさ。何より、あの子たちにとっておまえは誰より特別な存在だからな。俺では当然イーサンのかわりにはなれない。だが、女手ひとつで子育てっていうのは何かと大変だ。そういう時にマリーさんが寄りかかったり、色々相談できる相手になりたいと、俺はそう思ってるんだ」
「やっぱりあんた、変な奴ね、ラリー」
キャサリンはクリームを落としたエスプレッソを飲みながら、ラリーのエメラルドの嵌まったような緑の瞳を見つめて言った。大抵の男が彼女の色仕掛けに引っかかるというのに――彼は鼻にもかけなかった。そこでキャシーは彼が実はゲイなのではないかという疑いまで持ったほどだ。だが今、その謎が解けた。自分と容姿のタイプも性格も何もかも正反対だという女が好みだというのだから、それは当然のことだったのだろう。
「わたしの年の離れた一番上の姉さん……バツイチの子持ち男と結婚したんだけど、最初はそりゃ子育ての理想に燃えてたそうよ。ところがね、旦那との間に自分の子が出来たら――もうその子が可愛くって可愛くって、夫の前妻の子なんか心の中じゃまるでポイよって言ってたわ。でもやっぱり、母親としてはどっちも平等に育てなきゃって思うでしょ。でも本音じゃね、ふたりが同時に溺れてたら、絶対自分の子を助けるんですって。いくら綺麗ごと並べたって、そのマリーって人も同じなんじゃないかしらね」
(マリーはおまえの姉さんとは違うさ)と、イーサンはそう思ったが、口に出しては当然何も言わなかった。
「俺は自分がそういう環境にあって悩まされたからな。そういう意味で、どっちの子も可愛がれるんじゃないかと思ってる。というより、むしろ自分の子のほうにこそ厳しくて、息子や娘のほうで俺に愛情があるとは思えないかもしれないな。とにかく、俺にはそういうところがある」
「ラリー、おまえがもし父親とかいうやつになったら、間違いなくいい親になるさ。ついでに、女にとってのいい夫ってのにもなれるだろう。だが、その相手がマリーとはな……おまえならもっといい女がいるだろうに、あの程度で手を打とうというのは納得しかねるが、おまえが是非にというなら仕方がない。だが、紹介するだけのことはするが、マリーの心のほうまでは保証しかねるぞ。何分、あの女は変わってるからな。マリーが我が家にきてすでに五か月になるが、あの女が本当は何かを考えているのか、俺にはさっぱりわからん」
ここでラリーとイーサンは互いに目を見合わせると、何故か示し合わせたように大声で笑った。キャサリンには彼らがそんなにも何がおかしいのか、まるでわからない。
「そうか。一緒に暮らしてるイーサンにもそこのところがわからないとは……なかなかやるな、彼女も」
「そうさ。ちなみにあいつ、おまえ以外の男にもまるでモテないというわけではないらしい。教会の男やもめどもには人気があるらしくて、ちょっとした競争になってるって話だ。だが、俺の見た限り、マリー自身にはそんな気はまるでないようだな。直接あいつにそう聞いたってわけじゃないが、あいつにとって<自分の子>としてまず責任のあるのはうちの四人の豚児どもで、まずこいつらを満腹にしてから異邦人の子らにもパン屑くらいやるかといったところなんだろう」
ラリーは聖書の話をもじったこのジョークが気に入り、テーブルを叩いて笑った。
「なるほどなあ。ああした若い可愛らしい女性と結婚するためなら、今自分の元にいる子供にプラスして、一気に四人の子持ちになるのも厭わないというわけか。でも彼女、恋愛のことではちょっと鈍そうだものな。あるいは男どもの思惑につきあうのが面倒くさくて、あえて気づかない振りをしているのか……」
「さあて、どうだか。なんだったらラリー、今日早速うちに来いよ。おまえ、午後からは何か受けなきゃならない講義でもあるのか?」
「いや、ないよ。だがイーサンはアメフトの練習があるんじゃないか?」
イーサンは隣のキャサリンのほうをちらっと見てから言った。実は練習後、彼女とデートの約束をしていた。だがまあ、なんとかなるだろうと短絡的にそう考える。
「ほら、今まだ二時前だろ?これからちょっと自宅に戻って、ラリーのことをマリーに紹介して、そのあと部のほうには来ればいいさ」
「じゃあ、善は急げだ。俺、寮にいってちょっと着替えてくるよ」
「着替えって、ラリー、おまえ……」
(べつにそのままでもいいじゃないか)と、そうイーサンは思ったが、次にカフェテリアへ戻って来た時、彼はボタンダウンのシャツにジーンズという格好から、パリッと糊のきいたワイシャツに某ブランドのズボンとベルトという格好をしていた。
「ふうむ。それがおまえの勝負服とはねえ」
「そんな大袈裟なことじゃない。というより、最初からそこまで必死感を出したら、彼女のほうでもどん引くだろうから、このくらいかなと思ってさ」
「なんにしても、行くか。あの女はどうせこの時間はガキどものおやつを作ってるか、ミミの相手をしてるかのどっちかだろうからな。普通に俺が友達を連れてきたっていうふうにすれば、まあ自然だ」
「よろしく頼む」
ラリーを待つ間、カフェテリアにクリスティンや他のチア部員たちがやって来たたため、キャサリンはそちらのほうに席を移していた。イーサンは一瞬だけそちらに顔を向けて「またあとでな」というように手を振った。だが、実際はイーサンはこの日、アメフトのほうも休み、キャサリンとのデートもキャンセルするつもりでいたのだった。
イーサンにしても、マリーに他の男を紹介することなど、本当は気が進まない。けれど、一度紹介するとなった途端、それが無二の親友ということもあり、何か急に面白い部分が出てきた。また、こうした場合に彼女がどういう反応をするのか……その点もイーサンは観察してみたいように感じていたのである。
しかして、マリーはイーサンの思った通りその日も自宅の屋敷にいた。だが、彼の予想に反して彼女は子供たちの三時のおやつを作ってはいなかった。そのかわり、温水プールで子供四人と寛ぎきって遊んでいたのである。
ゆえに、玄関のドアを開けて中に入った時――ロンとランディがウォーター・マシンガンで互いを撃ち合っているのを見て、イーサンは非常に驚いたものだ。というより、今日は午後から授業のほうがなかったのかと思い、この時間に上の弟ふたりがいることを不審にすら感じていた。
「おい、おまえら!学校はどうした!?まさかマリーねえさんが「学校なんか、行きたくなかったらもう行かなくていいわよ」なんて言ったわけじゃあるまい?」
「まっさかあ!」
中央階段の踊り場で、海パン一丁のランディがそう叫ぶ。途端、同じく海パン一丁のロンが、その少し下の位置からウォーターマシンガンで容赦なく打ってくる。
「うわっ!!しゃべってる時くらい、攻撃するのはよせよ、ロン!」
「悪い、悪い。こっちからじゃイーサン兄ちゃんの姿が見えなかったんだもん。おかえ……あっ!!ラリーさんだあ。お久しぶりですねえ。これでルーディさんがいたら、ぼく的には完璧なのに」
イーサンとラリーとルーディ、この三人が揃ってしゃべっているところを聞いているだけでも、まるで小説の中の会話のようで面白いと、ロンは常々そのように感じていた。
「うわっ!!しゃべってる時は攻撃すんなって言ったくせに……何すんだよ、ランディ!」
「へへっ。油断大敵ィっ!!」
ランディは上の階段の優位な位置につくと、弟のことを集中攻撃しはじめた。ロンのほうでも決してやられっぱなしではいない。ふたりは撃ちつ撃たれつしながら、どんどん階段を上へ上へと上がっていった。
「やれやれ。一体どうすんだ、これ……」
水浸しになった階段や踊り場を見て、イーサンは呆れたように言った。まあ、床のほうは大部分が大理石で出来ているため、あとからモップか何かで拭けばいいのだろうが、こんなところを本人たちがまたドタバタ走ったらつるっと滑って頭でも打つのではないかと、イーサンとしてはそちらのほうが心配だった。
「おまえら、裸足の足でつるっとすっ転んだりしないように気をつけて遊べよ!!」
上階のほうに向けてイーサンがそう叫ぶと、「わかってま~す!!」というふたりの声が返ってくる。
「悪いな、ランディ。おまえも足許には気をつけてくれ」
「ああ。だが、ロンのやつ、随分顔色がよくなったもんだな。前までは小学三年生にして胃薬が必要みたいな青い顔をしてた気がするけど……」
廊下の全体に微かな湿気や蒸気のような気配を感じて、イーサンは温水プールのほうへ向かった。何分、きのうイーサンはキャサリンとホテルのほうに泊まったもので、何故子供たちが十二月のこんな寒い時期にあんな遊びをしているのか理解不能だった。また、屋敷全体がセントラルヒーティングによって温められているため、設定温度を上げさえすれば、廊下も夏並みに暖かくすることは簡単なのだった。
「おい、マリー。子供たちは……」
イーサンはそこまで言って絶句した。ココが「きゃっはあっ!!」と叫びながらウォータースライダーから滑ってきてプールに飛び込んだからではない。マリーがミミと一緒に浮き輪をしながら水の上にぷかぷか浮かんでいたという、そのせいだった。
「あら、おかえりなさい」
「兄た~ん。おかえんなさ~い」
イーサンが客人と一緒だったせいもあり、マリーは一度プールから上がることにした。小さなビニールプールの上にいるうさしゃんと一緒に、ミミのことも浮き輪ごと引っ張ってきて、階段から上がろうとする。この時ラリーはちゃっかり彼女に手を貸すためにそちらに走っていたわけだが、マリーはただ不思議そうに「ありがとうございます」と言って彼の手を握っただけだった。
「わあ、ラリーさんがうちに来るのなんて久しぶりじゃない!?一体どうしたの?」
ココがプールの階段近くまで泳ぎつくと、当然ラリーは親友の妹にも紳士らしく手を貸してやった。だが、彼の目線はやはりマリーの水着姿のほうに注がれたままだった。まさか、こんな展開が自分を待っているとは思っていなかっただけに……クレオパトラと初めて出会った時のカエサルもかくやという、新鮮な喜びを胸に覚えていたのだった。
(やれやれ。これで決まりだな……)
実際のところ、自分で想像していた以上にマリーのスタイルがいいのにイーサンですら驚いていた。また、あらかじめ自分がこの時間に帰ってくるとわかっていたら、彼女は水着姿でなどいなかったことだろう。彼にはそのこともわかっているだけに、この時複雑な思いが込み上げていたのだった。
「おい、今日ガキどもは学校のほうはどうしたんだ?」
「今日はお休みなんです。ええっと……」
「創立記念日よ、おねえさん。イーサンはきのうキャサリンとよろしくやってたから知らないのも無理ないけど!」
ここでマリーはくすくすと笑った。イーサンがキャサリンとよろしくやってたのがおかしいわけではない。まだ八つにしてこうした大人びた口を聞くココが面白いのである。そして彼女は「淑女のたしなみ」とでもいうようにパレオをつけるとたたっと先に走っていった。軽くシャワーを浴びて着替えるためだった。
「よく髪の毛を拭いて乾かしてね!風邪ひくといけないから」
「ココ!廊下を歩く時は気をつけろよ。ランディとロンがあっちこっちに水溜りを作ってるからな」
わかってますよーだ、と返事したにも関わらず、彼女が廊下で一度滑りそうになっているのを見て、イーサンもマリーも一瞬ひやっとした。だが、上の兄ふたりよりも精神的にりこうな彼女は、「まったくもう!男ってどうしてこう馬鹿なのかしら」と言いながら、階段を上がっていったものだ。
そして、マリーもミミを連れてシャワーを浴びると、着替えてきてダイニングキッチンのほうへ戻った。おやつの準備をするためである。一方、この屋敷内にいる他の馬鹿な男たちふたりは、三階の応接室で話し合いを重ねていた。
「俺、たぶん彼女と結婚するよ、イーサン」
「はあ!?あんなたかが水着きてたくらいのことがどーしたってんだ。しかもどーってことない、色気も素っ気もない紺色のダサい水着だぞ。それよりもうちょっと先に進んでから結婚なんてのは考えるべきことだろうが!」
それ以上、ラリーは答えなかった。少しばかり頬を赤らめることさえして、下を向いたままでいる。イーサンは彼の向かい側のソファに座ったまま、槍を持つ銀色の甲冑のほうを仰ぎ見た。
(まあな。あいつはたぶん着痩せするとかいうタイプなんだ。胸も思った以上に結構あったし……)
その女を親友にただで明け渡すというのは、イーサンにしても何やら面白くないことだった。しかも、ミミの軽口のせいで自分とチアリーダーのキャサリンとの関係がどのようなものなのかも知れているらしい。実際、イーサンはキャサリンとは別れるつもりでいた。ところが、その気配を察したキャシーのほうで彼に別れ話をさせないべく、あれやこれやと手を打った結果として――昨夜、イーサンが彼女と寝たというのは事実でもあった。
「あんな人、他にいないよ、イーサン。何より、子供たちが懐いてるのを見てるだけでもわかる。心のあたたかい人なんだ、本当に……」
ラリーがどこか夢見る眼差しでぼうっとしているのを見て、イーサンは頭が痛くなった。確かに、子供たちもみなラリーのことは兄の親友として好いているし、その彼とマリーが結婚しても、おそらくそれほど反抗心を覚えたりすることはないだろう。また、ここへ辿り着くまでの道々ラリーが話してくれたことなのだが、自分がマリーと一緒になれば、この屋敷はイーサンにとっても気兼ねなくいつでもやって来れる実家であり続けられるだろうということだった。
「じゃあまあ、その、だな……将来的におまえがマリーにプロポーズするとしてだ。その前に色々しなきゃならんことがあるわな。つきあってくれって言ったり、デートしたりだの、そういうことだが……」
「そう、だよな。なんにしても、そこまでいくには先にデートに誘わないと。おまえ、あの人になんとかうまく言ってくれないか?」
今もまだ、プールの水面が光に揺れ、その光を反射したようなマリーの微笑みがラリーの脳裏には浮かぶ。それを自分のものだけにするにはどうしたらいいのか、また、あの白いうなじや黒い髪や、最初はあまり期待していなかった胸の膨らみや……そんなものをすべて自分のものにするには、一体どうすればいいのだろう?
「うまくって、なんだよ。ここは男らしくビシッと映画か食事にでも誘って、そんなふうに誘う回数が増えていけば、いくら鈍いあの女だって「ラリーさんはわたしが好きなのね。うふふ」くらいには気づくんじゃないのか?」
「だといいがなあ。どうも俺、彼女はガードが堅い気がする。ほら、おまえも言ってただろ?イーサンがどんなに面白いジョークを言っても、それが子供の教育上微妙だったらぴくりとも笑わない、みたいなこと。それと同じでさ、自分から色恋の匂いなんてのがしてたら子供の養育上悪いからっていうような、そんな理由でデートですら断られる気がするんだ」
「そうか。まあ、確かにな……」
ここでコンコン、とドアがノックされて、イーサンもラリーも一瞬ドキリとした。だが、ドアの向こうにいたのはココで、彼女は大好きな兄と大好きな兄の親友に、おやつをどこで食べるのかのお伺いに来たのだった。
「こっちで食べるんだったら、ここまで運んでくるし、ダイニングのほうがいいならそっちに用意するって。ねえ、どっち?」
ラリーが黙ったままでいるのを見て、「下におりるよ」と、イーサンが決めた。この広い屋敷のどこか一室で、「ラリーと少し話してみてくれ」とマリーに言おうかとも彼は思うが、やはりもう少し自然な流れのほうがいいだろうと考え直す。
「ねえ、イーサン。キャサリンってうちにあんまし来ないけど、どうして?」
いい男ふたりに挟まれることを喜びつつ、ココは自分の兄にそう聞いた。
「出来の悪いトンジとは彼女があんまりしゃべりたくないと思ってるから?ねえ、そうなんでしょ」
(妹よ。今何故俺にそれを聞く……)とそう思いながらも、イーサンは答えないわけにもいかない。何より、ココは子供らしい無邪気な心からそう質問しているに過ぎないのだ。
「まあ、そうだな。キャシーは子供がもともとあまり好きじゃないんだよ。だからおまえらの出来がもっとずっと良かろうと、そんなことは全然関係ないんだ。というか、俺のほうで誘えば彼女もやって来るだろうけど、俺もそんな話はほとんどしたことがないからな」
「ふうん。そうなの。イケてる人はやっぱりわかってるわね。わたしも子供なんて大っ嫌いだもの」
ココがそう言ってたたっとダイニングのほうに走っていくと、イーサンとラリーは顔を見合わせて笑った。と、そこへまだ海パン姿の愚弟ふたりが下りてきて、おやつをかっぱらいにダイニングキッチンのほうへ進撃していく。
「おい、おまえら。あの水浸しの床やら何やら、あとでちゃんと掃除しろよ。マリーおねえさんに掃除させるっていうんじゃなくな」
「わかってるって!」
「わかってるよ!」
そう言って一時休戦したふたりは、足の裏をふきふき、ダイニングの自分の席に座った。おやつのほうは梨や桃のクリームパイだった。マリーは人数分の紅茶を入れると、いつもよりひとつ分多くした座席の前にも同じようにそれを置く。
ラリーのほうではもう、言葉もなかった。これこそ、自分が長く夢に見てきた理想の家庭だとすら思ったほどだった。手作りのパイのほうもとても美味しく、(彼女と結婚すれば、これを一生食べられるんだ……)と思うと、胸がいっぱいで、マリーのことを前にしただけで彼はいつものようにはうまくしゃべれないほどだった。
「ねえねえ、イーサンって大学のほうじゃいつもどうなの?」
ここでも子供の純粋な好奇心に助けられたと思い、ラリーは少年のような笑みを浮かべた。
「そうだなあ。まあ、俺とイーサンはそもそも学部が違うからな。だが寮のほうじゃ人気者だし、そこでは月に一回闇鍋大会ってのをやってるんだが、こいつが寮にいた最後の月の闇鍋大会ってのが傑作で、もう見るからに悲惨なんだよな。カレーの匂いのする、なんかお玉でちょっと掬ってみると、ムカデをちぎったみたいのが出てきて……」
ランディとロンは、クリームパイを食べるのをやめると、ラリーの話に聞き入っていた。何故かごくりと喉が鳴ってしまう。
「しかもその時、寮生の中に東南アジアだったか南アメリカあたりから帰ってきたばかりの奴がいて……バッタの佃煮をお土産に持って帰ってきたらしいんだ。だからまあ、そんなのが口に入ったりして吐く奴がいたり、中にはそれをゴキブリか何かだと思って、「ヒィィッ!!」って叫んで本当に泣きだす奴がいたり……」
男の子たちは興味津々顔だったが、ココはただ率直に「おえぇっ!!」と言っていた。
「そうそう、ほんとに「オエェッ!!」て話さ。だがまあ、参加した奴らはみんな金のない貧乏学生ばっかりで、毎日食うのにも事欠くって連中だから、『掬って皿の上に入れたものは絶対に食べる』というルールにのっとり、全部食わねばならんわけだ。まあ、とりあえず死人は出なかったが、全員が全員死ぬ思いをしながら食事をしたってわけさ」
「はははっ。なんでみんな毎月あんなことやってんだろうなって思うんだがな、やっぱり腹のへってる連中は食い気には勝てないんだろうな。せめてスープだけでも……とか思ったら、とんでもないものを食べさせられるというわけだ」
実際はただ気味が悪いだけで、そう面白い話でもないのだが、その時参加した人間にとっては<傑作>とも言えるようなことが起きていたのだろう。イーサンとラリーは彼らしかわからないことで、しきりと笑いあっていた。そしてその「笑い」が感染したことで、子供たちも自然パッと笑顔になる。
「あの時の、バッタの足が口からはみ出た時のサイモンの顔……」
「写真に撮っときゃ良かったよな。実際はただのエビやホタテでも、ああなると虫の内蔵か何かとしか思えなくなってくるんだから、不思議だよ」
そして、ふたりは大笑いしあったのち、マリーの視線を感じた途端、正気に戻っていた。「じゃあちょっと、俺たちはやることがあるから……」などともごもご言いつつ、紅茶のカップを片手に部屋を出ていく。
「うちでも闇鍋やってみるー?」と、ココ。
「えー、そんなのやだよお。普通のごはんで十分だよ!」と、不満気にランディ。
そのあとも子供たちは何やかやとおしゃべりしていたようだが、当然ラリーとイーサンにその内容はわからない。ラリーはといえば、部屋から出た途端、その時のスパイシーなカレーの味でも思いだしたように、顔を真っ赤にしていた。
「俺、一体何言った!?なんで俺、あの人の前で闇鍋の話なんか……」
「まあ、そう気にするなって。あの女はおまえも言ってたとおり善良だから、そう悪いほうに取ることはない。それより、ラリーさんが子供のために面白い話をしてくださったとか、そんなふうにしか考えないと思っておいて間違いない」
「いや、落ち込むよ。あんなに美味しい梨や桃のパイを食べてる時に、ムカデの千切ったのやバッタが鍋の中に入ってただの、そんな話をするなんて……」
(いや、正確にはありゃムカデじゃない)と、イーサンはそう思ったが、とりあえず黙っておいた。しかし、一口に<紹介>などと言っても、意外に難しいものである。とりあえずマリーは、イーサンの友達が彼のところに遊びに来たとしか思ってはいないはずだ。これにちょっとしたきっかけというのを加えて、恋愛にまで発展するようにするには、どうすればいいのか……。
とりあえずイーサンは先に、携帯でマーティンに電話しておいた。そこで、顧問のブル公こと、ケネディ・ジャクソンにうまく言い繕って今日は休むと伝えて欲しいこと、またキャサリンにもデートのキャンセルを自分があやまっていたと言っておいてくれと頼んだのである。
『またこれで貸しひとつだぞ。というかもう、おまえこの借りの山を俺に返す気全然ないだろ?キャシーとも別れるつもりだなんて言っておいておまえ……』
「いや、色々複雑な事情があるんだって。そこのところはまた今度話すから、なっ、頼むよ、マーティン」
このあと、カフェテリアの一番高いメニューを奢るということでマーティンとの間で約束が成立し、イーサンはほっとして電話を切っていた。
「なんか悪いな、イーサン。俺のこんなくだらない恋愛ごとのために……」
「いやいや、気にするな。俺としてもな、あいつに教会員の男やもめなんかと結婚されるよりは、相手としてはおまえのほうが遥かに上級なのは間違いないからな。相手が誰にしろ、あいつがもし結婚したら、俺はこの屋敷の外に自然と弾き飛ばされる形になるだろう。ただ、マリーは何故かはよく知らんが、うちの大して値打ちのないように思われるガキどもの教育を最優先にするつもりらしいから……あいつらが相当でかくなるまでは再婚なんてしないだろうなという気はする。ほら、ラリーがさっき言ってたあれさ。色恋の匂いだのをさせると、子供の養育上よくないとか、そういう理由だな」
「だけど彼女、おまえの親父さんとは何もなかったんだろ?それなのに、なんで……」
先ほどの屈辱の食卓事件からはなんとか立ち直り、ラリーは少しばかり冷静になって聞いた。彼自身、イーサンが「その点が一番よくわからない、腑に落ちない点なんだ」と言うのを、何度も聞いた記憶がある。
「まあもうこうなると、親父と体の関係があろうとなかろうと、大股開きしてようとしてなかろうと、あんまり関係ないんだよな。事実、マリーは毎日親父の遺言通り、あの四人の親父の忘れ種に対して良いことだけをしてやり、しっかり面倒もみてる。おまえもさっき、リビングの様子を見たろ?もうガキどもはあのモミの樹の飾りつけだの、クリスマスまでカウントダウンするカレンダーだの……あんなのがあるってだけで、毎日輝くばかり嬉しそうにしてるんだからな。去年までは、モミの樹なんか飾ってあっても、小さい声で「わーい」とか、義理みたいに言ってたのが、今年は全然違うんだ。ミミなんか毎日、「サンタしゃんはいつ来るの?」ってそればっかりだし、子供たちは……その……ようするに、今年は何かプレゼントをもらうことがじゃなくて、初めてあいつに何か自分たちで「お返し」の出来ることが嬉しいのさ。ここが一番肝要な点で、俺もあいつらからその相談をされた時にはびっくりしたよ。『そうか。この豚児どもにもその程度のことを考えるくらいの知能があったのか』と、そう思ってな」
「素晴らしいことじゃないか。いや、イーサン。これまでだっておまえは本当によくやって来たと思うよ。でも、ほら……やっぱり家庭ってものには「夫人の手」というのが必要だって言うからな。そうか。そう考えるとなんだか、俺はあの子たちからお母さんを奪おうとするムカデが主食の悪魔のように思えてきたな」
「そう深刻に取る必要はないさ」と、イーサンは大笑いして言った。「それに、今は四人ともあのくらいの年だからどうにかなってるが、やっぱり「夫人の手」ってだけじゃなく、男手ってのも絶対的に必要なのは間違いないからな。特に男っていうのは、ある年齢に達すると本当は好きな母親に対してでも「このクソババアっ!」て言ったりするだろ。そういう時に「母さんになんて口を聞くんだ!」と言ってぶん殴る父親の力っていうのは絶対に必要だよ」
「なるほどな……」
ここでラリーは少しの間考えこんだ。マリー・ルイスのようなタイプの女性は、攻略に時間がかかるとは、当然彼も思ってはいた。その点、自分は気が長いし、何分ロースクールにこれから入学して卒業し、一人前になるまでには時間がかかる。そして自分もこれで社会を構成する一員として十分やっていかれるとの確信に達したら――あるいはそれ以前に彼女が承知してくれそうだったらさらにその前に――結婚できたらいいという、ラリーとしてはそのような考えであった。
だが、思った以上に相手は難攻不落の城砦のようにも感じられてきたのである。
「なんにしてもこれからおまえ、足しげくこの屋敷に通えよ。子供たちだっておまえやルーディあたりならいつでも大歓迎だろうし、俺に会いにきたというのであれば、不審に思うこともないだろう。まあ、気長にやれよ。あの女は客人には茶と菓子を出すべきだという強迫観念を持ってるから、おまえが来れば必ずワゴンにそんなものを乗せて運んでくるだろう。そうこうしてるうちに、デートに誘う機会なんかいくらでも出来るさ」
「だといいんだが……」
このあとふたりはマリーのことも当然話しはしたが、それ以外にも大学のことやキャサリンのことや、寮内であった愉快な事件のことなどなど――取りとめもなくしゃべっては時間を潰した。イーサンとラリーの関係というのは、もともとがこうしたものだった。特にこれといって大したことなど話さなくても、ただ一緒に同じ空間にいて話しているというだけで十分楽しいし、面白いのだ。
この日、ラリーは夕食までご馳走になってからマクフィールド家をあとにしていたが、おやつの時の恥辱を払拭するため、ラリーはその点については実に気を配って紳士らしく話を展開していたといえる。イーサンもそのために絶妙な会話のパスを出したし、結果として子供たちは大笑いし、子供たちが笑えばマリーも一緒になって笑うという、実に楽しいひと時であった。
食事のほうもとても美味しく、イーサンは「マグダのほうが料理はうまい」とか「そりゃ超一級の食材を使っているからな」などと言っていたが、ラリーにしてみればとんでもない話だった。あんなに心のこもったものを毎日作るのは大変なことだし、もともと<家庭の味>というものに縁のないラリーにしてみれば、マリー・ルイスの恋人、あるいは妻としてのこの時点での採点は百点を越えていたといってもまるで過言ではない。
最後、ラリーがそろそろ帰ろうかという頃、「おまえ、クリスマスも暇だったらうちに来いよ」とイーサンが言うと、ランディもロンもココも、「うん。来て来て!!」と嬉しそうに言ってくれた。そしてその時、彼がマリーのほうを見ると「よろしかったら、是非……」と、彼女も小さな声で誘ってくれた。ラリーは実家のほうへ戻っても、冷たいお義理のようなクリスマスしか待ってはいない身である。また、親友のイーサンのかつての恩を返そうとの意図もわかって、彼はそのことでも嬉しかった。
――一方、親友のラリーの黒いコートの後ろ姿を見送ったあと、イーサンは溜息を着いていた。自分のしていること、あるいはしようとしていることが正しいことなのかどうか、確信が持てなかったからである。
そして食器の後片付けをするマリーの後ろ姿を見ながら、新聞を読む振りをし……考えこんだ。ラリーの突然の愛の告白のことがなくても、彼は恋人のキャサリンとは別れるつもりでいた。ところが、ある種の確信が揺らいでしまったのだ。ルーディとマーティンからあの話を聞いて以来、イーサンは間違いなく彼女のほうから探りを入れてくるだろうと思っていた。そしてその時が別れ話を切り出すべき瞬間だとも考えていたのに……よく考えると、シーズン中もっとも大切な試合が間近に迫っているのである。
もしキャサリンがチア部のリーダーでなかったら、イーサンにしてもすぐにその話をしていただろう。だが、もっとも大事な決勝戦が終わってからのほうがいいだろうと思いもし、とりあえずキャサリンのことを避けるような態度を取っていたところ、突然「ものすごくムラムラしてるから会いに来て」と言われ、昨日はついそんなことになってしまった。大体、試合で勝利したあとはいつもそうしているのに、初めてそれがなかったのだから、イーサンにしても彼女に悪いような気がしたのである。
だが、すでに心のほうは他の女に移っているのに、まだ恋人であるとはいえ、キャサリンと寝たというのは――イーサンの心に小さな罪悪感をもたらしていた。正直、セックスのほうは最高だった。そしてそれと同じものをマリーが自分にもたらしてくれるとは、イーサンは今の段階では思っていない。けれど、そんなことは自分が教えればどうにかなることであって、その過程もまた楽しいものだろうというのが彼の本音であり、今日、マリーの水着姿を見たことで、彼女を他の男に渡すのは惜しいという気持ちも募っていた。
(マーティンは今日、俺に貸しがあると言っていたっけ。そういう意味じゃ俺には、ラリーに対しても随分借りがある。もっとも、あいつは気前のいい奴だから、俺に貸したこと自体を忘れているという、そういう奴ではあるが……)
そしてここまで考えた段階で、イーサンの心の中で結論は出た。何分、相手は本当にマリー・ルイスに対して恋をしているだけではなく、彼ならばマリーのことを大切にし、四人の子供たちの父親役をも十分務められるような男だ。これ以上の話はマリーにとっても、子供たちにとっても、あるいはイーサンにとっても、ラリーに感謝すべきような最高の条件がすべて揃っているような縁談である。
(ようするにこれは、俺がこの女と寝たいという欲望を退ければいいという、早い話がそういうことだ……)
キャサリンには申し訳ないが、イーサンにとって、彼女よりも大切なのはラリーやルーディやマーティンやサイモンといった親友たちのほうである。また、これまでつきあったことのある女性のうち、彼にとって男の友情よりも優先された女性はひとりもいなかった。そうした意味でもイーサンは、ここは自分が男の友情を優先させるべきなのだと、そう結論を下したのである。
「マリー、おまえ、赤毛とブロンドの男、どっちがいい?」
食器洗浄機に皿やフォークやスプーンなどをすべて突っ込むと、マリーはうさしゃんの新しいお洋服を縫いはじめた。これ以外にもマリーはうさしゃんのクリスマスプレゼント用に、外出用の赤いオーバーを作っているが、そちらは秘密なので、ミミが眠ってからこっそり作業をはじめるのである。
「えっと……」
質問の意図を理解しかねるといった顔をマリーがしたため、イーサンは聞き方を変えた。
「今日来てたラリーの奴、ものすごい赤毛だろう?ちょっと赤っぽいってくらいなら、『君の髪は赤毛なんかじゃないよ。赤味がかった褐色……いや、茶褐色といっていい』とでも言って慰められる。だが、あそこまで真っ赤だと、どうにも誤魔化しようがない。おまえ、自分に生まれてきた子があんなに赤い髪の毛をしてたら、愛せるか?」
「髪の色とか、関係ないと思いますけど……それが自分の子だったら、ただ健康だというだけで、十分なんじゃないでしょうか」
(ははは。来たぜ来たぜ、いつものとおりの模範回答が)と、そう思いながらイーサンは、もう慣れっこになっているので、肩を竦めただけで会話を終えた。それから、『おまえなんかと話していてもまるでつまらない』とでもいうように席を立った。彼は心を決めた。自分から今のように余計なことを話して距離を縮めようとしたり、変に近寄っていこうとするから何かの拍子に手が触れるだのなんだのして、(この女と寝たい)という感情を持つようになるのだ。
イーサンはラリーとはこれからも生涯を通じて無二の親友同士でいたいと思っている。キャサリンとはいずれ別れることにはなるだろう。だが、ラリーとの友情を大切にするように、マリーとの奇妙な家族の絆のほうを彼は優先するということにした。そしていつかそうしておいて良かったと思えればと、そう願ったのだ。
>>続く。