ええと、確か前回、こちらもただ一行『十五少年漂流記』のことが出てきたので、こっちでも良かったと思うものの……↓の本文の関連として、一応元の根拠としての文章でも引用させていただこうかな、なんて(^^;)
>>余談です。ハーヴェイが侍医を務めたチャールズ一世を処刑したクロムウェルは、極めて厳格な生活をイギリス人に科したため、彼の死後、人々は再び王政を望み、チャールズ一世の息子チャールズ二世を王位につけました。ところがこの王はとんでもない遊び人で、嫡子は残さなかったものの、国中に庶子(私生児)を残したといわれるほどの好色家でした。そのチャールズ二世の侍医がコンドン医師であり、コンドームとして知られる避妊具、性病予防具の発明者とされている医師です。健気な侍医は、王が女性から性病を移されないようにと、羊の腸を乾燥させた性病予防器具を考案したのです。当時から十九世紀の半ばすぎまで、コンドームとは「羊の腸を乾かしたもので、性交の際男性が、性病を防ぐために用いる」と定義され、避妊具ではなくもっぱら性病予防の器具として使われました。
(『面白医話Ⅱ~イタリア社会医療文化誌紀行~』深田祐介先生著/荘道社より)
ちなみにわたしこの本、Ⅰのほうは持ってなかったりします(^^;)
まあ、「だからそれがどーした☆」という話ではあるのですが、確か古本屋さんで100円くらいで売られてるのを見かけて――ぱらぱら中を読み、「面白そう♪」と思って買って帰ってきたんだと思います。
なんにしても、物凄くためになる、とっても面白い本でした
それではまた~!!
ユトレイシア・ユニバーシティ。-【6】-
レンガ造りの壁に挟まれた、狭い廊下を上がってリズとロイが地上にでると、雪が降りはじめていた。今年の冬になって初めての雪だった。
「今年のクリスマスなんて、どうするんですかっ」
実際のところ、ここから先、ふたりの行く先は逆方向であったが、ロイは「オレもそっちなんでっ」と言って、リズと同じ方向へ進もうとする。
「そうねえ。アメフト部の馬鹿どものパーティとか、去年参加してうんざりしちゃったし……まあ、誰か友達のところか近所の教会の人たちのホームパーティとか、そんなところかな」
「えっ、ほんとですか!?じゃ、じゃあ、うちに来ませんか?」
エリザベス・パーカーのような人間は絶対、すでに予定が入っているに決まっている――ロイのほうではそう思い込んでいただけに、この時すかさずそう聞かずにはいられなかったのである。
「でも、たくさん親戚の人たちが来たりするんでしょう?それか、家族水いらずとか……それなのに、どこの馬の骨ともわかんないような娘が押しかけたっていうんじゃ悪いわ」
「大丈夫ですよっ。ええと、前に話しましたっけ?オレ、上に年の離れた兄貴が三人いてですね、一番上の兄貴は一度家を出て以来、ホリディシーズンには一度も帰ってきたことがないんですよ。隣の州の大学にある、薬学の研究室で働いてるんですけど、毎年なんだかんだ理由をつけて、母がどんなに誘っても帰ってこないんです。で、それがなんでかっていうと、二番目の兄貴と昔から仲が悪いせいで……ロナルド兄ちゃんは、ロドニー兄ちゃんを毛嫌いしてるもんで、だから絶対帰ってこない。そんで、この二番目のロドニー兄ちゃんってのが、さっきの喫茶店を教えてくれた兄ちゃんで、今うちの付属病院でレジデントとして働いてます。残りの三番目のロジャー兄ちゃんは、ユトレイシア中部穀倉地帯のデッカにいて、今年は帰って来れないってことなんですよ。だから、うちにいるのはオレと父さんと母さんだけっていうか……」
「…………………」
地下鉄のホームへ続く階段を下りていく間、リズは何も言わなかった。ロイはその沈黙を(こっちは遠回りに断ろうとしてんのに、一体なんなのよ、あんたは)という可能性もあると想像していたが、(断られても傷つくまい)と、必死に身構えていた。(それに、クリスマス・ディナーを断られても、自分にはその前にユトレイシア中央会館の吹奏楽の演奏会がある)とも思っていた。
「ほんとに、いいの?そもそもわたし、あんまり話上手なほうじゃないし……」
「いやいやいやっ。その点ならべつに心配ないですよ。オレだってあんまり話上手じゃないし、父さんも母さんも、なんかそこらへん、ぼんやりしてるから……」
実際には、ロイの父も母もなかなかの論客であったが、ロイは混乱のあまり咄嗟にそう答えていた。クリスマス・イヴの前日には、彼女と吹奏楽の演奏を聴きにいくことが出来、それのみならず、クリスマスには一緒に過ごすことが出来るだなんて――まるで夢のようだとロイは思った。
(そっか。それでだ。それで雪が降ってるんだ……)
このあと、ロイにとっての奇跡はさらに続いた。ロイは以前自分で「ユトレイシア大から歩いて30分くらいのところに住んでいる」と話していたにも関わらず、リズの乗る地下鉄ホームのほうまでついてきていたからである。
「これから、うちに来る?」
(あなたはこっちの路線じゃないでしょう)――そんなふうに言うかわりに、リズはそう聞いた。彼女にしてみれば、『自分の現実』を先にロイに知らせたほうが親切だろうと、そう判断してのことだった。
「えっ、ええ!?いいんですか?」
「ただ、びっくりしないでね。ロイ、あなたたぶん、何か誤解してるんだと思うの。でも、うちのボロアパートでも見れば、その誤解も解けると思って……」
この時、地下鉄がやって来た。ホームの冷たい空気を、車輌から吹きつける暖かい風が一時的に追いやる。だが、この車輌のほうが、バスに乗った時以上に満杯というくらい、人口密度のほうが高かった。
「うち、ユージェニー大橋ってとこで降りるんだけど……わかる?」
「ええ、まあ一応……」
中央駅からは、八つ乗り越えたところである。だが、ユトレイシア市は国を横断する大河ユトを挟み、右岸には富裕層が住み、左岸には貧民層が住むと一般に言われるように――ユージェニー大橋というのは、橋を渡った向こう側であると、ロイにもわかっていた(橋の手前側にも駅があるが、そちらはユースデイル工場前という名である)。
あまりに地下鉄が混み合っていたせいで、乗車中、ロイもリズもあまり口を聞かなかった。ただ、「うち今日、冷蔵庫になんにもないわ。だから、駅を降りてすぐのところのスーパーで買物しなきゃ」とか、「じゃあオレ、物持ちしますよ」といった会話以外……。
この時リズは、(ロイ、きっとびっくりするでしょうね)ということや、(あ、そういえばミランダに電話する約束してたんだっけ。まあいいや。ロイだってうちに来た途端、及び腰になって、すぐ逃げ帰るかもしれないし……)なんていうことを考えていたものである。
ロイは生まれてからずっと、このユトランド共和国の首都に住んでいるが――正直、ユト河を挟んだ向こうの地理にはあまり詳しくない。市を占める全体の面積として、右岸地区(というより、左岸地区に住む人々はよく「右岸」や「左岸」といった言葉を口にするが、右岸に住む人々はそうした区分をしていない。まるで、左岸には人など住んでいないか、住んでいても同じユトレイシア市民とは認識していないのである。あとは、ニュースでギャングの抗争について耳にする時のみ、『左岸の連中はほんと、どうしようもないわね』といったように言い捨てるという、その程度である)のほうが市の大半を占めており、国全体の行政を取り仕切る機関のすべてがこちらに集中しているからでもある。
左岸地区に友達や知り合いがひとりもいない……というわけではないにせよ、基本的に右岸地区の人々は左岸に住む人々を進んで家に招待したがらない傾向にあった。また、誰か親戚でも右岸から左岸へ引っ越したと聞いたとすれば――『あいつも随分落ちぶれたもんだな』と首を左右に振るくらいなものである。
実際のところ、地下鉄を降りたその瞬間から、ロイは多少ぎょっとしないでもなかった。地下鉄構内が落書きだらけで小汚いだけでなく……そこここに、あまりガラがいいとは言えない男たちがたむろしていたからである。しかも、最初に何気なく目が合った男などは、ロイの顔を見るなりべっ!と床にツバを吐いていた。
(いや、あの黒人はオレに対して唾を吐きかけたってわけじゃない。たぶん、オレのほうでもちょっと神経過敏になってるんだ……)
ロイは思わずカバンを持つ手に力をこめた(もちろん、財布をすられないためである)。人の群れに揉まれるようにして地下鉄の階段を地上まで上っていく。そして、そこで一息着くと同時、ロイはリズと合流したのだった。
「大丈夫?スーパーがあるのはこっちなんだけど……」
リズに手を引かれるがまま、ロイはそちらへ向かった。一度外へ出てみると、あたりはロイの住む地域にあるのと変わらない商店街が続いている。リズはスーパーで飲み物やちょっとした食料品を買い込むと、あとはピザ屋でピザを一枚買っていた。
だが、商店街のネオンの灯りがまったく届かない地区にまで入り込むようになると――ロイは焦燥を覚えた。そこは見捨てられたような公営住宅の跡地であり、その一帯にはほとんど街灯のようなものがない。映画の見すぎと言われてしまえばそれまでだが、(マフィアっていうのは、こういうところで麻薬の取引をしたり、自分の手下を痛めつけたりするんじゃ……)そんな妄想がつい脳裏をよぎってしまう。
「うちはここよ」
再びポツポツ電灯のある区域に出、ロイは心からほっとした。
「いつもはね、少し遠回りするの。でも今日はあなたがいるから大丈夫かなと思って……ちょっとびっくりしたでしょ?」
「えっ、ええとまあ……」
そして、ロイの驚きはこのあとも続いた。リズが住んでいるのは、あまり小綺麗に見えないレンガ造りのアパート、その五階だという。しかも彼女は、バッグの中から懐中電灯を取りだし――「確かこのへん……」と言いながら、壁にあるスイッチを押していたのである。
「やれやれ。建物の半分くらいにしか人が住んでない上、大家が物凄いドケチでね、必要な時以外共用部の灯りをつけるなというわけよ」
「ええっ!?でもそんなの、黙ってたらわかんないんじゃ……」
この瞬間、ロイはギクッとした。二階まで上がってきた時、エンジ色のドアが開き、そこからガタイのいい黒人がヌッと出てくるところだったからである。
「ハイ、デューイ」
リズがそう挨拶すると、男のほうでも白い歯を見せて笑った。
「やあ、リズ。もしかして、新しいボーイフレンドかい?」
「そんなんじゃないわよ。それよりこれから工場で夜勤なんでしょ?がんばってね」
「ははっ。まあ、大してがんばりたくもないが、生きてくためには仕方ねえこった」
このあと、さらにロイをギクッとさせる出来事があった。三階の踊り場あたりに――極めて抽象的ではあるが、卑猥な男女の結合の描かれた落書き、そして彼らの首が赤いスプレーによって切断されているのみならず、その横には「Fuck you!!」だの「Kill you!!」だのいう文字が、血液のしたたりを思わせる文字でもって踊っていたからである。流石にロイも深刻になり、突然にして気が重くなった。
「まあ、毎日見てればそのうち、素敵な芸術作品に思えてくるわよ」
リズはロイの沈黙の理由を悟り、なんでもないことのようにあっけらんとしてそう言ってのけた。しかも、四階の踊り場のところには――奇妙なガウンを着て、頭にカールを巻いた女が、汚いベンチに座って煙草をふかしていたのである。
「いい匂いだね、リズ。もしかして、ブロッサム通りのドミノ・ピザかい?」
「そうよ。食べるんならあげるわ」
「よしとくれよ。こんな年寄りがそんな一枚まんま、食えるわけないじゃないか」
「じゃ、ちょっと待ってて。半分くらいならぺろりといけるでしょ?部屋に戻ったら、皿にのっけて持ってきてあげる」
(このババア、リズからちゃっかりピザをせしめようっていう魂胆か。まさか、そのためにこんなところで彼女を張ってたんじゃ……)
ぷかぷか煙草を吸い続ける老婆を尻目に、ロイは階段を上がっていった。リズはといえば、「♪ふんふふ~ん」などと、鼻歌すら歌っており――ロイは五階分の階段を上って肉体的に消耗したのみならず、何やら精神的にも疲れきるものをこの時感じたかもしれない。
「散らかってて悪いんだけど……まあ、適当にそこらへんに座って寛いでて。わたしはこのピザをシャロンのところに置いてくるから」
細い廊下を通って奥のほうにあるのがリビング、またその両隣にふたつ部屋があるようでもあったが、こちらの扉は閉じられたままだった。食卓テーブルに二客の椅子、チェック柄のソファカバーのかかったソファに、テレビ台の上のテレビ……いかにも大学生の独り暮らしといったように見えた。室内にはこれといって高価なものは何もなく、家具はすべて量販店の安いものばかり――何かそうした印象である。
とはいえ、ロイは部屋に入った途端、壁紙の模様やちょっとした調度品などに家庭らしい様子を感じとり、好感を持っていたかもしれない。外から見た時にはどんなひどい部屋に暮らしているのだろう……などと想像されたが、室内のほうはきちんとリフォームされていて、とても綺麗だったのである。
やがてリズが階段を上がってくる足音がすると、彼女は甘く優しい香りと一緒に戻ってきた。どうやら、ピザをクリームシチュー、ビスケットやサンドイッチと物々交換してきたらしい。
「ロイ、あなたラッキーね。わたし、いつもシャロンから色々もらってばっかりだから……ピザくらいたまにお返ししなくちゃと思っただけなんだけど、『ボーイフレンドが来てるんなら、これも持ってけ』なんて言われて、色々押しつけられちゃった。ほら、食べて食べて。彼女の作ったポテト・サンドイッチ、最高に美味しいんだから!!」
結局この日、ロイは自分がお金をだして買ったピザは一口も食べなかった。クリームシチューやホットビスケット、サンドイッチを頬張るうちに、すっかりお腹がいっぱいになってしまったからである。
その上、ロイとしてはあくまで何気なく言っただけであったにも関わらず――「あのおばあさんの苗字、まさかストーンなんて言うんじゃないよね?」という言葉に、リズは暫くの間受けまくっていたのである。ロイは彼女が何かのツボにでも嵌まったようにこんなに笑うのを見るのは、これが初めてだった。
「そうねえ。でも、確かに若い頃は物凄い美人だったみたいよ?ねえロイ、シャロンの若い頃の職業が何かわかる?」
(娼婦とか?)と一瞬ロイは思ったが、もちろんそんなことを口に出して言う勇気まではない。
「彼女、若い頃はユトレイシア交響楽団のハーピストだったんですって。これももちろん嘘じゃないのよ。部屋にはどんなに貧乏になっても手放さなかったっていうグランドハープやアイリッシュハープがあるしね。夏なんか窓を開けてると、時々シャロンの弾くハープの音が聴こえてくるくらい。そりゃもうとっても素敵な音色なのよ」
「そうなんだ……でも、そんな立派な音楽家だったのに、なんで今はあんな……うらぶれたなんて言っちゃなんだけど、オレ、実際のとこ一瞬ギョッとしたよ。顔色が悪いだけじゃなく、額といい頬のあたりといい、皺という皺の寄った顔をしてるんだもの。それであんな古ぼけたガウンみたいの着てるもんだから、頭のおかしいばあさんなのかと思ったくらい」
(目の前を通りかかっただけで、あの妖婆に呪われるんじゃないかと思ったよ)
本気でそう思ったのが事実でも、流石にこの言葉だけはロイも飲み込んだ。リズはと言えば、ワインやビールを飲んだわけでもないのに、体を折り曲げるのみならず、最後には足を踏みしめることさえしてげらげら笑っている。
「そりゃあまあ、ロイの言いたいことはわかるわよ。だけどわたし、シャロンのこと大好きなの。シャロン・ストーンばりにとまではいかなくても、若い頃の写真を見たらそりゃもう美人だし、本人がモテにモテたっていうのも、間違いなく本当のことなんだと思うわ。だけど彼女、一度も結婚しなかったんですって。結婚したいと思ってた人はいたらしいんだけど……何か悲しい行き違いがあったのね。その後、ちょっと自暴自棄になって、麻薬に深くはまり込んだのが、シャロンの転落人生のはじまりだったみたい」
「そっか。でも、確かに人生色々だよな。ほら、オレも今までいくつか老人福祉施設を回らせてもらったけど……なんで家族がいるのに施設に入ってるのかとか、色々話を聞いてるうちに、なんか複雑な気持ちになってきたり。<ユトレイシア敬老園>のおじいさん・おばあさんほどお金があっても幸せとは限らず、他の一番費用がかからないタイプの施設の老人のほうが幸せそうに見えたり、その中間層の老人福祉施設では、職員に対する愚痴を聞かされたり、自分は不当な扱いを受けているとか、文句ばっかり聞かされたり……オレ、まだこの歳なのに、『こんなんで自分の老後は一体どうなっちまうんだろう』なんて、ちょっと考えたりするくらい」
「そうよねえ。ほら、デンマークから来てる留学生のエイデンっていう国際環境研究科の子がいるでしょう?彼もポロッと言ってたことがあるものね。デンマークって聞くと、大体みんな福祉が充実してて、老後は幸せ……みたいなイメージだろうけど、実際は結構大変なんだぜって」
「だよなあ。そもそも、若い頃から税金がっぽり取られるんだろうし……『老後の現実・福祉の充実』ってことがいつでも目の前をちらついてる社会だから、若い人たちが若者らしくあんまり馬鹿をやれない社会だっていうの、本当なのかな?これは、フィンランドから工学部に留学してる奴から聞いたことなんだけど」
「でもやっぱり、幸福度で世界で1位だったり2位だったりするわけだから、羨ましいわよね。その点、我がユトランド共和国なんて、二十何位とかじゃなかったっけ?」
――このあとも、リズとロイの間で会話は途切れることなく続いた。その大体が、お互いが行ってるボランティア先のことで、どういった変人のおじいさん・おばあさんがいるか、施設の入居者のみならず、そこで働く職員たちからも聞かされる愚痴や文句のことなどなど……話のネタは尽きなかった。
けれど、リズは時計の針が11時近くになった頃、ふと気づいて、自分の身の上のことを少しばかりロイに話しておくことにした。若い男を十二時過ぎまで留めておくのはよくないとか、終電がなくなるとか、そういった類のことを心配してのことではない。ただ、ロイが仄かに憧れているらしいボランティア部の部長は、彼の頭の中にあるであろう偶像と一致しないということを、先に知らせておく必要があると思ったのである。
「わたし、生まれも育ちも左岸地区なの。父親はどうしようもないろくでなしで、母に暴力を振るってたし、この近くにある自動車工場で部品の組み立てなんてのをしてたらしいんだけど……飲んでは暴れまわるし、勤め先でもなんやかんや問題を起こすしで、最後にはクビになったわけ。あとは悪い連中とつきあったりなんだりで、うちにやって来るのは母に暴力を振るって金を巻き上げるためだけっていうね。まあ、よくある話よ。母は最後までよく頑張ってたと思うけど、最終的に耐え切れなくなって……このあたり一帯に住むシングル・マザーと同じ道を辿ったわ。まずはシェルターに逃げ込んで、そのあとは国の公費のご厄介になるっていうね」
「じゃあ、この部屋にはお母さんとふたりで……?」
「ううん。今ここに住んでるのはわたしだけ。三年前くらいからかな。頭がおかしくなって……なんていう言い方はわたしもあまりしたくないんだけど、まあようするにそういうことよね。何分、父の暴力っていうのが尋常でないくらいのものだったから、自分の夫が死んだって聞いても、信じられなかったんじゃないかしら。母はシェルターにいる時でさえ、いつ父がやって来るかと怯えきってたもの。顔に黒い痣が出来たり、鎖骨や肋骨が折れるくらいの大怪我をしたり……母がようやくのことで父から逃げることにしたのは、アイロンの高熱で背中を焼かれてからだった。そのあとは本当に最悪だったの。父はどこかかなりヤバイところからお金を借りてたのね。うちにもその取立てが来るようになって――あの日のことはよく覚えてる。この世界には本物の悪人っていうのが本当に存在するのよ。あいつら、母や娘のわたしが父さんのことを隠してると思ったんでしょうね。うちに入ってくるなり、灯油を部屋中にまきはじめて……母さんは本当に半狂乱だったわ。『やめてください、やめてください、うちにあの人はいません!』って、見るからに人殺しみたいな感じのマフィアに泣き叫んで……わたしもすごく怖かった。そいつら、物凄く殺気立ってたから、わたしのことも母さんのこともめちゃくちゃにレイプするんじゃないかって、そんなふうに感じられたくらい。でも、『出てこねえと、おまえもおまえの女房も娘も、焼いてバーベキューにしちまうぞっ!』なんて脅しながら、灯油をまきまくってるうちに――何分狭いアパート暮らしですものね。本当にどこにも父さんがいないって家捜しして納得すると、すぐ引き上げていったわ」
リズにしても、ロイにここまでのことを話すつもりはなかった。ただ、父親はそんな形である日ユト河から死体として上がり、母親はしっちゃかめっちゃかになったアパートから、娘を連れてまずは近所の家に身を寄せ……あとはその九人ばかりも子供のいる黒人のおっかさん(これがマイケル・デバージの母親である)が、どこへ相談にいけばいいかなど、親身に教えてくれたというわけなのである。
「それで……母さんは今、精神病院のほうにいるのよ。シェルターに保護してもらってから、公的扶助を受ける手続きをしてもらって、その後わたしと母さんはここで、ふたりきりで暮らすようになったんだけれど……勤め先でもブツブツ独り言ばかり言ったり、何かの被害妄想でわめきはじめるってことだったの。でも母さん、不思議とわたしといる時だけは至極まともだったもんで、わたしはあんまり深刻に受けとめてなかったし、これから母さんのことはわたしが幸せにするんだなんて、本当にそう思ってたのに――母さんのパート先の責任者の人から電話がかかってきてね、娘さんのあなたが精神病院にお母さんを見せないんだったら、わたしが連れていきますけどいいですかって……あ、その人もね、すごくいい人なの。っていうか、あとから錯乱状態になってる母さんのことを見た時……むしろよくクビにしないで雇っててくれたなって思ったくらい。母さんその時、婦人服売場で接客の仕事をしてたんだけど、お客さん相手にはそんなにおかしなこと言ったりしないのに、お客さんが途切れた途端、何か独り言や妄想がはじまるみたいだって……それで病院へ行ったらね、『もっと早くに連れてくるべきだった』って、お医者の先生から物凄く叱られたわ。『もっと早ければ、通院しながら働いて、薬を飲むことでどうにか人生のバランスを取れたかもしれないのに』って。でね、母さん今も、そういう病院のほうにいるの……」
最後はほとんど独り言のようにそう呟いて、リズはぐすっと鼻を鳴らした。涙ぐむ彼女のことを見て、ロイのほうでは言葉もない。というより、どう言って慰めていいかもわからなかった。ただ、リズのことを尾けたあの日――あの郊外にある精神病院こそが、彼女の母親が入院しているところなのだろうと、どこか打ちのめされた気持ちで思うのみだった。
「ごめんなさいね、こんな重い話……ただわたし、人から聞いたの。あなたがわたしのこと、ちょっといいみたいに思ってるみたいなこと。そしたら今日、クリスマスにわたしのことを誘ってくれたでしょう?だからね、先に話しておかないとフェアじゃない気がしたの。第一、あなたのお父さんだってお母さんだってびっくりするはずよ。あとは、ただ左岸の貧民地帯で暮らしてるって聞いただけでも――右岸に住む良家の人たちはよく思わないはずだわ。ひどい場合は『なんでそんな奴らをうちの夕食に招待しなくちゃいけないんだ』なんて怒りだす場合だってあるでしょうね」
「うちの両親は、そういうタイプの人たちじゃないよ」
ロイとしてはそう言うのが精一杯だった。彼にしても、今のリズの話を聞いていて、ただひたすらに胸が痛むというだけであって――彼女のことを好きな気持ちに変化はまったくない。いやむしろ逆に、リズがそう打ち明けてくれたことで、以前以上に彼女のことが好きになっていた。
「ううん、問題の根本はそういうことじゃないのよ。いい、ロイ?この話を聞いてもまだ、あなたがわたしを自分の家庭のディナーに招いてもいいと思ったとして……わたしが一度だけその夕食の席にご一緒したとするわよね。それで、たとえばあなたのお母さんが『悪いけどロイ、母さんはあの子のこと、あまり好きになれないわ』とか、『しかも左岸地区に住んでるだなんて本当なの?』と言ったとするわよね?そしたらロイ、あなたは……お母さんの言うとおりにしたほうがいいのよ。これは、そういう話なの」
突然にして、リズが何故自分の部屋へ招待したかの理由がわかり、ロイはがっかりした。ただ、そのことをわからせるためだけに、あんな公営住宅跡の暗がりだの、アパートの壁に描かれた抽象的なセックス画、さらには皺だらけの恐ろしげな妖婆の前を自分に通らせたのだと思うと!
「うん。君のほうの理由については、一応ある程度はわかったよ。でも、今の話を聞いた限りでは、オレの気持ちのほうは変わりないにしても……第一ね、ここへ来る途中もオレの兄貴の話したけど、母さん、上の三人の兄貴たちがどんな素敵なガールフレンドを連れてきても、ひとりとして気に入った試しがないんだ。こんなこと言ってリズを怯えさせたくないと思ったから黙ってたんだけど……上の兄貴たちのうち、今結婚してるのは二番目の兄ちゃんだけで、お嫁さんのほうも同じレジデントなのな。そんなんで一緒に暮らしてて、当然お嫁さんのほうでは兄貴の面倒なんて見れないさ。毎日仕事と勉強で忙しくって、料理はいつも出来合いのものを買ってきたり、部屋は散らかり放題で、医者の家庭とは思えないくらい、部屋のほうは全然衛生的じゃない。母さん、アリスのことではいつも文句ばっかり言うんだ……あ、アリスってのが兄ちゃんのお嫁さんの名前なんだけどね。いい人なんだよ、ほんと。オレは好きさ。だけど、父さんが言うには、母さんは大学卒業後は家庭に収まったって人だから、アリスみたいなバリバリのキャリア・ウーマンを見ると、無意識のうちにも何かざわつくものがあるんじゃないかってことだった。ただ、父さんにしてみたら自分がそういう生活を母さんに強いたわけだから、アリスの味方をするでもなく、ただ黙ってうんうん話を聞く以外にはないって」
ロイはこのあと他に、一番上の兄のロナルドが連れてきたガールフレンド、三番目の兄が今一緒に同棲しているらしい女性の例を上げて――そのうちどちらに対しても、「化粧が濃すぎるわ」とか、「まるで娼婦みたいな格好して!」とか、「ろくに家事もしないのに、そんな女性と暮らして一体なんになるの」だの……とにかく、母のお眼鏡にかなう女性は、今まで一度も現れた試しはない、ということを言葉を連ねてリズに説明した。
「でも、リズのことは母さんも流石に感心してたよ。ボランティア部の部長で、どんなにしっかりしてるかとか、オレが一生懸命説明したせいもあるけど……あとね、リズは母さんにとっては後輩に当たるんだ。ほら、うちの母さんはリズと同じ文学部を卒業してるし、オレがこっそり母さんの部屋からブロンテ姉妹の『ジェイン・エア』や『嵐ヶ丘』を借りて読んだら――びっくりしてたよ。ほら、オレは普段母さんが「こんなののどこが面白いの」って不思議がるような、SF小説しか読まないもんだから。でも、好きな人の趣味なんだって言ったら、『あらあ。じゃあ、母さんとも文学のことでは話が合うかもしれないわね』なんて言ってたっけ」
「だといいけど……」
ティッシュで涙をぬぐうリズは、いつもとは違って、少し気弱そうに見えた。(こっ、こういう時こそ肩を抱いてだな……)と、ロイは隣の彼女に対して思うが、なかなか行動に移せないでいた。そして、何気なく目と目があった次の瞬間――リズのほうから、ロイの首に手を回し、キスしてきたのである。
「…………………っ!!」
このことはもちろん、ロイの頭の中だけでなく、リズの中にも最初まったくなかった計画だった。もっともロイには、(もしそーんなことになっちゃったらどうしようっ。えへへのへ)くらいの気持ちはあったとはいえ、それもいつもの自分の妄想にすぎないとわかっているつもりだった。
けれど、キスをかわしたあと、「今日、泊まってく?」と聞かれて――ロイのほうでは言うまでもなく断る理由がなかった。一応この時も、ロイは理性の片隅でわかってはいるつもりだった。自分の生い立ちや身の上を語ったことで、リズは少しばかり気弱になっており、今ある彼女の感情は、ただの一時的なものかもしれないということは……。
とはいえ、寝室ほうへリズの姿が消えると、ロイはもちろんそちらへ吸い込まれるようにしてついていったし、そのあとのことは、ただひたすら夢のようだった。彼女の部屋は、リビングよりも寝室のほうがずっと素敵だった。アンティーク風の書斎机の上には、古今東西の文学の本が積み上げられており、その横の本棚も大体似たようなもので――ただ、ベッドに掛けられたカバーの模様や壁紙の模様、ナイトテーブルの上のランプや、戸棚の上にあるちょっとした小物や調度品類など……19世紀のヴィクトリア朝風で、まるで高級ホテルの一室のようだったのだ。
この日、もし現実的にして滑稽な性の一番面があったとすれば――それは小さなランプの灯りの元、再びキスが再開されて、ロイがリズの首筋に口接けを繰り返していた時のことだった。リズがロイの耳に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で、「そこの引出しにコンドームが入ってるから、それ使って」と言ったのだ。それでもロイが特にそちらへ注意を向けないでいると、リズは若干そちらに体を傾けて、ナイトテーブルの引出しを開けた。ロイはようやくのことでリズの言った言葉の意味を理解したように、茶色い引出しに1ダースほど並んだ避妊具を手にしたわけだった。
「ごっ、ごめんっ!これ一体どうやって……」
コンドームの使い方など、ロイは知らなかった。きっと、ネットで調べれば、そうした情報についてもあったに違いない。だが彼はそんなことをネット検索したことなどなかったし、今この瞬間彼の身に起きたことは――その日朝起きた時には、人生の計画としてまったく予想してないことだったからだ。
その上、「ズボン脱いで」と言われ、そのつけ方まで教えてもらったというのは、ロイにとって恥かしいことこの上ないことであったにせよ……リズの態度が終始優しいものであったため、そうした決まり悪さについてもすぐ忘れてしまった。だが、その時思わず「あっ、そういえばコンドームって、チャールズ二世の侍医だったコンドンって人が開発したんだよ」などと言ったのはやはり余計だったと、あとから後悔したものである。
なんにしても、この12月の雪が降った美しい日、ロイは童貞を卒業した。夜が更けるにつれ、部屋の気温のほうは下がっていったが、ロイにとってもリズにとっても、ベッドの中にさえいれば、そんな寒さなど一切無縁でいられたといえる。
翌日の朝もとても素敵だった。起きてきてみると、すでにストーブがついていて室内は暖かだったし、何より、きのうシチューの匂いをかいだ時と同じようなお腹のすく香りがリビングからは漂ってきていた。なんでも、リズの話ではホームベーカリーでパンを焼いた匂いだということだったが。
『き、きのうのオレ、どうだった!?』なんて聞くのもおかしいし、ロイはただ、朝食として出されたパンやバター、ベーコンエッグなどを「美味しい」とか「んまい!」と繰り返し言って平らげてしまうというそれだけだった。
ただし、食事の終わり頃、「帰り道、わかる?」と聞かれた時、ロイの心中は複雑だった。今日は日曜だし、このままずっと一緒にいられると思い込んでいたにも関わらず――気のせいか、『メシ食ったんなら、とっとと出てけ!』と、暗に言われているような気がしたのである。
「ええと……うん、たぶん。商店街に出る大きな通りまで出れば、地下鉄駅までそんなに遠くないし」
「そう。じゃあ、送っていかなくても大丈夫よね?これでも真夜中とかなら、タクシーで帰ってもらうところだったけど……昼間はね、このあたりも流石にそんなに物騒ってわけじゃないから。まあ、第一ここらへんは、悪の巣窟のほんの玄関口といったところで――ここ十年くらいでね、これでも随分変わったのよ。景気が悪くなって、右岸地区の中流階級の一部の人が下層階級になって、元から下層階級だったプア・ホワイトの人たちが橋を渡ってこちらへ移ってくるようになったの。ほら、右岸地区と左岸地区とで、橋を渡って向こうかこちらかってだけで……土地の値段やらアパートの家賃やら何やら、段違いに違うものだから」
「…………………」
このあとも、話のほうはロイがしたいような会話の流れにならなかった。それで、(とりあえず今日はもう帰ったほうがいいんだろうな)とロイは判断し、リズの部屋を出ることにした。彼女のほうでもまるきり、『それが当然だ』とでもいうような態度だったからである。
だから、ロイとしてはリズの部屋を出たその瞬間から――なんとも言えぬ、奇妙な気持ちの波状攻撃に襲われることになった。『童貞卒業できてよかったわね。じゃっ、さよなら!』というほど、リズのほうの態度はドライというわけではなかった。ただ、来週中に提出しなければならないリポートがあるとかで、ジェイコブ・マコーリー教授の講義で今後もAを取り続けたければ……今日の午後いっぱいくらいを、どうしても当てる必要があるという。
『うん、わかるよ。オレも秋学期の成績、まるっきり普通で、教授たちからハッパかけられてるし……』
おそらく、今までのロイであれば、もっと勉学に身を入れていたことであろう。けれど、ボランティア部の活動に熱中していたせいもあり、すべての科目でAを取るということは出来なかった。そうした意味で、自分もリズと同じように、恋愛に夢中になるでなく、ボランティア活動もし、かつ良い成績を取り続ける――そのような姿勢がもっとも望ましいとわかってはいるつもりだった、一応理屈としては。
けれど、今ロイの頭には昨夜起きたばかりの、一連の出来事のことしかない。コンドーム装着前後のことは、とりあえず記憶の黒マジック、あるいは恥の赤マジックで一時的に消すとしても……『オレ、ほんとに最初に出会った時からほんとに好きで……』、『本当に?嬉しい』――といったような会話は確かにした。そして、ロイは去年の秋にあった見学会での出会いが初めてだということを、リズがそのことを覚えているかどうか、朝起きたら確かめたいと思っていたのだ。
だが、実際のところ、リズは少し機嫌が悪いように感じられたし、『オレ、このままここにいていい?』とか、帰り際にも聞こうと思ったこと――『オレたち、つきあってるってことでいいんだよね?』とは、彼女に直接聞くことが出来なかったのである。
(はあ~あ。あとはあのコンドーム……)
これは、着け方がわからなかった云々ということではなく、ナイトテーブルの引出しに1ダースほどもあったもののことである。
(彼女の部屋に来たことがあるのは、何もオレだけじゃないってことだ。そもそも彼女みたいな美人が、今まで恋人がひとりもいなかったって考えるほうが不自然だもんな……それともまさか、オレがあんまり性的に飢えてるみたいに見えたから、可哀想に思ってボランティア精神でセックスさせてくれたとか……)
そして、そんなボランティア・セックスをしてもらった相手が自分だけではなく他にもいるのではないか――そんなふうにロイの妄想が最大限に膨らんできた頃、彼は地下鉄駅のほうへ到着し、そこから家のほうへ戻る間も、頭の中はリズ・パーカーのことで、彼女のことだけで、前以上にいっぱいだったのである。
>>続く。