さて、今回は書くこと多そうなので(汗)、早速順番に感想を書いていこうと思います♪
まず、第5話目(でいいのかな?)『革命』から……この前の第4話『春の骨』では、「死や絶望や自殺、そこからの再生」と言いますか、そうしたテーマ性のことが語られている気がします。
この時、ミロンの舞台美術の仕事にくっついていったメッシュは、その舞台の死神に抜擢されるわけですが……それはガードルードという女性が絶望して自殺するといった内容の前衛劇(らしい)なわけです。
それで、ここで語られるメッシュの心情――「オレは自殺しようなんて考えたことはなかった。一度だって」、「憎しみが強すぎて自殺など考えられなかった」、「自分の心を殺そうとしているあいつに、いつか復讐することばかりを考えていた」、「どうして救いがないんだろう。〃ガードルード〃はかわいそうだ。絶望することはないのに。生きてりゃなんとかなるのに」……といった死生観、彼が基本的にそういった考え方の持ち主だというのは、すごく重要なことだと思います(女性だったらやっぱり、何度も自殺未遂を起こして親を困らせるとか、そういった方向に向きやすいと思うので^^;)。
それで、ここからようやく第5話の『革命』の内容に入りたいと思うのですが、ここでメッシュは初めてジュヌヴィエーヴ(ジュジュ)という女性に恋をしています。
ジュヌヴィエーヴと聞いて多くの方が思い出すのは『シェルブールの雨傘』のような気がするんですけど、それはさておき、ローザンヌから出てきたというジュジュはまだパリに不慣れな様子。そこで、パリの街をあちこち案内するメッシュですが、彼は最初(例によって・笑)女の子と間違われており、その後、自分が男であると告白。
そして、ジュジュとメッシュは恋に落ち、メッシュは女性と初めて肉体関係を持ちます(男性とのそうしたことというのは、これまで多少はあった模様・笑)。けれど、ジュジュには歌手として才能があり、そのことを認め、彼女の才能を伸ばしてくれたという恋人、ジュノーというおっさんがいることは、その前からメッシュにもわかっていて……ベッドの中で、泣きながらその男のことを「愛してる」と言って涙を流すジュジュ。
「相手の男を絞め殺してやりたい」とミロンに洩らすメッシュですが、初めてといっていい女性との本当の恋に、少し自分を見失っているようで……ジュジュが居候しているカティのアパルトパン付近でジュノーを見かけたメッシュは、ウィスキーの瓶(ワインかも?)を割り、「ジュジュはもうあんたなんか愛しちゃいないよ。こんどここらで見かけたら無事じゃすまないぜ、あんた」と、脅します。
ところが、そのことを知ったジュジュは激怒。「だってオレ、あんたが好きだ。あいつがあんたのまわりをうろつくの、いやだ……!」――普通に考えた場合、メッシュのような子にこんなこと言われたら、(嫉妬したのね、可愛い子)となりそうなものですが、ジュジュはジュノーに惚れてるので、メッシュとはまだ「ハレた、ホレた」くらいの浅い関係なんですよね(^^;)
でも、この恋を若さゆえの激情とともに、特別なものだと思っているメッシュは、「いやだ、いやだ。あんなやつに会わせない!わたさない!はなさない!とじこめる。とじこめて誰にも見せない!」と言って、ジュジュをソファに押し倒します。対するジュジュはといえば……「なによ!わたしあんたのもんじゃないわ!誰のもんでもないわ!とじこめてどうするのよ。小鳥みたいにえさでもやって楽しむの?」と、メッシュがグッサリ☆来ることを言い放ちます。
部屋を出たメッシュは、ジュノーとはちあわせ、ふたりは喧嘩して揉みあいますが、ジュジュはジュノーの心配をして、彼の元に走りより……ジュノーは「きみを失いたくないんだ……!」と、彼女の腕にすがりつきます。ふたりが愛情を再確認する姿を見て、その場から逃げだすメッシュ
そして、ジュジュと出会った時と同じ雨の中、>>「オレの愛はたかだか、彼女をエゴイズムのかごにとじこめて、かわいがるだけのものだったなんて」と、涙とともに悟るメッシュ。いえ、十代の男の子でここまで悟ることって、出来るものでしょうか
なんにしても、フランス映画のような切ない恋愛を経験し、少し大人になったメッシュだったのでした。確かに恋愛というのは甘い革命なのかもしれません
では次!第6話『モンマルトル』。
といっても、『モンマルトル』についてはわたし、そんなに書くことありません(^^;)
14歳の頃、家を飛び出したメッシュが、どんなふうに日々を生きていたかの過去話といったところなのですが、このお話を読むと第1巻の第1話でドルーという男をどうしてあんなに庇ったのかがわかって、胸が痛みます
自分的にこのお話の面白いところは、ポールというメッシュのストーカーが、彼に純愛的な思いを持ち続け、最後に精神療養所に入ってしまうところでしょうか
>>「あいつな、あんたと熱烈なラブレターの交換をしたと思っているんだ。あいつは純情なんだなァ。あんたと大恋愛してるって信じこんでるんだもんなァ……手もにぎらねえ大恋愛さ。中学生のよくやるやつさ」
――というのがポールの望みだったらしいのに、気をきかせたつもりのマフィアのこの従兄弟は、メッシュとセックスできることがポールの望みなのだろうと思い、「自分が先に犯るか」といった感じでズボンを脱いだところ……ポールから銃で撃たれてしまうのでした。。。
ポールはそうした肉体関係云々といった以前の純情な関係をメッシュと結びたかったらしく……銃の発砲シーンがあったせいか、自分的になんとなく、ジョディ・フォスターのストーカーをしていて、彼女の関心を惹くため、レーガン大統領を暗殺しようとした犯人のことを思いだしました。
いえ、彼の場合は純情どころでなく、「(ジョディと)6兆回もセックスした」とか、手紙に書いてたらしいんですけどね(仮に1日10回セックスしたとして、一体何年かかるのか……いや、そもそも全部妄想だっつのっていう話です^^;)
では次!『耳をかたむけて』。
この第7話目のお話は、ミロンの過去がわかる物語です
ミロンのお母さんのグレーテは、海沿いの田舎町の出身で、そんな場所でシングル・マザーだということは、その当時は相当スキャンダルなことだったようで……グレーテは大きなおなかを抱えてパリへやって来ると、モンパルナスで出産し、ミロンが7歳の頃、体を悪くして再び郷里のほうへ戻ったと言います。そしてその2年後、お母さんのグレーテは亡くなりました。
この時、何かと親切にしてくれた医師のシニャックさんが亡くなったという手紙を受けとり、ミロンは嫌なことのあったこの田舎町のほうへ墓参りに行くのですが……無理に彼にくっついてきたメッシュは、何故ミロンが彼を一緒に連れてきたくなかったかの理由を、郷里の町へ到着するなり知ることになるのでした。
親戚のおじさんに会うなり、>>「何しに帰ってきたんだ!おまえのことは迷惑だ。肩身がせまくて……おまえの母親だってガキをつれて帰ってきて、いい笑いもんだ。館のアンリがおぼれたときだって」――アンリ?はて、誰のことだろう……といったところですが、このあと、ミロンとメッシュはエミリエーヌ・ドナという美少女と出会い、具合の悪い彼女をお医者さんの妹の家まで連れてきます(このアンナさんという人がシニャック医師の妹で、パリのミロンに手紙をくれた人なのでした)。
実は彼女、アンリの妹で、11年前アンリが海で亡くなった時は5歳だったと言います(だから、当時のことはよく覚えてない)。小さな町(というか村?)のことなので、ミロンのこの(一時)帰郷は人々の間にすぐ知れ渡ったようで……学校教師のベルン先生、レストラン兼バーのような場所で働く元同級生のギード、村の鼻つまみ者(?)のペレじいなど――そして、誰もがアンリのことをひそひそ囁くのでした。
さて、食事から戻ってくると、メッシュは「オレ、あんたの話聞きたい」と、ミロンに聞きます。この物語のタイトルは『耳をかたむけて』ですが、ミロンの母親もよく「〃人の言葉に心をひらいて、耳をかたむけてよくお聞き〃」と言っていたといいます。こうしてメッシュは人の噂話でなく、ミロンの口から直接、アンリ・ドナという少年の身に何があったかについて、耳をかたむけるのでした。
このお話はようするに、「人は自分が見たいもの見、聞きたいことしか聞かないし受け入れない」という、萩尾先生が得意とするテーマのひとつという感じがします。小学校高学年参加の遠泳があった時(この時ミロン12歳)、いつも遠泳で1位だったアンリが戻ってこず、ミロンが1位になった……もちろんミロンは不正など何もしてないのですが、アンリのお母さんのザザ・ドナ夫人は息子の死がつらかったのでしょう。誰かのしわざだと泣きわめき、「アンリは足をひっぱられたのよ!でなきゃどうしてこんないい子が……泳ぎだってうまかったわ。いつも1位だったわ。アンリのかわりに誰が1位に?あなた?じゃあそうよ!アンリが邪魔だったのよ。あなたが殺したのよ!」――この時、彼の母親のグレーテはすでに亡くなっていましたし、もともとミロンとその家は村の中でも弱い立場でした。一方、ドナ家というのはぶどう園を経営していて、この村一番の有力者なんですよね
このことは村中でウワサになりました。コソコソヒソヒソ……グレーテの息子がアンリの足を引っぱったらしい……何せあのグレーニーの息子のことだからね……といったように。
精神的につらいこの時期、慰めてくれたのが――亡くなったことを知らされたシニャック医師だったのです。だから、この先生のことを思ってミロンはずっと帰ってきてなかった郷里へ戻ってきた……ということなんですよね
>>「無罪ゆえに苛まれるとアガサ・クリスティも言ってる」というシニャック医師の言葉がありますが、この小さな村でのミロン帰郷後に起きた一連の事件というのは……ほんと、アガサ・クリスティの小説の中の出来事のようです(^^;)
実際、ミロンとメッシュがお墓参りにいってドナ家の人々に会ってみると――ザザ・ドナ夫人は>>「まァ、ミロンなの?帰ってきているって聞いてたけど……こんなとこで会うなんてアンリが見ているのかしら――何年ぶり?10年ぐらい?うれしいわ。アンリのお墓まいりに来てくれたのねえ」、「むかしのことは忘れましょうね。あなただって単にふざけてアンリの足を……」、「アラ、いいのよ、もう。そりゃああのときは驚いたけど……町の人やペレじいからあなたのいたずらって聞いたときは……でもあなたも子どもだったしねえ」などと言い、彼女の態度は極めて友好的に軟化していたのでした。
そこで、むしろミロンのほうが>>「あの……そもそも奥さんが、アンリの葬儀のときにそう言ったんですよ、オレに」と指摘すると、>>「わたし!?わたしはなんにも言ってないわ。ほかのみんながそんなふうに言ったのよ」、「かわいそうなアンリ……葬儀のときはわたし悲しくて、何も言えずに」――はて、この記憶違いはどういうことなのでしょう。10年前、「きっとあなたが1位になりたくてアンリの足を引っぱったのよ。人殺し!」と葬儀の席で泣き叫んでいた人と同一人物とはとても思えません。
こののち、ペレじいが階段から足を踏み外して死にそうになった時……村の色々な人々からお金をせびっていたこのペレじいは、自分がこれまでの人生でしてきたことの懺悔をはじめ――みんなのいる前で、自分が見てきたことをしゃべくった結果、スキャンダルという名の真実が明るみに出てしまいました。
まず第1、「ミロンの父親は誰かわからんが、グレーテはドナ氏ともつきあっていた」と、ペレじい。「あなた!?」と驚くドナ夫人。そして第2、ベルン先生とドナ夫人が抱きあってるところを見て、ゆすっていたことをペレじいは告白。しかも、「あれはアンリが海でおぼれた日だった」と言うではありませんか!!
これで、ミロンには色々なことがわかってきました。実をいうとミロンのお母さんは頭がよく、学校ではずっと首席で通し、ドナ夫人はずっと口惜しい思いをしていたこと、そして、勉強もスポーツもずっと一番だった息子のアンリが、このグレーテの息子に遠泳で1位をとられ、死んでしまったこと……>>「アンリは死んでしまった!そしてグレーテの息子がアンリのかわりに一番をとるじゃないの!アンリをかえして!わたしが不幸なのは――あんたたち一家のせいだ!」
ペレじいに真実を明かされ、聞きたくない言葉から逃れられず、自分にとっての都合のいい事実のみを見ることも出来なくなったドナ夫人はそう泣き叫びます。
そういうことだったんですねえ。おそらく、夫に隠れて浮気などしていたから、天罰が下って息子のアンリは死んだとの良心の呵責から逃れるためにも……ドナ夫人には「誰かのせい」に出来ることが必要だったのだと思います。
このあと、ミロンは>>「そーか。オレが死ねばよかったのか、このクソ!」と海に向かって叫び、ざぶざぶとその中に入っていきます。ミロンのあとを追って同じように海に入っていくメッシュ。ふたりは海の波に揉まれて危うく死にかけますが、2キロほど離れたところまで流されたものの……どうにかこうにか町のホテルのほうまで戻ってきます。
こうしてミロンとメッシュはパリへ戻る電車に乗りますが――実は途中で妊娠してギードの子を宿しているとわかる、エミリエーヌも一緒でした。エミリエーヌはずっとミロンやメッシュにパリのことを聞いてばかりいましたが、一方、ギードのほうは決めかねている様子だったわけです。ところが、発車した電車に慌ててギードも乗り込んできて……「なんとかなるさ」と言って、キスするふたり。
まあ、このあたりはよくある話です。パリじゃなくても、とにかく東京へ行きさえすればなんとかなると考える地方出身者と、大体のところ彼らの思考回路は一緒なのではないでしょうか(^^;)
それでは次!『千の矢』!!
自分的に、2巻に収録されているお話の中ではこの『千の矢』が一番面白かったし好きでした。なんでなのかはわかりません。また、「このエピソードのここがいーのよお!!」みたいに説明するのが難しいお話でもあります。
なんにしても、一応がんばって説明してみようかと(^^;)
メッシュはパリの街角のカフェで、ビーという名のモデルとエトゥアールという名の画家が喧嘩しているのに出会います。ビーはこのカフェのある通りの向こうにあるアパルトマンに住んでいるらしく――そこからイーゼルやらキャンバスやら、その他エトゥアールの持ち物をニ階の窓から投げ捨て……「もうたくさん!さっさと持って帰んなさいよっ!ふんっ!」と、窓を閉めてしまいます。
>>「芸術のわからんボンクラめ!今に後悔するぞ。世紀の大天才をじゃけんにあつかって!ボクの伝記にかいてやるぞ」とビーに向かって叫ぶエトゥアール。
いえ、他の読者さんもそうでしょうけども、この自意識過剰でナルシストなエトゥアール、わたしも好きです(笑)。彼はまあ、ナルシストっぽいのもわかる気のする美形なのですが、唯一頬のところに星のような傷があるのでした。この彼にモデルにならないかと誘われるメッシュ。そしてこの頬の傷は、小さい頃に受けた矢によるものだということでした。
どうやらエトゥアールはお金持ちの息子らしく、メッシュがモデルをしに彼の家へ行ってみると、お屋敷が何かそんな雰囲気でした(何区かまではわかりませんが、パリの中でもそうした官僚やお金持ちなどの住む一角ではないでしょうか。たぶん)。
エトゥアールが家に戻ってみると、そこにはエトゥアールの母親のマーレと、意地悪そうな年とった双子の義理の姉(エトゥアールの目から見るとおばさんですね)、それに彼の友達のレイが遊びにきていました。
エトゥアールの父親は去年、心臓発作で他界しているのですが、マーレとは18歳差の結婚だったと言います。そして、この58歳で亡くなったエトゥアールのお父さんがアンティークをコレクションしていて……その中に、ちょっと変わった感じのする弓矢がありました。5歳の時、エトゥアールはこの弓矢をいじっていて顔に矢が当たって怪我をしたそうなのですが――彼自身に今、その記憶はないと言います。
翌日からメッシュはモデルの仕事を開始しましたが、エトゥアールがあれこれやかましいため、何故ビーが怒りだしたのかがつくづくよくわかるメッシュでした。また、メッシュがこの家に滞在中、マーレのカナダの友人だという男が訪ねてくるのですが……彼はエトゥアールの顔を見るなり>>「あの矢きずが残ったのか……!」と、意味深なことを言います。
さて、前話の『耳をかたむけて』の時も、アンリ少年を巡っての謎があったように――今回の『千の矢』というお話の謎は、どうやらエトゥアールが覚えてないという、顔の矢傷のことが関係していそうです。
そしてそれは、実はこういうことだったのでした。今から約15年前……マーレはこのカナダの友人だというパスカルという男と、家庭を捨てて逃げようとしたのです。そして、15年たった今もお互い愛情が変わっていないと確認しあったふたりは、その時と同じように真夜中、逃げだそうとします。
そして、5歳の時にあった記憶とまったく同じことが、今目の前で起きようとしているのを見て――エトゥアールは思いだすのでした。その時、一体何が起きたから、自分の顔に矢傷が残ったのかを……。
>>大きなかばん。ママが逃げる。悪いママが逃げる……。
次の瞬間、エトゥアールは弓矢を引いて打っていました。彼は間違いなく母親を狙って矢を放ったにも関わらず、それは意に反してまったくの反対方向へ飛んでゆき――なんと!メッシュの鎖骨あたりにダンと当たってしまいます!!
驚いて顔がヒクつくエトゥアール。そして何が起こったのかを悟り、マーレは倒れてしまいます。実はこういうことだったのでした。その弓矢は特殊な細工がしてあるらしく、矢が逆方向に飛ぶようになっているのです。
けれどこの時、間違いなくエトゥアールは母親――家庭を捨て、自分から逃げようとする悪い母親に狙いを定め、矢を射ていたのでした。今から15年前のあの時も、エトゥアールが狙いを定めていたのは母親だった。けれど、弓矢の特殊な構造から、自分の顔に矢傷を負ってしまったのです。
危うく母親を撃ち殺すところだったと、壁をどんどん叩きながら苦悩するエトゥアール。彼は「危うく母の心臓を射抜くところだった……!」みたいに言ってますが、実際はそこまでの威力はないシロモノだったようです(だから、メッシュの傷も比較的軽くて済んだ)。ですが、>>「きみに刺さった矢は本来、ぼくの胸をつらぬくはずだった!人殺しのぼくは千の矢で射殺されてもまだ足りない!」などと、どこまでもナルシスティックに苦悩し、メッシュに懺悔の告白を続けるエトゥアール。
そこへ、母親のマーレがやって来ます。>>「おまえがそんなに傷ついていたなんて……わたしはどこへも行きません。ここに残るわ。おまえがやろうとしたことは忘れて。それだってわたしのせいなんだから。わたしはもう行かない。わたしが行こうとしたことも忘れておくれ。何ごともなかったのよ。ね、それでいいでしょう?」――ところが、「パスカルのことはもういいのよ」と言うマーレに対して、エトゥアールは激しい拒絶反応を示します。
ちょっとこのあたりは、漫画のほうを読まないと文章では説明が難しいかもしれません(^^;)ようするにこれは、母と子の、親離れの話とも思うのですが(同時に子離れでもある)、息子の自分のために「他の男性との幸福を諦める」、「それもあなたのために……」みたいに言われたら、今度はそれって、エトゥアールにとっては強烈な縛りになりますよね。今までマーレはずっと、息子の顔の傷を見るたび自責の念に駆られてきた。ところが今度、言ってみればそれが逆になるわけです。もしここでエトゥアールが母親を引きとめるとしたら――癖のある義理の双子の姉にいびられたりするのを見るたび、「あの時パスカルといってれば、母さんは……」みたいに思い続けなくてはいけないでしょう。
それは考えてみるだに恐ろしい重圧です。母親の幸福について、エトゥアールはそこまで責任を取ることは出来ない。もちろん、一瞬にしてそこまで考えたわけではないでしょうが、エトゥアールは母親に向かって「出てけ!」と叫びます。>>「もうたくさんだ、その母親面!ぼくはあんたなんかなんとも思っちゃいない。ぼくがあんたを恋しがっていつまでも泣いてると思うのか!」、「ぼくのことを口実にぼくを縛るな!好きにすりゃいいんだ!」――このあと、この家から出ていこうとするメッシュと一緒に、エトゥアールは出ていこうとします。>>「そうだ。こんなところにいられるか!ほっといてくれ、ぼくのことは。考えてもくれるな!」
こうして……マーレとエトゥアールの親離れ・子離れは終わった模様(^^;)
このあとマーレはパスカルに向かって、>>「やっとあの子の放った矢がわたしに届いた。15年前、わたしが受けるべきだった矢が」と言っています。漫画の一連の流れや画面的に、パスカルとマーレはこれから結婚して、幸せになるだろうことは間違いありません。
メッシュはミロンのいるアパルトマンへ戻り、エトゥアールは再びビーの元を訪ねました。>>「何ぐずってるの。入ってくりゃいいでしょ!人を5日も放っておいて!」と叫ぶビー。
まあ、これでめでたし、めでたし☆といったところなわけですが――この『千の矢』については、なんとなく非常に考えさせられました。エトゥアールは画学生で、この時二十歳くらいなわけですが、まあ学生とはいえ成人には達しているわけです。で、家がお金持ちで自分を天才と自惚れる甘ったれのお坊ちゃまでもある。マーレ自身>>「まァ、まだ子どもよ。わがままで気まぐれで体が弱くて。小さなころから心配のさせどおし」と最初のほうで言っているように……エトゥアールが大きくなるまで、マーレの母親としての力があるのとないのでは彼の成長に大きな差があったことは間違いありません。しかも、5歳の時に起きたあの出来事をエトゥアールは覚えてなく、一方罪とともにそのことが記憶された母親のほうでは、息子の顔の傷を見るたび>>「罪な女だ、悪い女だ、裏切ろうとした」と感じ、良心の呵責に苦しんできた。でも、エトゥアールはちょうど独り立ち出来る年齢にも達し、5歳の時あったことを思いだしても耐えていけるくらい精神的にも十分成長しています。
つまりこのお話は――ある意味、ちょうど手を離しても大丈夫な時がやって来て母親が息子の手を離し、息子のほうでも母親の手を同じタイミングで離すことが出来たという、そうした非常に稀有なお話とも言えるのではないでしょうか(^^;)
普通はこのあたりのことというのは非常に難しく、お互いに「ちょうど今だ!今この瞬間しかない」というタイミングで、親子が同時に手を離すということは、滅多にないことのような気がします。
大抵、子供が巣立っていく時、母親は寂しい思いをし、空の巣症候群という言葉もあるように、そうした気持ちを味わうものだと思います。ところが子供のほうはといえば、そんな親の心など素知らぬ顔で、独り暮らしを謳歌していたり……まあ、大体そんなものですよね(^^;)
作中、エトゥアール自身、自分のことを「マザコンなのかなあ」と言っていたり、ミロンも自分のことをマザコンと言っていたり――このマザコンという言葉が何度か出てきたりするんですけど、このあたり、メッシュは父親からも母親からも捨てられたと感じているだけに、その両方から与えられるべき愛情が欠如した状態で成長しています。
その場合、アタッチメント・セオリー(愛着理論)と言って、血の繋がった実の母でなくても、母親の役割に近い人物を周囲に見出してしがみつく……という傾向が子供にあることから、そうした環境を子供に与えるべきとされているんですよね。そしてメッシュには、誰かそうした人物が幼少時に存在したのかどうか……『訪問者』のオスカーの物語は、「家の中の子ども」になりたかったというお話ですが、彼の場合は両親は家に揃っていた。けれど、結果として精神の孤児という状態に追いやられているところがなんとも切ないわけです
そして、萩尾先生の作品を通してみても、この<精神の孤児>というテーマというのは、何度も語られていることのような気がします。『メッシュ』の執筆動機からすると、最初は家を出て自立し、漫画家として世間からも立派に認めてもらえれば、両親も「おまえはよくやってるね」、「えらいよ」くらいにはきっと褒めてくれると萩尾先生も思ってらしたのではないでしょうか。
このあたりについては、お母さんもようやく認めてくれたといったように、『一度きりの大泉の話』のほうに言及もあるのでいいと思うのですが、親との和解ということのために、これだけへヴィなお話をいくつも描かなきゃいけなかっただなんて……萩尾先生も大変だったろうなあと、おこがましくも色々想像したり
それで、前回書いた、『メッシュ』連載中に『風と木の詩』が竹宮先生側のご事情で同じ『プチフラワー』に移ってきたという件ですけれども、その後、この『プチフラワー』では『残酷な神が支配する』が連載されるようになるわけですよね(^^;)そして、わたし自身が思うに竹宮先生には『少年の名はジルベール』に記されているのとはまた別の、第二のスランプ期っぽいような時期があるように思ったり……でも萩尾先生は『メッシュ』の頃もそのあともずっと、読者の目から見てスランプなどという言葉とは無縁であるようにしか見えない状態が続き、現在に至る――といったように思えば、もうこの件にしつこく拘り続ける必要はないんだろうなあ……と、この間竹宮先生の『スプラッシュ・ハーレム』という作品を読んで思ったという次第です
その~、萩尾先生はちょっと年齢が今までよりも上向き、お姉さん向けの雑誌になるということで、絵のほうを意識的に変えた……ということなんですけど、それがうまく成功したんだと思うんですよね。もっとも、昔からのファンの方によれば、『ポーの一族』とか『トーマの心臓』の頃が一番良い……ということになるのかもしれませんが、わたしは『メッシュ』の頃の絵もすごく好きです
そして、一作読むごとに、他の多くの漫画家さんが萩尾先生の作品のほうをこそパクっており(※悪い意味にあらず)、萩尾先生自身は極めてオリジナリティーの高いものを描き続けておられるのだなあと思う時――そうした方に「盗作疑惑をかけて傷を与えた」ということに対する恐ろしさを思うのです((((;゚Д゚))))ガクブル!!
では、たぶん次は『訪問者』の感想になるかな~と思いますm(_ _)m
それではまた~!!