(※萩尾先生の漫画、『スター・レッド』のネタばれがありますので……ということについては以下略☆として、上の画像、セイの後ろにいるミュージュって、異星人というより長靴はいた農作業員に見えんこともない(笑)。農薬散布中、きっとセイがテレポートしてきて、果物でも盗んでいったんだろう。「待てえっ!この林檎ドロボーッ!!」、「うふふっ。つかまえてごらんなさい!でもわたしの異次元跳躍に、あなたは一体どこまでついて来れるかしら」的な??)
以下にコピペ☆した萩尾先生の文章と光瀬龍先生の文章(の一部)は、旧文庫版の①巻の巻末にあるということで、よろしくお願いします(※トップ画は②巻のほうですので、どうかお間違えありませんように^^;)。
ではでは、これが目的で購入したので、早速萩尾先生の文章を写しておきたいと思いますm(_ _)m
>>『スター・レッド』連載の話。
ある春の日、編集が急に来て突然言った。〃連載たのむ。カラー予告の締切は三日後。その時、タイトル、主人公名、設定書いといて。も、なんでもいいよ。SFでもいい〃、〃そ、そんな急に。締切が三日後なんて〃。
私はふつう最後まで話を決めてから1ページ目を書き出す。中途でコロコロ話が変わったりもするのだが、一応最後まで話を考えてあるという安心感でペンを進めることができる。あわててアイデアノートを繰ってみたが、ストックしてある話はどれも最後まで話が完成してない。〃ひえええ~〃アタフタしてるまに三日が過ぎた。とりあえず予告を入れた。
タイトルは〃スター・レッド〃。主人公は少女、星(セイ)。
〃それからどしたらいいの~〃とあせってるまに一回目の締切がきた。先を考えぬまま一話を書くと二回目の締切がきた。場つなぎに二話を書くと三話目の締切が……。まるで悪夢のメリー・ゴー・ラウンドのごとくキチンキチンと締切がやってくる。エルグの頭には突然角がはえる。カッコつけて登場したカッパはすぐガキンチョになる。〃あ、どこにも星(セイ)を生む女の人がいない〃と、あわてた作者の犠牲になって男のヨダカは性転換を謀られる。かろうじて最終回でまとまった時には心からホッとした。〃これでスリルとサスペンスの追いつめられた日日は終わった……〃
気付くと、家中がSFのチリとホコリにまみれ、宇宙人も数匹住みついており、大そうじが必要であった。
そ、そそ、そうだったんですねww
この中で特に自分的に一番驚きだったのが――>>「エルグの頭には突然角が生える」というところだったでしょうか(^^;)
いえ、エルグは登場時から「何か隠してるっぽい髪型」だったので……物語後半で正体が明かされた時、「なるほど~。最初からそうした伏線だったのね♪」と、読者としてはそのように納得しておりました(笑)。
また、最後まで読んでから一番最初のページに戻ってくると、妙に感慨深いものがあったりもしてなんでかっていうと、エルグってば登場して数ページでセイにキスしてたり、火星に到着してからはラブラブカップル(?)を演じてたり……最後ああなるとわかってからこのあたりを読むと、せめてもこうしたシーンが読者には心の慰めになろうというものです
そんで次!光瀬先生の文章を一部コピペ☆させていただきますm(_ _)m
>>萩尾望都さんの作品については、これまで幾多の評論や解説が多くの研究者や愛好家によって世に発表されているので、今、ここで私が屋上屋を重ねるまでもない。
ただ、この『スター・レッド』について触れるならば、物語の主人公たち火星人は、そのかくれた能力のために、ホモ・サピエンスでありながら、ホモ・サピエンスとは絶縁してゆかなければならない存在である。進化論的に、新しい種として独立してゆくのだろうし、地球人の感管にもとづく現実世界ではかれら自身が滅亡してゆくほかはないからだ。
主人公の星(セイ)は、ふたたび火星人のひとりとしてよみがえってくるのだろうが、その転生に作者としての夢が託されているのであろう。
私にはこの『スター・レッド』が、大長編物語の序章のような気がしてならない。人類はどこから来たのか?かつて、この宇宙で何があったのか?それを語る叙事詩の最初の部分ではないか、と思うと、読者の一人として胸が膨らむ思いがする。ぜひ、この続きを描いてもらいたい。熱烈に期待している。
わたし、光瀬先生の文章を読むのはこれが初めてなんですけど、萩尾先生が>>「光瀬先生は気さくな良い方でした」と、『一度きりの大泉の話』に書かれていたとおり、すごくいい人なんだろうな~♪と思ったりしました。
そんで、文章の中にSFがキリスト教を否定するのは当然……と言いますか、書き方は少し違うんですけれども、そういった文脈のことが出てきてまして、「なるほどな~」と思ったりしました。
何が「なるほど」かというと、『百億の昼と千億の夜』でキリストが何故悪役かというと、まあ、SFの未来にとってそもそもキリスト教というのは「倒して踏み越えてゆかねばならぬ敵」というか、よく考えるとそうなるのも当然と思うわけです(^^;)
手塚先生の『火の鳥』の未来編だったと思いますが、確かロックが聖書の廃棄ということを言っていたと思います。簡単にいえば、これから先千年待っても二千年待っても、聖書にあるキリストの再臨がなかったとすれば――キリスト教の力というのは今以上に弱まって、世界を覆う宗教の力というのも弱まって、科学一色になってゆくだろう……たぶん、60~70年代くらいのSF的見通しとしては、そうした未来が今以上に光り輝いて見えていたのだと思います(というか、前にそうしたSF時代が衰退したのが何故か、というテレビ番組を見たことがある)。
それで、光瀬先生が『スター・レッド』の続編を熱望しておられたように、そうしたファンの方は今も多いのではないかと思うんですよね火星人たちがその後どうしたか、あるいはジュニア・セイを主人公に、成長した彼女がその後どうなったかを描いて欲しい!などなど……ただ、『スター・レッド』の第二部的なもののストーリー展開が難しいと思うのは、何よりその火星自体がすでにないということではないかと思ったり(^^;)
また、自分的に『スター・レッド』という作品の優れた点のひとつとして――火星の崩壊を食い止めようとした主人公たちが、その願いを果たせず死んでしまう、ということが挙げられると思っていて。
いえ、普通に考えた場合……それがどんな理由であれ、惑星ひとつが――それも、宇宙の他の銀河系にあるよくわからない架空の惑星が、ではなく、わたしたちが親しんでいる火星という名の惑星が、ある日を境に消えてしまうだなんて、まったくもって想像つかないというか……また、主人公のセイや異星人エルグのESP能力の扱いもそうですが、普通はこのくらい超能力があったら、次から次へとバンバン敵を倒していって、その目的や願いを、色々障害はあっても乗り越えてゆく――そして最後、火星人は故郷・火星に独立・自治を獲得した……とでもなりそうなものです(^^;)
また、火星をもう舞台に出来なかったとしても、自分的には夢魔(アミ)が何者かというのが気になるところで、仮にジュニア・セイが主人公でなかったとしても、こいつが何者かがわかる……という展開の漫画には非常に興味があります。で、『スター・レッド』は『百億の昼と千億の夜』と連載時期が近かったと思うのですが、そのせいか、描写的に似通ったところがあったりもして(パクリ☆とかなんとか、そんなことではなく)、『スター・レッド』における「夢魔(アミ)とは結局なんだったのか」、『百億の昼と千億の夜』における惑星委員会と〃シ〃とは何者なのか――というのが、自分的に共通して気になるところなんですよね。。。
光瀬先生のどの作品を読めばそのあたりのことがわかるのかがちょっとわからないとはいえ、いつか光瀬作品については必ず読んでみたいと思っていますんで、『スター・レッド』における夢魔(アミ)ですが、こうした超精神生命体の出てくるSF小説っていうと、何が有名なのかもわたしにはわからないとはいえ(@_@;)、とりあえず「善なる存在ではないらしい」と示唆されているのが面白い点であるような気がしたり。
>>「影だよ。ぼくは子どもで冬眠していて、テレパシーがそう強くなかった。だから助かった。影を見た者は精神をやられる。眠りの中で見た光景はぼんやりと覚えている。嵐のようにおしよせる影は、人の心の産物だ。憎しみ合い、殺し合い、食い合う精神エネルギー」と、エルグは>>「夢魔を見たことがあるの?」、「どんなもの?」と聞いたセイに答えているわけですが……もちろんこれだって、夢魔(アミ)の見せる側面のあくまでひとつの<面>に過ぎず、他の時には穏やかで静かで優しい幻影を見せるような、そのような存在でもあるのかもしれない。
ただ、わたしの乏しい知識の中でいえば、『伝説巨神イデオン』を少し思いだしたかもしれません。イデオンの中に出てくる、イデーという存在……彼/彼女は、物語の進行中、主人公以下の登場人物たちを助ける「善い」存在であるように見えた。ところがこのイデーなる宇宙生命体(だったと思う)は、実は「自分が生き延びる」ということにしか興味がなく、そのことを基準にしているものだから、自分にとって都合のいい時だけ主人公たちを利用していたに過ぎない……ということがだんだんわかってくるという(これもある意味コズミックホラーといっていいと思う^^;)。
だから、イデーにとって自分という存在が生き延びるのに都合の悪い事態に関しては主人公たちを助けないし、どんなに助けを願い求めても一切無視したり、あっさり見捨てるといったそのせいで――まあ、人が死んでゆくわけです。。。
わたしも『イデオン』見たのかなり昔(でも、エヴァを見たあとなのよ・笑)なのですが、この設定には物凄く斬新なものを感じましたし、そもそも富野監督も、イデー的な存在、『スター・レッド』での夢魔(アミ)のような存在の出てくるSF小説を読んで着想を得られたのではないか……みたいにその時も思ったのですが、わたしほとんどSF畑には無縁の人なので、そこらへんのことがまったくわからんわけです(いや、そのうち『惑星ソラリス』でも読むさ・笑)。
なんにしても、SFに詳しい人も、わたしのようにほとんど全然まったく詳しくもなんともない人にとっても――『スター・レッド』は超のつく名作と思いますし、これからもSF大傑作の漫画として、夜空に輝き続けることでしょう
それではまた~!!