思いわずらいのない
世界へ
誰もが
行きたいとおもう
なぜか
みんな
この世の
生活というものに
疲れているからです
夫とうまくいかない
姑とうまくいかない
子どもの気持ちがわからなくなった
なんてのはまだ
いいけれども
自分というものが
わけがわからなくなっちゃった
っていう人がね
たくさんいるんですよ
それでこんがらかってきて
ああ思いわずらいのない世界へいきたい
どっかへ行ってしまいたい
それがつよくなると
この世から消えちゃいたい
死んじゃいたい
ということになるんですね
これはどういうことかというと
思いがけないこと
予定していなかったことが起きてきて
自分のおもうようにいかない
ゆきづまる
とこうなるわけですよね
ところで
この思うようになる
とか
思うようにならない
とか
みんながおもっているこの
「思い」
おもいですけどね
これは私流にいえば
想念です
で
想念というのは
いつも申しておりますとおり
今
光ばっかりの想念じゃないんです
我々肉体人間の想念というのはね
光と業とが
半々あるいは
四分六でもって
まざり合っちゃってる
この世のすべてのあらわれ
それはむこうへ行っても
そうですけれども
この世のすべてのあらわれというのは
我々の想いが実現して
こうなっている
汝ののぞむ如くなれ
の世界なのですね
ですから
この原則からいえば
みんな
思うとおりになっていかなきゃ
ならないんだけど
いかんせん
我々の想念は
さっきもいったように
業がまざっている
不安だとか
こうなればいいのに
ああなればいいのにとか
あの人と仕事したくない
とかね
もうこだわりや
とらわれやが
いっぱい入ってて
それが念になって
我になって
業になって
我々の本体を
おおってしまっているんです
不安のうちにおもう
だからうまくいかない
腹を立てながら念じる
だからそのとおりにはならない
女の一念岩をも徹す
って言葉もありますけど
でもそれだって徹ったあとで
ちゃんとお返しというか
それだけ借金返しをしなきゃ
なんないようにできてるんです
つまり
この場合
おもいどおりになるってのはね
たとえば
不安がっておもうと
それだけ
不安をはらみながらのその人が
イメージした世界が
でてくるわけですよ
そっくり
その人の想念がね
出てくるんです
ただし
神様の方で法則というのが
あって
たとえば
相手をやっつけたいとか
むやみやたらに
こっちを勝たして下さい
なんていうおもいは
これは絶対にきかれない
それは神様の
愛と調和と平和
という
大原則にもとるからですね
これは絶対駄目なんです
だけど
自信のない人は
自信のないままの世界が
あらわれてくるというのは
これは
さっきいったとおり
なんです
そこで
もともとの
大原則である
おもいどおりになる
しかも
スッキリとなるために
今の私たちには
祈り
というものが
必要なのです
我々の奥のずっと奥に
神霊意識というのが
あります
大元の霊からわかれてきた
つまり
神様の
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
としてわかれてきた
自分たちのおおもとを
おもい出すっていいますかね
もともとそうなんだから
本当は
おもいだすもなにも
ないんだけど
霊である自分
神からわかれてきた
大愛のすえなんだという事実を
祈りってのは
おもい出させるわけですね
呼びおこすんです
それでもって
徐々に徐々に
幾重にもなっている私たちの
からだのなかに光を徹して
クリーニングをするんです
業を掃除しちゃう
祈りという掃除機が
どのくらいゴーゴーって音たてるか
私はわからないけれど
人間というのは
肉体人間というのは
またよくためるんですよ
それは今までの習慣
おもいぐせがあるからね
とにかくこの肉体が
自分だという意識
それから
自分自分って
自分を守る意識が
つよい
だからよくたまるんだけど
祈りというのは
世界平和の祈りというのは
とにかく瞬間に
その人を光でつつんじゃって
業をとかして
きれいにする
ためてもためても
たまってもたまっても
きれいにして
しまいに
すきとおらせて
ああ
私たちは
生きてるんじゃなくて
守護神や守護霊に
守られてるんだな
神霊に守られ天使に守られ
神様の大愛によって
この世に生かされてるんだな
ありがとうございます
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
と
これを世界人類
一人のこらずの人たちに
おもわせちゃう
語らせちゃうんで
もうむこうでは
完全に
平和は成ってるんです
それを今
現し世である
この世に
おろしてるんです
昔阿弥陀さまが
ちかいをたてて
自分の名を呼ぶ者で一人でも
救いにもれる者があれば
私は仏にならないといった
それとおなじことを
神様は
私とのやくそくのなかで
いわれたんだ
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という
この世界平和の祈りを
となえる
ときに
人は
真実に救われてゆく
救われてゆくっていうのは
自分自身が
肉体なんていう
ちっぽけな世界に
しばられた存在じゃなくて
無限大の存在なんだ
生きとおしのいのちをもった
朗らかな存在なんだってことが
おのずから
わかってくるということですよね
この祈りは
すべての枠をこえるんです
国家も
民族も
宗教も
風俗も
あらゆるものをこえて
人はみな
神の
愛と
ゆるしの
光から
わかれてきた
生命だということを
よろこぶ
神の前によろこぶ
大調和の
祈りなんです
この祈りを唱えつづけて
ゆくとき
人間は
しらずしらずのうちに
浄化されて
自分のふるさとである
神への
呼びかけが
たえず
できるようになるんです
今
もう
その準備が
大分できているんです
スッキリした
おもい
光にみちた
おもいで
神を呼ぶ
そうして
みんなが光になって
この世界を
宇宙を
平和にしてゆく
そういう器なんです
みんなが
そういう器なんです
だから
日常で
とらわれても
そのときに
ああ消えてゆく姿だ
とおもってね
そうして
ひたすら
自分の本心を呼ぶ
平和の祈りのなかでよぶ
世界平和の祈りというのは
徹底した
感謝行なんですから
この身内のなかにある想念を
一挙に
神霊意識にまで
もってゆく
それも無理なく
持ってゆく
そういう
祈りですから
いつの間にか
ありがとうございます
という
おまかせの心になって
愛深くなってくんです
守護霊が
守護神が
つれてってくれるんです
だから
安心してね
日々
世界平和の祈りのなかで
自分自身が光なんだということ
我々は
この宇宙に
光を放って
神の愛の光を
うけて
生きているんだということを
おもいながら
生きてって下さい
そうすると
おもいどおりの世界が
おもいがけない世界が
神様の愛念のなかで
実現してゆきます
そうして
大元において
いのちは一つだということを
我々はしらされてゆくのです
それではどうもありがとうございました
平成2年1月7日
世界へ
誰もが
行きたいとおもう
なぜか
みんな
この世の
生活というものに
疲れているからです
夫とうまくいかない
姑とうまくいかない
子どもの気持ちがわからなくなった
なんてのはまだ
いいけれども
自分というものが
わけがわからなくなっちゃった
っていう人がね
たくさんいるんですよ
それでこんがらかってきて
ああ思いわずらいのない世界へいきたい
どっかへ行ってしまいたい
それがつよくなると
この世から消えちゃいたい
死んじゃいたい
ということになるんですね
これはどういうことかというと
思いがけないこと
予定していなかったことが起きてきて
自分のおもうようにいかない
ゆきづまる
とこうなるわけですよね
ところで
この思うようになる
とか
思うようにならない
とか
みんながおもっているこの
「思い」
おもいですけどね
これは私流にいえば
想念です
で
想念というのは
いつも申しておりますとおり
今
光ばっかりの想念じゃないんです
我々肉体人間の想念というのはね
光と業とが
半々あるいは
四分六でもって
まざり合っちゃってる
この世のすべてのあらわれ
それはむこうへ行っても
そうですけれども
この世のすべてのあらわれというのは
我々の想いが実現して
こうなっている
汝ののぞむ如くなれ
の世界なのですね
ですから
この原則からいえば
みんな
思うとおりになっていかなきゃ
ならないんだけど
いかんせん
我々の想念は
さっきもいったように
業がまざっている
不安だとか
こうなればいいのに
ああなればいいのにとか
あの人と仕事したくない
とかね
もうこだわりや
とらわれやが
いっぱい入ってて
それが念になって
我になって
業になって
我々の本体を
おおってしまっているんです
不安のうちにおもう
だからうまくいかない
腹を立てながら念じる
だからそのとおりにはならない
女の一念岩をも徹す
って言葉もありますけど
でもそれだって徹ったあとで
ちゃんとお返しというか
それだけ借金返しをしなきゃ
なんないようにできてるんです
つまり
この場合
おもいどおりになるってのはね
たとえば
不安がっておもうと
それだけ
不安をはらみながらのその人が
イメージした世界が
でてくるわけですよ
そっくり
その人の想念がね
出てくるんです
ただし
神様の方で法則というのが
あって
たとえば
相手をやっつけたいとか
むやみやたらに
こっちを勝たして下さい
なんていうおもいは
これは絶対にきかれない
それは神様の
愛と調和と平和
という
大原則にもとるからですね
これは絶対駄目なんです
だけど
自信のない人は
自信のないままの世界が
あらわれてくるというのは
これは
さっきいったとおり
なんです
そこで
もともとの
大原則である
おもいどおりになる
しかも
スッキリとなるために
今の私たちには
祈り
というものが
必要なのです
我々の奥のずっと奥に
神霊意識というのが
あります
大元の霊からわかれてきた
つまり
神様の
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
としてわかれてきた
自分たちのおおもとを
おもい出すっていいますかね
もともとそうなんだから
本当は
おもいだすもなにも
ないんだけど
霊である自分
神からわかれてきた
大愛のすえなんだという事実を
祈りってのは
おもい出させるわけですね
呼びおこすんです
それでもって
徐々に徐々に
幾重にもなっている私たちの
からだのなかに光を徹して
クリーニングをするんです
業を掃除しちゃう
祈りという掃除機が
どのくらいゴーゴーって音たてるか
私はわからないけれど
人間というのは
肉体人間というのは
またよくためるんですよ
それは今までの習慣
おもいぐせがあるからね
とにかくこの肉体が
自分だという意識
それから
自分自分って
自分を守る意識が
つよい
だからよくたまるんだけど
祈りというのは
世界平和の祈りというのは
とにかく瞬間に
その人を光でつつんじゃって
業をとかして
きれいにする
ためてもためても
たまってもたまっても
きれいにして
しまいに
すきとおらせて
ああ
私たちは
生きてるんじゃなくて
守護神や守護霊に
守られてるんだな
神霊に守られ天使に守られ
神様の大愛によって
この世に生かされてるんだな
ありがとうございます
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
と
これを世界人類
一人のこらずの人たちに
おもわせちゃう
語らせちゃうんで
もうむこうでは
完全に
平和は成ってるんです
それを今
現し世である
この世に
おろしてるんです
昔阿弥陀さまが
ちかいをたてて
自分の名を呼ぶ者で一人でも
救いにもれる者があれば
私は仏にならないといった
それとおなじことを
神様は
私とのやくそくのなかで
いわれたんだ
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
守護神様
ありがとうございます
という
この世界平和の祈りを
となえる
ときに
人は
真実に救われてゆく
救われてゆくっていうのは
自分自身が
肉体なんていう
ちっぽけな世界に
しばられた存在じゃなくて
無限大の存在なんだ
生きとおしのいのちをもった
朗らかな存在なんだってことが
おのずから
わかってくるということですよね
この祈りは
すべての枠をこえるんです
国家も
民族も
宗教も
風俗も
あらゆるものをこえて
人はみな
神の
愛と
ゆるしの
光から
わかれてきた
生命だということを
よろこぶ
神の前によろこぶ
大調和の
祈りなんです
この祈りを唱えつづけて
ゆくとき
人間は
しらずしらずのうちに
浄化されて
自分のふるさとである
神への
呼びかけが
たえず
できるようになるんです
今
もう
その準備が
大分できているんです
スッキリした
おもい
光にみちた
おもいで
神を呼ぶ
そうして
みんなが光になって
この世界を
宇宙を
平和にしてゆく
そういう器なんです
みんなが
そういう器なんです
だから
日常で
とらわれても
そのときに
ああ消えてゆく姿だ
とおもってね
そうして
ひたすら
自分の本心を呼ぶ
平和の祈りのなかでよぶ
世界平和の祈りというのは
徹底した
感謝行なんですから
この身内のなかにある想念を
一挙に
神霊意識にまで
もってゆく
それも無理なく
持ってゆく
そういう
祈りですから
いつの間にか
ありがとうございます
という
おまかせの心になって
愛深くなってくんです
守護霊が
守護神が
つれてってくれるんです
だから
安心してね
日々
世界平和の祈りのなかで
自分自身が光なんだということ
我々は
この宇宙に
光を放って
神の愛の光を
うけて
生きているんだということを
おもいながら
生きてって下さい
そうすると
おもいどおりの世界が
おもいがけない世界が
神様の愛念のなかで
実現してゆきます
そうして
大元において
いのちは一つだということを
我々はしらされてゆくのです
それではどうもありがとうございました
平成2年1月7日