(前日からの続き)
本当の意味で、こんなことやったって
どんな意味になるのか、あぁやっぱりとか、
いろんな単純な諦念(ていねん)、単純
とは言えないかもしれませんが、
どうしても人間というのは、諦める癖が
ついてしまっている。
諦めるというのは、前にも申し上げた
ように、ただ、あぁこれはダメだって
言って横に置くことでなく、諦める
というのは、真理を諦める、明らかにする。
それがしっかりと目の前に立ち現われる。
その時にたじろがない、身じろがない、
それを真正面から受け止めて、感謝して
自分のいのちを燃やしてゆく。
そういう気持ちになるための諦めが
あるわけです。
それが、“諦(たい)” です。
その “諦” を自分たちの中にみんな
持っています。
そのことを忘れないで下さい。
(つづく)
本当の意味で、こんなことやったって
どんな意味になるのか、あぁやっぱりとか、
いろんな単純な諦念(ていねん)、単純
とは言えないかもしれませんが、
どうしても人間というのは、諦める癖が
ついてしまっている。
諦めるというのは、前にも申し上げた
ように、ただ、あぁこれはダメだって
言って横に置くことでなく、諦める
というのは、真理を諦める、明らかにする。
それがしっかりと目の前に立ち現われる。
その時にたじろがない、身じろがない、
それを真正面から受け止めて、感謝して
自分のいのちを燃やしてゆく。
そういう気持ちになるための諦めが
あるわけです。
それが、“諦(たい)” です。
その “諦” を自分たちの中にみんな
持っています。
そのことを忘れないで下さい。
(つづく)