宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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生命(いのち)の流れ

2023-10-28 09:37:30 | 祈り
生命の流れというのは、この世のながれ
もあれば、霊界、神界の流れもあるわけです。
霊界神界の流れは、微風水動(みふうすいどう)
という言葉があるように、流れるという意識も
なにもないところで悠々と流れているわけです。
つまり、生命の本体というのは、極めて
さりげなく、悠々としたもので、こういう悠々
とした生命を、肉にまとっている人間は、本来は、
感謝感激の筈なんだけれど、肉の波動は荒いから、
なかなか、微風水動というわけにはいかない
わけです。

夫婦げんかも兄弟げんかもあるわけ。
全く人の想いというのはやっかいなもので、
なかなか、微風水動─つまり、風は動くともなく
動き、水はそれに従って流れるというような
神界天界の流れにはなってゆきにくいわけ。
ここに、すこうしずつでも近付いてゆくには、
肉の身をまとってあらわれてくるさまざまな
怒りや、ねたみや、腹立ちといったものを、
セミがカラを脱ぐように一つずつ脱いでゆく
ということが必要なんですね。
日本に四季があって、衣がえというものを
やりましょう、夏に、冬の重い服を着ている人は
いないですね、夏は軽やかな服装になって、
重たいものは脱いでしまう。
というのは、重たいものが必要じゃない、
これだけの軽さのものでいいということを
体がしっているわけよ、だから、余分なものを
着ない。

人間の、我々のおもいもね。
こう動いたらあの人がこう想うんじゃないかとか、
出しゃばりだとおもわれるんじゃないかとか、
余計な心配が入ると、決して、素直に動けない。
心配にしばられてしまってね。
本来、生命というものは、明るい、のびのび
とした、太陽のような、宇宙のような拡がりを
もったものなんです。

ところが、人間関係、社会という中で生きて
いますと、なかなか、そこまではゆけない。
たまにそこまで行けたと思う瞬間があっても、
また、逆もどりしてしまう。
それはそういうふうに生きてきたから、
クセづけられているんです。
このクセが曲者なんですよ。
いいですか、我々が少しでも神様に
近づこうと思ったら、たとえ、一生の中で、
何億回、何兆回、そのクセが出てもね、
出てもいいから、ああまた神様、クセが出ました
習慣がでました、といって、そのまま神様に
預けちゃうんです。
神様は、想いの銀行なんだから、神様に
どんどん余分なものは預けて、本来の自分に
帰れるように、世界平和の祈りのなかに、私の
名前をよぶ中に、毎日を生活してください。
いいですか、はい、それでは今日の話は
これでおわります。
どうもありがとうございました。
       五井 昌久