宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

続 さやけき生命(6)

2016-08-21 06:51:01 | 祈り
        (前日から続く)
 しかし、本当のところを言えば、神様と私の
関係なんですね。神様と私達の関係でもある。
 人類と神の関係でもある。世界人類と私、
世界人類と神、という関係でもあります。
 そこには比べるものなど全くないわけですよ。
 分けへだてもないし、上下関係もない。ある
とすれば、無限に広がっていく、それだけですね。
 あなたと私は兄弟なんですよと。同じく神から
分かれて来た生命なんですよと、分霊(わけ
みたま)なんですよと。だから、世界人類が
平和でありますようにと祈りをしている時に、
皆んな気持ちが平和になって、国連の時も
総立ちになって拍手が来たというのは、皆んなが、
ああ私達一人一人がみんな兄弟姉妹なんだなあ
という一体感を、観念じゃなくて、本当に実感
したということですね。

 そういう心を、一人一人の中に植え付けていく
運動というのが、祈りによる世界平和の運動
であり、この祈りによって皆んなが平和になって
行くという運動です。この運動は、なんか大きな
言挙(ことあげ)をして、我に大義あり、我こそ
正義というような運動じゃないんですね。一人
ずつ一人ずつ本当に一歩一歩、無理なく、本心へ
ひびいてゆく。一人一人の人達が、ああ本当だな、
ああそうだなあ、これは真理だな、そういう
気持ちは私の中にもあるなあ、と共感する。
               (翌日へ続く)

続 さやけき生命(5)

2016-08-20 09:03:23 | 祈り
       (前日から続く)
 ところが人間というのは、ああ私はだめだなあ
とか、まだ出来てないなあ、自分はまだまだ
だなあとか、謙虚ではなく自己否定
してしまう。卑下してしまう。それは
よくないですね。
 自分を赦しという教義がありますが、自分を
本当の意味で解放して行ってやらないと、ああ
自分なんてとんでもないということになる。
 とんでもない存在を、人間を、神様が造る
はずがないんですね。この世に遣(つか)わす
筈がないんですね。だから、うちの昌美が
「あなた方は尊い器なんです」ということを、
いつも言うのは、感情の中ではそんな筈はない
と皆んながまだ思ってるので、言葉だけでも
尊い器なんですと、いやという程入って
来ないと変わらない位、頑固に、自分はダメだ、
まだまだだ、あの人に比べたらと思っている。
 なんか人と比べないと自分が安心できない。
 確かにそういうものもありますよ。人と自分
との関係で自分の価値をみい出してゆく。
              (翌日へ続く)

続 さやけき生命(4)

2016-08-19 23:40:18 | 祈り
       (前日から続く)
 今の人達というのは、みんな派手めに動く、
オーバーに動く。今の言葉で言うと
パフォーマンスをする。パフォーマンスを
した方が何か勝ちみたいなことになっているん
だけれど、ところが真理というのは、それは
動かないものです。
 真理とは静かなもので本質そのものです。本質
というのは神様から流れて来ているものです。
 その神様は何を流しているかというと、人間に
対する愛情、愛念を流している。
 だからといってそれを大げさに受けとる必要も
なく、素直に喜ぶのはいいが、大げさな関係が
人間と神様の関係でもないのです。真理という
ものは飾らないし、愛というものも飾らないし、
愛というのはどこから見ても愛です。もう表も
裏も無くて、ただ愛なんです。表は愛だけど
裏はウラミツラミだというのは、これは愛じゃ
ない。どこをどう探したってつついたって愛
そのもの、それが神様から流れて来ている
愛ですよ。何の引っ掛(かか)りもない、何も
責めるところも裁くところもない。
              (翌日へ続く)

続 さやけき生命(3)

2016-08-18 06:43:54 | 祈り
      (前日から続く)
 こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
 その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
 そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
 ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
 神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
 「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
 ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
            (翌日へ続く)

続 さやけき生命(2)

2016-08-17 10:42:51 | 祈り
       (前日から続く)
 この一番必要なものというのは、イエスも
“なくてかなわぬものは一つだけだ”と
言いましたけれども、あのマルタとマリアの話の
中で、妹のマリアは、イエスが来た時にじっと
座って、イエスの話ばかり聞いていて、姉の
マルタは、一生懸命イエスをもてなそうと色々
用意していて話も聞けない、それでマルタが
イエスに訴える場面がありますが、そこで
イエスが言ったのは、マルタよマルタよ、
そんなに心を騒がせないがいい、なくてかなわぬ
ものはただ一つだ。マリアはそのよい方を
選んだのだと。これをそのままにとったらね、
マルタは無駄働きをしているように思うけれど、
そうではなくて、そのせわしく人間が
追い求めてるものが必ずしも全部人間に必要な
ものじゃなくて、本当に静かなものというのが
人間を養う。その人間を養う静かなるもの、
なくてかなわぬもの、つまり、神様に向かっての
誠心が私達の生命を養っているものだという
ことなんです。これこそが、自分達の
生きる元です。
             (翌日へ続く)