宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

神 の 光(3)

2021-01-26 06:38:36 | 祈り
     (前日からの続き)
人間っていうのは
神からわかれてきた分生命(わけいのち)
であり
分霊(わけみたま)です
そのおおもとは光で
肉体が自分だ、と思って生活していても
肉体という地上での衣を超えた
いくつもの自在な身体の奥に
本心の光がある
その光が一所懸命に突き動かされて
表面に出てくるんです
わかりますか

それでもって
守護霊さんや守護神さんや
その人に縁のある人たちが
寄り集まってきてね
その人の魂の成長に必要な場所を
用意するんです
とにもかくにも
これだけ一所懸命やったから
よしここは卒業 次へ行かせよう
てなもんですよね
だけどただはいかないんだ
やっぱりそこで誠実を尽くす
五井先生流でいうと
天命を信じて人事を尽くす
ということが大事なんですよね
     (つづく)

神 の 光(2)

2021-01-25 08:13:06 | 祈り
     (前日からの続き)
宗教というものは
もともと
人間の本質を見失った肉体人間が
自分のいのちのありどころ
帰るべきふるさとを
祈りのうちに求め、真に
人間というものが
自由で朗らかで
明るい光のなかに
生きつづけてゆく存在であることを
深くしってゆくための
ものなのであります

ですから
神を語り仏を語り
神をしり仏をしることは
この宇宙をしることは
すなわち
永遠者の
大いなる智慧に抱かれることで
ありまして
決して自分自身のいのちを
不自由にしてゆくものではないので
あります

ところが
これまで人類は
それぞれ信じる宗教のなかで
がんじがらめになり
とらわれの身となってきた
なぜか

それは
先程申しましたように
それぞれの人が
己れ尊し
自分のところの宗教が一番正しいんだ
真理なのだ
という姿勢をふりかざして
他の立場に生きる人々を責めて
自分の方へ自分の方へと
いわば念で
それぞれの集団をつくってしまった
からであります
これではいけない
これでは救われる筈がありません

たとえ信じる宗教が
現世利益のものであっても
邪教とよばれるものであっても
そこで一所懸命やることが大事なのだ
と私は申しました
現世利益が宗教の本質だとも
思いませんし
他を認めない怪しげな宗教を
いいというのでもありませんけれども
そこならそこに入って
一所懸命やるという
その一所懸命が
現世利益を離れ宗教をはなれて
生き出してくるのです
動いてくるんです
働き出すんです
光として働き出してゆくんです
一所懸命が光を呼び覚ますんです
        (つづく)

神 の 光(1)

2021-01-24 07:15:45 | 祈り
人間の本質は
光なのです
やさしい人
勇気のある人
思いやりを持てる人
愛深く生きること
やさしさも
勇気も
思いやりも
みんな
神の光から
ながれてきているものです

責めず
とらわれず
すべてをつつんでゆく光
私たちのいのちの根元である
神の大愛の光は
いつも
私たちの本心を照らして
絶えず
この光を
流しているのです

いのちというものが
人間というものが
光によるいのちであることを
これまでに
幾人もの聖者たちが
証してきました

キリストも
釈迦も
親鸞も
法然も
みんな
この
光の証し人たちです

彼らは
それぞれの時代の苦を背負って
それぞれに
人間が救われてゆく道を
解き明かしたのです
彼ら自身
神の大愛の光
大元の光そのものでした

キリストは
汝の敵を愛せよといい
釈迦は
わが死後も精進せよ
といいました
親鸞は弟子一人も持たず
といい
法然は
専修念仏のなかに
光明身自在身たるべき
人間の本質があると説きました
それぞれに
国を背負い
そこに生きる人々の
苦悩を背にしながらの
説き明かしでした

しかし
国といい
民族といい
風土をそれぞれ異にする人々の
宗教は
いつか
己れ尊しになってゆきます
人類という
この地上に生きるすべての人々   
を対象にしたものではなく
それらは
国と国
民族と民族のなかで
小さな独立国のようになってしまって
いるのです
            (つづく)

無 題(3)

2021-01-23 05:41:21 | 祈り
自己本位
という言葉があります
人間はいざとなったら
自分を助けることだけで精いっぱいだ
というんですね

なるほど
この世に生きて
毎日毎日時間に追われ
自分の心がどこにあるか
それさえ見失ってしまう
肉体人間の世界では
そうかも知れない
しかし
私がここでいう人間は
そんなちゃちなものじゃないんです
死んだらおしまい
なんていうはかないものじゃないんです
自分をしるっていいますけどね
第一自己ってものを
どこまでみなさん突きつめて
毎日生活してますか

自己 自分 私
わたくし自身
このわたくしというものが
何処からきて
何処へ行くのか
というのは
昔々からの大問題ですよね
それは
人が
己れの存在とかいのちについて
考えはじめたときから
ずっとついてまわった問題でしょ
今もそうですよね
自分が何処からきて何処へ帰るんだろうって
ずっと考えますよね
そこで我々は
我々の肉体というものと
死というものに
ぶちあたらないではいられないのです

死というものを考えたときに
はたと
自分のおもいがとまってしまう
とめられてしまうんですね
なぜか
それは
自分というものが
死をむかえた時点で
この世から消えてゆかなくてはならない
という何とも知れないこわさに
ぶちあたるからなんです

自分という人間が消える
いなくなる
これは恐怖ですよね
何ともいえない気持ちになる
それで永遠なるものを求めて
神とか仏とかをみんな呼び求めるわけですが
何でこういう気持ちになるか
というと
肉体を自分自身だ
すなわち
自分自身だと思いちがいをしている
ところから起こってるんですね

実は
肉体というのは
狭いせまい箱なんです
もっと自由自在な自分
というものは
肉体のもっと奥の奥にあるんです
私がいつも申しますように
人間には霊妙な身体が
いくつもいくつもかさなっているんです

人が
現在この地上で生きるために
まとっているのが肉体だということで
あってですね
たまたま、五感でとらえられるのが肉体だ
というだけの話なんです
こんな風にいうと
先生はこの世の生活を軽くみているんじゃあないか
とおもう人も出てきそうだけども
そうではなくってね、そりゃあこの世に
生きてる間、肉体を軽蔑しちゃあ
駄目ですよ
何ったってやっぱり地上にいる間は大事に
しなきゃね
それで生きてるんですから

ただ私がいいたいのは
肉体だけが人間で、肉体がある間だけが
人間のいのちじゃないっていうんです
もしそうだったら
神も仏も大自然もこの宇宙も
もろもろのいのちの営みは
とても狭くるしいもろいものに
なってしまう
だけどそんなものじゃないんです

真実の人間というのは
この地上にいて、神霊幽界に同時に
存在してるんです
そしてつねに祈っている
光を放っている
神からくる光をながしている
そういうすごい存在なんです
ずっとつらぬいて生きるいのちなんですね
つまり
我々は神からわかれてきたいのちであり
霊なんです
もとはそうなんです
だから
人間というものを本当に突きつめてゆくと
虚無になるんじゃなくって
自由自在、無碍になるんです
何しろ大元の大愛までさかのぼるんですから
大変なものなんです

こういうことがわかると
もうずっと安心して
世界平和の祈りと消えてゆく姿でね
五井先生の口笛と
柏手にのって
自分自身をつねに祈らせて下さい
役立たせて下さい
と祈ってゆくと
どんどん
自分自身が大きくなって
朗らかになって
守護霊
守護神の守りのもとに
大きく深い働きが
出来てゆくようになるんです

よろしゅうございますか
それではどうもありがとうございました
  平成2年1月28、29日 記

無 題(2)

2021-01-22 06:59:58 | 祈り
もうみんな
悟っているのです
かがやいているのです
私たちの本心本体は
本当の人間は
ずっとずっと
安心立命しているのです

この世に生きることの
辛さ苦しさ
大変さのなかで
つい
自分が光っていることを
忘れてしまうのですが
世界平和の祈りは
本心本体そのままの
素の自分
神からわかれ
神からながれてきている
愛と光のいのちとしての
自分自身を
おもい出させてくれるのであります

祈りというものは
いのちを
すっきりと親である
神様につないでゆくものです
天命への階段を上がる
本心への階段を上がる
それが祈りなのです

私たちは
守護の神霊のたすけをかりて
明るい自分自身を
たずね
神をたずねてゆく旅をつづける
旅人なのであります