神を信ずる者にとって、神がいるという
ことは、 ごく自然なあたり前な事実であります。
私どもは、そこに神の愛の姿をみるので
あります。
この信ずるというところから、すべてが
生まれ出てくるのであります。
信ずるということなしに、我々の生命は
発現致しません。
今、私がここで、生命と申しましたのは、目に
見える肉体の生命だけのことではない
のであります。
肉体を支え、さらに、我々自身をありのままに
動かしめているもの、奥の奥の朗らかな生命を
いうのであります。
この生命を覚知する時、人は信仰に入って
ゆくのである。
目に見える世界が、実は目に見えない
さまざまの力、愛情によって支えられて
いるということを知る時、人は信仰に入るので
あります。
これを私は、神の愛と呼ぶのであります。
信仰とは、神の愛に抱きとられていることを
知った人間が、もはや、引き返すことなく、
すなおにそのふところの中に抱かれることを
いうのであります。
こういうふうに申しますと、我々の心は、
しょっちゅう迷っているではないかといわれる
かも知れません。
実際、我々の心は迷いに迷っている。
迷っているという状況だけを見ますと
その通りであります。
しかし、それは、心というもののごく入口の
ところを指して、悲しんでいるとか迷っている
とかいうのでありまして、真実の心は、迷いも
疑いもないのだ。
人間はみな、神の分霊(わけみたま)である。
光の子なのであります。
私どもの奥の奥にある内蔵されている本来心は、
実は、少しも迷っていない。
ひかり輝いて、光そのものとなっている
のであります。
祈りというものは、この奥深く内臓されている
光明そのものの自分自身、法身を引き出して
ゆくためにあるのであります。
南無阿弥陀仏も、主の祈りも、すべて、
神に仏に呼びかけてゆく祈りは、この自らの
うちにある光を自覚し、顕現するためのもの
なのであります。
私どもの、世界人類が平和でありますように
という祈りは、その光明の大親玉と申します、
大親分なのであります。
これ以上純一な祈りはない。
自他を愛し、ゆるし、祈るところに大光明が
輝く、その易行の頂きの祈りであります。
それは、神のこころが、自他などという
わけへだてなく、ただ、愛とゆるしと光とを
私どもにふり注いでいる。
この宇宙にふり注いでいる。
この大調和を祈りにしたものでもあるので
あります。
いわば、生命と生命の合唱、神と、神から
分かれて来たいのちであるところの
私どもの、合唱なのであります。
ですから、どのように我々の心が迷いましても、
真実のところは、しっかりと神の愛によって
結ばれ見定められているということを信じて
ゆきますと、明るくならざるを得ない
のであります。
我々の信仰は、神の愛の光によって、光明
によって結ばれている。
この信仰は、我々のいのちの大元が限りなく
明るいものだということを、体に心に刻んで、
この世を生活してゆくためのものなので
あります。
神のみかお、みこころというものは、大愛
そのものなのであります。
我々は、その大愛に回帰してゆく一人びとり
なのであります。
世界人類が平和でありますように
昭和62年11月14日 朝
五井 昌久
ことは、 ごく自然なあたり前な事実であります。
私どもは、そこに神の愛の姿をみるので
あります。
この信ずるというところから、すべてが
生まれ出てくるのであります。
信ずるということなしに、我々の生命は
発現致しません。
今、私がここで、生命と申しましたのは、目に
見える肉体の生命だけのことではない
のであります。
肉体を支え、さらに、我々自身をありのままに
動かしめているもの、奥の奥の朗らかな生命を
いうのであります。
この生命を覚知する時、人は信仰に入って
ゆくのである。
目に見える世界が、実は目に見えない
さまざまの力、愛情によって支えられて
いるということを知る時、人は信仰に入るので
あります。
これを私は、神の愛と呼ぶのであります。
信仰とは、神の愛に抱きとられていることを
知った人間が、もはや、引き返すことなく、
すなおにそのふところの中に抱かれることを
いうのであります。
こういうふうに申しますと、我々の心は、
しょっちゅう迷っているではないかといわれる
かも知れません。
実際、我々の心は迷いに迷っている。
迷っているという状況だけを見ますと
その通りであります。
しかし、それは、心というもののごく入口の
ところを指して、悲しんでいるとか迷っている
とかいうのでありまして、真実の心は、迷いも
疑いもないのだ。
人間はみな、神の分霊(わけみたま)である。
光の子なのであります。
私どもの奥の奥にある内蔵されている本来心は、
実は、少しも迷っていない。
ひかり輝いて、光そのものとなっている
のであります。
祈りというものは、この奥深く内臓されている
光明そのものの自分自身、法身を引き出して
ゆくためにあるのであります。
南無阿弥陀仏も、主の祈りも、すべて、
神に仏に呼びかけてゆく祈りは、この自らの
うちにある光を自覚し、顕現するためのもの
なのであります。
私どもの、世界人類が平和でありますように
という祈りは、その光明の大親玉と申します、
大親分なのであります。
これ以上純一な祈りはない。
自他を愛し、ゆるし、祈るところに大光明が
輝く、その易行の頂きの祈りであります。
それは、神のこころが、自他などという
わけへだてなく、ただ、愛とゆるしと光とを
私どもにふり注いでいる。
この宇宙にふり注いでいる。
この大調和を祈りにしたものでもあるので
あります。
いわば、生命と生命の合唱、神と、神から
分かれて来たいのちであるところの
私どもの、合唱なのであります。
ですから、どのように我々の心が迷いましても、
真実のところは、しっかりと神の愛によって
結ばれ見定められているということを信じて
ゆきますと、明るくならざるを得ない
のであります。
我々の信仰は、神の愛の光によって、光明
によって結ばれている。
この信仰は、我々のいのちの大元が限りなく
明るいものだということを、体に心に刻んで、
この世を生活してゆくためのものなので
あります。
神のみかお、みこころというものは、大愛
そのものなのであります。
我々は、その大愛に回帰してゆく一人びとり
なのであります。
世界人類が平和でありますように
昭和62年11月14日 朝
五井 昌久