いで湯暮らし
森まゆみ
実は、森まゆみのエッセイが好きである。
集英社文庫から、「寺暮らし」「その日暮らし」「貧楽暮らし」など、○○暮らしシリーズで出ているが、どうやらこれは出版社の方針らしく、もともとのみすず書房での単行本では「にんげんは夢を盛るうつわ」とか「町づくろいの思想」とか、そのときの著者の思いがタイトルになっている。「いで湯暮らし」は「プライド・オブ・ブレイス」の文庫化である。
いずれも、地域に住み、地域を愛する著者が、教養と節度を保ちながら、友人や子どもたちと一緒に地元や風土というものを慈しみ、そして時代や気運の波に抗おうとしたり、苦言を呈したり、失望したり、一方で面白がったりする。初期のエッセイは子育て奮戦的なものが多かったが、子どもたちはすっかり大人になったようで、最近は旅モノが増えてきている。
なんというか、森まゆみのエッセイは僕にとって、写真集よりも日常系4コマよりも「癒される」のだ。
実際に隣にこんな人がいたら、クソまじめな優等生すぎて、気疲れしてしまうに違いないが、彼女のエッセイは僕にとって澱のように溜まる心のストレスの浄化装置を果たしている。
彼女のエッセイをよむと、良い感じに自分の境遇を「相対化」してくれるのである。
自分の「境遇」というのは、まず「家族と生活」でいうと、僕は首都圏の駅近のマンションに、妻と子どもと3人で住み、僕も妻も働いていて、子どもは近所の小学校に通う。小学校では誰それはもう携帯を持っているとかDSを買わないと仲間外れになるとか、そして受験はどうする、塾はどうする、あの人は習い事を4つも掛け持ちしている、学校の先生はこんなだ、PTAはどんなだ、という話に明け暮れる。といいつつ、共稼ぎの我が家ではなかなか子どもに処する時間が限られ、夕食の準備時間さえ日々遅れがちで、まあ悩みながら生活している。
そして、仕事、となるとこれはもう完全に、消費経済社会の歯車にのっていくためのものであり、「赤い猫でも白い猫でもネズミをとるのがよい猫だ」という生き馬の目を抜く社会である。いかにたくさん買わせ、いかに高く買わせ、いかに多くの人に買ってもらうかの世界である。いくらきれいごとをいっても本質はそうである。勝たないと給料は出ないからだ。
つまり、自分の境遇は、どうやって「勝つか」ということにけっきょく追われるのである。
自分が勝つか、だけでなく、子どもを勝たせるか(受験勉強という狭い話ではなく、この社会で生きていくための)、どうやって会社を勝たせるか、自分の担当する商品を勝たせるか、なんてことに日々追われているのである。それが親の仕事だし、会社の仕事だからである。
そして、ここが肝心なのだが「勝つ」のに関係のない知識やスキルは意味がない、とは言わなくても“どうでもいい”ものなのである。
ラカンなんてわからなくていいから、財務のバランスシートを分析できるようになれ、ということが要求される。みすず書房なんかいいから日経新聞を読めという価値観である。油絵なんかうまくなくていいからプレゼンテーションを上手になれ、という評価の世界なのである。
そして、いつのまにか、そんな世界に没頭している自分がいる。
会社では会議で激論を交わし、上司から叱られ、書類づくりの残業に追われ、午前様の帰宅が続く。
土日に子どもの習い事に送り出し、どうも授業についていけてないようだ、ということを知らされるとあれこれ対策を講じる。
ふと、自分は疲れている、と思う。首や肩が凄く凝っている。
そんなとき、森まゆみのエッセイは、自分が一生懸命カラダとココロにムチうちながらやっていることが、実はひとつの価値観に縛られて狭い視野になっていることに気付くのである。
僕は、そんなにビバ消費社会な人ではないし、勝負ごとにアドレナリンが出まくるわけでもないし、リア充的なライフスタイルじゃないし、ビジネス書コーナーよりは人文系コーナーのほうがずっと落ち着くし、国語算数理科社会なんて縦割りしてどうすんのなんて思ってしまう人である。
森まゆみが大事にしていること、主張していること、は、本当は自分もそうしたい、そう思える人になりたい、ということなのだ。
でも、現実的にはそこまで振り切ることができない。甘いと言われようと、一方で僕は今日も「勝つ」ための毎日を捨て去るまでのことはできないのである。まずは算数だけは落ちこぼれるなと子どもに指導してしまうのである。
だがそれでも、彼女のエッセイから「他にも大事なことはいっぱいある。だから、あなたのいる世界でだけ「勝ち」続けようとしなくてもよいのだ」というメッセージを受け取るだけで、ふと気持ちが楽になる。粗製乱造される自己啓発書や金言集には及ばない、行間の説得力があるのだ。
もうひとつ。なぜ、そんなに説得力があるのかというと、実は森まゆみ自身、けっこうぶれている、というか破調があるからだ。矛盾しているようだが、それが現実味があってむしろすがすがしいのである。
たとえば、地域がいい、地元がいい、といいながら、その地域がもつネガティブな面を、本当に嫌がっている(評論ではなく感情的に嫌がっている)。
ファーストフードやチェーンものは大嫌いかと思いながら、臆面もなく褒めていることもあったり、反対に家族で代々でやっているいわゆるスローフード的な店でも不備があれば叱る。古いものが好きで新しいものは忌避するかといえば、そうでもない。無農薬野菜も好きだがB級グルメも好きである。
ウーマンリブを主張しているようでありながら、でも男性らしさ女性らしさを求める感受性も強く持っている。
要するに、原理主義でない、のである。政治的見解と文学的価値観、規範意識と人情、教養とミーハーのバランスがとてもいいのだ。
実は彼女のルポものは、これらの要素の一点が突出することが多く、辟易してついていけないことも多かったりする。それはルポである以上テーマがあるからしょうがないのだけど、これがエッセイになると、実にいい塩梅のブレンドになるのだ。
もっとも彼女の本職はむしろルポもののほうにあるので、だから、上記のような評価はすごく的外れなんだろうけれど、少なくとも僕にとっては、本棚のひとすみに彼女のエッセイが文庫本単行本混ざってひとつのコーナーを形成し、たまにビール片手に拾い読みをしたりするのが至福のひとときなのである。