読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

いで湯暮らし

2013年06月02日 | エッセイ・随筆・コラム

いで湯暮らし

森まゆみ

 

 実は、森まゆみのエッセイが好きである。

 集英社文庫から、「寺暮らし」「その日暮らし」「貧楽暮らし」など、○○暮らしシリーズで出ているが、どうやらこれは出版社の方針らしく、もともとのみすず書房での単行本では「にんげんは夢を盛るうつわ」とか「町づくろいの思想」とか、そのときの著者の思いがタイトルになっている。「いで湯暮らし」は「プライド・オブ・ブレイス」の文庫化である。

 いずれも、地域に住み、地域を愛する著者が、教養と節度を保ちながら、友人や子どもたちと一緒に地元や風土というものを慈しみ、そして時代や気運の波に抗おうとしたり、苦言を呈したり、失望したり、一方で面白がったりする。初期のエッセイは子育て奮戦的なものが多かったが、子どもたちはすっかり大人になったようで、最近は旅モノが増えてきている。

 

 なんというか、森まゆみのエッセイは僕にとって、写真集よりも日常系4コマよりも「癒される」のだ。
 実際に隣にこんな人がいたら、クソまじめな優等生すぎて、気疲れしてしまうに違いないが、彼女のエッセイは僕にとって澱のように溜まる心のストレスの浄化装置を果たしている。

 彼女のエッセイをよむと、良い感じに自分の境遇を「相対化」してくれるのである。

 自分の「境遇」というのは、まず「家族と生活」でいうと、僕は首都圏の駅近のマンションに、妻と子どもと3人で住み、僕も妻も働いていて、子どもは近所の小学校に通う。小学校では誰それはもう携帯を持っているとかDSを買わないと仲間外れになるとか、そして受験はどうする、塾はどうする、あの人は習い事を4つも掛け持ちしている、学校の先生はこんなだ、PTAはどんなだ、という話に明け暮れる。といいつつ、共稼ぎの我が家ではなかなか子どもに処する時間が限られ、夕食の準備時間さえ日々遅れがちで、まあ悩みながら生活している。

 そして、仕事、となるとこれはもう完全に、消費経済社会の歯車にのっていくためのものであり、「赤い猫でも白い猫でもネズミをとるのがよい猫だ」という生き馬の目を抜く社会である。いかにたくさん買わせ、いかに高く買わせ、いかに多くの人に買ってもらうかの世界である。いくらきれいごとをいっても本質はそうである。勝たないと給料は出ないからだ。

 

 つまり、自分の境遇は、どうやって「勝つか」ということにけっきょく追われるのである。
 自分が勝つか、だけでなく、子どもを勝たせるか(受験勉強という狭い話ではなく、この社会で生きていくための)、どうやって会社を勝たせるか、自分の担当する商品を勝たせるか、なんてことに日々追われているのである。それが親の仕事だし、会社の仕事だからである。

 そして、ここが肝心なのだが「勝つ」のに関係のない知識やスキルは意味がない、とは言わなくても“どうでもいい”ものなのである。
 ラカンなんてわからなくていいから、財務のバランスシートを分析できるようになれ、ということが要求される。みすず書房なんかいいから日経新聞を読めという価値観である。油絵なんかうまくなくていいからプレゼンテーションを上手になれ、という評価の世界なのである。

 そして、いつのまにか、そんな世界に没頭している自分がいる。
 会社では会議で激論を交わし、上司から叱られ、書類づくりの残業に追われ、午前様の帰宅が続く。
 土日に子どもの習い事に送り出し、どうも授業についていけてないようだ、ということを知らされるとあれこれ対策を講じる。

 ふと、自分は疲れている、と思う。首や肩が凄く凝っている。

 

 そんなとき、森まゆみのエッセイは、自分が一生懸命カラダとココロにムチうちながらやっていることが、実はひとつの価値観に縛られて狭い視野になっていることに気付くのである。
 僕は、そんなにビバ消費社会な人ではないし、勝負ごとにアドレナリンが出まくるわけでもないし、リア充的なライフスタイルじゃないし、ビジネス書コーナーよりは人文系コーナーのほうがずっと落ち着くし、国語算数理科社会なんて縦割りしてどうすんのなんて思ってしまう人である。

 森まゆみが大事にしていること、主張していること、は、本当は自分もそうしたい、そう思える人になりたい、ということなのだ。
 でも、現実的にはそこまで振り切ることができない。甘いと言われようと、一方で僕は今日も「勝つ」ための毎日を捨て去るまでのことはできないのである。まずは算数だけは落ちこぼれるなと子どもに指導してしまうのである。
 だがそれでも、彼女のエッセイから「他にも大事なことはいっぱいある。だから、あなたのいる世界でだけ「勝ち」続けようとしなくてもよいのだ」というメッセージを受け取るだけで、ふと気持ちが楽になる。粗製乱造される自己啓発書や金言集には及ばない、行間の説得力があるのだ。

 

 もうひとつ。なぜ、そんなに説得力があるのかというと、実は森まゆみ自身、けっこうぶれている、というか破調があるからだ。矛盾しているようだが、それが現実味があってむしろすがすがしいのである。
 たとえば、地域がいい、地元がいい、といいながら、その地域がもつネガティブな面を、本当に嫌がっている(評論ではなく感情的に嫌がっている)。
 ファーストフードやチェーンものは大嫌いかと思いながら、臆面もなく褒めていることもあったり、反対に家族で代々でやっているいわゆるスローフード的な店でも不備があれば叱る。古いものが好きで新しいものは忌避するかといえば、そうでもない。無農薬野菜も好きだがB級グルメも好きである。
 ウーマンリブを主張しているようでありながら、でも男性らしさ女性らしさを求める感受性も強く持っている。

 要するに、原理主義でない、のである。政治的見解と文学的価値観、規範意識と人情、教養とミーハーのバランスがとてもいいのだ。
 

 実は彼女のルポものは、これらの要素の一点が突出することが多く、辟易してついていけないことも多かったりする。それはルポである以上テーマがあるからしょうがないのだけど、これがエッセイになると、実にいい塩梅のブレンドになるのだ。

 もっとも彼女の本職はむしろルポもののほうにあるので、だから、上記のような評価はすごく的外れなんだろうけれど、少なくとも僕にとっては、本棚のひとすみに彼女のエッセイが文庫本単行本混ざってひとつのコーナーを形成し、たまにビール片手に拾い読みをしたりするのが至福のひとときなのである。


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中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?

2012年12月01日 | エッセイ・随筆・コラム

中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?

NHK_PR1号

 おそらく企業広報としてのツィッターとして最も成功しているNHKのnhk_pr。
 以前から、タダ者ではないと思っていた。おそるべき全体を見渡す洞察力、そこまでやるかという実行力というかその度胸、体力と執念深さ、アイデア力。そしてかなりのボキャブラリー。ユルい軟式のヒトを装っていながら、実は相当のツワモノであるとふんでいただけに、本書を読んでやっぱりそうか! と思った。

 だいたい、あの震災の状況下でユルいツイートを再開させた度胸がまずあっぱれだが、そのクレームに対してのコメントがすごい。

 「不謹慎ならあやまります。でも不寛容とは戦います。」

 並みの言葉ではない。

 自分の胸に手をあてても、ゼッタイにこのコトバは出ない。仮に僕がクレームに反論を試みたとしても「不寛容とは戦う」というコトバは絶対に思いつかないだろう。それを推敲に推敲を重ねる小説や論文ではなく、ツイートというテンションの中でやりのける。

 その一方で、プロフィールの時計が3時をさしているのは「おやつの時間」だから。

 

 これはもう確信に近い想像だが、NHK_PR1号はかなり優秀な女性ではないかと思う、たぶん。あえて女性を装っている男性というセンもあるが、どうもこの人の仕事ぶり(ツイートぶり)は、何かと予防線やレギュレーションを守りたがる男性にはできない芸当な気がする。

 で、本職は構成作家かシナリオライターに違いないと思うのである(まったくの憶測。違ってる可能性大)。
 だからこそそうとう場面状況を描くことに長けており、また効果的なコトバをボキャブラリーの中から持ってくることができる人なのである。140字という短い枠の中に言いたいことをちゃんといれてこれる技術も、短い秒数内にコトバをおさめなければならない放送作家なら持ってしかるべき技術だろう。


 ただ、そんなプロファイルなんかどうでもよい。この人を採用したNHKは大当たりである。もし、この人が民放局や他の企業へ行ってしまっていたら、今頃、日本の企業ツイッターは10年遅れたかもしれない。

 


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人生一般ニ相対論

2012年10月13日 | エッセイ・随筆・コラム

人生一般ニ相対論

須藤靖

 

hirax.netというサイトがある。その筋では、たいそう知られたサイトで、運営しているのは平林純さんという方である。

今現在は、リンク先のような体裁だが、以前は「できるかな?」というタイトルのサイトだった。いわゆるテキストサイトである。10年以上前から存在していたから老舗といってよい。

で、その内容が凄かった。

インターネットとかWWWの普及がもたらした恩恵は数限りないが、僕はそれこそ10年以上前にこのサイトを見たとき、こんな充実して奥が深くてためになって希望がわいてめちゃくちゃおもしろいコンテンツがタダで見れるなんて、インターネットってすばらしい! と本気でそう思った。

この「できるかな?」というサイトは、あえていえば、理系の実践術を持つ管理人が、そのメソッドで文系の感受性の世界をより味わっていく、というものだった。

本職はどうやら光学機械メーカーの研究職とのことだが、その知識をもとに自作のソフトをプログラミングまでして、それでモネの絵画や夏目漱石の小説の謎に迫ったり、人の恋の駆け引きをグラフ化したりするその奇抜さと、意外にも詩的なその結末に僕は魅了され、更新が待ち遠しくて毎日チェックしていた。

やがて、平林氏本人とこのサイトは有名になり、何冊も書籍化されたり、氏はテレビ出演(「世界一受けたい授業」でも出演されていた)していった。

 

この「理系の方法論で文系的な世界を語っていく」というスタイルは他にも例がないわけではなく、古くは寺田寅彦がいるし、ロドリゲストというトップクラス集団による「物理の散歩道」シリーズは聖典扱いされている。僕個人的には、似非科学研究会の「魅惑の似非科学」という本もかなり気に入っている。(これもWEBサイトが先にあってそれが書籍化されたもの。サイトはもう何年も更新停止中・・)。

 

要するに、僕はこの手の切り口にヨワいのである。高校生時代、得意科目が地学と日本史と数学、苦手な科目が国語(読書は好きだったが国語は全然ダメだった)と英語というつぶしの効かないバランスの悪さをつくりだしてしまい、結局は地学以外の理系はダメということから文系コースを進み、数学が文系数学でとまってしまい、大学はけっきょく文系の学部で、しかし最初の勤め先がわりと統計解析系というこのどっちつかずの背景がもたらすコンプレックス、つまり、理系的世界にアコガレはあったのにとうとうそれを身につけることなく、現実的には人文系を好む、というこのコンプレックスが、この類の本に半ば嫉妬に近い感情も含めながら、むさぼり読んでしまうのである。理系的な視線を持つ人が、感受性豊かに文系的な美学を開陳していく様にうちのめされるのである。

要するに文理のハイブリッドなのだが、21世紀になって10年以上たった現在でも、類書は決して多くない。なかなか良書に巡り合わない。

 

という長い前ふりで、人に教えられて手にとったのが本書である。著者はT大(だってT大って書いてあるんだもん)の宇宙物理学を専攻とする人である。久々の大ヒットで、続巻にあたる「月とクロワッサン」も一挙に読んでしまった。

いわゆるお笑いエッセイではあるのだが、しかし夢を持つっていいな、と素直に思える内容である。科学的態度とは「謎を解き明かす」のではなく、「誰も気づいていなかった新たな謎を発見することである」という指摘はロマンあふれているし、そして謎が溢れているこの世の中はなんて楽しいのだろうという著者の態度に感服する。

 

こういう人生観を持つには、やはりささいなことでもおや? と思い、そして探究してみる強い好奇心がやはり必要である。海底人の世界観に思いをはせ、40代以上の女性はみんなとっさにピンクレディのふりつけができるという現象にある普遍性を感じとる。パリパリとサクサクのニュアンスの違いをいかに外国人に説明するか。指をつかって1、2、3と数えるやり方が諸国で異なるのはなぜか。幸せとは何かという哲学知を数式で溶いてみるとどうなるか。これすべて好奇心のなせる技である。幸せとは何かを数式で表すと、その結果必然的に、人生とは必ずプラスでなければならない、と結論するあたりはもはや福音である。

 

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という川柳がある。ファンタジーもつきつめると案外つまらんものよ、という意味だが(はて、本当にそうか?)、むしろ今の時代に必要な感受性は

枯れ尾花を幽霊に見えてしまう人間に乾杯!

ということだと思う。妖怪が信じられない社会でうつ病が社会問題になるのは当然なのである。

本書をはじめ、僕がここであげてきた内容は、このろくでもない世界を幸福に生きていくための理系的思考による人間賛歌でもあるのだ。

 


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生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント

2012年08月05日 | エッセイ・随筆・コラム

生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント

西原理恵子

前回のブログで朝日新聞の「いじめられている君へ」のことを書いたけど、今回は西原理恵子であった。真打登場といってよい。

 

彼女は、数年前から「ポスト瀬戸内寂聴」の座をねらうなんてネタをあちこちで書いていたが、どうも最近ほんとうにそうなりつつある。ついに人生訓本まで出た。それが本書である。

実際、彼女のここまでの人生は、尋常ならざるものであり、たいていの頭でっかちな今時の者をひれ伏させるだけの説得力がある。

 

意外にも彼女の哲学はシンプルである。

まず、誰かれかまわずすべての人間に言えることとして、「カネがすべて」ということである。

これは守銭奴云々というのとは異なり、「カネ」は「人生の自由」が買える、ということに他ならない。「カネ」がなければいくら大層なことを行ってもなんにもはじまらないのである。子どもが辛いのは、カネがないからである。貧困が最低なのは、カネがないからである。

だから、仕事はしたほうがよい。「カネ」が入るから。やりがいのある仕事を、とか、自分の居場所が云々いってないで、仕事は「カネ」を得るためと思ってやりなさいと言う。結婚した女性も仕事は続けたほうがよい。収入を他人に委ねる、というのはとんでもないリスクだから。

そして、女性に関してはあともうひとつ、なにはともあれ子どもは産んだほうがいいとも言っている。人生の「希望」がここにある。

本当にこの2つだけである。さまざまな経験をしてきた彼女の結論がここにあることは、大いなる真実がここに含まれていると考えてよい。

 

ところが、さいきんもう一つのことを言うようになった。それが本書「生きる悪知恵」にも出てくるし、冒頭の「いじめられる君へ」にも出てくる。

それは「自分を守るための嘘はついてよい」というものである。

会社も学校も、とにかく余裕がない。他人のセーフティネットまで配慮しない。追いつめられる人が出てくる。とくにゲゼルシャフトの人間関係では、最後のところでひとりひとりを助けない。西原理恵子はこのことをよくわかっていたのだが、いっぽうの地縁血縁も希薄な今日においては、身を守るのは自分しかない、というところにきている。

そこで出てきたのが、自分を守るための嘘はついてよいということで、重大なうつ病になったり、深刻ないじめに遭遇するくらいなら、嘘をついてでもその場から逃げよと言っている。ただ、これは誤解を招きやすそうにも思える。思うに、彼女の真意にはこの続きがまだあって、それは「逃げた後の自分の人生の基盤だけはしっかり確保する」ということである。それは「カネ」であり、子どもや未成年の場合は、とりあえず仕事をすることができる年齢まではなんとかしてたどりつけということだろう。

 

明確には言ってないが、黒サイバラから白サイバラまでサイバラ作品の根底を貫く哲学が実はもうひとつある。

それは、国や会社や学校・・・つまり、なんらかの利害関係、ある種の約束をもとに集う人間社会、すなわち社会学でいうところのゲゼルシャフトは究極的には信用ができない。信用ができるのは家族や地元というゲマインシャフトである、ということである。

これは彼女の実体験がそのような哲学をつくったのだと思う。学校や会社、あるいはこの国は、究極のところであなたを守ってはくれないのである。うすうすそうじゃないかと思っている人は多いと思うが、彼女はすっぱりそこを喝破している。国や会社や学校にリスクを預けてはいけないのである。

 

 


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棒ふり旅がらす

2009年12月26日 | エッセイ・随筆・コラム
棒ふり旅がらす  岩城宏之

オーケストラ指揮者の岩城宏之が亡くなって4年。晩年で注目されたのは一晩でベートーヴェンの交響曲を全9曲やってしまうという快挙というか暴挙であったが、とにかく音楽界内外にさまざまな話題と影響をふりまいてきた人だった。

90年代以降は手術と休業の連続で、仕事の場も日本国内が多かったが、それ以前の元気な頃は、文字通り世界中を飛び回って活躍した、日本が世界に誇る指揮者の一人だった。各地のオーケストラで常任指揮者の肩書をもち、海外での受容と評価は小澤征爾と同等といってよい。

一方、彼はけっこうな文筆家でもあって、そのエッセイは評判がよかった。後年は辛口批評が多くなり、晩年のはなんだかいい加減な書き逃げも多かったが、中期以前のものは今読んでも鑑賞に耐えられるものが多い。「楽譜の風景」「棒ふりのカフェテラス」「回転扉の向こう側」「森のうた」などがある。
 その中でも、80年代に週刊朝日に連載されていた「棒ふり旅がらす」は、演奏旅行で世界中飛び回る先から原稿を送り続けたもので、先々週はドイツからだったのに、先週はアメリカからで、今週は日本からと思いきや、次の週はオランダからだったりするという、こういう生活送る人の時差間隔というのははたしてどうなってるんだろうかと思う。
 内容は、音楽のことに限らず、その地での生活のことだったり、食事のことだったり、読売ジャイアンツのことだったりする。

 その「棒ふり旅がらす」を先日、久々に読み返した。というより、たしか「あれ」が載っていたな、と思い出して、探したのである。

 「あれ」というのは何かというと、「2週間で7キロやせる法」である。

 今から、四半世紀前の本であり、とっくに絶版であるからここに引用紹介してみる。まず、

 先日、アムステルダムでオランダ人の友人に何年ぶりかで会ったら、えらくスリムになっていた。二週間で六キロ減らしたと自慢するので、短期間に無茶なことをするとたしなめたが、面白いので、彼が実行したメニューをオランダ語の本からうつしてきた

 とある。で、その内容が以下。そのまま引用してみた。

 1日目
 朝 ブラックコーヒー(角砂糖1個)
 昼 硬ゆで卵2個・冷凍ほうれん草
 夜 ステーキ250g・サラダ(油・レモン)
 2日目
 朝 ブラックコーヒー(角砂糖1個)
 昼 ハム150g・プレーンヨーグルト
 夜 ステーキ250g・サラダ(油・レモン)・リンゴ1個
 3日目
 朝 ブラックコーヒー(角砂糖1個)・トースト1枚
 昼 セロリ1本・トマト1個・リンゴ1個
 夜 硬ゆで卵2個・ハム150g・サラダ(油・レモン)
 4日目
 朝 ブラックコーヒー(角砂糖1個)・トースト1枚
 昼 硬ゆで卵1個・にんじんおろし1本・グリエルチーズ100g
 夜 缶詰果物サラダ(半リットル・汁なし)・ヨーグルト
 5日目
 朝 にんじんおろし1本(レモン汁付き)
 昼 魚白身200g(バター・レモン)
 夜 ステーキ250g・サラダ(油・レモン)
 6日目
 朝 ブラックコーヒー(砂糖なし)・トースト1枚
 昼 硬ゆで卵2個・にんじんおろし1本
 夜 鶏肉200g・サラダ(油・レモン)
 7日目
 朝 ブラックコーヒー(砂糖なし)
 昼 なし
 夜 羊肉200g・リンゴ1個

 これを2回繰り返すそうである。ただ、2週目の第7日はやらずに、13日間で終わり。そして毎日水を2リットル以上飲むこと、だそうだ。酒も禁止である。ちなみに

 十三日以上は危険だから続けてはならないと書いてある。

 だそうである。その号のエッセイは、岩城宏之氏がこのダイエットをやってみて、見事72キロから65キロまで減らした話なのだが、ということはアングロサクソンでなくても効くメニューということだ。その様子は

 ステーキの日が多く、大丈夫かなと思ったのだがアラアラ不思議、二日目の朝、体重計を見たら、1.5キロ減っていた。以下連続して三日間1キロずつ少なくなり、このままいくとオレは無くなるんじゃないかと心配なくらいだった。<略>二週目の前半は体重がむしろ増加した。冗談ではない、こんなひもじい思いをしているのに。だが、最後の二日間で1キロずつ痩せ、昨日めでたく終了した。

 当時はこんな言葉はなかったと思うが、いま改めてこのメニューをみると、要するに「炭水化物抜きダイエット」である。タンパク質とビタミンの摂取にひたすらこだわっているようだ。日本人向けならば、豆腐が登場しそうだが、オランダ版だから大豆関係はいっさいなく、硬ゆで卵が頻繁に登場する。

 それにしても13日間で7キロ! とはすさまじい。こういう食生活はその後、普段の食生活に戻ったら、体重も戻りそうだが、そこのところは報告されていない。僕自身まだ試していないのだが、最近腹の出具合が気になっている。どこかで実行してみようかと思う。




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終着駅

2009年10月01日 | エッセイ・随筆・コラム

終着駅 宮脇俊三

2003年に宮脇俊三が亡くなったとき、もうこれで永遠に、氏の書いた文章で、未見のものに接することはないのだ、とひどく悲しくなった。これからは、今まで何度も読み返してきたものを、また再読していくしかないのだ、と思った。

宮脇俊三の著書に初めて出会ったのは小学生のときで、まだ意味のわからない語句や読めない漢字もいっぱいあったが、それでものめり込んで読み、それまで刊行されていたものはすべて買い集め、それからは新刊が出るのを常に心待ちにしていた。そして、何度も何度も読み返した。

晩年の作品はかなり枯れていて、往時のような天馬空を行く文章の妙は味わえなくなったが、それでも新刊が出るたびに買い続けていた。今でも一番気に入っている作品は初期から中期にかけてのものだが、一人の作家の全作品を、刊行とほぼリアルタイムで接してきた作家は宮脇俊三だけだった。


だから、本書を書店で見つけたときは、なんだこれは! と非常に驚いた。あちこちで書いた単行本未収録を寄せ集めたものだが、初出一覧をみると、初期から中期のまさに油がのって絶頂期の頃のものが集まっていた。

まさか宮脇俊三の未見の文章が読めるとはと、とにかく嬉しくて、最初の1ページをめくることさえもったいなくて、その1ページを何度も読み返した。こんなウブな読書も久しぶりだと思った。

夢中で読んで、1日で読み終えてしまった。また、喪失感が出た。帯に記されているように、今度こそ「最後の随筆集」だろう。本書のタイトルのごとく「終着駅」なのだった。


だが、最後に想像してなかった誤算があった。
巻末の解説に、氏の長女である宮脇灯子氏の寄稿があった。灯子氏は、「あの宮脇俊三の娘」ということで、ここ数年の間に、俊三氏のことや、俊三氏の意思を継いだ鉄道や旅行の著作あるいは寄稿を重ねており、もちろん彼女の著書は購入して読んでいた。ただ、率直に言わせてもらうと、文章力・観察眼・問題意識・教養その他で、父の超絶技巧的な冴えとはさすがに比べようもなく、「宮脇俊三の娘」でなければ、なかなか通用しなそうな面も散見された。

が、本書の解説文は、非常に完成度が高かった。シンプルだが気が効いていて、ちょっとした問題提起もあって、だが全体はさりげなくユーモラス、そう、俊三氏のDNAを垣間見た。
灯子氏の文章は、明らかに鍛えられ、成長していた。もっと読んでみたい、と思わせる文章だった。

宮脇俊三の作品は、本書で今度こそ本当の「終着駅」だ。だが、新しい線路が、その先に続こうとしていた。

まことに慶賀の至り。


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おじさんは白馬に乗って

2008年12月22日 | エッセイ・随筆・コラム
おじさんは白馬に乗って---高橋源一郎

 高橋源一郎は、間違いなく僕の好きな作家ベスト10の中に入るのだが、世間的にはどういう認知のされ方をしている人なのだろう。チャレンジャーな小説家か、競馬コメンテイターか、NHK教育とかBS2によく出てくる人か、新聞に憲法9条の寄稿をする人か、「蟹工船」ブームの火付け役か、室井佑月の元ダンナか、結婚と離婚を度重ねる火宅の人か、顔の長いおじさんか。

 僕はかつて東京都練馬区に住んでいた時期があって、当時そこに住んでいた高橋源一郎本人とたまに道ですれ違っていた。うわ! 本人だよ、と思ったが、声をかけることさえできなかった。だってこの人、道を歩きながらでも本(それもハードカバー)を読んでいるのである。
 その頃の日々を綴った日記型エッセイ「追憶の1989年」もまた、インパクトが大きかった。日記なのに、ところどころ書き手がかわり、日記なのに、ところどころ明らかにフィクションなのである。

 あれから幾星霜、最新の日常エッセイ集「おじさんは白馬に乗って」。なにが驚いたって、育児してるよ、あのゲンちゃんが。保育園に出迎えたり、アレルギーの除去食を考えたりしているよ。「さようなら、ギャングたち」で「ジョン・レノンVS火星人」で「惑星P-13の秘密 」で「ペンギン村に陽は落ちて」で「ゴーストバスターズ 」で「あ・ だ・る・と」で「日本文学盛衰史」で「君が代は千代に八千代に」で「性交と恋愛にまつわるいくつかの物語」で、もうすぐ還暦のゲンちゃんが2歳のコドモを連れてディズニーランドに行って、「パパ検定」の問題を説いているよ。3歳児のお世話に毎日翻弄される僕からは、いやもうご同慶の至り。

 高橋源一郎の作品を時系列で見てみると明らかに大きなテーマの変遷がある。初期のメタな作品群からはじまって、珍奇なSFファンタジーがぞろぞろ出てきたなと思ったら、突如アダルト三昧になり、そして今度は明治の文豪だらけになったと思いきや、妙に「愛」を描くようになってきた。いずれも通底には文学の未来を探し出そうとする悲劇的な叫びをいつも感じられてとても痛々しいのだけれど、次はもしかして「育児」じゃないかと期待しているのである。

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この世でいちばん大事な「カネ」の話

2008年12月12日 | エッセイ・随筆・コラム
この世でいちばん大事な「カネ」の話---西原理恵子

 「勝間本よりためになる!」が当初帯に入るコピーだったと聞いていたのだが、さすがにNGだったか。
 サイバラの「カネ」に関する執着と哲学は、観念というよりは多分に実体験に基づいたものであることは、これまでの彼女の作品からみてほぼ明らかだったわけだが、そのへんの「カネ」を主題にした自叙伝(口述筆記だとか)。ある意味「ぼくんち」+「女の子ものがたり」+「上京ものがたり」+「鳥頭紀行」でもある。

 ついに野望というか念願でもあった「毎日かあさん」アニメ化まで決定し、見事に「貧困」の「負のループ」から脱出した彼女なわけであるが、彼女が「負のループ」から抜け出たのは、もちろん本人の凄まじい努力があったに違いないが、「運」も味方した。彼女の言うように「貧困」「ギャンブル」「借金」「アルコール」「暴力」といった「負のループ」を加速させるこれらアイテムを断ち切ることは本人の意思に関らず本当に容易ではなく、「負のループ」から抜け出るということは一種の奇蹟であるくらいに、「貧困」というのは致死的な猛毒性を発揮する。カンボジアのスモーキー・マウンテンで日当200円のスクラップ拾いの労働をする少女(そして、その日の家族の食事代が200円)に、「彼女がごみの山から抜け出せる日は、たぶん、こない」と、透徹したコトバで閉められるこの重みは、「カネ」が社会に放つ暴力性の極北を語っている。
 逆に言えば、サイバラの生き方でまさしく鑑であるのは、「最下位ならではの戦い方」と自らを客観視したように、事故や事件をむしろ「負のループ」からの脱出の契機とさせる途方もないど根性を見せたところだろうと思う。「運」も味方した、と書いたが、事故や事件を「運」と見なして、味方にさせるこの大技こそが、彼女の最大の努力なのだろうと、深く頭が下がるのである。

 彼女は、そのど根性の源泉を「希望」と称している。

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柿の種

2008年05月12日 | エッセイ・随筆・コラム
柿の種---寺田寅彦---エッセイ

 いつのまにやら岩波文庫で再販されていた。
 以前「寺田寅彦は忘れた頃にやってくる」という新書を紹介したが、明治から昭和にかけて生きた寺田寅彦の視点は本当に面白いのである。また、彼のエッセイから、存外、当時も、平成20年の今も、人の営みというのはあんまり変わらないものなのだな、と思う。

 たとえばこんなだ。

○三原山の投身者の記事が今日新聞紙上に跡を絶たない。よく聞いてみると、浅間山にもかなり多数の投身者があるそうであるが、このほうは新聞に出ない。ジャーナリズムという現象の一例である。

企業不祥事の内部告発なんてのは年から年中行われていて、それを報道として載せるかどうか判断して選んでいるのだ。やたらに食品偽装事件が華やかだが、食品偽装の内部告発なんて実は昔からあった。単にメディアが相手にしなかっただけだ。そして最近はめったに報道されないが、今だって頻繁に「サムターン回し」の被害はあるし、頻繁に「オレオレ詐欺」も行われているのである。


○子供の時分に漢籍など読むとき、よく意味のわからない箇所にしるしをつけておくために「不審紙(ふしんがみ)」というものを貼り付けて、あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞(しおり)とした。
 短冊形(たんざくがた)に切った朱唐紙(とうし)の小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、右の拇指の爪(つめ)の上端に近い部分に移し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤(のみ)をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。この小紙片がすなわち不審紙である。不審の箇所をマークする紙片の意味である。

 これ、ポストイットだよなあ。ポストイットは、米国の会社3Mがテープの「失敗品」をコロンブスの卵のアイデアで商品化して大ヒットしたものだ。


○新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある。

 ビンテージものですか。


○元素の名前に「桐壺(きりつぼ)」「箒木(ははきぎ)」などというのをつけてひとりで喜んでいる変わった男も若干はあってもおもしろいではないかと思うことがある。しかしもしそんなのがあったらさぞや大学教授たちに怒られることであろう。

 いや、ぜったいいるって。

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