園芸家12カ月
著:カレル・チャペック 訳:小松太郎
僕は原則として3回出会った本は読むことにしている。
これはいわゆるシグナル効果というやつで、2回目は偶然でも、3回出会ったならばなんらかしら自分の関心領域に関係ある可能性が高い。もちろん本に限らず、映画でも旅行先でも効果は同じである。
さて、「園芸家12ヶ月」は、父の書棚にあった(父はべつに園芸家ではない)。僕が父の書棚にどのような本があるのか関心を持つようになったのは中学生くらいだっただろうか。これが最初の出会いである。とはいえ、手にとって開くようなことはせず、へえそういうタイトルの本があるのかと思っただけである。
やがて高校生の頃だったかに鉄道旅行作家の宮脇俊三氏のデビュー作「時刻表20000キロ」を読んだ。この作品は日本国内に張り巡らされた国鉄(今のJR)の完全踏破を目指す旅行記だが、すべての鉄道に乗り終わったあと、最後に「園芸家12ヶ月」の引用で結んでいる。したがって、これが2回目である。(なお、宮脇俊三には「汽車旅12ヵ月」というまさに園芸家12ヵ月に倣った作品もある。)
その後、「園芸家12ヵ月」は2回出くわしたリーチ状態のまま10何年が経過した。なお、著者のカレル・チャペックという名は、いつのまにか、いわゆるロボットという言葉をつくった人として聞いてはいたが、それ以上のことは知らなかった。
さて先日、ある講演を聞いたときに、「園芸家12ヵ月」が出てきた。これも園芸とは関係がない講演で、とある著名なコピーライターが読んでいた本、ということで紹介されたものである。(残念ながらコピーライターの名前のほうを失念。その業界では名人級とのこと)。
おお、あの「園芸家12ヵ月」かと、父の書棚と、「時刻表20000キロ」の最後の部分を思い出し、「3回目だ」と思ってすぐに買いにいった次第である。
で、その「園芸家12ヵ月」。僕自身は庭いじりもガーデニング趣味もない人間で、だけれどマニアの生態というのは古今東西おんなじだなと思う。
しかし、本書のだいご味はひとつはこのような園芸家あるあるの描写だろうが、もうひとつは作家やコピーライターも着目するその文章だろう。ということは原文自身ももちろんだが、訳者の小松太郎氏もそうとういい仕事をしている。
よくよく読んでいると、ものすごく細かいところまで観察していて神は細部に宿るがごとくなのだけれど、実は植物自身のトリビアにはほとんど割いていない。まったくないといってよい。植物の名前だけは次々出てくるが、どうもそれも確信犯っぽくて、そのひとつひとつの名前を知って覚える必要はまったくない。この花のどの部分がどんなふうにできている、とか、この苗を植えるにはどこにどう気をつけてこのようにやる、みたいなところを追いかけていない。あくまで描写しているのは、そういう園芸に汲々している人の姿である。
「園芸家12ヵ月」は、タイトルのごとく、「園芸」ではなく、「園芸家」を描いているのだ。
だから、ここに「園芸家」という人間と、「植物」があるとすれば、このエッセイが描いているのは、園芸家という人間自身、それからその園芸家が植物や土に触れているまさにその接触部分の感触(身体感覚といっていいか)である。「植物」そのものはほとんど描かない。
言わば園芸にたずさわる人間の心の動きがこのエッセイの主題なのである。
また、この「心の動き」を描く姿勢が小気味よい。たいしたことしてませんが、ということを自覚しながらも卑下せず、かといってこれの価値がわからないあんたバカじゃないの的尊大さもない。いわばオトナの余裕というか、紳士然とした態度がある。そこには絶対的自信のようなプライドがみえる。
作家やコピーライターが、この作品に惹かれるのは、植物の知識のひけらかしでも園芸の指南書でも内向的な趣味の独白でもなく、12か月の季節のうつりかわりの中で園芸にふれることの機敏と肌感を、シンプルに品よく描いたこの姿勢にあるのだろうと思う。
読んで良かった。3回出会ったものは読む、は有効である。