人類学者と言語学者が森に入って考えたこと
奥野克己
伊藤雄馬
教育評論社
僕が文化人類学の本(といっても入門書)を読む理由は、観察対象を知るためというよりは、僕自身をとりまく生活環境の閉塞感の打破のためであることが多い。日々の生活において約束事や決まり事で忙殺されているうちに、価値観がどんどん狭窄的になる。知らず知らずにストレスが溜まっていく。
そんなときに、自分とまったく違う世界において、まったく違う価値観と生活様式で生きる彼らを知ることで、自分自身がとるにたらないことにとらわれていたのだ、と気づくことができる。これは精神衛生上まことによい。文化人類学の本を読むことは、僕にとって詩集よりも写真集よりも癒されるのである。このことは「文化人類学の思考法 」のところでも書いた。
ということを、もう少し本気でディープに語っているのが本書である。ボルネオ島のプナンの民を調べる人類学者の奥野克己氏と、ラオスの少数狩猟民族ムラブリを調べる言語学者の伊藤雄馬氏の対談と寄稿で構成された本だ。社会人類学者のティム・インゴルドやインフルエンサーのプロ奢ラレヤーなども引き合いに出していきながら、プナンやムラブリの生活のありようから、日本社会として何が学べるかを議論している。本書ではそれを「すり鉢状の世界の外で生きる」と表現している。我々の日常はすり鉢の中の世界で、あたかもそれが全てのように生きているが、実はその外にも世界があるという見立てだ。プナンやムラブリはすり鉢の外である。
両者が行う議論の内容は難解なものもあるが、根本的には絵本作家ヨシタケシンスケの名言「それしかないわけないでしょう」という観点だ。科学的に真実はひとつでそれ以外は間違い、というものの見方に対し、いやいやA だってBだってありえるのだ、と発想する。「科学的に真実はひとつ」というものの見方自体が生き方の選択肢の一つである、ということである。「幽霊が見える」という人に対して、幽霊が見えるわけないじゃないか、何かを幽霊ということにしているのだ、というメタな話に収めるのではなく、彼らには幽霊が見えるのだ、ということをそのまま受容するのである。幽霊が見える世界観の中を彼らは生きている。そこから、幽霊が見えない我々は彼らから何を学ぶことができるかを考える。西洋論理学の基本である弁証法に似てなくもないし、いったん断定を保留するエポゲーのようでもある。哲学的態度による試みと言えよう。
本書の白眉と言えそうなのが、伊藤氏が語る、インゴルドの引用をさらに発展させたofからwith、そしてasへという話だ。
つまり、かつて文化人類学は、対象をあくまで距離を保ちながら観察していた。安全な場所から一部分だけをクローズアップしてみていたのである。それは対象のofを見ていたことになる。博物学や物見遊山を出ていない。インゴルドは、そうではなくて、観察対象とはwithでなければならない、とした。一緒に生活して一緒に食べて一緒にものを見て、はじめてそこで観察対象のことがわかる。参与観察とかフィールドワークとか今では当たり前になったが、そのココロは他者から学ぶということだ。文化人類学は観察の学問ではなく、我々がどう生きるべきかの取り入れる学問になったのである。
伊藤氏は、さらにas、「…として」の境地を目指す。withいうところの「一緒に」というのはまだ対象に没入していない。日本人のままである。日本人がムラブリと一緒にいるのではなくて、ムラブリとして生きてみる。日本人がムラブリになれるわけないじゃないか、に対して「それしかないわけないでしょう」。本人がasになりきれている、と言うならば、多自然主義ならばそれもありなのだ。それどころか、本人がムラブリにasならば、その活動場所はもはやラオスでなくてもよい。日本でもよいのだ。その境地に達した伊藤氏はラオスへの渡航を中止してしまった。
このof、with、asは、自分と対象の距離と重なり具合そのものであろう。ofは離れており、withは部分的につながっており、asは完全に対象の中に自分が入り込んでしまっているわけだ。こうなると完全に身体感覚である。むしろ頭で考えて理解しようとしている限りでは、本当に取り込んで対象から学びや糧を得ることはできない、ということでもある。本書では第2言語習得論というのが出てくる。「モニター仮説」というのがあって、それによると言語を覚える際には習得(無意識)と学習(意識)があるそうだ。習得されたシステムが発話の生成を行い、学習された知識はその発話が正しいかどうかをモニターする、という仕組みである。モニター機能が強すぎると、正しさの追求のあまりに発話ができなくなる。日本人の外国語苦手な習性はここにきているのかもしれない。少なくとも僕自身にはすごく思い当たる仮説である。出川イングリッシュは習得がずば抜けているということだろう。
しかし、これもof、with、asという概念が援用できる。ofに留まる限り、あるいはwithであったとしてもそれは正しさを追求する「学習」的態度を免れない。しかし、本当に身に付けるにはasによる習得ということになるのだろう。
伊藤氏によれば、asでいるためには単にムラブリの言語に興味を持つのではなく、彼らの会話の中身や生活そのものに興味を持たなければならない。この時点でもはや「言語学者」を逸脱する。対象を無限抱擁するasになることことそ、我々の日常生活ーーすりばちの中の生活から、外に出でる道なのだろう。