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読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

滝山コミューン一九七四

2010年09月16日 | 東京論
 滝山コミューン一九七四

 原武史


 読後、頭から布団かぶってしばらく寝込みたくなった。会社あるからできなかったけど。

 なんていうか、これオレのこと? というくらい著者のプロフィールにシンクロするのである。固有名詞だけ適時入れ替えたけど、実はこれ書いたのオレです、といって自分を知る人に見せたらかなり通用するのではないか、というくらいなのだ。西武鉄道沿線の郊外のマンモス団地に住み、あふれかえる児童をプレハブ校舎で対応する新興の小学校に通い、教師からも教室からも児童活動からもなんとなく浮いてしまい、当時はまだたいへん珍しかった私立中学の受験を行い、そのために電車を乗り継いで進学塾に通い、ついでに鉄道好きの少年… もう気持ち悪さを通り過ぎて思わず吐き気がしてしまったほど、ここで描かれる小学生時代の著者と、小学生時代の自分が重なるのである。
 もちろんここに出てくる著者の言動に共感しまくりである。

 だから、断言してしまうのだが、この「滝山コミューン一九七四」は、著者である原武史の「私小説」なのである。社会派私小説といってもよい。講談社ノンフィクション賞を受賞しており、著者の肩書は歴史学者であることから、70年代後半の日教組によって行われた小学校教育の姿を取材や研究を通じて扱ったノンフィクションととらわれがちだが、本書の批判でわりとみかける「取材範囲が限定的」「主観的解釈がかなり入っている」「私経験の範囲を普遍的な問題であるかのように語っている」「取材対象者へのツッコミが足りない」という類のものは、すべてこれを公正中立なノンフィクションもの、として観るからなのである。

 だが、執筆の動機も、本書のねらいも、また本書を特徴ならしめているものも、きわめて私的な領域に根ざしたものだ。もちろん、ねつ造や虚構は扱ってないはずだが、私的価値観に根ざしている以上、その描写や興味の対象が意識無意識含めて、濃淡が出るのはしょうがない。

 本書は、西武新宿線沿線に昭和40年代後半に出現した滝山団地という公団のマンモス団地に引っ越してきた小学5年生の原武史少年が、この団地造成にあたって開校した小学校での卒業までの特異な経験がもとになっている。著者は5年2組だったが、5年5組に新卒の若い教員が赴任してくる。この教員が日教組、正確にいうと日教組の自主組織のひとつ、全国生活指導研究協議会、通称「全生研」のイデオロギー実現に万進する人物だったのだ。この教員にはそれを実践するだけの人望と実力があったようである。
 この「全生研」は「学級集団づくり」という、全体集団主義を理想の教育の姿として掲げていた。
 「学級集団づくり」というのは、少数の優秀な人間の輩出よりは、全員がおちこぼれないことを優先とする。そのこと自体はセーフティネットが行きとどいていていいように見えるが、これは「人より優秀になりたい」という存在を許さないことになる。つまり、学校の授業が遅い(文部省の指導基準より遅い)からといって、塾に行ったりすると「場を乱す者」とみなされる。つまり、「おちこぼれをなくす」というよりは「ぬけがけを許さない」仕組みとして作用する。個人の成果よりは集団の成果を重んじるので、個人技よりは集団技が尊ばれ、とにもかくにも「みんなで力を合わせて何かを成し遂げる」史上主義となる。
 そう。要するに旧ソ連型の共同体づくりが根底思想にあるのである。当時はまだ冷戦時代であった。
 本書では、児童、先生たち、それにPTAまでもが、この集団主義に「染まっていく」様子が描かれている。最初はひとつのクラスだけで始まったものがやがて学年全体にウィルスのようにか浸透していく様は、これはもうホラーの世界といってよい。

 著者は、この集団主義に毒されなかった。本能的に忌避したか、どうしても体質的になじめなかったか。だが、全体集団主義において異端は排除される。少年だった著者は孤立化していく。それどころか小学生にあるまじき「仕打ち」までも公然と受ける。著者の中で、この小学校時代は疑いようのないトラウマとして原体験になっている。
 したがって、本書はそういう「扱い」を受けた著者の30年ごしの告発と復讐の書なのである。
 だが、これを単なる私語りに堕しなかったところが、歴史学者としての著者の真骨頂である。「日記」という「一次資料」をもとに記憶を起こし、当時の関係者――当時の児童や先生を探し当ててインタビューを行い、当時刊行されていた指導教科書や機関紙を詳らかに研究して引用し、偶然同級生にいた「難関私立中学に合格した優秀な児童」の母親が書いた中学受験奮戦記(要するにお受験ママの自慢記録)まで発掘して引き合いにだし、自分の書いた作文を棚卸し、「主観的な味わい」で片付けられがちの辛い小学校体験が、いかに「客観的なソーシャルイシュー」であったかを構築していく。さらに当時の時代背景や、郊外団地が持つ特殊性をそこに絡めて社会学的見地まで踏まえていく。この手腕の見事さというか、執念もここまで実践できれば立派というか、これはこれで「ペンの暴力」なのでは?というか、とにかくそういう本なのである。

 だから、本書はノンフィクションではあるが、実は読者を選ぶ。
 簡単にいうと「小学校時代は毎日楽しかった人」「日教組が元気だったころの小学校時代を経験したことがない人」「私立の中学受験なんて言語道断だ」と思っている人にはピンとこないであろう。また、「鉄道なんかまったく興味がない人」「西東京方面に土地勘がない人」も、共感を得にくい内容だろうと思う。
 小学校時代、集団行動が嫌いで苦手だった人、修学旅行や林間学校が面白くなかった人、教師から「かわいくない子供に見えただろう」という自覚がある人、「みんなで力をあわせてガンバロー」型のイデオロギーにうそくささを感じる人、班づくりやグループづくりであぶれやすかった人、マスゲームみたいなものにしぶしぶ参加していた人、優秀作とされる読書感想文に欺瞞を感じていた人、なんかは本書に何か感じるところがあると思う。(もちろん僕はすべてあてはまる)

 一方で著者は私立中学受験のために毎週日曜日に都心の進学塾「四谷大塚」に通っている。ここでの描写は、狭いコミュニティからの脱出と開放が現れている。こういった複数の足場を持つことが閉塞感の打破として大きく有効なのは教育心理的にもよく知られており、著者もこのことが精神の均衡を保ったと自覚している。そして最終的に著者はこの私立中学受験と合格によって「栄光への脱出」を果たす。
 もうひとつの著者の心の安寧は「鉄道」である。鉄道少年だった著者は、鉄道に触れているとき、ささくれた心が癒されている。こういった原体験がその後の著者の人生や進路に影響を与えていく。

 つまり本書は、全生研に支配された小学校において、それに「染まらなかった」少年の抵抗と挫折と逃避を、進学塾通いと鉄道への思い出とともにえがいた自己形成の私小説なのである。

 このことを逆側から示しているのが、その信任の先生によって「染まった」はずの児童達の記憶である。
 同窓会での記憶やその後のインタビューでは、こういったイデオロギーに気付き、人知れず苦しんだ人もいるにはいるが、大多数は「よく覚えていない」のであった。それどころか、未だにその教員と定期的に集まっているのである。つまり、この学校や学校の卒業生、あるいは地域が、こういった集団主義の導入の結果、最終的になにか取り返しのつかない破綻をもたらしたかというと、決してそんなことはないのである。あくまで著者個人がいわれなき辛い思いを味わったというのが本書だ。同じ思いをした人が全国に実はたくさんいた、と暴いているわけでもない。
 まあ現実、小学生なんてこんなもんであろう。情報過多な現代ならともかく、70年代の小学生であれば、そこまで自分を客体視できた人はかなり少ないはずで、渦中にいる大多数の人はそれを普通と思って茫漠となんとなく適時対応してしまい、結果として楽しい小学校生活だった、という人だって大勢いるのも一方の事実である。そんな環境に対応できないわずかな「不器用」な人だけが、違和感と疎外感を持ったまま、しかし学校現場が持つ権力性には逆らえず、「あれはなんだったのか」というような原体験となり、そことは違う別の世界へむかうことを自覚する。


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趣都の誕生 萌える都市アキハバラ(文庫本増補版)

2008年12月09日 | 東京論
趣都の誕生 萌える都市アキハバラ(文庫本増補版) ---森川 嘉一郎

 5年前に本書が単行本で初出されたときは、ちょっとした話題となった。都市記号学と文化社会学を巧みに組み合わせた秋葉原論は、ありがちなサブカル論やニューアカに堕さない鮮度と説得力があった。
 あれから5年。アキバも変化があった。秋葉原クロスフィールドの完成やヨドバシカメラの進出やつくばエキスプレスといった官民の逆襲(?)、電車男とメイド喫茶というマスコミの褒め殺し(??)、そして秋葉原通り魔事件。
 が、その後の秋葉原をめぐる諸事情を新章で補填したこの増補版、驚くべきことに、5年前に書かれた本編部分さえ説得力にまったく衰えがない。それどころかより確信度が高まったかのようでさえある。本書初出以降、著者は秋葉原やオタクについて発言する機会が多くなったため、本書における提言の新鮮度においては、その分を割り引かなくてはいけないが、それでも慧眼に満ちている。

 つまり、表象的な、あるいは社会風俗的な揺れ動きはありつつも、2000年代あたりからゆったりとおこっている東京という都市像の変容と、その先鋭としての秋葉原の姿は、いみじくも本書が予言していたように日本全体が持つ「未来の喪失」そのものの不可避的な動態とさえ言えるのかもしれない。結局、行政がロアビルその他を画策しようと、ヨドバシカメラが巨艦店を繰り出そうと、マスコミが面白おかしくネタを求めようと、実は、それさえもが秋葉原がもともと持つ求心力の成せる技だったりもする。秋葉原に向かわせるその原動力が「未来の喪失」であるならば、実は官公行政も家電流通も、マスコミも、本質的には衰退してきており、彼らの「未来の喪失」が知らず知らずに秋葉原の磁場に引き寄せられているに他ならない。組織として未来像をつくりあげる意思や行動力や経済性があるならば、官公庁や家電流通やマスコミは、必ずしも(中長期的に社会に福利厚生を還元するという観点からは効率的・合理的とも思われにくい)秋葉原に引き寄せられはしないはずなのである。

 だから、秋葉原が趣都化することは、時代の黄昏そのもののシグナルであるかもしれず、秋葉原の繁栄とは、ソドムの街のごとく、時代の爛熟と退廃の香りさえ感じさせる。官から民へ。そして個へ、さらには「非社会」へと行き着いた街の原動力は次はどこに行くのか。「神」への大逆流か、それとも、「個」のさらなる分裂へと向かうのか。

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 ところで、本書の特筆すべきは語り口のうまさである。プレゼンテーション能力、あるいは文章力の卓抜さが上げられる。パワーポイントのスライドのような、巻頭カラー口絵は、初出の単行本のときも目を見張ったわけだが、本文の切れ味も大言壮語っぽいところ含めて実に巧い。

「趣味というのは、文化的権威に対してどのような態度をとるのかによっておおまかに定義できる」
「大学の講堂の描き方は他の多くのラブコメにおいても認められる特別なもので、偏差値のヒエラルキーが都市風景の均質化に抗して、東京にいくつかの例外的に祝福された場所を、90年代以降も残存せしめていた希な事例としてみることができよう」
「(大阪万博に携わった著名人の名前をずらりと並べて)まさにきら星のごときメンバーが勢ぞろいしていたのである。しかしそれは、大衆に対する前衛の敗北を証す葬列でもあった」

 すごい書き方するなあ。

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東京23区物語

2008年11月17日 | 東京論
 東京23区物語(新・東京23区物語)---泉麻人

 2001年に刊行された「新・東京23区物語」もいまや絶版である。この手の本の宿命とはいえ、是非とも六本木や丸の内の再開発、副都心線開通以降の「新新・東京23区物語」の執筆を願っている。(ソフトバンク新書が創刊されたとき、刊行予定のラインナップの中に「泉麻人『東京の歩きかた』」というのがあって、楽しみにしていたのだが、いつのまにかリストから消えた)

 話が前後するが、「新・東京23区物語」は、タイトルのように「東京23区物語」の改訂版である。
 「東京23区物語」は1985年、つまり昭和60年という、これからバブルが始まるような空気の中で書かれた。この本は東京の社会風俗を23区別に表したエッセイとして異色かつ出色だったわけだけれど、刊行後しばらくして、著者いうところの「その間にバブルは崩壊、お台場タウンが出現し、女子高生の顔色が変わり、大江戸線が開通し、スターバックスが大量発生」してしまったために、全面的に書き直された。それが「新・東京23区物語」である。

 僕は、この「新・東京23区物語」の方を読んできたのだが、その底本となる「東京23区物語」のほうはとっくに絶版ということで幻だった。ところが先日、古本屋店頭のエサ箱から偶然発見し、50円で入手したのであった。

 今から20年前の東京の光景ということで、いまや資料的価値しかなさそうに思われた「東京23区物語」だが、読んでみてなかなか興味深かった。そして、一筋縄ではいかない、人間の本性を見た気がする。

 「東京23区物語」のテーマを通底しているのは、地域差別感情である。それは「千代田区や港区が、江東区や豊島区を」、「江東区や豊島区が、足立区や練馬区を」、というだけではなく、「新宿区の落合に住む人が同じ新宿区の百人町を」、「中央区の築地に住む人が同じ中央区の月島を」という感情である。
 誤解があってはいけないので強調しておくと、決して問題的な深刻さではなく、単なる味方身びいきの範疇であることが多い(爺さんあたりがインタビューなんかで自慢げに答えるあっちはニセモノ、こっちがホンモノみたいな)のだが、いずれにせよ、こういった感情はどちらかといえばプリミティブなもの、前近代的なものということで蓋をされ、時代は平成バブルに突入した。地上げの嵐が吹き上げ、マンションが林立し、大学は郊外に移転し、酒屋や雑貨屋はコンビニ・フランチャイズに組みなおされ、そしてバブルが崩壊した。地元っ子も世代交代し、学区規制も緩やかになり、建物も交通機関も変化し、場所を問わず携帯電話が使えるようになって、よくも悪くも均質化した結果、こういった地域差別感情は一見薄まった。「新・東京23区物語」はこういったリストラクチャリング状態の東京の光景が書かれた。一言で表せば、それは異文化の交流と衝突から生まれたニューカルチャーの東京の姿だった。

 だが、この本のもう一つの宿命的な限界は、当たり前だが「東京23区在住経験者でないとまったく面白くない」ということだ。実は本書の存在自体が「東京スタンダード」とでもいうべき差別の上に成り立っていたこともまた確かなのである。
 つまりなるほど「東京23区物語」時代から「新・東京23区物語」の変遷の中で、23区内の差別感情はだいぶ薄らいだ(差別の根拠となる要因がなくなってきたと言ってもよい)ものの、この手の企画を持つ本や雑誌が増える一方であることは、今日「東京スタンダード」はますます強化されてきているとも言えるのである。

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トーキョー博物誌東京動物観察帳

2008年10月27日 | 東京論
トーキョー博物誌東京動物観察帳 1 ---日高トモキチ

 僕の妻はなんだか道端の花や植物や鳥にめっぽう詳しい。軒先のエンゼルトランペットが満開だ、路端のタチアオイがそろそろ咲きそうだ、このアカザは食べられそう、ムクドリが騒いでいる、カケスが横切った、などと固有名詞を出してくる。こちらはすべて同じような花や虫や鳥にしか見えていなかったものだけに、なんだか自分がとてもつまらない無粋な人間に思えてくる。
 それどころか、葉っぱの裏側に潜んでいるアゲハの幼虫とか、落ち葉に潜む小さいツチガエルのような、普通ならば見過ごしてしまうようなものも道すがら器用に見つけてしまい、お前はナウシカか、とつっこみたくなる。なんとなく視界に入ってくるらしい。
 ただ花だ鳥だ虫だと認識するよりも、妻やこの著者のようにひとつひとつの違いを知れば、日常の風景がはるかに多彩で楽しい世界に見えることには違いない。

 この「トーキョー博物誌東京動物観察帳」は、そういう首都圏での普段の生活の範囲で接する様々な動植物を取り上げている(ついでにギャグのネタがかなりサブカルなのが特徴。個人的には大笑い)。かなり細かい観察ながら、トリビア雑学に堕さずにうまく情緒におさまっていて好感度が高い。文理の垣根を越えた引用だけでなく、ひとつひとつのコトバやカットに吟味のあとが見られ、実は野心作とさえ伺うことができる。

それにしてもよく野外のフェンスなんかに絡まっている野生の朝顔って、あれ外来種だったんだ。初めて知った(ユウガオとヨルガオはまったく違うというのも初めて知った)。

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帝都東京・隠された地下網の秘密

2008年05月30日 | 東京論
帝都東京・隠された地下網の秘密---秋庭俊---単行本

何気なくテレビを見ていたら、秋庭俊が東京の地下の謎を語っていた。東京の地下の不可解な空間を扱ったコーナーで、秋庭俊はこの手の話の第一人者(というか彼しかいないと思うのだが)で、「帝都東京・隠された地下網の秘密」とその姉妹本は、一時期そうとう話題になった(たぶん東京だけだと思うが)。

テレビで取り扱われて、なんだか再読したくなって、ちょこっとつまみ食いする。

戦前の帝都東京には民に知らされていない地下鉄網があったのだ、ということを物証やデータをとりそろえて推理する。大江戸線があんなに深いのも、中央区港区の郵便局に地下2Fが多いのも、溜池山王駅の動線があんなに回りくどいのも、みんな理由があるそうな。
世紀の大暴露本か、荒唐無稽のトンデモ本かはさておいて、妄想爆想が炸裂すること間違いなしのこの本、かの島田荘司がそれに刺激されて「帝都衛星軌道」という推理小説を書いたという折り紙つきの近年まれに見るオモシロ本であった。個人的な感覚ではこういう話はたいがいまったくゼロというのはなくて、でも真実100%ということもない気がする。少なくとも20%くらいは真実が入ってそうだ。そういう意味でたんなる妄想本で片付けるには惜しい力作であるのは確かなのだが、いかんせん文章が酷すぎた。たいへんな悪文というか、担当編集者ももう少しどうにかできなかったのだろうか。これがたいへん損をしていると思う。


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