読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

唯幻論大全

2013年04月19日 | 哲学・宗教・思想
唯幻論大全

岸田秀

岸田秀の「ものぐさ精神分析」を初めて読んだのは大学生のときだった。
人間の本能は壊れておりすべては幻想である、という「唯幻論」に完全にノックアウトされた。
僕のなんとなくなんでも遠巻感覚でモノをみてしまう性癖の原因はこの本にあるのかもしれない。

この「ものぐさ精神分析」は80年代にたいへん話題になったもので、岸田秀はこれでスターダムになり、彼自身言うように、以後の彼の著作はすべてこの「ものぐさ精神分析」の焼き直しであって、彼はこの一冊で人生をモノにしたようなものである。

そんな彼の「唯幻論」の集大成みたいな分厚い本が出たので、懐かしくて買ってみた。
学生時代は、そのすさまじい切れ味に心酔した唯幻論も、この年になって読めば、牽強付会というかトンデモ本と紙一重なところが気になる部分もあるが(とくに「セックス論」は飛ばしすぎかと)、一方で「このすべては幻想である」の耐久性と汎用性というか、そのなかなかの防御力をみると、本当に岸田秀はうまい概念に到達したもんだなと改めて感心もする。

岸田秀の唯幻論は、精神分析をうたってはいても、現代思想とか哲学に近い範疇のもので、したがって岸田秀を精神分析博士や心理学者のようにとらえてはいけない。じつは現代医学としての精神分析は完全にオカルト分野扱いなのである。岸田秀自身は自らを売文業と称し、学会にも属さず、和光大学の教授を続けてきたわけだが、この孤高のありかたが、結果的に精神分析の衰退とは関係せずに、異質の現代思想家として彼のブランドを守り続けたようにも思う。

そんな岸田秀もなんと80才というから驚きだ。そんな年になってなお、亡き継母をクソミソにやっつけている。彼が継母を赦す日はたぶんないのだろうが、もし赦せば、それこそ「幻」が「幻」になってしまうのだろう。



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森林の思考・砂漠の思考

2012年12月14日 | 哲学・宗教・思想
森林の思考・砂漠の思考
鈴木秀夫
 
與那覇潤・池田信夫の対談本「日本史の終わり」を読んだ。
底本は與那覇潤の「中国化する日本」で、この本はなかなかセンセーショナルで面白かった。挑戦的なタイトルと挑発的な文章ではあったが、日本の足かせになっているものを「江戸時代への憧憬」と看破し、多くがなんとなく思っている日本人の美徳や伝統的美意識、精神土壌こそがガラパゴス化の原因と突き放した。
こういった日本人の限界みたいなものに我が意を得たと思ったに違いない経済ブロガーの池田信夫との対談によるものがこの「日本史の終わり」。とはいえ、読後感としてはとくに「中国化する日本」を更新するものではなかったのだが、池田信夫氏が丸山眞男やら網野善彦やら梅棹忠夫やら山本七平やら中根千枝やらの重鎮を引用してきたりして、より様々な角度から、日本人論を概説していく。
いずれにせよ、「日本史の終わり」では「だから日本人はダメなんだ」という結論にどうしてもなっていくのだが、日本人は日本人論が好きなんだな、と思う。自虐史観ならぬ自虐民観もあるような気もする。
 
僕が、わりと腑におちてしかも気に行っている日本人論に鈴木秀夫の「森林の思考・砂漠の思考」がある。
松岡正剛の「17歳のための世界と日本の見方」で紹介されていて興味を持ったのだが、どうしてなかなか愉快な本であった。
著者自身整理しきれなくて記述に混乱があったり、それを言い訳したり、一冊のボリュームに満たなくて違う話を無理やりつなげていたりなかなか破格なのだが、「森林の思考・砂漠の思考」そのものは大胆でありながら、梅棹忠夫の「文明の生態史観」に匹敵する骨太なワールドモデルの設定である。
「森林の思考・砂漠の思考」がどういうものかは、「17歳のための世界と日本の見方」のところであらかた書いてしまったが、あらためていうと、多神教のメンタリティが森林の思考、一神教のメンタリティが砂漠の思考、である。もちろん日本が前者であり、後者は欧米である。(一覧化すると以下のようになる。
 
 
森林の思考
物事    物事は繰り返す(万物流転)
目線    等身大の視点(自分から見える世界しか大事ではない)
探求    真理は何かを重視する(物事は証明できる)
情報処理 全部にあたって吟味(中選挙区・すり合わせ)
考察    ミクロ的(分析に優れる)
判断    保留ができる(わからない、と言える)
仕事    完璧主義(時間がかかっても完成にこだわる)
宗教    多神教
 
砂漠の思考
物事    一回しかおこらない(天地創造と終末)
目線    鳥の視点(自分が見えない世界もどうなっているかを想像する)
探求    自分はどう感じたかが重要(証明なんてホントはできない)
情報処理 当座の情報で即座に判断(小選挙区・ゼロサム)
考察    マクロ的(大局観に優れる)
判断    無理にでも何か判断する(わからない、と言わない)
仕事    走りながら考える(だいたい合ってればよい)
宗教    一神教
 
こういった思考本能が何で生まれたかというと、それが森林と砂漠なのである。
中近東の三日月地帯に端を発する人種は地平線まで見える自然環境の厳しい乾燥地帯で生活をしていたため、常に生死に関わる判断を求められてきた。
ここで求められるのはスピードと的確さである。水があるのは右か左か。食物があるのは南か北かを、その場の状況と情報で判断しなければならない。間違った方角へいったときはすなわち死を意味する。
こういった原体験を持つ人種はおのずと、砂漠の思考パターンを本能的に持つようになる。これが正解はひとつ、あとは全部間違いという一神教の母体となる。
一方、インドから南アジア付近に端を発した人種(もともとは西から来た人種になるが)は、森林を生活環境とした。
まず森林はうっそうとしていて見通しが非常に悪い。おのずと世界は、自分から見える範囲だけになる。
また、森林は右へ行けば実りの木があり、左へ行けば滝があり、北へ行けば動物がいて、南へ行けば草地がある、というようにオプションが多様であり、どれも少しずつ恩恵がある。多神教の母体である。
また、草木は地面から生まれて成長し、開花し、やがては枯れるが、また新たな芽吹きがある。
こういった原初体験から万物流転といった概念も身につく。
 
 
さまざまな日本人論の中で、僕がとくに気に行っているのは、だからどちらがいいとか悪いという話ではないところである。日本人がダメだとも特別だとも言わない。
森林的思考も砂漠的思考も一長一短ある。
スパッと取捨を決めてしまう小選挙区制も、少しずつみんなの言い分聞きながら答えを探す中選挙区制もそれなりに意味があるように思える。
危機意識が高いのは砂漠的思考なのは確かだが、目下の日本人論は、だから日本人は危機意識に乏しくてダメなんだ、という話だから、危機意識がないかわりに、森林の思考には精神的には安定である、砂漠的思考は慢性ストレスの社会とだって言えるのである。
逆に、森林にとっての最大の危機とは多様性を失うことだろう。リソース不足の先には死しかない。
実はグローバルスタンダードは、多様性を喪失させて画一化にむかう力学がある。最終的に均衡になっときは一人の勝者と多数の敗者でもある。
多様性を維持している限り、簡単には敗北しない。そういう意味では簡単に一方を切り捨てないところが森林的思考で、「日本史の終わり」では、それこそが失敗の本質である、とまあこう言っているわけだが、ゼロサムを続けると絶対に多様にはならない。捨てる神あれば拾う神ある多神教のメンタリティも大事にしたいなあと思うのである。実はそういうメンタリティは、本当に時代が揺さぶられた時、意外にもしぶとく生き残る気がするのである。
 
 

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梅棹忠夫語る 聞き手 小山修三

2010年10月30日 | 哲学・宗教・思想
 梅棹忠夫語る 聞き手 小山修三

 語り手 梅棹忠夫
 聞き手 小山修三

 カテゴリーにこまったが、なんとなく的をえているのではないかともおもう。
 彼のものの考えかた、ことばの選びかた、あるいは生きかたの全貌というのは、はっきりいって巨山すぎるのであって本書一冊でどうわかるというものでもなく、また本書の立場も大家然となった晩年の梅棹忠夫の放談の域をでないといえばそれまでなのだが、にもかかわらず、随所随所にしびれるような一言一言がちりばめられている。オーラとかカリスマとはこういうところまでおよぶのだろう。

 そういう本書からこころにとどまったものをみっつあげる。

 ひとつは例の「知的生産の技術」に関してのところで、梅棹式の知的生産技術といえば、カードに情報をひとつだけかいて、あとはそれを検索できるようにするというものだが、こんなことをいっている。

  “自分にとっての第一番は観察記録。これが第一。多くの人がそれをまちがえているね。とにかくものを書き写そうとする。みんな他人の本で。大事だと思うところをカードにして使っている。そんなのはナンセンス。すでに本に書いてあることじゃないか。わたしのはちがう。自分の目で見た観察記録です。 なぜ自分のオリジナルの観察を大事にしないのか。

  まさしく、他人の本をそのまま書き写してしまったが、いわゆるメモとか情報ストックの技術では、現在のような時代にあっては、面白そうなネタ、興味深い情報はとにかくコピペで自分のデータベースシステムにとりこむ。が、案外にも自分自身が実際にみたもの、感じたこと、思いついたことのメモストックは、それよりずっと少ないのではないか。”


  もうひとつは「フォロワーシップ」についての話である。

  “フォロワーシップとは盲従ではない。自分の意志や判断は持つけれども、隊長にはしたがう。” 

 たまたま、会社でリーダーシップとはなんぞやみたいなことを考える機会が続いたので、いやだからこそ目にとまったのだろうけれど、これは興味深い指摘なのである。
 ちなみに、「リーダーシップ」をググると、1670000件、「フォロワーシップ」は22500件である。どうやら経営用語やマネジメント用語としてぼちぼち使われているといったところらしいがはやってはいないようだ。

 フォロワーシップを「リーダーへの従いかた」ととらえると、これは誤解を呼ぶような気がする。というのは、リーダーはそもそも何を機能すべき存在なのか、という前提を省いているかたである。
 フォロワーシップというのは、要するには、リーダーの指示・判断は原則尊重するが、現場の状況によってはその限りでなく、臨機応変に、場合によっては、当初の指示とは正反対の動きかたをしても、最終的にはそのチームに利となるような結果をみちびく動きである。なぜなら、リーダーの機能とは、チームが獲得すべき目標や成果を導くことにあるからで、だがリーダーの指示・判断が、当初の成果と結びつかなくなりそうなとき、ではどうすれば当初チームが想定した成果に軌道修正できるかまでが、フォロワーには課せられている。これも、当初の獲得目標は、そもそもどういう背景があって設定されたのか、とか、その背景はいかなる事情にもとづいていたのか、とか、事態はそう簡単ではない。
 したがって、いい「リーダーシップ」というのは、いい「フォロワーシップ」が出るようにチームを動かさなければならない。フォロワーが盲従ではだめなように、リーダーも専制型のトップダウンではリーダーシップがとれない。また、フォロワーシップとしては、リーダーがいいリーダーシップがとれるようにふるまう、ということも入ってくる。
 こうなると、リーダー―フォロワーというまるで、上意解脱、あるいは旧来の軍隊式ヒエラルキー構造ではもはやない。もちろん平等主義でもない。むしろ循環関係といってもよいし、そこにあるのは「信頼関係」である。

 で、その「信頼関係」は、“団結は鉄よりもかたく、人情は紙よりもうすし” なのだそうである。単に人柄だけでは、信頼関係はつくれないということだ。このあたり、「人はいい人なんだけどね・・」というガード下のボヤキ話と同じかもしれない。


  最後のひとつは

 遺物第一主義というのは、いかにバカげているか。人間の全体像を見てない。遺物だけで考えている。そんなもん、ちょっと考えたらわかりそうなもんや。

 歴史学についてのコメントなのだが、縄文時代から、衣服の遺物が出てこないことについて、だから縄文は野良同然の半裸姿で服飾文化を持ってなかったに違いない、という認識について、あれだけ櫛やアクセサリーが出ているのに、すっぽんぽんで髪の毛ボサボサのまま歩いていたわけないだろう、という反論である。

 いわゆる「エビデンス主義」というのがそれで、目の前の現象で、だから実態はこうである、という判断だが、でもそれって不自然じゃない? という感覚をつけいれない態度がしばしばある。
 というわけで、「でもデータではこうなってるんです」という性格が強いレポートや情報は、とはいえ全体から考える不自然感(あるいは持続可能感)があるかないかまでよく考えないといけない。
 そして、こういう全体からくる自然さ、納得度の高さを見抜くのは、これはもう現場の経験知しかないだろう。特にリーダーシップをとらなければならない人こそである。





 

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三位一体モデル TRINITY

2009年07月27日 | 哲学・宗教・思想
三位一体モデル TRINITY ---中沢新一


 大胆な省略というか、細部で間違っているかどうかより、だいたいあっていることを優先させたというか、超極太な三位一体の解釈である。もちろん、中沢新一はわかってやっている。

 キリスト教の教義の中核ともいえる「三位一体」はその通りの良さで、たしかに日本の日常でもメタファとしてしばしば使われる。が、キリスト教の「三位一体」は、決して、いわゆる「三人寄れば文殊の知恵」や「三本の矢の結束」といったものを意味しない。「父」「子」「精霊」それぞれに役割分担がある。

 この中で、もっとも理解が難しいのが「精霊」というやつだ。が、この存在が、本書でも述べているように、イスラム教で禁止されている「利子」というやつの存在を許しているそうな。
 本書では大胆に、精霊を「増幅を作用させるもの」と定義してしまったが、これだけで、なぜイスラム教で頑なに「利子」を否定したのか、までのインパクトはやはりわからない。

 もう少し掘り下げて考えてみると、「利子」というやつは、言わば「寝っ転がっていながらも儲けが生まれる」。本来、“労働(苦役)とその対価としての報酬”というのが原則であって、それこそが原理としての「父」と、可視化としての「子」の関係になるのだろうけれど、つまりそれだけでは世の中は進展・発展しないという人間の弱さみたいなものをキリスト教はなんとなく見抜いたのじゃないかね。“濡れ手で粟”的な幸運要素をチラつかせないことには、人は生きることにモチベーションを見いだせない、ということをどこかで確信し、こっそり教義の中に入れ込んだのではないか。つじつまを合わせるために、因果とは関係なく、人生では不幸になっちゃう場合もあるよというネガティブ側の要素もいれといて(ヨブ記ってそういうところあるよなあ)。

 そういう“突然変異的増殖”という期待があってこそ拡大発展のエネルギーは生まれ、現在の生態系になったことも、グローバルスタンダードになったことも言えるわけだ。だけど、あまり無節操に大穴が当たり続けても人心は荒廃するから、最終的な辻褄というか帳尻合わせは当然「父」によってあるのだろうか。

 今回は、酒がはいっているので、なんだかいいかげん。


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17歳のための世界と日本の見方

2008年07月16日 | 哲学・宗教・思想
17歳のための世界と日本の見方---松岡正剛---ノンフィクション

 僕が、17歳・・・高校2年生のときにこれを読んでも・・・たぶんわっかんないだろうなあ。

 たとえば地理学者の鈴木秀夫氏が提唱した「砂漠の思想・森林の思想」が紹介されている。「砂漠の思想」は一神教を生み出した素であり、「森林の思想」は多神教を生み出した素である。
 西欧的価値観のかなり根源なところにある二元論。イエスかノーか。あるいはゼロサムゲーム。つまり、生か死かといった二者択一的なものの考え方は「砂漠の思想」から由来している。そして「真実はひとつ、あとはすべて間違い」の極北に、一神教というものはある(もっとも、西洋哲学には対立事項を昇華させる試みとして弁証法が研究されてきたわけだけれど)。
 要するに、砂漠の生活とはひとつの「生」と多くの「死」であり、選択の間違いはすぐに死に直結する。それが「真実はひとつ!=生。あとは間違い!=死」という観念を発達させたわけだ。
 かたや日本を含むアジアの多神教。神を真理だとするならば、多神教とは、たくさんの真理が並存している状態ということになる。前後左右、東西南北にそれぞれなんらかの情報があり、みんなの言い分を聞き、各々の大団円を考え、曼荼羅的に融合させる、つまり多元論。これは「森林の思想」から生まれたと考える。森林地帯というのは、滝を選ぶか丘を選ぶか洞窟を選ぶか樹海を選ぶかで、さまざまな「生」がある。どれを選んでも「生」という意味では正解だ。

 なるほど。談合とか、妥協とか、すり合わせとか、馴れ合いとか、調整とか、落としどころとか、中選挙区制とか。つまり、みんなの言い分を少しずつ聞いて、各人少しずつ不満はあるかもしれないが、しかし互いの存在がそれぞれ矛盾同士なようなものでも、本来は連立しない複数の方程式を近似値で計算するような、いわゆる日本型意思決定は、「森林の思想」なのだな、と思う。

 世界社会の近代化において、西ヨーロッパ諸国、特にイギリスとアメリカでの規範が大きく覇権を握り、それが転じたものが、いわゆるグローバル・スタンダードと呼ばれるものになるわけだが、このコンセプトの真ん中には、実はキリスト教的バランス感覚があり、これは民俗学的な慣習や思考と言ってもよい。だから、新自由主義とかリバタリアニズムとか言っても、そこには教会思想的な互恵意識や、ノブレス・オブリージュのような本能とも言える暗黙知がある(もちろん、同時に社会階級意識や選民意識も並存することを意味する)。
 が、このキリスト教的基盤を持たず、「森林の思想」を有する日本(こういった日本のポジショニングは「照葉樹文化圏」とか「文明の生態史観」とかが有名)が、形だけグローバル・スタンダードを実践すると、フィードバック機能がうまく働かず、グロデスクな変化をまねく。

 だがしかし。21世紀の世の中、二者択一で意思決定できるほど単純ではない。それをひとつの答えのみをまっしぐらに進み、他を全部排除するのは、ファシズムかでなければ原理主義と同じだ。
 というのは、社会の営みは、算数とは違うのであって、たいていの物事には複数の正解がある。Aという答えが正解だからといって、Aでないものは全て間違いということはなく、実はBというのも間違ったことは言ってなかったりする。だから、AとBのどちらを選ぶかというのは、Aを選ぶ長所と短所、Bを選ぶ長所と短所のどれを選んでどれを捨てるか、という意思決定に過ぎない。
 が、二者択一的な意思決定に慣れてくると、「Aが正解、非Aは全て間違い」という意見と、「Bが正解。非Bが全て間違い」という意見の真っ向対立になる。ゼロサムとか、ディベートとか、議論のカスケードとか、小選挙区とか二大政党制とかを進めると、こういうことが往々にしてある。意思決定のスピードは速いかもしれないが、たとえば、Aが勝利するとして、BはBを選んだ際の長所も含めて、跡形もなく抹殺されてしまい、Bの復活はまず許されない。

 そう考えると、「悪い慣習」と見なされていた、談合・妥協・すり合わせ・馴れ合い・調整という、意思決定の方法論は、それは「砂漠の思想」から見た場合に「悪い」という、言わばひとつの解釈なのであって、「森林の思想」から見れば、ものすごく持続可能で有機結合的な「知恵」と考えることだってできるかもしれない。Aの長所とBの長所をなるべく活かし、Aの短所とBの短所をなるべく減らすCという答えを探す態度もまた、あって然るべしなのだ。

 で「砂漠の思想」と「森林の思想」。どちらが正解でどちらが不正解か、というのはもはや不毛な議論なのは言うまでもない。

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