読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

場を支配する「悪の論理」技法

2018年11月05日 | 哲学・宗教・思想
場を支配する「悪の論理」技法
 
とつげき東北
フォレスト出版
 
 
 本書を書店でみかけたとき、著者の名前を見て、あれ? とつげき東北って人は、麻雀攻略に関する本を出してた人じゃなかったけっか? と思った。
 当時、この「科学する麻雀」はたいへん気になる本だったのである。ロジカルかつラディカルで、この人はそうとうアタマいいなと思った。
 
 人を食ったペンネームだが、この麻雀の本を1冊だけ出して、その後沈黙してしまった(もっとも本書をよむと実はWebの世界ではわりと有名な人らしい)のでいったいなんだったんだろうと思っていたわけだが、そこからずいぶん時間がたってまた全然ちがう世界の本が出た。なんかピンとくるものがあって購入することにした。
 
 
 本書はタイトル通り「悪魔」の本であろう。
 中学生、高校生あたりが読むと、あまりにもキレッキレの説得力でその魔力にとりつかれてしまいそうだ。しかし生兵法は大けがのもと。これはけっこう熟練の技であって、そうとうな訓練を要しないと、底の浅さが割れるだろう。恥をかくくらいならよいが、本書を参考に周囲の人に息巻いた結果、社会生活上とりかえしのつかないことになっても著者も出版社も助けてはくれないので注意されたい。本書でも注意深く指摘しているが、「これは正しい」とか「あれはおかしい」という主張は、主張している当人は絶対的客観尺度にもとづいて判断しているつもりでも、実は単なる主観的あるいは慣習的な好き嫌いにすぎないことに無自覚なだけであることが多い。本書を読みこなすには「正しいおかしい」と「好き嫌い」がすり替わりやすいことに自覚できるくらいのリテラシーは最低限必要だろう。
 
 ただ、この世の中のあちこちにあるルールは、誰かが得するようにできている、というのはそうなんだろうなあと思う。政治家が、官僚が、アメリカが、中国が、社長が、管理職が、先輩が、先生が、上級生が、誰かが得するようにできている。うらっ返すと、全員が得する、あるいは誰も得しない「ルール」なんてそもそも存在しない。そして日本国民である以上、日本国籍を捨てるだけの算段と覚悟がない以上、日本のルールすなわち憲法民法にしたがわなければならないのは自明の理なのだろう。いぜん3Dプリンタで拳銃を自作した人が逮捕されて「憲法上それが悪いことならば僕は悪いことをしたのでしょう」と興奮してわめいていたが、「悪いことをした」のである。
 
 ということは、①ルールを作る人 ②ルールを利用する人 ③ルールに従う人 が、どの順番で得をするか、いい目を見るか、というのは明らかなのであって、③を美徳とする規範が日本にはあるからついつい見えにくくなるが、③だけではお得な人生はおくれないのである。
 
 でも、誰でも①になれるかというとそうではなくて、そこには相当の覚悟と度胸と周到さと生活基盤と頭のよさがやっぱりいるように思う。それなくして①をうそぶいても、返り討ちにあったり、ポイ捨てされてあとは誰も助けてくれなかったりするだけなので、繰り返すけれど悪魔の甘言にはゆめゆめ注意されたし。
 学生の頃に筒井康隆や岸田秀にかぶれて調子に乗り、たいへん恥ずかしい思いをしたのが何を隠そう私である。
 

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愛するということ

2018年09月18日 | 哲学・宗教・思想
愛するということ
 
エーリッヒ・フロム 訳:鈴木昌
紀伊国屋書店
 
 
 
フロム曰く「与えること」こそが愛である。
 
 
「与えること」こそが成熟な愛の行為という、このこと自体はキリスト教でも浄土真宗でも数ある新興宗教でも掲げているし、互恵的利他主義こそが最大的な利得を得るというゲーム理論も存在する。
しかし、多くの宗教もかかげるこの「与えること」というのは、実践としてはなかなか困難なものである。なぜならばそこに見返りも自己のプライドも見出してはならないからだ。人というものはなかなか弱いもので、無償に「与え続ける」ことはどうしても抵抗がある。「与え続ければ、最後にはいいことがある」。これも見返りを期待しているからダメなのである。
 
我々は何かを選択するとき「それが損か得か」ということを意識する。本能と言ってよい。生命システムとしてこの判断ががないと命にかかわるから、当然といえば当然である。
 
ところが、今日の自由主義社会と資本主義社会は、この「損か得か」という本能を肥大させ、エネルギーにすることによって社会を循環させるようになった。あまりにもそれが浸透しすぎてしまっている結果、我々は交換と消費の経済社会にさらされているということに気づかないでさえいる。
我々は、自由主義と資本主義にもとづいた経済社会において、人間自身も経済価値で自らを定義づけ、意思決定し、行動するようになり、相手も値踏みするようになった。
 
そして、そのことが「愛」という領域においても支配するようになっているのである。
そのため、社会には「愛され方」ばかりがはびこることになった。「愛され方」を指南する本が次々と出版され、意中の人から世間一般まで「いかに愛されるか」に人は汲々とするようになった。「愛され方」とは市場価値の高め方に他ならない。
 
 
フロムの「愛するということ」は、1956年に書かれたものだ。この時代から既にそういう傾向があったのだ。そして現在なお、本書は大きな問題意識を投げかけている。現代においても、TVドラマから、雑誌の特集から、Webのコラムまで「愛され方」は毎日のように情報発信されている。一方で「愛し方」の領域にたどり着いているのは、純文学とか教育論とか、そういう堅苦しいことばかりになってしまった。
 
これは「愛される」ほうが楽だし、心地よいし、気持ちよいからである。「愛する」のは、とくに「愛し続ける」のは努力を要する。忍耐を要する。つまり、「愛される」と「愛する」は逆ベクトルの等価ということではなくて非対称なのである。「愛する」ほうがずっとエネルギーを要するのだ。今ではあまりにも形骸化してしまっているが結婚式のときの誓い「健やかなるときも、病めるときも、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓う」。神の前で誓うほどに覚悟がいることなのである。
 
 
しかし、フロムは「愛され方」に汲々している限り、未来に成長も幸福もないと喝破した。「愛され方」ばかり追求する個人は幸福ならず、「愛され方」ばかりはびこる社会は平和に成長しない。
 
  本人が「愛」と思っていて、その実「愛ではない」ものをフロムはたくさん挙げている。
 
たとえば、母親の子どもに対する「愛」。最近は毒親という言葉もしばしば見かけるようになったが、子どもが小さいうちはまだ「愛」は試されていない。手離れし、独り立ちするときこそ「愛」は試される。
「愛」とは「愛する者の生命や成長を積極的に気をつけること」であると同時に「他人がその人らしく成長・発展していくように気遣う」ものでなければならない。そのためには「その人らしさ」が何かを知らなければならない。たとえそれが親の志向や価値観にあわなくても、それがその子にとっての「らしさ」であれば、その「らしさ」が成長・発展していくように気遣わなくてはならない。そしてそれを「与え」続けなければならない。
 
フロムによれば、父親の「愛」は条件付きになりやすいという。良いと思うもの、悪いと思うものの基準を意識無意識関わらず設定してしまい、それに子どもがそれに適った言動をすれば「褒め」、叶わなかった場合は叱る。あるいはがっかりする。つまり、価値が下がる。これが権威主義である。
「愛」であるならば、どうあっても受け入れるべきだし、基準は「父」の中にあるのではなく、その「子」の中に可能性として見出さなければならない。努力を要する。
 
ほかにも「愛」のようでいて、その正体は「共依存」だったり「投影」だったり「利己主義」だったりするものをフロムは挙げている。
 
 
 
「愛すること」は簡単なことではない。フロムはこうまとめている。
 
畢竟「愛すること」とは、ナルシズムの克服であり、「客観性」の獲得ということになる。
どうすれば「客観性」を得られるかとなると、自分自身が偏った物差しを持っているという自覚をつねに持つことであり、「謙虚」でなければならない。そして相手を信じ、相手を信じる自分を信じなければならない。それも今目の前にあるものの消費ではなく、今は目の前になくても、将来への可能性を信じなくてはならない。
 
それこそが、幸福と希望と平和への扉となる「愛し方」である。自分と相手(この相手とは意中の異性、子ども、肉親、友人、仲間、世界の人類すべてまでに敷衍する)の幸福と希望と平和への道のりである。
 
 

 


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都市と野生の思考

2018年07月03日 | 哲学・宗教・思想

都市と野生の思考

鷲田清一 山極寿一
集英社

 

 「マウントをとる」という言い方が一時期はやった。格闘技から一般に流布したように思うが、会社でも社内チームでどっちがマウントをとるかとか、マウントをとりにいくみたいな言い方がされた。「マウントをとりあう女子たち」みたいなタイトルの本も出た。

 僕はこの言葉がキライだった。マウンテンゴリラじゃあるまいし。そうやって身内で覇権争いしている時点で負けじゃねーのと 思っていた。

 いささか度が過ぎると思われたのか、近頃はこの「マウントをとる」という言い方は聞かなくなったように思う。

 

 だけど、本書によるとマウンテンゴリラは決してそのな野蛮ではないのである。むしろ弱者に優しく、力技で服従をさせない。背中で語るのがゴリラのリーダーだそうだ。

 最近はリーダーシップ論でも、圧をかけて君臨していくようなリーダーシップは実はチームのパフォーマンスを挙げないとされている。リーダー=威張ってよい、という方程式を持っているような輩はむしろ存在として害悪となっている。

 松下幸之助の有名な哲学、見込みが有る人の条件は「愛嬌があって運があって背中で語る人」。山極氏によればまさしくゴリラのリーダーはそうなのだそうだ。態度で魅力を伝えることができる人ということだろう。

 

 


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反脆弱性(下) 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

2018年02月08日 | 哲学・宗教・思想

反脆弱性(下) 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

著:ナシーム・ニコラス・タレブ 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社


 上巻からの続きである。

 この「反脆弱性」という概念、とんでもなく大事な概念なのか、実は単なるハッタリなのか、まだ十分に腹に落ちていないのだが、いちおう前者だということにしていろいろ考えてみたい。

 
 僕自身をふりかえってみると、たしかに少々のトラブルやストレスにつきまとわれていた仕事や事態のほうが、結局は強いアウトプットになったり、大きな成果になったようには思う。反対にノンストレスに進んだプロジェクトが最後の最後でひっくりかえってリカバーするには時間も技量も足りなかったなんてことはあったように思う。
 入江章栄の「ビジネススクールでは学べない世界最先端の経済学」によると、事業の成功の条件は、「最初の間に小さな失敗を続けること」なのだそうである。どうもこれは科学的(統計的ということだろうか)に立証されたことらしい。つまり「最初から成功」したものはないということだ(最初から成功したものは途中で大失敗に転じる)。
 「最初の失敗」というのは、タレブ言うところの「いじくりまわし(アンカリング)」に相当する。試行錯誤の一環である。

 「最初の失敗」とか「いじくりまわし」というのは、要は経験値を増やすということだと思う。こんなときはこうなる、あんなときはああなる、という、様々な選択と結果のシミュレーションみたいなものだ。またこれをやっておくことで、精神的な余裕もうまれてくる。
 むしろ、なんか幸先よくなんのトラブルもなく事態が進んでしまうとしたら、それは警戒したほうがよい、ということになる。


 普段の仕事か日常の行いにおいてはまあそんなことだが、では人生100年と言われるこの時代において、長期的に考えると、どうだろうか。

 最近、よく警告されるのが「その仕事を続けていて大丈夫か」ということである。よく30年以上君臨する会社はないとか、いつまでも通用する技術はない、とか言われる。自分が所属している会社の中でのみ通用するスキルや経験は、会社が傾いてしまって外に職を求めたとき、本人の会社で得たスキルの価値はゼロになる。以前の会社でどっぷりはまって居心地よい状況をつくればつくるほどそうなる。これは「脆弱性」だ。
 そうすると、会社の中にいて、これは「一般のビジネススキルとして、あるいは人間のスキルとして必要なもの」と、これは「単にウチの会社内や業界においてのみ通用するスキル」というのを見極めていく必要があるということだ。ただし後者をないがしろにしすぎると、そもそもその会社で評価されない、ということになる。つまりその限りでは脆弱ということだ。しかしそこを耐え忍んで続けるほど、長期的には「反脆弱性」を身につけるということになる。
 最近の若手社員はこのあたりはさっさと見極めてしまい、ベテランから影で舌打ちされているわけだが(つまりベテランからみて若手社員は「脆弱」なわけだが)そういう意味では若手社員のほうが「反脆弱性」があると言えるかもしれない。しかし僕もなんだかんだで40代も後半になってしまい、気が付けば今の会社も20年近く居座ってしまっている。

 さらにもっと気になるといえば、”サラリーマン”という自分自身の「ビジネスモデル」もまた、「脆弱」かもしれない(タレブはもっとも反脆弱性のある職業として「売春婦」を挙げている。まあそうだろうなあ)。日本語しか使えないというのも「脆弱」かもしれない。貯金が「定期預金」しかないというのも脆弱かもしれない。そもそも貯金が「円」しかないというのも「脆弱」かもしれない。住むところがマンションの1室しかないというのも「脆弱」かもしれない。
 こうやって考えると「脆弱」だらけだなあと思う。たまたま今のところは社会もぼくが勤めている会社もなんとなく平和に機能しているのでそれなりにうまくいっているわけだが、「反脆弱性」の理屈でいえば、これこそが死亡フラグではないか、と思ってしまうのである。
 いま、ここで少々の苦労や損失があってもすべきなのは、上の死亡フラグの反対にチップを張っておくということか。つまり、手に職をつけておく、英語を勉強しておく、資産運用をしておく、外国通貨で貯金をしておく、別に土地と家を用意しておく、ということになる。
 ほぼ新たな人生をもうひとつ用意するに等しいわけだ。人生メソッドをひとつしか持たないことがそもそも「脆弱」ということだ。なんということか!



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反脆弱性(上) 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

2018年02月01日 | 哲学・宗教・思想

反脆弱性(上) 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方

著:ナシーム‣ニコラス‣タレブ 訳:千葉敏生
ダイヤモンド社


 「反脆弱性」とは、”事態が悪くなればなるほど、そのもの自身は強くなっていく”というものである。

 

 本書はこの新しい概念について、上下巻それぞれ400ページを越す大著として饒舌と多弁の限りを尽くして説明する。

 なんでこんなに膨大な説明になるかというと、この「反脆弱性」にあたる概念を言い当てたコトバが、英語にも日本語にもないからだ。コトバがないということは概念としてこの世の中に自立していないということである。「反脆弱」というのは、「脆弱の反対」という、つまり「脆弱」からの相対的な意味合いとして便宜的にそう呼んでいるに過ぎない。原本は英語なので「脆弱」にあたるfragileに、anti-の接頭語をつけたANTIFRAGILEというのがタイトルになる。つまり、英語でもこの概念を直接的に言い当てるコトバはないのである。

 コトバがない? 「脆弱」の反対は「頑丈」とか「頑強」とかそういうことなんじゃないの? と言いたくなるむきにはタレブはちゃんと説明をしている。「頑丈」は単に外部の衝撃に耐えているだけで、その結果それがより強くなったりはしないのだ。たとえば、鉄の鎧があってそれはさまざまな攻撃に耐える「頑丈」さを持つが、攻撃されればされるほどその鉄の強度が増す、とかそういうことにはならない。
 しかし、「反脆弱性」という概念は、この攻撃されればされるほど強度が増す鉄、みたいなものなのである。
 そんな材質あったっけ? とか、なにかメリットあるの? となってしまうのは、この「反脆弱性」が概念としてまだ輪郭がぼんやりしているからだ。くりかえすが、言い表すコトバがないということはその概念が世の中に自立していない。

 自立していないから、ひとつの概念を説明するのにこれだけの字数を必要とする。これだけまくしたてないと、本当のところで「反脆弱性」とは何かというものの正体の輪郭が描けない、と著者のタレブは考えたのである。
 だから”事態が悪くなればなるほど、そのもの自身は強くなっていく”という説明だけで、ははあ!っと膝をうつ察しのいいヒトならば、本書は前巻のプロローグ数ページだけで事足りてしまう。

 そしてここがたいへん重要なのだが、「反脆弱性」は新しい概念だからといって、この世の中に存在しないものではない。それどころか、自然の摂理にも人間の認知感覚や生理学的においても経済システムにおいても歴史からの学びにおいても、いたるとところで見受けられる力学なのである。
 それなのにコトバがないというのは、そのことに人間は気づかなかったということだ。なぜ気づかなかったかというと、人間は「脆弱性」のほうに気をとられていたからである。
 タレブの指摘で面白いのはこれで、実は「脆弱」こそが我々人間が普段の社会の営みにおいてむしろ「頑強」なつもりでいた、というものなのである。反対に、「脆弱」と思っていたものが実は「反脆弱性」を秘めていたのである。このパラドックスの暴露こそが本書の真骨頂だ。人間は「頑強」なものをつくることに気をとられ、その実「脆弱」を生み出していたのだ。

 たとえばこういうことだ。ここに超高性能の自動車があるとする。丈夫だし、スピードは出るし、車内空間も快適である。これにおいてこの自動車は「頑強」といってよい。それに比べて人間が足で歩くのは疲れるし、スピードは出ないし、夏は暑いし冬は寒い。つまり「脆弱」である。
 しかし、それはあくまで現在の平穏な社会が前提となっている。大地震が起きて街中で大渋滞を起こしたら、自動車での脱出などできなくなる。何かの理由でガソリンの供給が止まったら、とたんにその自動車は1ミリも動かなくなる。つまり、周囲の環境が悪くなれば悪くなるほど自動車は脆弱性が増してくる。
 一方「足」はどうか。ガソリンがなくなろうが、道路が渋滞しようが、それどころか道路がボコボコになろうが水びだしになろうが、前に進むことはできる。周囲の環境が悪くなればなるほど、実は相対的に足での移動というのは脆弱性を減らし、むしろ強みを発揮する。すなわち「反脆弱性」があるということになる。東日本大震災のとき、ぼくは都心の会社にいて、徒歩で千葉県の自宅まで帰ったが、このことを痛感した。
 これが「反脆弱性」の正体である。


 本書のサブタイトルに注目されたい。
 「不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」である。
 よく言われるように、現在の世の中は不確実性が増している。そんな中、未来を予測して対策するのは大変難しい。たとえば、将来はガソリン供給が不安定になると予測し、電気で動く自動車をつくったとしよう。そうしたらガソリン供給の前にまさかの大地震がきて長期間の停電が発生してしまい、充電ができなくて車は動かなくなってしまった。ならば大地震での停電に備え、蓄電性の高い電池で車をつくったとしよう。そしたら大地震でガレージが崩れてしまい、その自動車はおしゃかになってしまった。
 寓話みたいな例え話だったが、要するにこの不透明な時代に予測するというのはたいへん難しいのである。

 では少々の経済危機や天変地異がきても移動を確保するにはどうすればいいか。
 それは健脚になっておくことなのである。足を鍛えておくことである。つまり、リスクを予測して回避の対策を考えるのではなく、どんなリスクがきてもいいようにするのがこれからの世界を生き延びる術である。その秘訣が「反脆弱性」ということになる。


 では「反脆弱性」を会得するにはどうすればいいか。「脆弱性」を回避するにはどうすればいいか。
 本書にはもうこれでもかというくらい書いてあるが、ひとつだけ抜き出すとしたら、毎日直面する何かの選択と決断だ。買い物、ヒトとの約束、仕事の受注、今日は何を食べるか、など。また、何かをするかあるいは何もしないでおくか、という選択と決断もよくある。
 このときの選択は「非対称性」である、とタレブはいう。どういうことかというと、その選択が完全なトレードオフになることは実はあんまりなくて、「大きく何かを得るかちょっと何かを失うか」の選択、もしくは「大きく何かを失うかちょっと何かを得るか」の選択であることが多い、と彼は指摘する。
 そういうときは、プラスになるほうに常にチップを張るのが彼が言うところの正しい人生訓だ。場合によっては得るものがなくてちょっと何かを失うはめになるかもしれないが、そのようにリスクテイクをしていく経験値が、実は人生の反脆弱性をつくっていく。つねにリスク回避ばかりしていると一見「頑強」になるかもしれないが、社会環境の激変に破滅的な結果を招くこともあり得る。
 
 また、あまりにも複雑なものは脆弱に陥りがちだ。シンプルなもののほうが反脆弱性を担保しやすい。夢の高速増殖炉「もんじゅ」は、そのあまりにも複雑すぎる仕組みで、とうとう満足な運転もできないまま30兆円の国費を浪費することになってしまった。それならば1回の出力量は少なくとも、風の力でまわる風力発電のほうが環境変化にはずっと強い。同じように、複雑な仕組みのビジネスモデルや投資、屁理屈を重ねたような健康法や食事療法はじつは脆弱性がある。太古から人間がやっていたような商売や生活習慣のほうがずっと反脆弱性だ。必ずしも最新のものが正しいとは限らない。むしろ太古からずっと続いているものというのは、それなりの普遍的な力、幾多の環境変化、時代の変化を潜り抜けてきた反脆弱性があることの証である。


 というわけで「反脆弱性」。新しい概念をつかむことがこれだけ茫洋としてしまうということに改めてびっくりしたが、一見頑強と思われるものが実は薄っぺらいこともあるという目利きは大事なリテラシーかと思う。そして、AIだろうが異常気象だろうが少子高齢化だろうが、何がきてもそこそこ耐えきれ、むしろ強さを発揮できる生活力とは何かというのも考えなくてはならなそうだ。歴史にヒントがあるとタレブは言っている。

 というわけで下巻に続く。


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フランクル「夜と霧」への旅

2017年05月31日 | 哲学・宗教・思想

フランクル「夜と霧」への旅

 

河原理子

朝日新聞社

 

 

  本書はヴィクトール・フランクルの不朽の名著「夜と霧」に思いを寄せ、フランクルや彼にまつわった人々を取材した本である。

 

 

「夜と霧」。日本ではみすず書房から刊行されており、もはやみすず本の代名詞である。

御多分にもれず、僕も中学校の図書室で手にしたのが初めてで、巻末の資料写真にひたすら目を奪われてしまい、肝心の本文はほとんど頭に目に入らなった。

 

僕が図書室で手にしたのは故・霜山徳爾訳のもののはずである。

霜山が訳したフランクルの本文に、資料写真集をつけて合本し、「夜と霧」というタイトルをつけたのは当時みすず書房の社長であった小尾俊人だ。

「夜と霧」というのはかなり原本のタイトルからはかけ離れた邦題で、1946年に発行された原本は「Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager」というタイトル、直訳すると「とある心理学者、強制収容所を体験する」となる。

「夜と霧」は、日本国内では1956年にみすず書房から刊行され、ロングセラーとなった。

しかし、フランクル自身が1977年にかなり広範囲にわたる修正を施した改訂版を出したため、改めて新翻訳を出すことにした。これが池田佳代子訳である。

このとき、そもそも資料写真が附いていることは必ずしもフランクルの本意ではない、という見解が立ち、池田訳からは資料写真は取り除かれた。ただしタイトルの「夜と霧」は引き継がれた。

 

この霜山訳から池田訳への訳者のバトンタッチはなかなかドラマチックで、こんな交代劇があったことは、本書を読むまで知らなかった。

 

もともと、霜山徳爾自身がただの訳者ではない。第一級の臨床心理学者である。ボン大学に留学した際に原書と出会う。本書の表現を借りれば「夜と霧」は“彼こそがこの本を見つけて日本に紹介した”ものなのである。

 

霜山の翻訳は格調高く、また臨床心理学者の立場としても適格な翻訳であった。しかし、みすず書房は「今の高校生には難しい」という問題意識から、新たな翻訳を池田佳代子に依頼する。この名著を次世代に継承するために、あえて訳者の交代をはかったわけである。

池田は、霜山の「学恩に浴してきた」ものとして、この依頼から逃げ回ったそうだ。それはそうだろう。この頃は霜山はまだ存命中でもある。

 

みすず書房の編集者は、霜山のところにも訪問したそうである。霜山は完全には納得しなかったようだが、「そのほうが良いとご判断されるのなら」ということで新しい訳を出すことを許可した。

 

結局、池田はこの仕事を引き受け、冒頭数ページを翻訳したところで霜山に見せた。池田は「ものすごく緊張した」という。それを読んだ霜山は池田訳を了承した。池田は「声をあげて泣いた」という。

そして霜山は、池田訳の新版に「新訳者の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう」という文を寄稿した。

 

みすず書房は、霜山訳を絶版にはしなかった。「これは霜山先生が見つけた本」として、写真解説入りの編集であるこの「旧訳版」も、レガシーとして尊重した。現在でもみすず書房では「旧訳版」と「新訳版」の両方が刊行されている。こういうことはめずらしいのではないかと思う。

 

 

中学時代は写真だけで降参した僕が「夜と霧」をちゃんと読んだのは30代になってからだ。

霜山訳の価値はいささかの疑いもないが、池田訳もいいと思う。霜山訳で感銘をうけた往年の読者からは池田訳は食い足らないという意見もあるようだが、池田の静かで平易な語りかけは、「とある心理学者、強制収容所を体験する」というそっけないタイトルをつけたフランクルのテンションに、案外近いのではないかとも思う。

 


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いま世界の哲学者が考えていること

2016年12月01日 | 哲学・宗教・思想
いま世界の哲学者が考えていること
 
岡本裕一朗
ダイヤモンド社
 
 「ポスト西洋社会はどこに向かうのか」と「<インターネット>の次に来るもの」をあわせて読むと、これからの世の中がどうなっていくのかの予言書みたいになる。さらにそこに人類史的意味みたいな哲学見地を与えてくれるのが本書だ。この3冊を読めばもう世の中どうなろうと怖くないかもしれない。
 
 本書でも指摘しているし、前2冊もふくめて考えるに、今後の世の中の方向性を決定づける進化ないし迷走のベクトルは以下である。
 
 ①ITの進展。特にAIとIoT。
 ②バイオテクノロジーの進展。再生治療とゲノム解析。
 ③西側諸国(おもにWASPとその影響を受けた国々)の黄昏と、非西洋国の台頭。多極化時代の到来。
 
 ほかにもいろいろあるかもしれないが、この3つが、これまで人類社会で普遍とされたものに改めてゼロベースからのちゃぶ台返しを投げかけることになりそうだ(もう投げかけられている)。
 
 たとえば①のAI、②の遺伝子操作、③の新たな宗教倫理から、「人間の尊厳とはなにか」という問いが改めて惹起される。
 あまりにも当たり前のことだが、近代以降われわれは「人間」というものを重視してきた。大抵のものよりは「人間」の命や健康や欲求を大事にする。多くの争いは人間同士の欲求の争いやトレードオフであり、人間よりモノ(誰も欲しないモノ)のほうを大事にするという選択はそんなにはないはずである。
 そして、われわれは「人間」と「人間でないもの」の境目はどこらへんで、よって「人間」として尊重すべきところはどんなところで、また「人間」としてやってはいけないことはどんなことか、というのも、明確な線引きはできないし、時と場所でそのハバは大いにあるとはいえ、いちおうなんとなくここらへんという暗黙知がある。
 ところが、それが前述の①②③よりゆらぐようになった。
 「人は何歳まで生きるべきか」「生きているとはどういう状態か」「人を生かすために犠牲にしてよいものはどこまでか」などという、人類史上ありえない問いが生じるようになってきている。

 また、国家としての自由民主主義というものへの疑いがここにきて台頭してきている。
 それはかつてのマルクス史観のような疑いとはまた違う。中国やロシアやその他の非西洋の台頭する国の多くが、これまでの欧米のような自由民主主義国ではないにも関わらず、経済的成功を得ようとしている。
 それだけではない。自由民主主義を究極まで突き進めると、そこは究極のアナーキー社会が待っている。そのとき国家は解体される。そしてなんと。実はブロックチェーンというITが、の可能性を秘めていたりする。
 あまりにも飛躍するイノベーションを自制するのは、人間の道徳観、倫理観であるが、先にいったように中国やインド、またナイジェリアといったこれから大国になるとされている国々の道徳観、倫理観は、必ずしも欧米やわが日本のものと同一ではない。もちろんどちらが良い悪いという話ではない。
 
 
 かくして、AI到来の世界を歓待する向き、悲観する向き。あるいはバイオテクノロジーの実用化を期待する向き、抑制させようとする向き、ハイパーグローバリズムを理想とする向き、各国家が内省化への道をたどることを予想する向き、などそれぞれがそれぞれの理屈と信念で主張するようになる。それぞれがそれなりに正しい。
 
 こうなってくると、国際国家の一員として、あるいは社会の一員として、またあるいは個人の選択として、何が正しいのか、何が真実なのか、というものは、もはやむなしい問いのようになってくる。唯一無二の「正解」なんてのはなく、とりあえず当事者同士で握れる「納得解」が多様にあちこちで泳いでいるような世の中になる。当事者同士というのは家族かもしれないし、ムラや企業などの単位かもしれないし、ある共通の趣味の仲間かもしれないし、宗教的つながりかもしれない。これらの利害関係が一致する当事者同士=コミュニティの中で握れる「納得解」が、むしろコミュニティを維持する核の部分になる。いわば「見解のコミュニティ」といってよいかもしれない。
 そんな「見解のコミュニティ」が多様に存在する社会において、大事なことは「自分はどう思うか」という信念かもしれない(自分はどの「コミュニティ」に属するかという覚悟とでも言おうか)。
 いま、そしてこれから世の中はどんな風になっていくのか。どんなシナリオがありそうなのかを知り、自分にとってはどうありたいかを見据えておくことが、これからの不案内な世の中で、翻弄されない自分をつくるに違いない。
 

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ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。

2016年11月17日 | 哲学・宗教・思想
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。
 
原田まりる
ダイヤモンド社

 「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」と同じコンセプトを持つと考えていいかと思う。あれもダイヤモンド社だった。さすが本家は上手だ。ダイヤモンド社は「自己啓発書」にこの方法論を持ち込んだのである。
 哲学入門書としてはかなり上出来ではないかと思う。世の中に「哲学入門」を名乗る本はいっぱいあるが、たいがい敷居が高い。ストーリーの中に哲学を溶け込ませてわかりやすくしたものとしては「ソフィーの世界」が有名だが、あれさえも攻略するのはむつかしいのではないか。
 それに比べると、本書はかなり易しい。すいすい読める。これでニーチェやハイデッガーを分かった気になってしまうのは「生兵法は大けがのもと」だが、中学生か高校生くらいのときに読んでいたらもう少し、学校の「倫理」の授業なんかも興味をもって聞いていたかもなあなどと思う。
 
 

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成功している人は、なぜ神社に行くのか?

2016年10月20日 | 哲学・宗教・思想
成功している人は、なぜ神社に行くのか?
 
八木龍平
サンマーク出版
 
 
 宗教の話はリスクが大きいので深入りする前に引き返したい。
 
 僕はとくに信心が深いわけでも特定の宗教に帰依しているわけでもなく、正月は神社に行くし、クリスマスは祝うし、お葬式はお寺だし、という典型的日本人である。霊感とかとも無縁である、むしろオカルト現象などに関しては、なにかしら科学的理屈があるのだろう、などと考えてしまう側の人間である。
 よって、著者の「科学者かつ霊能力者」という自己紹介と、そこに挿入されているベタなマンガに、正直ザリガニのように腰がひけてしまうのだが、タイトルにピンときた。
 
 繰り返すが、いまのところ僕はとくに宗教心というものを持たない無粋な人間なのだが、いっぽうで、宗教あるいは信心というものが人間の精神や人間社会にどのような「機能」をもたらすのかというのには興味関心がある。東日本大震災で肉親を失った人々が幽霊をみる、といった話には心底共感したし、彼ら遺族にいまこそ宗教界の出る出番という記事を読んでそりゃそうだろう、頑張ってほしいと思ったものである。内田樹が「呪いの時代」で、「信じるものがあると人は機嫌よく働く」というのはなるほどと納得するものがあったし、広井良典が「人口減少社会という希望」で、「自然エネルギーの拠点を『鎮守の森』としてローカルコミュニティの中心にする」という発想にうなりもした。
 

 で、冒頭とは自己矛盾するわけだが、ぼく、けっこう神社には行くのである。
 

 亀戸天神というのがあるらしいとわかれば一度行ってみようと思うし、天神のほかに水神もあるらしいとわかればそこにも寄ってみるし、亀有に行ってみてもう少し頑張れば柴又帝釈天であるとわかればそこまでは引き返せないし、鹿島といえばスタジアムよりも鹿島神宮だし、築地市場に波除神社があると知ればそれ見てみよう、と思って観光客のあいだをかきわける。千本鳥居をみかければ、必ず通り抜けてみる。パラレルワールドへの抜け道みたいな気分がしてなかなか楽しい。伊勢神宮にも出雲大社にも行った。
お参りをするとなんか気分がさっぱりする。多幸感がうまれる気がする。そうすると当然、生活や仕事にもハリが出てきそうな気がするのである。
 思うに、常に理屈と理論の中で日々生活しているから、たまにこのようなスピリチュアル的な空間で心を解放させるのがなんとなく快感なのである、いわゆる「癒し」というやつなのだろうが、これこそ宗教的効果なのかもしれない。
 一方、たまに誘われたりして教会なんかにも行くのだが、教会や神父さんの雰囲気はやっぱりどちらかというと厳粛なんだよな。厳粛な雰囲気も嫌いではないのだが、自分がヨソモノという居心地の悪さもどこかにある。神社で解放感を感じるのはやっぱり僕が日本人だからなのだろうか。
 
 

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決定版 五輪書 現代語訳

2016年06月09日 | 哲学・宗教・思想

決定版 五輪書 現代語訳

宮本武蔵
訳・校訂:大倉隆二
草思社


 はずかしながら現代語訳版で。本書は原文も併録されているので気になるところはちゃんと確認できる。

 その名を知られた古典であるものの、僕はその内容はよく知らなかった。剣豪宮本武蔵についてもたいして知ってはいない。ただ、ある本を読んでいて、孫子の兵法やクラウゼヴィッツの戦争論と並ぶものして扱っていたため、気になったので手にとった次第である。


 いろいろ敷衍できそうなところは多いが、個人的には以下3つに集約できそうだ。

  1.なにがなくても勝たなくてはならない。これが究極の目標。その目標以外はすべて手段となる。

  2. その目標達成のためには自己の手の内にある技術だけでなく、周囲の地形や環境、相手のコンディションすべて総合させて目標達成の手段として用いる。

  3. 物事には流れ(拍子)があり、これに乗り、これを支配したほうが勝つ。


 1.が前提、2.が総論、3.は各論のひとつといったところか。

 ここから敷衍するに、1.は「目的と手段」の見極めの重要さである。
 この目的と手段の見極めは、現実社会では言うほど易しくない。簡単に相互転移する性質のものだ。武闘でもビジネスでも〇〇流とかフレームワークとかチーム編成とかがあったとき、それは目標達成の手段であることをゆめゆめ忘れてはならず、目標から遠のきそうな気配があれば、すぐにその手段から手を離さなければならない。


 2.は、五輪書の真骨頂の部分だろう。勝負の時空間の捉え方である。どの分野でも勝負強い名人はここが違う。
なお、これのセンスが抜群に良かったのが、唐突だがタモリだったように思う。これは松岡正剛の指摘だけれど、その場にあるもの、居合わせたものを「あやかって」何かするのがタモリは秀逸だった。そのためには「しこまず」「力まず」、常に360度周囲の状況をみておくという「構え」をとる必要がある。


 3.は、そのためには相手の機先を制し、相手のシナリオを読んで崩していき、相手に満足のいく戦いをさせない、ということ。
要するにガチンコで勝負に出るというのは、そもそもの1.の目的からすると博打に出ていることになり、勝つことはあるかもしれないが、常勝は保証されない。



 とまあ、こんな具合に整理してみたものの、易しく書かれた現代語訳版で表面をなぞっただけの気もしている。これでは五輪書のよき読み方ではないのかもしれない。
原文のほうもそれほど難解な古文ではなく、その気になればがんばって読めそうなくらいだが、眠くなってなかなか先に進まないこと確実なので、それは当面先になりそうである。

 とはいえ、少しだけ読んでみた。清廉と言えばいいのか、簡にして要を得た筆致そのものが、いたずらな装飾を伴わない目的本位と、偏った方法論に執着しない「構え」の良さを体現している。こういった醸し出す空気もまた五輪書の魅力ではあるのだろう。


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よいこの君主論

2016年05月21日 | 哲学・宗教・思想
よいこの君主論

著:架神恭介 辰巳一世
筑摩書房


amazonで紹介されていて読んでみた。
ある小学校の5年生クラスにおける派閥闘争を題材に、マキャベリの君主論を解説するという趣向なのだが、どうしてなかなかよくできているのである。
君主論をかじった主人公のひろしくん、ハイエナの異名を持つクラスの女帝りょうこちゃん、表の姿は学級委員長そしてその実態は狡猾老獪な策士まなぶくんなど、たいへん毒のある登場人物たちが次々と登場してきて大笑いなのだが、そこで繰り広げられる権謀術数がちゃあんと君主論に収斂されており、しかもほぼ網羅しているのだ。
日本人感覚だと一見わかりにくい「鷹揚さと吝嗇」「冷酷さと憐れみぶかさ」あたりもわかりやすくなっている。また、マキャベリズムとして最も有名な「目的のためには手段を選ばず」の、その力加減というか、絶妙なところをしっかり物語に反映させている。

マキャベリの「君主論」は、君主は領国支配をいかにすべきかを述べているのだが、そこでケーススタディとして使われているのは中世のイタリアやその周辺国の出来事である。したがって「君主論」を読むためには、中世イタリア史を知らないとなかなか読みにくい。岩波書店などからでている君主論の邦訳版は、このイタリア史の部分に膨大な注釈を割いていて労作なのだが、どうしても読書としてはなかなかはかどらない。
この「よいこの君主論」は、そのイタリア史にあたる部分をそっくり目立小学校5年3組に置き換え、事実にあった戦争や闘争は、これすべて遠足や運動会に置き換わりながら、そこでの統治や勝敗メカニズムはすべて「君主論」で述べられているセオリーの通りであり、しかもオリジナルの「君主論」が事例と解説に終始するのに対し、こちら「よいこの君主論」は、最初は群雄割拠だった5年3組が、それぞれのグループのリーダーたちの跳梁跋扈の中でだんだん淘汰され、やがて二大勢力に収斂されてやがて一大決戦に至るというストーリーを持っているという、まことに考え抜かれた構成なのてある。わかりやすいことこの上なく、ひょっとすると「もしも女子高生がドラッガーのマネジメントを読んだら」なみの力作かもしれない。
「君主論」の内容というのは性悪説に立った実に劇薬ものであって、それがこんなに口当たり良いアレンジになってしまったのだから始末に悪い。こんなのでわかった気になって、にわか仕込みの人に生兵法で使われてはたまらない。amazonで紹介されてだいぶ電子版がダウンロードされたようだから、用心せねばなるまい。



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隣の嵐くん  カリスマなき時代の偶像

2014年07月03日 | 哲学・宗教・思想

隣の嵐くん  カリスマなき時代の偶像

関修


 この本を読む前の僕のレベルを白状すると、さすがにジャニーズのグループ「嵐」は知っているが、ではその5人の名前を全員言ってみろと問われればまるで言えない。そもそも5人と把握していたかどうかも怪しい。つまり超にわか、お話にならない門外漢である。

 そんな僕がなんでこんな本を手にしたかというと、書評をみて、哲学の方法論を駆使して嵐を読み解くというその趣旨に興味を持ったからに他ならない。

 

 アイドルを哲学や社会学の見地で読み解くのはいっけん荒唐無稽なようだが実はわりとよく見かける手法である。「アイドル」というのは、「偶像」が語源であるのは有名だが、「アイドル」という現象や、それがもたらす機能というのは、実はなかなか奥が深いのである。

 たとえばAKB48は、もはや社会装置とも言えるくらいの機能にまで化けていたといえる(良いか悪いかはおいといて)。欲望と消費を稼働させる一装置(良いか悪いかおいといて)と成し、企業や行政の宣伝装置(良いか悪いかおいといて)と成し、モードや立ち振る舞いの規範(良いか悪いかおいといて)の一装置と成し、人々の共通の話題、共通の言語つまりコミュニケーションの一装置と成したのである。

 本書でも指摘しているようにAKB48の最大の特徴は、その集団性にあることは言うまでもない。コアなファンを除いては、AKB48はやはり集団として、その特異な価値が発揮されている。もちろん、総選挙などで一人ひとりにおいてもクローズアップされることもあるが、総選挙というものがAKB48(もちろんSKEとかHKTとかもふくめて)という枠内でのチョイスであるし、各々のメンバーも実はそれぞれ所属事務所は異なるという事実はあるにしても、それでも一般においては、AKB48の中の誰それ、というただし書きの中での見方になってしまうのが通常ではないだろうか。

 嵐がAKB48と決定的に異なる点は、嵐の5人に十分なソロ活動性が担保されていることである。

 アイドルグループでありながら一人ひとりが個性を発揮し、ソロでも十二分に存在を発揮できるようなふるまい。これを世の中にアリとして認めさせたのは、SMAPだろう。本書によれば、それ以前からジャニーズのアイドルグループは、遺伝子のようにソロ活動の様子を見せていたとされるが、でもやっぱり明確に体現してみせたのはSMAPだと思う。本来であれば、各人の活動方針が違ってきたので、SMAPは解散しました、としてそれからめいめいの5人がソロ活動をしていたとしてもまったく違和感がない。(実際、森且行の脱退はそういうことだ)。しかし、SMAPは今でもSMAPである。少なくともテレビの露出を見る限りは、SMAPのメンバーは、SMAPとして5人でいるよりも、ソロでいるときのほうが圧倒的に露出機会が多く、しかし我々は彼らがSMAPであることをちゃんと知っている。

 SMAPがアイドルのあり方としてやってみせたことは色々あると思うのだが、このソロ活動とグループ活動の両立を体現させたことがやはりSMAP最大の成果だと思う。そして、これの後継として、さらに拡大してうまくやってみせたのが嵐であろう。グループ「嵐」であることを維持しながら、各メンバーのソロ活動はますます盛んになっている。しかもそのソロ活動の守備範囲の広さは報道からアートまで、SMAPを凌駕するものであり、さらにグループとして結集したときの「嵐」もまた、維持どころかますますアイドルグループとして磨きがかかっている。

 本書では、嵐がグループとしてマンネリ化せず、むしろその魅力を増していく秘密を、ラカンの「4つのディスクール論」を援用して説明している。この援用にどこまでの説得力があるのか、僕は門外漢なのでわからないが、要は5人の立ち位置が「多様性と自律性」の担保、メンバー間の相互作用、さらに「突然変異因子(相葉くん)」としてしこまれており、つねに時代に対して鮮度を高くもてるよう機能しているとされる。
 これに比べると、SMAPのほうが「硬直的」なのである。


 こうやって駆動する「嵐」の体現したものを、本書ではカリスマなき時代のアイドル、それはすなわち「コモン」である、と結論している。

 AKB48は「社会装置」である、とは単に僕の自論なだけなんだけれど、そうか。「嵐」は「コモン」なのか。

 社会装置であるAKB48は、世の中に循環を促す「エンジン」ないし「機能」である。これに対し、「コモン」である「嵐」は、世の中の、とくにテレビなどで嵐によくなじんでいる人にとっての共通の生活様式であり、共通の美意識であり、共通の道義道徳を提供する。誤解を恐れず言えば「嵐」を共有することは「宗教」ないし「文化」とさえ言えるかもしれない。アラシックに敷衍する5カ条の嵐マナーやその受容は、宗教あるいは民俗文化に肉薄するものがある。これはたしかにSMAPでさえ到達できなかった世界であろうと思う。

 

 AKB48にしろ、嵐にしろ、その中身の世界、ファンたちの集う世界については、僕ははっきり言ってロクに知りもしない。ただ市井の一般の目でみていて、どちらもなにげに世の中を「動かす」力があり、その正体はなんだろうかとは思っていたので、本書を読んでなるほどなあ、と思った次第である。

 


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死ぬ瞬間 死とその過程について

2014年04月24日 | 哲学・宗教・思想

死ぬ瞬間 死とその過程について

著:E・キューブラー・ロス 訳:鈴木晶

 

 先だって知人と話していて、キューブラー・ロスの「死の受容の5段階プロセス」の話になった。
 これは、人が死を宣告されたときの態度変容のことで、「1.否認→2.怒り→3.取引→4.抑鬱→5.受容」と推移していく。

 この「死の受容の5段階プロセス」ってどのくらい知られているのだろう。
 その知人はわりとこのあたりに明るく、ちゃんと知っていた。で、近くにいたもう一人も詳しくは知らないが、おおむねの概要は掴んでいた。
 僕も概要はつかんでいたつもりだったが、実はしっかりと知っていたわけではない。ネットで調べたり、他の本の引用に触れていたくらいである。

 僕が初めて知ったのは、明橋大二の「子育てハッピーアドバイス」で紹介されていたものを読んだときだ。
 もっとも、その本で扱われていた内容は「死の受容」の考え方を援用したもので、自分の子供がひきこもりになったときの親の反応を扱ったものだった。

 また、小説家の高橋源一郎が、自分の次男が難病に罹って重い障害が残るリスクが宣告されたとき、やはりこの心理過程をたどった(ただし一晩で)ということをエッセイで書いていた。

 つまり「死の受容の5段階プロセス」は、「死」という巨大なインパクトを持つものと向き合ったときの考察だが、実は「死」に限らず、自分が信じたくないとてつもないものをつきつけられたときの反応、と読みかえることもできる。なんとなくリアリティもある。

 そういう意味では、「死の受容の5段階プロセス」を知っておくことは、教養でもある。

 というわけで、意外にも周囲の人も聞きかじっていたことを知って、生半可な知識は危ないなと思い、中公文庫のを手にとった次第である。いちおう原典を知っておこうと思ったのである。

 

 で、読んでみて。
 まず、想像していたよりもずいぶんていねいに考えられている。末期患者のインタビューを200人重ねてつくられたもので、決してキューブラー・ロスの想像のたまものではない。
 一方で、患者はみな60年代のアメリカ人であり、いくぶんキリスト教という背景をおった人だからこその反応という点も見受けられる。 

 ひとつ大きな誤解をしていたのは「受容(acceptance)」というところだ。
 「受容」という訳語は、どちらかというと前向きにすべてを受け入れる感がある。
 つまり自分の死を受け入れる、というのは、自分の人生はこれでよかったんだ、と受け入れる、ようなニュアンスを僕は「受容」という言葉から解釈していたのだが、本書を読んでみるとどうもそう単純なものでもなくて、やや「諦観」にも似た具合なのである。
 ただ「諦観」というと、もうどうにでもなれ、というややネガティブめいた開き直りも感じとれたりもするのだが、本書をつぶさに読むとそうではなく、ここにキリストが十字架にかけられる前にゲッセマネの園でつぶやいた「我が意にあらずして御意の成らんことを願う」的な「受容性」を関連づけている。
 このあたりを的確に日本語であらわすのがどうも難しい。「意にそぐわないが、これもまた(神の意思による)必然であり、意義あるものなのだ」とみる感じだろうか。

 しかし、日本人はこのような「受容」ができるのだろうか。「意にそぐわないが、これもまた必然であり、意義あるものなのだ」という見方は、やはり「我慢」とかむりやりな「自分への言い聞かせ」を感じてしまうのだが、これはやはりキリスト教のココロを会得していないからだろうか。

 むしろ日本人的には、この「死の受容5段階プロセス」は、「『かなしみ』の受容」の道のりかもしれない。
 古来から日本の芸能や文芸で扱われてきた「かなしみ」というのは、英語に訳すことが難しいニュアンスであるらしい。竹内整一の「『かなしみ』の哲学」の言葉を借りて解題すれば、

 「みずから」の有限さ・無力さを深く感じとる否定的・消極的な感情であるが、しかし、そうしたことを感じとり、それをそれとして「肯う」ことにおいてこそ、そこに「ひかり」(倫理、美、神、仏)が立ち現われてくる、肯定への可能性をもった感情」

 というものである。つまり、自分の無力を知り、それをそれとして、まあそういうものだよね、という「達観」である。
 「自分の力の及ばないところがあることを是として受け入れる」というものの見方は東洋的なものだ。

 キューブラー・ロスいうところの、この「受容」の具合をつかまえるのはなかなか単純ではない。

 

 それから、読む前は知らなかったのだが、実は重要ではないかというのが「希望」である。
 「死の受容」は、基本は5段階で構成されるが、一方で「希望」という因子が併走することをキューブラー・ロスは指摘している。

 この「希望」とは、“とはいえ自分は生きながらえるかもしれない”という「希望」である。
 それは「怒り」のステージでも「取引」のステージでも、あるいは「抑鬱」や「受容」のステージでも間欠的に顔を出す。
 そして、この「希望」がみとめられた患者とそうでない患者は、心理状態や生活態度がずいぶん異なる。この「希望」の有無が死期の長短をも左右するといってもいいくらいだ。

 この、「希望」を失わないことの重要性は、V・フランクルの「夜と霧」なんかでも大事な要素となっている。

 「死の瞬間」でインタビューされた患者の多くは本当に末期患者であったが、実際は「死」がたとえ蓋然性が高くても未確定な場合だったり、あるいは先の例のように「死」以外のものだった場合は、この「希望」の維持はことのほか重要なのではないかと思う。

 

 というわけで、原典(といっても和訳だけど)を知れば、またいろいろと発見があったり、あるいは事前に想定していたようなそう単純なものでもなかったり、ぜんぜん違うものと話がつながったりする。
 まとめ情報だけで安心してはならんのだね、という点でも勉強になった。

 


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あわいの力 「心の時代」の次を生きる

2014年01月23日 | 哲学・宗教・思想

あわいの力 「心の時代」の次を生きる

安田登

いろいろ示唆に満ちている本だったが、個人的に得たキーワードは 「皮膚感覚」と「異界」である。

 

「心(こころ)」というのは、心臓とか胃とかと異なり、具体的なブツが存在するわけではない。自分自身で触ることも、取り出すこともできない。

つまり、「心」というのは脳内で生成された概念でしかないのである。

もっというと、人間が後天的に作り出したものである。

著者は、人間が「文字」というものを発明するまで、「心」というものはなかったとしている。

「文字」の発明からさらに数百年たってようやく、「心」という概念が導入された、というのが彼が甲骨文字など、古代文字を研究して得た結論である。

で、そこから幾星霜、現代は「心」が肥大化して、その副作用もなかなかたいへんなことになっているわけである。

「心」は「心」として、「頭」で考え、納得しようとするのが、現代である。

それに対し、いや「心」というのは、身体の刺激――皮膚の刺激でも変わることができる、と本書では述べる。

たとえば、どしゃぶりの大雨で傘もなく、びしょびしょになりながらみじめに歩いていると、ある時点でなんというかぐはははは、と笑いたくなるような、開き直りに近い快感が生まれる。ぐっしょり濡れた肌、びちびちあたる雨粒そういったものがある時点から高揚感を促すのである。

運動をしたあとに、妙に気分がすっきりして、物事が前向きに考えられるような気がする。逆に、運動不足はイライラの元、とも経験上よく言われている。

これは養老孟司が何かのエッセイで書いていたことだが、オウム真理教の信者に多数の東大生が入っていたことがわかって世間に驚愕を与えたとき、大学の研究室でうだつの上がらない日々をおくっていた学生がオウムが実践するヨガ体系の中で、身体がほぐれ、血流が豊かになり、それが気分としてのスッキリ感を味わい、それを神秘体験と誤解したのだろう、というこの話、これもヨガという身体的刺激が「心」を動かしたという話である。

確かに、現代生活はこういう身体の刺激を鈍化する方向で進歩している。衣服の機能や風合いはますます進化し、空調設備は完備され、施設は全天候型になっていく。我々は普段の生活で肌を通じた刺激や触感に鈍くなっている。

本書が刺激するように、我々の日常生活で、露骨に肌の刺激が全身を覆うのは、ハダカで抱き合い、愛し合うときくらいになった。

で、たしかに性的快感とはべつに、この行為は一種の「心」の高揚をもたらし、ひいては精神状態の向上と安定に寄与する。

ananのSEX特集はそういう意味では正しいのである。

そうでなくても、自然の中を散歩したり、露天風呂につかったり、風にあたったり、草場に寝転んだりして、身体に自然からの刺激を受けることが「心」の改善につながることは、まあ確かだろう。「頭」でロジックを組みなおしながら「心」の平安を探すよりはよっぽど脳生理学的に効果があるに違いない。

明治時代の文学者、北村透谷は異常に頭でっかちというか考え過ぎなところがあってしまいにはノイローゼになってしまったが、晩年彼が行きついたのは、湘南の波間にゆらゆら浮かびながら夜空を眺めることで、自然の一体化を体験し、精神の究極の安定をみる行為だった。

こうした皮膚感覚の刺激は、いわば、日常界から、「異界」へいざなうのである。

人は「異界」に憧れる。「異界」に導く人に抗いがたく惹かれる。

「異界」というのは、日常界を支配するセオリーとは、違うセオリーで成り立つ世界のことである。

そんなのってアリ? と思えることを臆面もなくやる人、しかもそこになんらかの「美」があると、どうしようもなく惹かれてしまう。

皮膚を通して――目や耳や匂いや味覚でももちろんいいのだけれど、つまり左脳的な情報処理を通さずに直截的にそれを示す人や物にコロっとやられてしまう。

そのとき、「心」の閉塞感は反転し、カタルシスに満ちた解放感を得ることになる。

たいがいカリスマ性を持つ人というのは、この日常界から異界に導く人である。この持っていき方が非常に上手な人である。

それから、トリックスターと呼ばれる立場の人もこれができる人だ。著者は能のシテをやる人だが、シテもこのトリックスター的なところがある。

 

というわけで、閉塞感を感じるとすればそれは異界を覗く機会を最近喪失しているからであり、喪失しているのは、皮膚感覚を使う機会を失っているからである。

まずは皮膚をさらすところから始めなければならない。

 


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私とは何か 「個人」から「分人」へ

2013年12月16日 | 哲学・宗教・思想

 私とは何か  「個人」から「分人」へ

 平野啓一郎


 現代日本の世相や社会状況の論評のひとつに「行き過ぎた個人化」というのがある。

 そもそも近代化とは、社会学的には「個人化」というものをつくることであった
 これは、コミュニティの全体最適よりも個人の部分最適のほうが優先されるというベクトルである。全員が一緒にいてほどほど幸福であるよりは、ひとりひとりがばらばらになっていいからそれぞれが幸福なほうがいい、ということである。
 このコミュニティの大きさは、かつてはムラ全体だったがやがて一族となり、本家だ分家だという話になり、そして戦後は核家族となり、そしていまや家族でさえも最小単位とならなくなり、一人ひとりとなった。
 昭和の日本型会社経営は、疑似家族という文化をとりいれた。これも時代が進むとともに契約型にシフトしていっている。

 メディアの技術革新もそれを手伝った。お茶の間で家族全員にむけて情報を提供してきたテレビはやがて、各部屋に置かれるようになった。これはみんなでそこそこ面白い番組をみるより、ひとりひとりがそれぞれ面白いと思う番組をみるほうが優先されるということである。テレビが個室に入っていく歴史と、紅白歌合戦の視聴率が迷走していく歴史は完全にリンクする。
 さらにインターネットの普及、ブロードバンドの躍進。携帯電話の登場。そしてスマホへ。「必要は発明の母」というのであれば、科学技術のほうは確実に「個人化」をフォローアップしていった。

 しかし、ほんらい人は孤独に弱い。孤独は免疫力を弱め、寿命を短くする。
 そこで家族や組織に代わるコミュニティを人は求める。学校のグループだったりママ友だったり。LINEやSNSはそれを補強する。
 だが、コミュニティというのは連帯であり、連帯というのは必然的に排除との関係で起こるものだから、かつてのムラのコミュニティがそうだったように、現代のコミュニティにも神経戦と人柱を覚悟しなければならない。


 というわけで、「行きすぎた個人化」で、かつての歴史にはないほど、現代は個人の嗜好や欲望が満たされるようになったが、その半面、だれもが個人つまり自分自身を優先するために、誰も自分を守ってくれない社会ともなった。
 現代は、個人の欲望がもっとも満たされやすい時代であるとともに、最も個人が攻撃されやすい時代にもなったわけである。

 そこで、「自分自身を使い分ける」という処世術が出てくるようになる。
 最近よく聞く「キャラを使い分ける」とか「キャラが被る」という切り口は、自分自身の立ち振る舞いをキャラクターという「機能」に仕立て上げる発想である。

 「機能」であるから、優秀なのとそうでないのがある。
 この機能が優秀かどうかは何で判断されるかというと、相手がそのキャラを受け入れられるかどうかである。優秀かどうかは相手が決める。「機能」とは作用されるものがあってこそ「機能」であり、この場合であればそれは人間相手そのものということになる。
 だから、キャラを使い分けるというのは、「相手に合わせて自分の立ち振る舞いを使い分ける」ということである。キャラが被る、というのは、「相手と同じになってしまう」ということである。
 相手本位の発想がここにはある。

 しかし、あらためて個人化の歴史を考えてみれば、昔から人間は社会を形成する上で「相手本位」だったということである。ムラ社会の時代から、大家族主義の時代から、相手との相対関係の中で自分の立ち振る舞いは決定されてきた。そして、そのこと自体は今も変わらないのである。ただ相手が地縁血縁から、同じ学校とか、SNSになっただけである。
 元来において人格とか個性というのはアフォーダンスなものなのだ

 つまり、かつてないほど個人の欲望が達成されやすい時代であるにもかかわらず、相手との関係性の中で立ち振る舞いが規定される社会、というのが現代の日本である。この前者と後者の格差が開ききったのが現代の日本なのである。
 相手との関係性の中で、自分のキャラが決定される、というのは時代に不変で、至極当然なことなのだが、なまじ個人礼賛というもうひとつのベクトルが働いたおかげで、「相手本位」が極度のストレスになったり、”本当の自分でない”という疑心をつくりやすくなったりしたと言える。


 本書で導入された「分人」という概念は、「相手本位」である人格というものを肯定的にとらえる試みである。
 「行き過ぎた個人化」の時代の中で、自分探しとか自分磨きとか、あるいは「かけがえのない自分」とか、自分自分と求心的になればなるほどなぜか苦しい。それはもともと「自分」とは相手あってこそできるものである。自分は他人がつくるもの。他人は自分がつくるもの。そうすれば喜びは2倍。悲しみは2分の1である。


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