読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

さよならドビュッシー

2010年03月02日 | クラシック音楽
さよならドビュッシー

中山千里

 「船に乗れ!」「カルテット!」に続いてクラシック音楽小説第3段。ただし今回はミステリー小説なので、ネタばれはご法度である。
 新人作家なのだが、文章も描写も構成も、そして音楽への造詣も「カルテット!」よりははるかに達者である。

 それにしてもここまでクラシック音楽を題材に小説が出てくるというのは、やはり「のだめ」効果なのだろうか。特にこの「さよならドビュッシー」はピアニスト志望の女子高生が主人公だから、もろに「のだめ」被りである。のだめが“嫌味のようにらくらく弾く”ショパンのエチュード作品10-2や、ルイがその技巧の切れ味を見せまくるリストの超絶技巧練習曲「マゼッパ」が、この小説でも効果的に出てくる。


 だが、タイトルにもあるように、この小説で主人公が魅せられたのはドビュッシーである。「のだめ」ではマラドーナ・コンクールの課題曲としてドビュッシーの「喜びの島」が取り上げられていたが、こちらでは「月の光」と「アラベスク第1番」という曲が使われる。

 「月の光」と「アラベスク第1番」。どちらもドビュッシーのピアノ曲としては初期の曲であり、芸術的価値は先述の「喜びの島」や、組曲である「版画」とか「映像」、あるいは「前奏曲集」のほうが高いとされる。ただ、中期以降のドビュッシーはわりと晦渋なところもあって鑑賞者を選ぶのも事実であり、むしろ初期の曲のほうが万人の耳になじみやすい。特に「アラベスク第1番」は、今となってはほとんど子供の学習用の曲であり、プロのピアニストがコンサートでとりあげることは、全曲演奏会でもない限りまずないと言ってよいのだが、しかしその官能的な旋律、ゆらめく和声の響きは、確かに魅力的なのである。

 「月の光」も、超メジャーな曲で、各種アレンジも横行している。本来はベルガマスク組曲という4曲からなる組曲の3番目の曲なのだが、これだけが有名になって、こちらのほうはコンサートでも、アンコールなんかで弾かれることがある。この曲、弾いている本人も気持ちいいのである。

 この小説では、他にもいろいろな曲が出てくるし、もしかすると要求される知識、つまり知っていればなお臨場感が増すという意味では「船に乗れ!」よりもはるかに読者を試しているように思える。
 だが、僕が思う範囲内では、もちろん荒唐無稽なところもあるとは思うけれど、でも矛盾はない。にわか仕込みの知識で埋め尽くしている感じでもない。それどころか、楽曲の選定も、その描写もかなりよく考えこんであると思う。「月の光」も「アラベスク第1番」も最初はえー?と思ったが、よくよく読めばどうしてなかなか必然的な選曲である。

 それでいながら、これは、さらにミステリー小説なのである。

 ミステリーの出来、あるいはミステリーの種類についてはここではいっさい触れないが、チャレンジャーだなあと思う。クラシック音楽と推理のダブルスタンダードといってよい。得てして、こういうものはどちらかが立ちすぎて、どちらかが中途半端になることが多かったりするのだが、新進にしてはかなりうまくいっているのではないだろうか。もっともミステリーに関しては、海千山千の読者がいて、もしかしたらクラシック音楽の部分以上に、いろいろクレームをつけてくるかもしれない。そういう意味でも、宿命的に口うるさい読者を2倍相手にしなければならない小説なわけで、「このミステリーがすごい!」でも大賞受賞とのこと。すごい人が現れたものだ。同じ登場人物でぜひシリーズ展開してもらいたい。

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カルテット!

2010年02月19日 | クラシック音楽
カルテット!

鬼塚忠

 「船に乗れ!」がなかなかおもしろかったので、もういっちょ音楽小説読んでみようと思って、書店で平積みされていて、今回は何も確認せずに買ってしまった。

 で、「船に乗れ!」の後だから余計そう思うのか、なんとなく著者の音楽に関する知識や経験の浅さが出てしまったように感じてしまい、それが残念ながら白けさせてしまった。来歴をみると、まったく無知ということでもなさそうなのだが、おそらく普段の仕事や趣味としてクラシック音楽に接してきたわけではなさそうということである。
 本書のネットでの評判をみると悪くもないので、僕は読者としてむいていなかったのだろう。

 というのは、僕も決してクラシック音楽どっぷりの毎日ではないのだけれど、それでも、本書を読むと、いちいちリアルじゃないのである。先生の指導内容も、楽曲の選定も、演奏の描写も、んなわけないだろ、というツッコミどころが多く、そういうところでしらけると物語そのものもどうにもうそっぽく感じてしまう。あえて荒唐無稽をねらっているなら、それは十分にありなのだが、むしろ本物らしくしようと思って、かえって外した感がすごく強いのだ。

 でもこれは僕のほうが、たまたまクラシック音楽に経験と興味があって、それがかえって鑑賞の邪魔をしてしまった結果だろう。

 だから、逆にいえば、スポーツ小説とか、業界小説とか、とにかくある専門的なテーマについて小説を書くとき、作者は常に、その世界に通じている人のウオの目タカの目にさらされているということになる。僕が何気なく読んでいた専門領域を扱った小説も、その筋の人から見れば、間違いだらけ、というかありえないことだらけ、というのは多いにあったに違いない。

 そういえば、マンガでピアノを演奏しているシーンについて、かなりの確率で間違っている描写がある。さすがに「のだめ」や「ピアノの森」は正しく描いているけれど、もともと音楽をテーマにしていないマンガが、ピアノの演奏シーンでついやってしまう間違いというのが、ピアノの鍵盤を指で押したときの、鍵盤の下がり方である。

 指で押すと、ピアノの鍵盤は地面に平行の形からやや斜めの状態で落ちるのだが、この斜めをけっこうな傾斜で下がる形で描かれているシーンがけっこうあるのである。僕が覚えているだけで、大御所、あるいはベテランな人が何人もこれをやってしまっている(名前は出さないけど)。

 うーん。でも、これは僕も、会話や仕事でつい何気なくしゃべったり書いたりしていて、うわ、こいつは思いっきり勘違いしてるぞ! ということがこれまでにきっとあったに違いない。なにしろ、当人はそう信じ切っているし、日常それで何の不都合もないから、たぶん永遠に気付かない。
 そういう勘違いって誰でも持っていると思うけど、表現を生業にしている人は、いつどこで指摘されるかわからないから、ほんとたいへんですね。

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船に乗れ! Ⅲ

2010年02月10日 | クラシック音楽

 船に乗れ! Ⅲ

 藤谷治

 というわけで、ⅠⅡ巻に続き、Ⅲ巻読了。全部読んだ(スピンオフの短編がひとつあるらしいけど)。当初の想像以上に読み甲斐があった。読後の反芻も充分にあった。

 今回はややネタばれ。
 音楽青春小説ではあるが、メタレベルでみると、本書の骨格を成しているのは、要所要所で現れる金窪先生の哲学の授業である。言わばこれが物語進行の通奏低音になっていて、その講義の実践編として津島サトル君にあらゆる試練がふりかかり、歓喜、高揚、苦悩、絶望、悔悛があり、へんな例えだが、スタジオの解説とVTRの中の寸劇-音楽学校を舞台にした寸劇、みたいな関係とも言える。実際、どんだけ無茶やってんだと言いたくなる登場人物たちの言動は、すべて金窪先生の講義や科白に回収されている。
 主要登場人物の中で唯一音楽に関係のない立場が彼だけ、というのも示唆的である。

 だから、タイトル「船に乗れ!」も、これは音楽関係の言葉ではなくて、哲学史上の偉人ニーチェの言葉なのである。
 
 そして津島が到達した境地が、特にコトバとしては現れていないが、「赦し」だろう。
 「赦し」であって「許し」ではない(「許し」は金窪先生によって否定されている)。
 「許し」と「赦し」の違いは、人によって講釈が異なるのだが、前者が「本来は許容できないものを、許容できるものとみなす」ことに対し、後者は「許容できないものを許容できないものとした上で、しかし受け入れる」という態度である。だから、「許さないが、赦す」という言い方もあり得る。この3部作の最終章はこの「赦し」をめぐる津島と金窪先生の対話だ。

 で、津島が彷徨の末に得た「赦し」の対象とは、他人のだれかではなくて、自分に降りかかる人生、運命に対して、である。泣き、嘆き、悲しみ、慄く試練が降りかかるこの人生に対し、あるがままをよしと受け入れる態度である。
 この境地に至らない限り絶対に「幸福」にはなれない。

 この人生をあるがまま赦せという態度、一見すると「幸福」というよりは「諦観」、またはある種のニヒリズムも感じる。だが、「赦し」による受容で終わりではない。

 実は、その先には「感謝」がある。

 自分の人生をこんなにした、すべての原因に対し、「感謝」さえ芽生えるようになる。

 南の最後の手紙を受け取った津島は号泣し、翌朝「甲羅を剝がれた亀のような、すっぱだかの素直さ」の心境に至り、すべての人に感謝を感じる。


 このことは、エリザベス・キューブラー=ロスの「死の受容」のプロセス、死が宣告された人がたどる精神の過程、「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」に近い。「子育てハッピーアドバイス」の著者である明橋大二は、この「死のプロセス」の概念を援用し、絶望的な状況に乗っ取られた人間が最後に行き着くのはまさに「感謝」だ、と言っている。素直な感謝心が芽生えた時、それは「幸福感」と限りなく紙一重と言えるだろう。


 ヒロインであるところの南枝里子は、津島よりはるかに深刻な状況下に追い込まれ、しかし津山より先にこの「感謝」の境地に到達した、とも言える。それが南が津島にあてた最後の手紙「あなたは私の全部を壊した。あなたが私にしてくれた全部、ありがとう」というところに収束される。その「全部」が今日の人生をつくり、しかも未来へとまだ続く。
 逆に津島の親友である伊藤は、天才的なフルートの腕を持ち、圧倒的な人気を得ながら、彼の学校時代、「幸福」になれなかった。彼の悲しい嗜好に彼自身が受容できなかったのだろうか。

 実際のところ、この「自分の人生に対する赦し」こそが幸福感への唯一の道という境地に至るのは極めて困難だろう。

 往年の大ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインの名言のひとつで、僕が大好きなものにこんなものがある。

私は人生をあるがままに受け入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件も設置しない時、はじめて感じることができるものだ。(吉田秀和 世界のピアニスト 所収)

 吉田秀和は、ルービンシュタインを、ピアノの名人のみならず、「人生の達人」と評している。


 いや、ほんとにこの小説は面白かった。彼らの最後の演奏会、モーツァルトの交響曲「ジュピター」の第4楽章が頭の中で鳴ったとき、身震いまでしてしまった。(ちなみに、僕のプロフィールに貼ってある楽譜の写真は、まさしくジュピターの冒頭、鏑木先生がいい加減に弾くな! と怒鳴っていた三連符の部分である)


 ここまでハイブローで書いてきたが、本書はもちろん単純に、登場人物に感情移入しながら読み浸ることができる。南の親友であるところの鮎川千佳なんてとくに気になるところである。一人称小説の常として、「自分」であるところの津島以外の登場人物が、津島の見えないところで、何を考え、何を行動したかは結局のところはわからない。彼女が本当は誰に何をどう思っていたのか、なんてのは想像するに楽しい。

 それから僕が案外にリアリティを感じるのは、津島の副科ピアノの担任である北島礼子先生(大学からの出向だから、そう津島と年齢差があるわけでもない)である。
 学校では徹底的にクールな評判をとっておきながら、津島の肩に頭を乗せたり、夜中に二人きりで練習室で向かい合い、傷心の津島の前にラフマニノフを奏でる。津島がチェロを辞めることを最初に告白した相手であり、津島の浪人時代の孤独なノイローゼでの唯一の逃げ場であり、明らかに津島にとって特別なポジションにあった北島先生は、実は「凄まじい時化をゆく船」の人生でありながら、いっちゃあなんだが、最後まで「津島に手を出さなかった」。いくらでも押し倒せるはずだがそれをしなかったのである。
 僕が思うに、北島と南はまさしく対照の関係にあって(そういやこうして書いて気付いたが、名字だって北と南じゃないか)、南が勇み足して崩壊した領域に、北島は最後まで足を入れなかった。そこにわずかな年齢差の、自分を律する力の差があった。


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船に乗れ! Ⅰ・Ⅱ

2010年02月09日 | クラシック音楽
船に乗れ! Ⅰ・Ⅱ

藤谷治

 とりあえず、全3巻のうち、上巻中巻にあたるⅠ・Ⅱを読んだので、いったんここで何か書いてみることにする。ネタばれなしである。

 ちなみに、本書のことは全く知らなかった。刊行は2008年で、実はけっこう話題になったのが2009年ということだが、めぐりあわせの悪い僕は今までまったく知らず、たまたま近所の本屋の平積みで知ったにすぎない。
 僕はクラシック音楽は好きだし、「のだめ」も十分に楽しんだタチなので、チャレンジする価値はあるに違いない。とはいえ、本書のことも、作者のことも知らなかった。しかも、ハードカバーで全3巻。5000円以上の出費である。僕は買おうか買うまいか、ずいぶん悩んだ。

 だいたい、僕はいわゆる「青春小説」というもの、決して明るくない。あまり読んでないといってよい。椎名誠の「哀愁の街に霧が降るのだ」、氷室冴子の「海がきこえる」、清水義範「学問のススメ」、、長嶋有「僕は落ちつきがない」それくらいだろうか。そういえば庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」や三田誠広の「僕って何?」といった名作の誉れ高いものをまさに高校生のときに読んでみたが、当時でもさすがに隔世の感があった。
そのくせ読み始めると、ハズカシイような気分で案外にも没入して、自分の青春時代(!)と比較してブルーになってしまうのである。
 というわけで、青春小説というものは食指がためらう。しかも決して興味がないわけではないのだから始末に負えない。
 ただ、こと「クラシック音楽もの青春小説」となるとやはり心動かされる。僕は指揮者の故・岩城宏之の芸大時代の回顧録「森のうた」にとにもかくにも夢中になり、これが大学受験勉強を進める上での最たるモチベーション原動力になった。

 書店で、本書をぱらぱらと立ち読みし、いまひとつしっくりこないものの、舞台は80年代、どうやら主人公が高校生でチェロを専攻していて音大付属の高校に入ったらしい、ヒロインはヴァイオリンを弾いている・・くらいまで把握し、ちょうど他に読みたい本もなかったので、ひとまずI巻1600円也を買ったのだった。

 で、読み始めたら慙愧に堪えないことに、なんだか夢中で読み進めてしまい、もちろんⅡ・Ⅲ巻もすぐに買い、そしていまⅡ巻が終わったところである。


 僕自身は、音楽専門ではなくて普通の高校に通っていたが、音楽部―弦楽部に出入りしていた。なぜか僕の高校はオーケストラというものがなく、弦楽部と吹奏楽部が歴然とわかれていたのである。とはいえ、僕の楽器はヴァイオリンでもチェロでもなく、ピアノだったので毎回は出番がなく、たまに借り出されるくらいだった。だから、正式な部員というわけでもない。
 それでも合奏というものが経験できたのはなかなか貴重で、あれは独奏とは神経の使い方がだいぶ違う。違う筋肉を使うといってもよい。独奏ではうまくいっても合奏ではめちゃめちゃになるということはかなり頻繁にあって、そこらへん本書でも扱われているが、だからそのぶん、合奏がうまくいったときのカタルシスは独特のものがある。
 転じて、多感な高校生であるから、この合奏体験がなんとなく気持ちの高揚を招き、いわゆる「文化祭カップル」と同じ効果を発揮して、誰と誰がどうのこうのという話は片思いも両方も含めて、実に多く繰り広げられたのであった。
 で、まったく遺憾なことに、この僕にはそういう事態がひとつもなかった。僕が出入りした弦楽部は女子生徒15人に対し、男子生徒が僕含めて4人という状況であったにもかかわらず、すべては僕の目の前でおこった他人同士の話であり、むしろその疎外感にざらついた思い出がある。どうもそこらへんがトラウマというか妙なコンプレックスになって、僕にして三十代後半のおっさんとなった今なお青春小説をつい遠ざけているようにも思う。

 それはともかく、Ⅰ・Ⅱ巻と読んで、なぜ自分はこのような高校生活を送れなかったのだろう、などという悔い(?)はひとまずおいといて、なんとなく思い至るのは「きっとあのときたくさんいた弦楽部の女子生徒の皆々は、後輩だった人も含めてずーっとオトナだったんだろうなあ」ということだ。それにくらべて当時の自分は彼女たちから見てすごくバカに見えてたんだろうなあなんて、遠い目をしてしまうのである。
 実際、僕はこの小説に出てくるヒロイン南枝里子の造型や性格に、当時その弦楽部にいたある後輩の女子生徒がついだぶってしまい、本書を読んでいるあいだ、南のビジュアルイメージはその彼女だった。本書を読むまで、すっかり忘却していたのに、である。(ちなみに南の親友である鮎川千佳は、なぜか会社の同僚に被った)。

 携帯もインターネットもなかった時代の話だから、今の高校生が果たしてこんななのかどうかはよくわからない。主人公のようにニーチェを読んで背伸びに浸る男子高校生なんて、僕のころには確かに存在したけれども、果たして今いるのかしら?

というわけで、まじめな感想は次のⅢ巻のところで書こうと思います。

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のだめカンタービレ 最終楽章 前編

2010年01月09日 | クラシック音楽
のだめカンタービレ 最終楽章 前編(ネタばれあり)

「のだめカンタービレ」の映画、観にいってきた。「最終楽章前編」である。

それにしても強気のマーケティングである。宣伝によれば200万人動員突破ということだが、この映画を見るためには、まず2夜に渡って放映された正月特番テレビドラマを見ていないと話にまったくついていけない。そして、この特番ドラマは当然のことながら、一昨年に放映された全13話のドラマを観ないと話にならないのである。もっとも、原作のコミックにかなり忠実なドラマだったので、コミックさえ読んでいればよい、というわけでもある。

僕はコミックは全巻読み、ドラマも特番もすべて観た、つまり、まさしくこの映画のターゲットだったわけだ。

で、結果の感想はどうだったか。
所詮テレビドラマの延長であり、「映画」である理由、「映画」ならではの特性というものはほとんどない。テレビで十分であり、レンタルDVDでも事足りるだろう。レンタル化を待てずに、劇場に足を運んだのは、一刻でもはやく観たかっただけである。

が、にも関わらず。僕はこの映画で不覚にも涙した。チャイコフスキーの「1812年」の最終部の行進曲が始まるところで、涙が落ちた。(実は、映画の中でものだめの瞳から涙が落ちる)。こちらの精神状態もあったのかもしれないが、ほんとにつーっと涙が落ちたのだ。

千秋が常任指揮者となったマルレ・オケが、これまでの退廃に別れを告げ、復活をなし遂げた演奏会プログラムの最初の曲、原作コミックでは、ロッシーニの「ウィリアムテル序曲」だったが、映画ではチャイコフスキーの「大序曲『1812年』」があてられた。
「1812年」、俗に“いっぱちいちにい”と呼ばれるこの曲、クラシック音楽の大海の中では、実はどうってことない曲で、むしろ珍曲、冗談音楽の域にあるゲテモノといってもよい。ナポレオン率いるフランス軍がロシアに攻め入り、それをロシア軍が撃退する、という音楽で、フランス国家とロシア国家がいり乱れる。ただ、大砲音が入ったり、鐘の音がジャラジャラ入ったり、バージョンによっては合唱も入ったりして、実に音響的なカタルシスをもたらす。つまり、B級名曲なのである。
が、にもかかわらず、ロシア軍の凱旋となって大砲音が入り、全合奏でゴージャスに下降音が繰り返され、それから高らかに歌われるロシア国家、そしていよいよ景気のよい行進曲へとうつるあたりの高揚感にすっかりしてやられた。してやられたのは、この部分に、どうしようもなく堕落していたマルレオケの努力の末の復活が重なっており、指揮者千秋の最初の栄光が顕れ、そこに僕が感情移入しまくってしまったからに他ならない。

いや、まさしく音楽の力は偉大だ。

僕は原作を最終回まで読んでいるので、この先、誰が何をどうしてどうなっていくのかは知っているし、今回の映画でも先の展開を知りつつ観ていた。だから、もっぱら鑑賞のポイントは役者の演技や映像上の演出、それから実際に音になって表れる音楽である。
で、玉木宏の千秋、上野樹里ののだめはテレビドラマのときから安心して観れるし、演出も、のだめの「変態の森」のCGはやりすぎの感もしないではないが、まあひとつのサービスであろう。僕は圧倒的に「音楽」に酔いしれたのだった。

マルレ・オケの復活となった演奏会のメインプログラムは、原作ではベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ」だったが、映画ではチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」をあててきた。この変更は実に効いていて、あの救いようのないどん底気分の楽想が、のだめの絶望に見事にシンクロした(そのために原作での千秋が「エロイカ」の指揮をミスる、というエピソードはなくなったわけだが)。

千秋の活躍する姿、演奏の出来を目の当たりにし、のだめは絶望する。そこからの再起とさらなる波乱が「後編」に委ねられる。僕は原作で全部展開を知ってしまっているから、注目はシュトレーゼマンとのコンチェルトでどんな演奏をしてみせるか、だろう。映画の最後に後編の予告があり、ショパンのピアノ協奏曲第1番が演奏される(原作と同じ)。現実の世界では、ショパンのこの曲、ポーランド人ピアニストのクリスティアン・ツィマーマンの一石を投じた演奏が有名で、「のだめ」でもたぶんそれを意識するとは思うのだが、果たしてどういう演奏を見せるのか、要注目である。

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のだめカンタービレ(最終回)

2009年10月13日 | クラシック音楽
 のだめカンタービレ(最終回)---二ノ宮友子

 連載(月刊誌「Kiss」)のほうで、ついに「のだめカンタービレ」が最終回を迎えた。
 以前、このブログであと単行本2冊分くらいで終わりそうと書いたら、本当にそうなってしまった。うーむ。もっと読みたかったなあ。

 以下ネタばれ。単行本で追いかけている人は読まないほうがよい。

 最終回は、さまざまな登場人物のその後を示唆することにだいぶページが費やされ、多分にエピローグの性格が強かった。実質上の最終回クライマックスは前号の千秋とのだめの二重奏ということになる。曲はモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」。つまり、第1巻。2人が最初に演奏した曲だ。最初に演奏された曲が、長い長い旅路の末に、最後にまた戻って演奏されたわけで、バッハのゴールドベルグ変奏曲のような円環構造となった(最後の曲は、かつてのだめが千秋に共演を希望したラフマニノフの協奏曲第2番かと予想したのだがこれはハズれた)。

 それにしても、クラシック音楽相手にここまで漫画にして見せたことに驚嘆する。玉木宏と上野樹里のテレビドラマ版もそうとう喝采を送りたい出来ではあったが、よくぞここまで至ったものだ。作者二ノ宮友子の才能と努力のたまものではもちろんあるが、原作の漫画も、テレビドラマにしても、かなり周囲の人に恵まれた作品だったようにも思う。聞くところによると、連載当初はたいして人気もなかったそうで、それでも路線変更せずに描かせ続けた編集者と出版社の慧眼も評価してよいだろう。なにしろ作者によれば、初めから描きたかったのはパリ編で、桃ヶ丘音大編は、そのための長いプロローグだったというのだから、ねばり勝ちだ。

 クラシック音楽が漫画の題材になりうることを示した点では、他にもさそうあきらの「神童」や、一色まことの「ピアノの森」などがあるが、人口に膾炙した点ではこの「のだめ」がおそらく一番だろう。
 ここまで成功した要因はいろいろあるだろうが、他のクラシック音楽のマンガと比較してなんとなく思うのは、豊富な登場人物を配置させ、とくに主役級を2人置いたことにあるように思う。この2人、もちろん千秋とのだめだが、指揮者とピアニストというのは意外にも接点が少ない。ピアノは本来が独奏を主とする楽器で、オーケストラを中心に活動する指揮者が、ピアニストを相手にすることは実はあまりない(通常、オーケストラ編成にピアノは含まれない)。このつかずはなれずの指揮者とピアニストをダブルスタンダードにして物語を進行させる、という周到な構想に成功のカギがあったように思う。

 それにしても、こういう作品が出てしまった以上、これ以上のクラシック音楽題材マンガの出現は当面無理なのではないか。


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のだめカンタービレ(第20 ・21巻

2008年08月12日 | クラシック音楽
のだめカンタービレ(第20・21巻)---二ノ宮友子---コミック

 ラヴェルのピアノ協奏曲が重要曲として出てくる。

 この曲は単純明快で能天気な曲のようで、一癖も二癖もあるヘンな曲だ。甘美的な第2楽章が有名で、ここだけムード音楽みたいになるが、もちろんラヴェルは確信犯的にやっているわけで、これを表面的にしゃあしゃあとイージーリスニングのように弾いてしまっては落第である。そして、その両端を挟む第1・3楽章がまた妙な曲だ(第3楽章にゴジラのテーマの「素」が出てくるということでも知られている)。のだめが浮かれるように、様々な楽器が次々繰り出す、音のおもちゃ箱のような展開で、なんとなく、楽しくドンちゃん騒ぎをしているような曲だが、一方で、白日の狂気とでもいうものを感じる(ゴッホのひまわりみたいといえば当たらずも遠からず)。というのはこの曲、騒いでいるだけで何も楽想が解決しないのである。
 このような錯綜する音の戯れの両端楽章の間に、うそ寒い第2楽章がローローと奏でられるというラヴェルの構想に、実は、大盛り上がりしてながら全然目が笑っていない恐怖めいたものを感じるのである。ラヴェルは、真に変人だったヒトで、いつも怪奇幻想の影におびえ、廃墟のようなノスタルジーに憧れを持っていた。

 この仮面のような曲を軸にして、千秋をめぐるのだめとRUIの対立の構造、そしてのだめに訪れる絶望が、第20巻から第21巻にかけてのストーリー。この冷ややかなどん底感は、これまでの21巻分の中では初めてだ。しかも伏線にファウストが出てきたことから、悪魔の契約の相手(メフェスト)としてのシュトレーゼマンと、さらなる千秋の救済ということで、なんだか最終回が近づいてきているような予感。単行本にしてあと2巻くらいで終わりそうな気がする。

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ボクたちクラシックつながり

2008年02月29日 | クラシック音楽
ボクたちクラシックつながり  ピアニストが読む音楽マンガ---青柳いずみこ---新書

早い話が、ピアニストが書いた「のだめカンタービレ」のアンチョコであるからして、僕を含む「のだめ」が好きな人には楽しい。楽曲の特徴や選曲の意味、千秋やのだめがしゃべった言葉の真意みたいなことをプロの目線で解説してくれる。

たとえばのだめがマラドーナコンクールの本選で弾いた、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカの3楽章」(途中で「今日のお料理」になってしまったやつ)は、アイススケートでいうところのレベル4なみの難曲である、とか。千秋が弾き振りでバッハのピアノ協奏曲を弾いたが、弾き振りというのは物凄く神経が疲れるのだ、とか。

が、「のだめ」を知らなければちとつらいのではないか? 本書では、さそうあきら「神童」と、一色まこと「ピアノの森」も登場するが、こちらはどちらかというと注釈レベルだ。僕は、「神童」は読んでいたが「ピアノの森」は読んでいない。

とはいえ本書で著者の筆が特にノッているなと思ったのは、唯一「のだめ」の解説から逸脱した最終章「ピアニストは本当に不良債権か?」の項。いやほんと。音大ほど、これまでつぎ込んできたお金と時間に対し、割の合わない卒業後のキャリアはないだろうと思う。著者は、日本人ピアニストの中では一線で活躍しているほうだと思っていたけれど、それでも自由業ながら確定申告が必要になったのは最近なのだそうな。

ところで、クラシックピアノを題材にしたマンガが華やかな現代だが、僕が中学生くらいの頃、少年ジャンプで「音吉君のピアノ物語」という連載マンガがあった。作者はピアノ教師だったはず。残念ながら漫画家としては素人に毛が生えたレベル(デビュー作だったか)で、悪名高きジャンプ・システムにはまらず、精彩を欠いたまま終わってしまったに記憶するが、今思うに、これこそ野心的なピアノ・マンガであった。ショパンやリストが楽譜付で登場し、のだめが「嫌味なくらい楽々と弾く」ショパンの難曲練習曲作品10-2を、主人公の音吉君は、ひたすら小指と薬指を鍛えてついには弾きあげ、今をときめくフジ子・ヘミングのトレードマーク、「ラ・カンパネラ」を、音吉君は、目をつぶりながら、鼻血を滴らせながら弾きのけ、ついでにラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」のソロパートは、左手をつき指したために、特訓して右手で弾いてしまうというなかなか壮絶なものだった。思うに、登場が20年早かったのだな。




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主題と変奏

2008年02月20日 | クラシック音楽

主題と変奏----吉田秀和----文庫本

先日に続いて、もうひとつ吉田秀和。
昭和20年代の、初期の論評風エッセイ、あるいはエッセイ風論文。いまや全集でないと読めないものが古本市で文庫本ゲット。

おどろくべき格調にして温和がもたらす身震い。ものすごく直情径行なエッセイから入るのに、いつのまにかスコアと対比させながら楽理的に話を進めるシューマンやモーツァルトの評論にくらくら。セザール・フランクを扱ったエッセイは人生論を通り越して感動でさえある。論評に関心することはあっても感動することなんてないよ。(それにしても、昭和20年代にシューマンの「暁の歌」の存在を知っており、しかもその「異常性」を指摘している、ってモノスゴイことなのではないか??)

それにしても、この人が凄すぎたために後進が育たなかったのではないかというくらい、彼の後継にあたる人が見当たらない)。その類稀なる教養と持ち合わせた上品さと批評精神。もはや時代的にも情勢的にも彼のような人材が輩出されることはもうないだろう。最近は朝日新聞の夕刊でほんのごくたまに寄稿されているのを見るだけで、噂ながら原稿料も破格らしい。そういう意味では半ば伝説化した古き良き時代のインテリなわけで、これはよもやすると彼こそホロヴィッツみたいな立場になってしまったのではないか。「ひび割れた骨董品」にならずに全うしてほしい。


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私の好きな曲

2008年02月18日 | クラシック音楽

私の好きな曲----吉田秀和----文庫本

 かつて新潮社から出ていたように思うのだが、ここにきてちくまから文庫本化。著者、吉田秀和は、日本のクラシック音楽批評界の超がつく大御所。もう90才を越えている。本書はその吉田秀和が、おそらくもっとも文章がのっていた頃で、インテリの極み、今日びこんな文章をかける人は、もはや時代や状況や価値観からありえないとさえ思える。逆に言えば、時代と状況が彼という人材を送り出したわけであり、吉田秀和の文章は、戦前戦中の上流家庭(成城)に育ち、当時の東大仏文に進み、昭和30年代に外遊し、当時の価値観で外国人の奥さんを迎えたというベースがあってこそ成立しているということだ。

 それがよくわかるのが「ストラヴィンスキー」と「フォーレ」の項だ。おそらく、吉田秀和空前絶後の私小説とも言ってよいほどのエピソードに彩られており、「ソロモンの歌」で中原中也について語っているエッセイとあわせて、彼の精神土壌が何であるかを明らかにする。特に、空襲による被害を避けるためにフォーレのレコードを庭の土中に埋め、戦後それを掘り出して聞き返すあたりは、小説の最終章を彷彿させる感動がある。

 吉田秀和の本性はかなり激情型なのだ。だが、その激情をかなりハイレベルにコントロールしているのが彼の類まれなる教養とたしなみだ。彼の秘める熱い思いの高さは、宇野功芳さえ凌いでいると個人的には直観しているが、それをストレートにぶつけず、やんわりと文章にしてしまうおそるべき自己コントロール力があり、この点で彼に匹敵している音楽評論家は見当たらない。


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グレン・グールド-孤独のアリア

2008年01月31日 | クラシック音楽
グレン・グールド-孤独のアリア---ミシェル・シュネデール(訳:千葉 文夫)---文庫本

 レコーディングのみでコンサートを一切しない。J-POPでは見かけるがクラシックではかなり稀。そんな異端なピアニストであるグレン・グールドは、その奇矯な言動もあって音楽界のみならずメディア論や社会学、心理学からひきこもり学までやたらに引用され、亡くなって20年以上経つのに全く存在感衰えない。数年前だったか、木村拓哉がオススメするピアニストとしても登場したし、全然音楽と関係ないはずのEsquire日本版の今月号にも出ている。ホロヴィッツもルービンシュタインもこんな現象はおこってない。グールドすげえ。

 ただ、そんなグールドの独特な雰囲気に飲まれてか、グールドを引用する各センセイ方の文章はどれも難解で抽象的なのだ。音楽評論家も精神分析家も社会学者も、どうもグールドを引用するとインテリちっくな発言をしたくなる衝動に駆られてしまうらしい(かつてのニューアカを髣髴させるような・・そういや浅田彰もグールドが好きだったな)。

 私見だが、文学にせよ心理学にせよ、フランス系の学者に特にグールド贔屓が多い気がするのは、彼がカナダ人(フランス語圏)というのも関係しているのだろうか。仏文出身で葉巻とワインが趣味の私の知人(専攻は芸術論(!))も、グールドを語っていたことがある。本書もフランスの心理学者が書いたグールド論。ゴールドベルグ変奏曲と同じく、アリアと32の変奏を模した形態をとっているあたり、山っ気たっぷりで、ご多分にもれずわかりやすくないし、何がわかるというものでもないが、ゴルドベルグ変奏曲より眠くはなりました。

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