読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

もういちど読む山川世界史

2016年02月10日 | 歴史・考古学

もういちど読む山川世界史

「世界の歴史」編集委員会編
山川出版社


 というわけで、前回の「現代史編」に続き、こちらの「通史」を読み終える。

 学生の頃ならいちいち人名とか年号とか覚えなきゃいけなかったが、こちらはとりあえず筋を追いかければいいだけだから楽である。

 とはいえ、やはり中世から近世にかけてのヨーロッパ事情が はアタマに入りにくい。宗教のレイヤーと、行政基盤としての国家のレイヤーと、王朝のレイヤーと民族のレイヤーが同期せずにそれぞれ伸縮するところが、どうにも感覚的にわかりにくいのである。

 ただ、1848年が、ヨーロッパ史ひいては世界史の分水嶺で、これより以前は前史なんだなとは思った。西洋の文化や価値観を成すルーツやルールはこの前史の時代に培われたものだけれど、現代の世界からみればフランス二月革命をはじめとする「諸国民の春」と産業革命以降の諸要因が、西洋現代社会の端を発しているように思える。

 この19世紀中頃からヨーロッパは現代へと続くベクトルに動き出し、そのもつれが、第一次世界大戦につながる。この大戦でオスマン帝国とハプスブルク家が消滅し、いよいよ前近代のものはなくなって、そして現在なお尾をひく社会主義や中東問題やアメリカの台頭がここに端を発し、さらにはこのとき既に第二次世界対戦の原因の芽もでてきている。

 1848年がターニングポイントと思える所以である。

 

 とはいえ、ひとつ大きく思うのは、教科書の「世界史」というのはやはりヨーロッパ史であるということである。もちろんアジア史やラテンアメリカ史も出てくるし、20世紀後半はアメリカが主役級になるけれど、教科書の殆どを割いているのはヨーロッパだ。

 だけど、これからの世界の歴史をヨーロッパがイノベーションをつくりながら進めていくという感じはほとんどしない。これから経済成長率が高いのは中国はじめ非西欧圏だし、これから若い人口がどんどん増えて世界人口のメジャーになっていくのはイスラム圏だし、なんだかんたで存在感あるのはアメリカだ。ヨーロッパがこれからの世界史の主役になる予感はあまりない。

 そうすると今後はヨーロッパ中心の世界史を学ぶことの意味は、むしろ平家物語みたいな、挽歌めいたテイストが及んでくるような気もする。実は今回この本をずっとよんでいて、ものすごく「もののあはれ」を感じてしまったのである。歴史観としてはそういうのもあっていいと思うけれど、学校の教材としては果たしてどうなのかな。20年後の世界史の教科書は、もっとアジアやイスラム圏の記述に面積を割いて、前史時代の、ヨーロッパ史は、もっと簡素化しているのかもしれない。


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もういちど読む山川世界現代史

2016年01月29日 | 歴史・考古学

もういちど読む山川世界現代史

木谷勤
山川出版社


 僕は世界史が鬼門である。中学や高校での世界史の授業はろくすっぽ聞いていなかったし、大学センター試験は日本史で受験したから、世界史の基礎知識がすっぽり抜けている。

 その後、ようやくいろいろ知識や教養を吸収しようという気になったものの、世界史に関しては一度でも始めから終わりまでなめたことがないので、古代から現代に至るまでのおおまかな展開さえつかんでいない。

 しかし、人文や社会科学のいろいろな分野をさまよっていると部分的に世界史の知識を要求されることが多い。また、今日のように地政学論や未来予測が盛んになったり、中東やユーラシアが不穏だったり、アメリカが疲弊してきているなどという話になったり、NHKが20年ぶりNHKスペシャル「新・映像の世紀」シリーズを始めたりすると、やはり世界史をおさらいしておこうかなという気になってくる。

 要するに世界史コンプレックスなのである。

 池上彰とかの解説本でもいいのだけど、なんかそれは安直な気がしてプライドがジャマをしてしまい、まずは自分でいっかい基本を俯瞰してみたく、しかしいきなり中央公論社の「世界の歴史」みたいな大著に手を出しても挫折すること間違いなしだし、年表や資料集スタイルなのはストーリーとして頭にはいらないしなどと、ぐだぐだ考えて手にしたのが山川である。今はどうか知らないけれど、僕の学生時代は、歴史の教科書といえば山川だった。

 山川のこの手の世界史教科書は古代から現代までを扱った「世界史」と、現代史にフォーカスした「世界現代史」とあって、どちらから読もうか悩んだのだが、まずは現代史からアタックすることにした。通史から入るのがセオリーに思えるが、かつてウィリアム・H・マクニールの「世界史」を読んで、あまりの錯綜ぶりに、ついにフランス革命あたりで挫折したからである(東大で一番売れている本、なんて広告してあった本。とほほ)。

 結果としては、勉強になった。もっと早く手にとっておけばよかったと思うくらい。

 世界史が日本史と違って面倒くさいのは複数の国が同時進行するからだ。いきおい西欧諸国中心になることが多いとはいえ、中国や中東だって出てくるし、近代以降はもろに交錯する。

 そのあたりをこの「山川世界現代史」は、「近代世界システム論」という概念を援用することでそれぞれの因果関係をわかりやすく展開して記述してある。

 「近代世界システム論」というのは、アメリカの社会学者ウォーラーステインが提唱した歴史観とのことで、これ自体が大書だったりするのだが、大航海時代以降の西ヨーロッパを「中心」とし、資源や貿易や資本の育て先のリソースとして他の地域を「半周辺」「周辺」と隷属させたという見立てある。

 「山川世界現代史」では、これを援用することで、中国はアヘン戦争で西ヨーロッパの「周辺」としてシステムに組み込まれ、大日本帝国は、アジアで「中心」になろうと試みたということになり、ドイツは常に英仏から「中心」の座をとってかわろうとし、アメリカは「中心」に対しての武器庫や資金源としての役割に徹したことでやがて西ヨーロッパに大きな貸しをつくったことになり、イギリスが「周辺」として手懐けておこうとしてかえって面倒のタネをまいてしまったのが中東で、ロシア革命は「周辺」に甘んじたことによる労働者の革命で、それがやがては冷戦構造への道のりをつくる。民族自立というのは、「周辺」扱いのシステムからの脱却を目指したもの、という風に整理される。たしかにわかったような気になる。
いささか帝国主義における植民地の簒奪の告発と反省を強いる論調が強すぎるかな、とも思うが、そこらへんはディスカウントしながら読むとして、教科書にあるまじき文学的表現も随所に登場してなんだか講談でも聴いているような感じで面白い。

 

 歴史の教科書というのは、たしかにどのような観点で編纂するかでいかようにも印象がかわるわけだけど、かといって事実の羅列だけでは雑学の域を出ないし、そもそも面白くなくて頭にも入らない。「近代世界システム論」も、調べてみるといろいろ批判もあるようだけど、まあ、これを機にいろいろな見方をあたってみようと思う。





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天皇と東大 Ⅰ・Ⅱ

2013年01月16日 | 歴史・考古学

天皇と東大 Ⅰ・Ⅱ

立花隆

 明治維新前後からの近代日本の歩みを、東大という定点から俯瞰する試み。文庫本で全4巻であるが、とりあえずⅠとⅡまで読んだ。時代にして5.15事件あたりまでである。

 なるほど納得するに、東大史とはそのまま日本近代史なのである。
 本書ではとくに「右翼の歴史を中心にする」とあるが、随所でこれに対する左翼的イデオロギーの流れや重要人物にも触れていて、右も左もそのことごとくに東大の息がかかっていることに驚く。それは学生だったり教授だったりするのだが、右ならば戸水寛人、上杉慎吉、大川周明、安岡正篤、岸信介、平沼騏一郎、四元義隆、左ならば吉野作造、森戸辰男、河上肇(京大教授として有名だが、出身は東京帝大)、赤松克麿、田中清玄、宮本顕治など。また、学生や教授だけでなく、右の北一輝から左の堺利彦まで、彼ら自身が東大卒や東大教授でなくても、血気盛んな東大の学生に大きな薫陶を与え、その後に影響を及ぼした例も多い。
 つまり、当時の頭脳集団は官僚も高級軍人も学者も東大しかいなかったということである。(もちろん厳密には京大や早慶もいるのだけれど、中長期的に見渡せば圧倒的に東大関係者が多い)。

 そうなってしまうわけは、要するに、東大すなわち帝国大学が日本の行政を考える官僚の養成所としての性格を目的に設立されたという出発点にある。
 つまり、国をなんとかしたいと思う人々が濃縮培養されていく環境なのである。右も左も、日本をなんとかしなければならないという熱意という点では同じだったのである。

 今日なおこのDNAは色濃く存在している。
 霞が関のキャリア連中の大半は東大出である。たしかに彼らはものすごい仕事ができる。大量の情報を短い時間に処理していくスキルは尋常ではない。脳神経の回路がそもそも違うのではないかと思ってしまう人が何人もいる。
 一方で、想像力はびっくりするほどステレオタイプで、演繹的というか枠組型の発想の傾向が強い、というのが個人的感想だが、よく言われるノーベル賞は東大ではなくて京大から出る、というのは、ここらへんとも関係あるのかもしれない。
 とにかく、日本を動かしてやるという野心と、そのための圧倒的情報処理能力、そして人脈ネットワークが東大という磁場にはある。

 
 だから、昭和の様々なクーデター未遂やテロリズムをみると、本当の意味でたたきあげの人が下剋上で世の中をひっくりかえすというのはやっぱりなかなか難しいのだな、と思う。
 かつての日本共産党が革命のためには暴力も辞さず、と掲げていたり、革命を唱えた極左極右の暴動やテロリズムは戦前だけでなく戦後の日本近代史にもあるわけだが、歴史的に後から見れば国家体制はびくともしなかったといってよい。
 国を変えたいなら、あるいは転覆させたいなら、東大にいくしかないのである。(余談だが自作自演ハルマゲドンをねらったオウム真理教の幹部にも東大生が何人もいた)

 逆に言えば、良くも悪くも国の舵を変えてきたのは東大ということになる。
 大日本帝国を元老政治にしてしまったのも、国粋主義に染まった国体にしてしまったのも、一億総玉砕の気運にしてしまったのも、戦後の日本国憲法を受け入れてしまったのも、55年体制という枠組をつくってしまったのも、原発を戦後のエネルギーインフラとして推進したのも、プラザ合意で世界に円経済をつくりあげたのも、2001年の中央省庁再編(内閣府の強化)も、これらはみんな官僚の仕事である。政治家ではない。政治家は単なる表看板みたいなものであって、仕組みをつくったのは官僚であり、その官僚とは東大から輩出されてきているのである。
 畢竟、国をひっくり返したいなら、東大にいって、そこから高級官僚になるしかない。

 安倍首相が改憲を主張しても、橋下市長がアジっても、官僚が動いてくれなければ国の枠組みは変わらない。どれだけ国民が熱狂しても官僚を動かす力学はまったく別のところにあるのは、民主党政権発足時の鳩山首相があれだけの国民的支持の追い風の中でけっきょくなんにもできなかったことが証明している。
 逆に、1999年の平成の大合併、2001年の中央省庁再編、2009年の裁判員制度など、とくに一般国民の間になんの意志もなかったものがなし崩し的に決まっていったのも、これみんな図面をひいたのは官僚である。

 明治維新この方、おおむね日本はこうなのである。現代にあっても本質的なところは変わっていない。
 

 なお、本書の通しタイトルは「東大と天皇」で、万世一系の天皇を頂点とする大家族主義を「国体」と掲げた大日本帝国の歩みをみている。
 果たして当時の右翼系官僚や高級軍人は、本心としてどこまで「天皇」を、もっというと「国体」を信じていたのかは興味深い。心底、日本と言う国は古事記の通りの成り立ちをもつと信じていたのか、それとも統帥権独立の方便でしかなかったのか。
 そこらへんは(3)(4)を経て考えてみたい。(ちなみに、イザヤ・ベンダサン、つまり山本七平は、当時の庶民は、本当に天皇を神様として奉っていたかというと必ずしもそうではなくて、ありゃ人間だと思いつつ、神としても見る、という、日本人でしかできないダブルスタンダードを平常心で行ったと評している)。



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開国前夜 田沼時代の輝き

2010年08月30日 | 歴史・考古学
開国前夜 田沼時代の輝き

鈴木由紀子

 幕末が流行っているわけだが、エキサイティングな幕末に比べ、開国前の江戸時代後期というのはどちらかというと通好みというか、わかりにくい時代である。幕府が次第に行き詰まり、改革と失敗を繰り返していく。三大飢饉とか一揆と打ち壊しなんてのがキーワードになる一方で、化政文化が花開いたりする。シーボルト事件とか蛮社の獄というきな臭い事件もあれば、解体新書とか大日本沿海輿地全図というような日本近世科学の発展もある。

 夜明け前の混沌とも言えるわけだが、歴史経済学的には徳川幕府体制の根幹をささえる石高制が次第に「貨幣経済」にとってかわられたことによる構造矛盾が指摘されている。これは5代将軍綱吉のころからその兆しが出てきたわけだが、貨幣経済への積極的イニシアチブをとろうとした荻原重秀や田沼意次の政策は最近まで評価されていなかった。田沼意次のダーティなイメージは今なおなかなか消えないようだが、個人的には田沼のあとの松平定信(寛永の改革)なんかのほうがよっぽど時代を追い詰めたように思えるし、水野忠邦(天保の改革)なんて幕府の寿命をむしろ縮めたクチであろう。荻原重秀のあとの新井白石の治世を「正徳の治」と称したり、享保・寛永・天保の政策のように、米経済の強化やデフレを行った政策に「改革」という名をあてるなど、ここらへんは日本人の価値観が垣間見える。
 先の政権交代で、小泉竹中時代を田沼、民主党政権を松平定信に準える話も見かけたが、蓋をあければこんな具合である。幕末にカタルシスを感じるのもむべなるかなだ。


 ところで、江戸後期の人気スターといえば平賀源内で、本書も一章割いているが、この平賀源内もちょっともてはやされすぎなんじゃないかと個人的には思う。じつはドクター中松と紙一重なんでは?

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特務艦「宗谷」の昭和史

2009年08月24日 | 歴史・考古学

 特務艦「宗谷」の昭和史…大野芳

 数奇な運命を背負った船というのは案外に多い。巨大な輸送設備だし、けっこう寿命も長いから、時間軸空間軸ともに伸び、しかも船というのは大自然も相手にすれば、人間の大事業も担うということで、ドラマの下地が非常に広い。多くの人間模様が展開され、それを黙して語らずただ任務を遂行し、その生涯を全うする。

 太平洋戦争を生き残り、戦後は台湾に渡った駆逐艦「雪風」や、戦後に水爆実験の対象にされた戦艦「長門」なんかは有名なところだと思う。商船では「氷川丸」とか「興安丸」あたりは、そのまま昭和史の象徴とも言える。洞爺丸台風で九死に一生を得て生き残った「大雪丸」は、日本での役務を終えたあとなんとパレスチナ解放機構に借り出され、最後はクロアチア紛争で空爆を受けて沈没した。


 「宗谷」といえば南極観測船。というのが大方の見解だろうが、40年間の歴史の中で、南極観測に携わったのは、実は5年程度であった。戦時中は特務艦として、南はミッドウェーやトラック環礁、北は千島列島のほうまで駆け巡り、戦後は引き揚げ船から灯台補給船からと八面六腑の大活躍なのであった。
 本書は、その「宗谷」の一生を、関係者の覚書や証言を元に追いかけている。著者のホームグラウンドとはいえ、これだけの資料によくも当たれるものだとも感服するが、それ以上に、よくもまあ、こんなことまで記録に残ってるもんだ、と関心する。昔の人はこまめに記録をつけているものだ(今のブログみたいなものか?)。

 前半を主に戦時中の特務、後半を南極観測の顛末について割いている。戦時中は僚船が次々と連合軍によって沈められていくのに、「宗谷」の場合、特務艦ゆえの単独行動が、結果的に敵の攻撃にさほど会わず、無事に終戦をむかえている。それでもかなりの幸運のめぐり合わせはあったようで、一度は魚雷を受けながら、それが不発弾だったゆえに事なきを得ている。ここで沈んでいれば、後の南極観測の話はまただいぶ違ったものになっただろう。そして、8月15日過ぎてなお、南下を続けるソ連軍のいる樺太からの引き揚げを担う。この部分も見逃せない。実際、この混乱期の樺太での民間人の犠牲は、満州のそれほど多く語られないがかなりすさまじく、引揚船と言うよりは、脱出船としての様相を呈す。

 それにしても前半の舞台が「戦争」という本来ならば忌避すべきものなのに、そこに現れるドラマがとても生き生きし、人間のしぶとさというか生きていくという意思の美しさに溢れるのに、後半の南極観測が、功名心に駆られた学者連中の醜態とさえ言えそうな足の引っ張り合いなのは、どうしたことか(特に南極観測の功労者として有名な永田武の手段を選ばない独裁ぶりはなかなか笑える)。


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教科書から消えた日本史

2008年08月13日 | 歴史・考古学
教科書から消えた日本史---河合敦

 『「日本史」史』なんてのを編纂すると、それなりにいろいろな発見がありそうだ。単なる発見や研究の推移だけでなく、当時の社会が持つ史観とか教育諸事情などいろいろなものが見えてくる。

 我々の学生時代なんの疑問もなく呼ばれていた「魏志倭人伝」が、今の教科書では「魏書東夷伝」になっている、なんてのはどちらかといえば小さいネタだが、世界最大の墳丘墓である「仁徳天皇陵」を「大仙古墳(伝仁徳天皇陵)」という呼称にに改めたのは、歴史的態度としては正しいと思う。

 本書では、鎌倉時代の開始を1192年ではなく、1185年にしよう、という動きも紹介している。「いいくにつくろう」が昔話になってしまうわけだから、センセーショナルではあるものの、こういうのは要するに「決め」の問題なのでどちらでもよいと思う。
 むしろ、古代・中世・近世・近代という大きな史観において、「中世の開始」を源頼朝の開幕(つまり鎌倉時代)ではなく、白河法皇の院政開始(1086年)に観るという議論のほうが、学問としては意味がある。(もっとも「中世」という概念(封建制の時代)には、近代国家の形成において必至の歴史過程とするマルクス史観の輸入という批判もあるが)


 僕は、日本の歴史は大きく3期にわかれると直観的には考えている。

 紀行作家の故・宮脇俊三氏は、卑弥呼の時代から関が原の戦いまでの史跡を年代順に紀行してきた、その総括的な感想として、日本の歴史の大きな区切りの1つは「関が原の戦い」であり、「関が原」以前は、日本の「前史」だと看破している。行政・経済・宗教・技術・教養といったものが安定的に機能してきたのは「関が原」以降であって、それまでは群雄割拠、試行と淘汰と偶然の期間なのだ。
 やや乱暴とは言え、これは非常に納得のいく歴史区分で、僕もこれにしたがって、日本の歴史は、ルーツとしての「前史」と、ルールをつくった「関が原」以降に分けてみたい。
 さらに、「関が原」から今日までの期間を、「明治維新」を区切りに前後に割る。「明治維新」までの前期は、日本国内の純粋培養な視点でのルール化の時代であり、「明治維新」以降今日までの後期は、国際社会との調整で、いかに日本を世界の中で同時代化させるかという観点からのルール化である。
 端的に言えば、暗中模索の「前史時代」が「関が原」まで続く。この長い「前史時代」に様々な日本のルーツは埋まっている。そして、こういったランダムなルーツを調べ上げて整理し、体系だて、秩序だてて「ルール」になったのが、江戸の開幕から黒船来航までの江戸時代だ(実は、奈良・平安時代や鎌倉・室町時代の歴史や文化の評価の多くは、江戸時代において整理されて成されたものだ。)
 そういった「日本のルール」も、「黒船来航」以降は、国際社会化において唯我独尊でいるわけにもいかなくなり、他の国との調整が必要になる。これが手を代え品を代え、明治維新以後今日まで続いているのである。太平洋戦争も「無茶な調整の結果」と見なしたい。

○第1期:旧石器時代~戦国時代の終焉(関が原)・・前史。日本の「ルーツ」がぽこぽこあちこちでつくられていた時代
○第2期:徳川氏による江戸の開幕~黒船の来航・・日本の「ルール」(国内“唯我独尊”版)を組み立てていく時代
○第3期:明治維新~現在・・国際社会の「ルール」と日本の「ルール」の調整をひたすらして同時代化を試みる時代

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その後の慶喜

2008年01月08日 | 歴史・考古学
その後の慶喜---家近良樹---単行本

個人的に徳川慶喜は気になる人である。幕末時代を満身創痍で乗り切った(?)のも興味深いが、明治維新以降どこで何をやっていたのかも非常に関心があった。実は、徳川本家の家督はさっさと幼少の亀之助に渡してしまって、本人は駿河の地でひたすら隠居、写真や映画や自転車など趣味に没頭して公の場には一切出ず、回顧録どころか公職時代を一切語らなかったそうで、とにかく世間の目から逃れることに腐心していたようだ。晩年は東京に出て、最後は爵位を授けられたわけだが、実は人生のほとんどをバックヤードで過ごし、フロントにいたのはほんの5年程度、将軍在位期間はわずか1年、その後は40年間のスローライフ、なんと大正まで生きていたというのだから驚きである。

ただなんというのか、維新後の40年間、落ちぶれ者につきまとう悲壮感というものを全く感じない(足利義昭のそれと比べても)。
思うにこの人は政治家むきではなかったし、そのことを自覚していた節さえある。めちゃめちゃ優秀であり、虚と実のバランス感覚の鋭さは理系的な印象さえ受けるが、物凄く優れた仕事をしながら、実は彼はその仕事をちっとも好きではなかったようにも思える。そして、好きではなかったからこそ大政奉還なんて究極の離れ業を実現できたんじゃないかしら。

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