イシューからはじめよ【改訂版】
安宅和人
英治出版
「イシューからはじめよ」はえらく売れたビジネス書だそうだ。刊行時に書店で平積みされているのを見たときはなんか鼻について敬遠したのだが、このたび「改訂版」が出たということなので読んでみることにした。
本書の主張は、仕事でも何でも、なにか取り組むときには見通しがたたないまま着手するんじゃなくて、まずは要となるところを見定めてそこから逆算するように全体の進行設計をたてろ、ということである。つまり最短距離をまずは見つけてからそれから走れ、ということだ。
これだけ書くと当たり前のように思うのだが、この世の中には当たり前でないこいことをしてしまうことはざらである。なんだかよくわからないからとにかく手をつけてみるとか、しょせん人が見通せるこの先なんてのは限界があるとか。よって、最終ゴールにたどり着くまではしなくてもよかった余計な仕事や回り道をしてしまう。昨今ビジネス界で盛んに言われる「生産性の高い」とはこの余計分が少ない人ということでもある。
この「要となるところ」を本書はイシューと読んでいる。イシューとはissueのことだ。本書が確信犯的に「イシュー」と書いているように、どうもここにしっくりくる日本語がない。僕も「要となるところ」となんとなくぼやかしてしまったが、どういうものが「要」になるのかをぴしっと言いきれないでいる。
イシューを日本語で訳すと、英和辞典では「課題」とか「問題」とか「争点」とか出てくる。「課題」も「問題」も「争点」も微妙にニュアンスが異なる。
・課題⇒結論が出ていないこと
・問題⇒解答があるはずのいまだ未解決のこと
・争点⇒合意がとれていない未解決のこと
といったところだろうか。ここらへんをまとめて「イシュー」という。
本書における「イシュー」の定義は著者によれば
①2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
②根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題
の両方の条件を満たすもの、としている。
①に従うならば、無人島に一人でいる場合は「イシュー」は起こらないことになる。また②に従うならば、どうすればいいかわかって後はとりくむだけのものも「イシュー」とは言わないことになる。
つまり、「相手がいて見解の統一がまだできてなくてでもこの部分がスッキリすれば万事うまくいくんだけどなあ」というところが「イシュー」になる。「イシューからはじめよ」とは、そういうところをまず見つけてそこから段取りを逆算しなさいよ、ということである。
閑話休題。
「ハンス・フォン・ゼークトの4象限」という有名な組織論がある。
組織に所属する人を、「有能か無能か」「やる気があるかやる気がないか」で4象限に分類するやり方だ。「有能×やる気あり」がいちばん優秀かというとそうでもない。「無能×やる気がない」がいちばん使い物にならないかというとそうでもない、というのがこの象限の面白いところだ。どの象限に属する人も、組織の中でそれぞれ有益なポジションがある。ただし例外は「無能×やる気あり」だ。これはまわりに害を与えるおそれがあるので始末したほうがよい、とされる。
僕は会社の中の立場ではいちおう管理職というものであり、したがって部下がいる。このゼークトの組織論はなかなか頑強で、ぼくも部下を見てこいつは「やる気のない有能タイプだな」なんてことを心の中で値踏みしている。僕自身が他人からどう分類されているかはこの際無視する。
そこで、確かに手を焼くのは「やる気のある無能タイプ」なのである。ひとりで明後日の方向を追いかけて締め切り間際に見当違いのアウトプットを持ってきたり、意味のない作業を後輩にさせてしまったりする。
さて、本書「イシューから始めよ」に話を戻すと、このイシューから始めるタイプを、直観的にできてしまう人は「やる気のない有能タイプ」に多いように思う。さっさと仕事を終わらせてしまいたいから、あとくされない最短距離を見つけるセンスに長けてくるのだろう。こういう人はいまさら本書は必要ない。
で、そう考えると「イシューから始めよ」というメソッドは、最短で及第点を突破するための方法、と言えなくもない。つまりそのテストの合格ラインが80点ならば100点ではなくて80点越えをすればいいのである。とことんビジョンを追求するアーティストの思考法を述べた「東京藝大美術学部 究極の思考 」の逆とでも言おうか。安打を量産することと逆転ホームランを打つこととどちらが大事かは時と場合によるが、本書はやたらにトレーニングに精をだしているのに凡打しか出せない人に対しての啓発本ということになる。要するに「やる気のある無能タイプ」にむけてのものなのだ。
こんど彼に読ませてみようか。