読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

デザインはストーリーテリング  「体験」を生み出すためのデザインの道具箱

2024年11月26日 | 編集・デザイン
デザインはストーリーテリング  「体験」を生み出すためのデザインの道具箱

著:エレン・ラプトン 訳:ヤナガワ智予
ビー・エヌ・エヌ新社


 銀座はGINZA SIXの6階に蔦屋書店が入っている。小洒落た空間でカフェが併設されている。扱っている本は、インバウンドを意識してか日本文化を扱ったものも多いが、全体的にはアートや建築に関するものが幅を利かせていてそういうコンセプトの本屋のようだ。
 ふらっと立ち寄る機会があって、なにげに棚を眺めていたら本書の装丁とタイトルに惹かれた。ぱらぱらめくると大きなイラストと読みやすい文字組。奥付を調べてみたら2018年刊行の本だ。すこし時間が経った専門書は一般の大型書店でも出くわしにくいので、これも僥倖と思うことにして買ってみることにした。要するに衝動買いである。

 あらためて読んでみれば、かなり欧米(というかアメリカ)のカルチャーと、いかにも翻訳翻訳した文であったが、何事も3段式にしてしまえば食いつきやすくなる、という話に興味がわいた。

 ・魅入る映画は、序盤・中盤・終盤がはっきりしている
 ・物事の手順を教えるときは3ステップに分解して教えると理解しやすい
 ・我々が美味しいものを食べたり、セックスで快楽を得るのも3段階である(欲する⇒気に入る⇒満足に浸る)
 ・要点をまとめるときは「3つある」とするのがよい。(3つめが肝心、ないしオチにするのがコツ)

 なお、本書でみられる三段式は、クライマックス曲線とでもいうか、左向きの滑り台みたいな形の推移で表現されている。誘惑してどんどんカタルシスを高めていって絶頂に達し、クールダウンは速やかに、という形だ。あけすけではあるが人間の本能や生理に即しているのだろう。

 というわけで、美術館なり遊園地なり、あるいはコンカフェなりは、単にモノを見せたり買わせたりするだけでなく、建物に入る前から、建物から出た後までを3段式を活用して体験設計するとよい、ということだ。本書はほかにもいろいろ手法や考え方が紹介されていたが、なんとなくわかった気になったのは上記のことである。


 考えてみれば、TED式プレゼンとか、1枚で説明せよ系のハックでもこんな感じの説明がよいとされている。

 ①こんなことありませんか? (課題という名の誘惑)
 ②これで解決しちゃうんです!(ソリューションの提示)
 ③具体的にはこうやって解決します、あるいは具体的にこんな良いことがあります! (自分ごと化)

 ジャパネットたかたのトークもこうだよな。これで雨の日でも気にせず洗濯ができる! とか。

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谷川俊太郎氏 逝去

2024年11月21日 | その他

谷川俊太郎氏 逝去



 本当に「詩」で食っていけている人はこの日本では絶対的に少ないはずだが、谷川俊太郎氏はその中のひとりだっただろう。彼の訃報に際し、SNS上ではめいめいがお気に入りの氏の詩を上げながらお悔やみの投稿をしていた。


 若き日のデビュー作「二十億光年の孤独」は今から70年も前に発表されたものだが、現在読んでも心に迫るものがある。デビュー作がこれでは、ピークアウトが早すぎてしまやしないかと思うくらいだが、その後も彼の詩は世間に愛され続けてきた。


 僕は13才のときに、東京都内にある某私立中学校を受験した。国語で出題されていたのが谷川俊太郎の「朝のリレー」だった。受験本番の入試問題という非常事態にも関わらず、この「朝のリレー」のあまりにも清廉さに僕は心を奪われてしまった。谷川俊太郎の名前は知っていた。小学6年生の国語の教科書にも出ていたし(「りんごへの固執」だったと思う)、あとで書くけど僕にはおなじみの名前だった。


 だけど「朝のリレー」は、そのときが初読だった。カムチャッカの・・で始まって次々とメキシコ、ニューヨーク、ローマとつながっていく言葉のマジックは、純粋な13才の僕の心をノックアウトしたのである。40年前の話なのにしっかりと覚えている。

 にもかかわらず、というべきか、それゆえにというべきか、僕はこの中学校の受験に落ちてしまった。


 だけれど、僕はこの「朝のリレー」と出会うためにこの中学校を受験したのだ、とずっと思っている。

 この「朝のリレー」は、その後テレビのCMなどにも使われて谷川俊太郎の代表作になった。彼の作品の中でも特に抒情性と優しさに富んだ詩である。


 しかし、なんといっても僕にとって谷川俊太郎といえば「スヌーピーの翻訳者」だ。スヌーピーやチャーリーブラウンでおなじみのコミック「ピーナッツ」を50年にわたって我が日本にて翻訳してきたのは彼である。そのことは「スヌーピーたちのアメリカ」という本を紹介したときに克明に書いた。ピーナッツのマンガを初めて手にしたのが僕が小学校4年生のときなので、私立中学の入試問題よりも小学6年生の教科書よりも、僕は翻訳家として谷川俊太郎の名前を知ったのだった。日本において、ピーナッツの翻訳が単なる英文翻訳家でも児童向け翻訳家でもなく、詩人の谷川俊太郎であったことは日本にとってまことに奇蹟的幸運だったと本当に思う。


 晩年の彼の講演を聞いたことがある。千葉県にある美術館で行われたイベントだった。自作の詩を朗読した。既にご高齢だったからあまり声の張りはなかったが、いやいやと照れながら朗誦する姿を見ながら、目で追う詩と耳で聞く詩はぜんぜん別物なのだと強く思った。楽譜を見るのと実際に音で聞くのの違いくらいーーというと大げさすぎるが、台本を読むのと実際の舞台を見るものくらいの違いはあったような気がする。谷川俊太郎の詩は音なんだなと思った。ご冥福を祈る。


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この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた

2024年11月18日 | SF小説

この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた

(※「新世界より」「復活の日」「渚にて」のネタバレに触れているので注意)

 

ルイス・ダートネル 訳:東郷えりか

河出書房新社

 

 

サバイバル百科事典あるいはサイエンス読み物の名を借りたSF小説とでもいおうか。

つまりは、「大破局」なる人類滅亡後に幸いにも生き延びたものがどうやって生活の糧を得て生き延び、再建していくかというのを、飲料水の確保の仕方、農業の始め方、建材の集め方や作り方、家の建て方、情報の取り方、移動の仕方、薬の調達の仕方など解説していく。

 

ただ、本書の示すような「世界の消え方」にはいくつか条件がある。

つまり、人類は滅亡しても建物とか道路とか文明の利器はしばらくそのままあるということだ。もちろん電気やガスは止まっているが、スーパーには食品がひとまずあるし(散乱しているかもしれないが)、乗り捨てられている乗用車などもある。人類だけがいない。サバイバルのためにはこういう残された文明の再利用からまずは始まるのである。

だから、「ノアの箱舟伝説」のように、大地を大津波が襲っていっさいがっさい流されてしまい、かろうじて高いビルの上にいた人だけが生き残った、とかだとこの条件にはあてはまらない。「地球の長い午後」のように、地球の自転軸にまで影響を与えるような破局も、破滅度がデカすぎてちょっと無理な気もする。「火の鳥未来編」のように核爆弾が世界中で同時多発的に投下されるのも都市が壊滅しすぎてしまい、土壌も汚染されるからダメな気がするし、「風の谷のナウシカ」の「火の七日間」も破壊力が強すぎそうだ。

いっぽうで、少しずつ人口が減って滅亡に瀕するというのも破局の設定としてはよくあるのだが、これも本書にはちょっとあてはまらない気がする。このパターンには貴志祐介の「新世界より」なんかがそうだ。ほかにも「トゥモロー・ワールド」や「世界を変える日に」のように人類に子どもが生まれなくなるというSFもあるが、いずれにせよ人口の減少と同時に都市機能も少しずつシュリンクしていくはずなので、あちこちに残る文明の残骸を再利用を試みるには、すでにもう撤去されてなかったり、仮に放置されていたとしても建材や道路の劣化がひどすぎ、時間が経ちすぎているとみるべきだろう。

 

したがって本書の設定する大破局はわりと条件が狭い。あてはまるとすれば、謎の病原菌が蔓延し、速攻で人がバタバタ死んでいった中、幸運にも隔離された環境にいた人が生き残ったというパターンだろうか。「復活の日」や「渚にて 人類最後の日」などの設定だ(「渚にて」は最後全滅してしまうが)。また、一見全然違うようでいて案外似ているなと思ったのは「火星の人」(映画名は「オデッセイ」)である。

 

つまり、普遍的なサバイバルというか文明の再建を解説する体でありながら、これが成立する条件というのはわりと狭く、その裏側には何か物語がーー「復活の日」や「渚にて」や「火星の人」のようなこういう破局条件に導かれるようなSF的な物語がそこにはあるはずなのである。その破局に至る物語は読者各自の想像にすべて委ねてしまい、ただクールに文明を再興させる方法を解説するという、なかなか高度なテクニックを用いたこれはSF小説なのである。それは「復活の日」にて南極大陸から戻ってきたあなたかもしれないし、「渚にて」でなぜか耐性を身につけたあなたかもしれないし、「火星の人」のように、人類全員が別の星に逃亡したのになぜか地球にひとりおきざりされたあなたかもしれない。その設定はすべてあなたの好みである。なんとわくわくする読み物ではないか。

 


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人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

2024年11月13日 | 民俗学・文化人類学
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと

奥野克己
伊藤雄馬

教育評論社


 僕が文化人類学の本(といっても入門書)を読む理由は、観察対象を知るためというよりは、僕自身をとりまく生活環境の閉塞感の打破のためであることが多い。日々の生活において約束事や決まり事で忙殺されているうちに、価値観がどんどん狭窄的になる。知らず知らずにストレスが溜まっていく。

 そんなときに、自分とまったく違う世界において、まったく違う価値観と生活様式で生きる彼らを知ることで、自分自身がとるにたらないことにとらわれていたのだ、と気づくことができる。これは精神衛生上まことによい。文化人類学の本を読むことは、僕にとって詩集よりも写真集よりも癒されるのである。このことは「文化人類学の思考法 」のところでも書いた。

 ということを、もう少し本気でディープに語っているのが本書である。ボルネオ島のプナンの民を調べる人類学者の奥野克己氏と、ラオスの少数狩猟民族ムラブリを調べる言語学者の伊藤雄馬氏の対談と寄稿で構成された本だ。社会人類学者のティム・インゴルドやインフルエンサーのプロ奢ラレヤーなども引き合いに出していきながら、プナンやムラブリの生活のありようから、日本社会として何が学べるかを議論している。本書ではそれを「すり鉢状の世界の外で生きる」と表現している。我々の日常はすり鉢の中の世界で、あたかもそれが全てのように生きているが、実はその外にも世界があるという見立てだ。プナンやムラブリはすり鉢の外である。

 両者が行う議論の内容は難解なものもあるが、根本的には絵本作家ヨシタケシンスケの名言「それしかないわけないでしょう」という観点だ。科学的に真実はひとつでそれ以外は間違い、というものの見方に対し、いやいやA だってBだってありえるのだ、と発想する。「科学的に真実はひとつ」というものの見方自体が生き方の選択肢の一つである、ということである。「幽霊が見える」という人に対して、幽霊が見えるわけないじゃないか、何かを幽霊ということにしているのだ、というメタな話に収めるのではなく、彼らには幽霊が見えるのだ、ということをそのまま受容するのである。幽霊が見える世界観の中を彼らは生きている。そこから、幽霊が見えない我々は彼らから何を学ぶことができるかを考える。西洋論理学の基本である弁証法に似てなくもないし、いったん断定を保留するエポゲーのようでもある。哲学的態度による試みと言えよう。


 本書の白眉と言えそうなのが、伊藤氏が語る、インゴルドの引用をさらに発展させたofからwith、そしてasへという話だ。
 つまり、かつて文化人類学は、対象をあくまで距離を保ちながら観察していた。安全な場所から一部分だけをクローズアップしてみていたのである。それは対象のofを見ていたことになる。博物学や物見遊山を出ていない。インゴルドは、そうではなくて、観察対象とはwithでなければならない、とした。一緒に生活して一緒に食べて一緒にものを見て、はじめてそこで観察対象のことがわかる。参与観察とかフィールドワークとか今では当たり前になったが、そのココロは他者から学ぶということだ。文化人類学は観察の学問ではなく、我々がどう生きるべきかの取り入れる学問になったのである。
 伊藤氏は、さらにas、「…として」の境地を目指す。withいうところの「一緒に」というのはまだ対象に没入していない。日本人のままである。日本人がムラブリと一緒にいるのではなくて、ムラブリとして生きてみる。日本人がムラブリになれるわけないじゃないか、に対して「それしかないわけないでしょう」。本人がasになりきれている、と言うならば、多自然主義ならばそれもありなのだ。それどころか、本人がムラブリにasならば、その活動場所はもはやラオスでなくてもよい。日本でもよいのだ。その境地に達した伊藤氏はラオスへの渡航を中止してしまった。

 このof、with、asは、自分と対象の距離と重なり具合そのものであろう。ofは離れており、withは部分的につながっており、asは完全に対象の中に自分が入り込んでしまっているわけだ。こうなると完全に身体感覚である。むしろ頭で考えて理解しようとしている限りでは、本当に取り込んで対象から学びや糧を得ることはできない、ということでもある。本書では第2言語習得論というのが出てくる。「モニター仮説」というのがあって、それによると言語を覚える際には習得(無意識)と学習(意識)があるそうだ。習得されたシステムが発話の生成を行い、学習された知識はその発話が正しいかどうかをモニターする、という仕組みである。モニター機能が強すぎると、正しさの追求のあまりに発話ができなくなる。日本人の外国語苦手な習性はここにきているのかもしれない。少なくとも僕自身にはすごく思い当たる仮説である。出川イングリッシュは習得がずば抜けているということだろう。
 しかし、これもof、with、asという概念が援用できる。ofに留まる限り、あるいはwithであったとしてもそれは正しさを追求する「学習」的態度を免れない。しかし、本当に身に付けるにはasによる習得ということになるのだろう。
 伊藤氏によれば、asでいるためには単にムラブリの言語に興味を持つのではなく、彼らの会話の中身や生活そのものに興味を持たなければならない。この時点でもはや「言語学者」を逸脱する。対象を無限抱擁するasになることことそ、我々の日常生活ーーすりばちの中の生活から、外に出でる道なのだろう。

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「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

2024年11月06日 | 生き方・育て方・教え方
「自分の意見」ってどうつくるの? 哲学講師が教える超ロジカル思考術

平山美希
WAVE出版


 表題には書かれてないけれど、本書は「フランス流 自分の意見のつくりかた」といったところだ。著者は、フランスはソルボンヌ大学に留学後、現地にて教鞭をとっているらしい。

 何かの事象なり誰かの発言なりに接して、それに対してどう思うか? これすなわち「自分の意見」である。会社員なんてやっていると、自分の意見を求められることはよくある。同じくらいの頻度で、特に求めてないのに「自分の意見」を永遠としゃべり続けて周りを困らせる人もいる。

 「自分の意見」というのは案外に難しい。本書はイラストのテイストからみるに高校生大学生むけに書かれているのだろうが、この歳になってもまだ難しい。それは意見ではなくて感想だろう、というのは自他ともにあるし、それは主観に過ぎないだたのコメントだろう、というものだって多く心当たりがある。本書では「主観でない意見なんてない」と喝破しているが、主観か客観かというよりは、その意見は聞くに値するか、何事かの参考になるか、意思決定に役立つか、という観点からみたときに無用な意見であればその理由として「それは主観に過ぎない」とくさされるのが実態に思う。
 意見を言った後のその場の空気が気になって、その意見が正解だったのか不正解だったのかをひどく気にする国民性の日本人は、意見を言うのに口が重くなる。一方でフランス人はそんなのは無頓着でとにかく何か言う訓練をしている、というのが本書である。もちろん口から出まかせではなくて、それなりのロジック構築の訓練を子どもの頃から受けている。このあたりはアメリカのShow&Tellにも通じる話だ。

 そのフランス流の具体的テクニックとは、「問いをたてる」「言葉を定義する」「物事を疑う」「考えを深める」「答えを出す」というステップにあるとか、人が何かを主張するときは発言者が主に何にこだわっているかを「道具性」「経済性」「論理性」「良識性」で大まかに分類して、議論の際はそこを揃えないと水掛け論になったりボタンの掛け違いになったりするとか、弁証法、帰納法、演繹法を駆使せよ、とかいろいろ解説がある。

 それぞれについての解説はなかなか面白くて、この歳になってもなるほどなあと思ったりもする。とくに「①そもそも→②たとえば→③たしかに→④でも」というフォーマットで文脈をつくると自分の意見になる、なんてのは哲学講師ならではだ。矛盾や逆説を導き、さらにはアウフヘーベンさせるのは哲学思考の基本所作と言えるだろう。①は議題がなんであったかの確認、②はその議題の具体例、③は議題が是となる理由の導き出し、ときてここまで与件を揃えてから④でも・・・と導いてみたときに脳味噌は何を引き出してくるか、だ。なにかにつけて反対したり否定したり難癖付ける人はこの④の神経が研ぎ澄まされているのだろうと思うが、①②③をクリアにすることで、それなりに説得力が出てくる。

 要するに本書の伝えたいことは、「自分の意見を言う」というのはそこになんらかの正解(right)があるということではなく、ちゃんと答え(response)ができるということなのである。


 とは言うものの、議論好きの外国人(西洋人に限らない。中国人なんかもそう)とつきあっていると、単に自分の言いたいことを言ってアイデンティティを満たしているだけだな、と思うことは多々ある。まさに単なるresponseだ。
 「建設的な意見」という観点から見れば、海外の議論好きの中には「オレは言いたいことを言った。この『意見』をどう使うかはお前次第だ」という態度の人が多いように思う。しかも、その議題の結論がどうなろうと己の立場は変わらない人ほどいろいろ意見を言ってくる。
 と書くとまるで嫌味っぽいが、要するに自分の発言にそこまでの責任を持たないし、相手もそこまで発言内容の責任を追及しない、という合意がそこにあるのだろう。文化と言ってもよい。日本語は冗長性が多くて定義があいまいなまま会話が進行するのが特徴とされる言語だが、それゆえに上手いこと言えたか言えなかったかは発言者の言語あやつり能力の責任に帰結させることが多い。つまり発言するからには意味がなければならず、失言に不寛容である。一方で英語みたいにロジックがしっかりしている言語は、発言の趣意や定義は明確になるが、それだけに「でも人間そんなに一貫になれないよね」という前提があって発言そのものの責任制は軽くみられている(つまり失言に寛容)とか、そんな見方もできそうだ。英語やフランス語はそれが建設的かどうかは無頓着に意見しやすい言語ということなのかもしれない。

 なんて書くと、著者からはこの「自分の意見」とはまさにあなたはどう考えるのか、という問いへの対応を説いているのであって、議題の解決を進めるための繰り出し方を説明しているわけでない、と指摘されそうだ。「意見」というと社会課題への意見表明みたいな硬派なものを考えがちだが、むしろ食レポを上手にこなすやり方くらいの温度感でとらえるべき話なのかもしれない。


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