読書の記録

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それでも、日本人は「戦争」を選んだ

2011年04月11日 | 日本論・日本文化論

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

加藤陽子

 

3.11の大震災は日本から何を奪い、何を与えたか、などと超然的な立場でものを考えられるようになるのはまだまだずっとさきだろう。事態はいまださなかにある。

だが、政府をはじめとして、これが「戦後最大の国難」であると言われ、「9.11にはじまったゼロ年代は3.11をもって終わった」と見切った発言も見かけ、これを日本の「グラウンドゼロ」である、と見立てる論述もあった。およそ地形さえ変わった文字通りの天変地異は確かに太平洋戦争の終戦以来のリセットをこの日本にもたらしている。

だが、この“リセット”の先、日本は、社会は、人々はどこにベクトルをあわせ、どう動こうとするのか。

 

僕が、想像力とわずかな知識を総動員して、思うことはこの3.11のインパクトに似たものを、近代以降の日本は過去に2度経験したと思う。、ひとつは太平洋戦争と終戦、もうひとつは関東大震災である。

関東大震災は、今回の東日本大震災に比べればはるかに局地的なものだし、むしろ阪神大震災と比較されそうなものだが、だがしかし、当時の帝都を壊滅させたこの地震が社会にあてた衝撃とその後の影響はやはり国難級のものであっただろうと思う。関東大震災からの復興プロセスは、たしかに目を見張った。だが、一方、この震災で手負うことになった傷は、そのまま不況そして大陸への進出という歴史の進む道の遠因ともなっている。関東大震災のときは、当時の国家予算の3倍、約45億円の損害が出たとされる。このときの市中の取引の円滑化を目指し、震災手形が発行されたが、これの処理が後々うまくいかず、昭和恐慌にまでつながっていったとされている。

1000年に1度の天変地異とされる今回の東日本大震災に見舞われた日本社会の行方を考えたくて、手にとったのが本書である。去年話題になったが、ちょっとそのときは別に関心の的があったので本書はパスしていた。今回は、書店の本棚を探して見つけ出した。

なぜならば、この東日本大震災は、おそらく現代日本においては、戦争に匹敵する犠牲と社会変革を強制するものであり、その意味では太平洋戦争と戦後になぞらえることができる。一方、先に記したように太平洋戦争への道のりのずっと手前の一つの要因として関東大震災があったこともまた事実だからである。つまり、社会変革の原因であろうと結果であろうと、今回の震災は間違いなく大きな転換点になるだろうと思うのである。

 

さて、本書は明治時代以降の近代日本が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、そして太平洋戦争と、国家のかじ取りを選択した、あるいは選択せざるをえなくなったそのシナリオを解説しているのだが、まず気になるのは序章にある2つの指摘である。

1.(戦争などで)巨大な数の人が死んだ後には、国家には、新たな社会契約が必要になる
2.国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らない

1.は戦後の「日本国憲法」や、アメリカのリンカーンの演説に例をみる。2では、戦前の日本軍部だし、本書では触れてないが、ドイツのナチスや、もしかしてもしかすると小泉純一郎の郵政選挙とか鳩山民主党の政権交代選挙もそうだったのかもしれない。

さて、今回の震災においては、政府は被災地の復興と原発の収束化に泥縄で取りかかっている。なにしろ1000年に一度の天変地異なので、誰だって泥縄にはなるだろうが、国民としての期待と不安は、たしかにこれから政府は国をどうしていくのかという、「これからの契約」にある。東北地方の被災地をどうしていくのか、間違いなく大打撃となった経済をどうしていくのか、そして、原子力発電所をどうしていくのか。

特に原発の問題は難しい。今のこの状況では、反・原発の空気はきわめて自然である。実際、今後は新たな原発の建設は、地元の合意がまずとれまい。だが、日本という国を脱・原発で本気で描けている人はまずいない。今回なによりも痛感し、そして露呈したのは、日本という国は、高度経済発展を実現し、国際社会の中で先進国としての地位にたどりつき、これを維持したのは、原発というもののエネルギー力に立脚していた、ということなのである。原発があったから、工場が動き、技術革新があり、仕事があり、天然資源のない狭い国土に、自給率が半分以下で、1億2000万人の人口を養うことができた、といっても過言ではない。ここに「原発は安全である」という神話はなくてはならなかったのだ。ここを否定するのは、今の日本社会の成立を否定するのに等しい。

言うならば「原発は日本の生命線」だった。かつて、「満蒙は日本の生命線」だったように。

だから、政府や経済界が満州を極上の地としてそこに投資し、プロパガンダでそこに人々を住まわせ、研究開発も満州を舞台にし、利権を守るために外交を繰り広げたのと同様に、原発は日本にとって“夢と希望”であった。ちょっとやそっとのアンチテーゼは、国と経済界が一緒になってなきものにしたといってもよい。もちろん、原子力にかかる研究開発は産学協同で進められ、プロパガンダもそこに足並みを揃う。一時期、そうとう旗色が悪くなったが、CO2を出さないというエコブームになると、ここに真っ先に飛びついた。いや、今考えると、原子力を正当化する最終兵器として地球温暖化というイシューが登場したといっても辻褄があうのではないか、と思うくらいである。

だが、当時の大日本帝国が、震災後の出口のない不況の突破口を”生命線”とした満州に見出したように、戦後の日本国は、原発エネルギーなくして成立しなかった。1億2000万人の国民は存在できない。

 

そこで、もう一つのこれらの社会システムが不全になったときの「国民に、本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が出ないとも限らない」。ここに注目しなければならない。

原発という社会システムは不全になった。今年の夏に必至となっている大節電は、これを不全と言わず何と表現するかという抑制を強制する。国民の多くは政府にも電力会社にも失望し、情報に疑心暗鬼になる。そのとき、平時ならあり得ない、簡単に騙されてしまうカリスマ、あるいはポピュラリズムが、登場して、ころりと相転移してしまうおそれがある。阪神大震災のときは、オウム真理教の自作自演ハルマゲドンというものに終わったわけだが、今回の社会抑圧と不安はその比ではないだけ、ゆめゆめ気をつけなければならない。エコエネルギー社会という夢、それが本当に持続可能で、人々に健康で文化的な生活を約束できるか。今の技術力では、これまでの日本の生活クオリティを維持できない。ドイツでは60%がクリーンエネルギーを達成したといわれているが、ドイツと日本では日々の生活に使うエネルギー量が全く違う。少なくとも、今の東京、山手線や地下鉄が走り、企業の本社が集中し、無線有線ありとあらゆる物流と情報を中継するこの都市があるだけでも、クリーンエネルギーだけではあまりにも心もとない。だが、原発はもう動かない。これからの日本の生命線をどこにつくるのか。

平成の開国TPPを強硬する可能性だってある。これだって「夢」である。中国・韓国とともに、世界史上例を見ない「高齢国民社会の国家」を東アジアに出現させ、新秩序をつくる、という一見荒唐無稽な、しかし事実としてはたしかにそうなりつつある「夢」もある。

「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」は、結論として、日本は他の西洋先進国に比べ「人民の命を軽視した」ということを指摘している。明治以降、日本という国はあくまで生産、つまり供給側に立脚した国づくりをしてきた。制度も仕組みも生産であり、それを受容する―つまり市民の権利は常に後回しであった。それは戦後も続き、日本の省庁のほとんどが生産のために司る省庁であった(経済産業省、国土交通省、農林水産省・・)。エリートをつくるとは、国を運営し、海外と渡り合える生産者をつくるということであり、賢い消費者をつくるということではなかった。消費者庁というものができたとき、明治以来の画期的転回と評された理由はここにある。

だが、日本国家のDNAとして「人民の命を軽視する」が、満州であり、原発であったことは確かだろう。「人民の命」を餌に次のユートピア探しはもうすでに始まっている。それでも「戦争」を選んできた日本なのである。

 


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