【改題】ひとり公論(IT公論)

アラフィフとなりIT土方卒業したのでタイトル変更しました
こちらはどちらかといえば再録中心

朝の生活と人生

2010-04-14 06:39:12 | 自分のこと、とか
オイラの朝の生活は、この世代にしては相当個性的というか僭越ながらイケてるというか。。

掃除洗濯をしたり、書をやったり、コドモの朝の準備を手伝ったり、ごはんをつくったり(というか前の日の残り物を処分するというか。。)たまに散歩したり。。

今の自分ができうるほぼベストのルーティンをこなしていると思う。
それが自分の自信にもなっている。


と、いうことは?
1日をいくつかのブロックにわけて、朝OK、昼(仕事)OK、夜OK、というふうになっていけば、人生カンペキじゃないの?
もっとシンプルに考えればいいんでないの?

昼(仕事)がOK、になるのが難関だが。。「心持」で相当なんとかなるとは思う。その日1日一生懸命やった、という充実感達成感さえ残ればよいのだから。

物欲からの解放

2010-02-20 08:26:15 | 自分のこと、とか
かつて、自分が物欲の権化と化している状況がすごくイヤだった。

オイラはムカシ、貧乏だったはずなのに正統なる「物欲に忠実な、為政者のしもべ」だったように思う。

ハードウェアの新製品はステレオタイプに欲しがった。(ほとんどは買えなかったけど)
でも今になれば、自分はなんてカネの使い方が下手だったのだろう、と思うことができる。
物欲の洗脳は、すでに解けている。

誰もがこの洗脳を解くべきだ、とはいわない。ヒトによっておカネの使い方は違うし、何を買うことによって最高の満足度を得るかっていうのもヒトによってまったく違う。

でもオイラは、物欲の洗脳がとけた時点でなんとなく、あ、一歩先をいったな、という気が、したのね。

なぜなら、オイラはこのギョーカイにいるから。
このギョーカイって、そういうヒトあんまりいないからね。




その姿勢が、もし、このギョーカイの大多数を占める「理系テイスト」の習性と異なるのだとしたら、僕のこのギョーカイでの立ち居地はビミョーだ。

もともと自分は、どのワールドのメインストリームにも存しないマージナル・マン(「辺境人」とでもいおうか)だから、自身でジレンマがある。

メインストリームに飛び込みたいくせに「どうせあのぶどうはすっぱいんでしょ」と飛び込まない。そんな自分がほんの少しだけキライなんだけどね、

でもこれはきわめて個人的なことだ。


マージナル・マンでいる利点は、一歩俯瞰した位置で動向をウォッチできること。
(それは、「斜に構える」とはちょっと違う)

オイラは、一歩俯瞰した位置でふらふらとさまよいながら今後もこのギョーカイを渡り歩いていけるのだろうか? という壮大な実験をしているような気がしてならない、

オイラの次の命題は、物欲にまかせてケータイを買い換えたりしない人種である自分は、このギョーカイにとどまる価値はあるのだろうか?
オイラ の属性はこのギョーカイで立派な「個性」となりうるだろうか?

といったところだ。

仕打ちはわすれないよ~(ふつうそうでしょ)

2010-02-06 12:19:21 | 自分のこと、とか
オイラのモットーは、誠実に仕事をする、なのだが、その方法論のひとつとして「忘れない」というのがある。

予定を忘れない。Todoを忘れない(しつこく)。課題を「忘れてしまおうとしない」

現実逃避して、眼前の課題を忘れてしまおうとするエンジニアって、サイテーだよな。。
「課題管理表に書こうとしない」という姿勢にあらわれる。


そして、大事なのは!
他人(取引先やらベンダやら上司やら同僚やら)から受けた「仕打ち」を、いつまでもいつまでも忘れないよオレは、という姿勢。

オイラはゼッタイに、何か「仕打ち」を受けたら、水に流さない。
ビジネス・シーンにおいて、不誠実な対応を受けたら、ゼッタイに水に流すべきではないと思う。

と、いうかね、こういう感情をオープンにしている自分が珍しいのであって、ほとんどのビジネスマンは過去に取引先や上司から受けた仕打ちを、根に持ってるもんだよ。それを黙ってるだけでさ。



オイラは聖人君子ではないので、不誠実な対応をされた相手、組織に対しては、ココロの中でのランクを下げている。何かそういう不誠実なヤツらから、頼みごとを受けたときに、1回はやんわり断るとか、優先順位を下げるとかする。そもそもそんなの、アタリマエのことだと思う。誰も言わないだけでね。


なんでもかんでも、いつかは水に流されるという世の中になっちまったら、ビジネス・シーンで悪意のあるヤツらに好き放題やられちゃうでしょ。そんなのイヤだよね。そういうヤツらへの「怨」は水に流さず、蓄積しておかないと。

というのが、冒頭のハナシにつながる。どこそこの会社で何か不正が行われたのであれば、ただ上っ面だけ誠意を見せて謝ったって水に流してはならない。なぜなら、そのバックには、そういう不正を「行っていない」ホントウに誠意のある会社がいるのだから。表にでてこないそういう会社を評価すべきだよね。


いつまでも水に流さないという姿勢と「誠実に仕事する」というのは全く矛盾しない。誠実に仕事をするというのは、誠実に仕事をしてくれるヒトを評価する、というのも含むわけで、つまり、「誠実に仕事をしない人間を(きっちり)評価しない」のと表裏一体なんだよ。



逆にオイラは、ヒトから受けた親切もゼッタイに忘れないようにしている。それは、プライベートであってもビジネス・シーンであっても。
忘れないだけではダメなので、たとえば、「あのときは親切に対応してくれましたからねえ」と、後日コトバにして伝えるとか、あるいは実際的に、忙しいときもそのときの恩を忘れず、割り込みで依頼作業を受けるとか、そういうことは極力がんばろうと思っている。

ヒトから受けた親切を、アタリマエのように感じてはダメだと思う。
特に、ビジネスライクではない親切。たとえば、インテリジェントビルとかだと、メンテナンスのパートのおばあさんとかがかいがいしく働いていて、トイレ掃除だの、机上のぞうきんがけだの、してくれることがある。
それはすごくありがたいことなんだけど、多分にビジネスライクではある。

ここで書いている親切とは、誰かが、ビジネスとは関係なく、僕のために善意でやってくれること。それを、ゼッタイに忘れちゃダメだよ、と。

特に忘れちゃいけないのは、継続してかつ間接的に受けている親切というか。。
たとえば、頼まれもしていないのに、オフィスの女性陣とかが、オフィスで小さな植木で緑を育てていたりする。継続的に水をやったり。
彼女らは好きでやっているのだろうけど、その緑を目にする僕らも、良い気分になる。
それは間接的に親切を受けているのと同じだ。そういうのも忘れないようにしよう、と思う。でもエラそうにこんなこと書いてるけど、こういうの(間接的な親切)に気付いたのは35歳を過ぎてからだった。



ところで、ホントの失敗というか、故意ではないミスはどうするのか?

その、故意でないミスにより、僕個人が損害をこうむったのであれば、おぼえてるよそりゃ。アタリマエじゃん。出来事としておぼえている。

でもこれは、おぼえているランク低に位置づけられるよね。

数十年生きていると、オイラに対して悪意を見せながらヒドい仕打ちをするヤツもいる(いた)。悪意があるかどうかは「目」をみりゃわかる。そういう仕打ちはたぶん死ぬまで(このギョーカイから足を洗っても)忘れないだろう。

それは極端な例だけど、たまにさ、故意ではないにせよ何度も同じ失敗を繰り返すヤツがいるよね。それは、オイラはほぼ「悪意」とみなしている。

なぜなら、ビジネス・シーンにおいては同じ失敗を繰り返すのは致命的だからだ。そういうヒトは自身の向上、成長を放棄していると判断することにしてるよ。

だってさ、何回も同じ失敗するヤツって「使いずれー」でしょ?


オイラのもうひとつのウラモットーとして「謝るぐらいならやらない」というのがあって、オイラはオイラで、他人に影響を与える言動にすごく気を遣っている。
他人に根に持たれるような、悪い影響を与えるような行動は極力とるまいと思っているし、良い影響を与えるような親切は、できる範囲で、押し付けにならない程度にがんばろうと思っている。

今のところは、そう思っときゃいいかな、と。思っておきさえすれば、自然、行動にあらわれると思うし。

自分はがんばっている自負はあるから、他人の「仕打ち」に対してもキビしい視線を保てる。



結局は、ビジネスにおいて携わるヒトたちのすべてのオイラに対するアクションを記憶しておこう、ということか。良いことも悪いことも。

抱負(2)

2010-01-02 09:39:21 | 自分のこと、とか
自分基準に埋没するということ。

自分基準を、最初から、世の中基準よりもキビシめに設定しておけば、もう問題なし。安心して埋没してゆけばよい。

最初の、基準設定に若干の覚悟がいる、ということ。目標設定において自分を律することができきるかどうか。


自分基準に埋没しきる。他人の「目」や評価を気にする必要はない。なぜなら、自分は、世の中基準よりもキビシく自分を律しているのだから、胸を張っていればよい。

老子に
 下士聞道
 大笑之
 不笑不足以為道

という言葉がある。

一般ピープルは真の「道」を聞けばこれを笑い飛ばす。「現実的でない」とか「荒唐無稽だ」とか、あるいは、ちょっとわかる人間であれば「無理だ」というのだろう。
逆に考えれば、一般ピープルが一笑に付すかどうかを判断基準にし、笑われる手法をあえて選択すれば、逆に間違いではないのだ。

一般ピープルが一般ピープルにどっぷりつかって、自分が属する大衆におもねっていては、いつまでたっても成長がないじゃん。

昨今の一般ピープルは自分が特別な、「オンリーワン」な人間だと信じて疑ってないんだったら一般ピープルにおもねるんじゃねーよ。特別だと思うのなら特別なことをやってみればいいんだよ。
「特別」なことのほとんどは「継続」にて得られる。

抱負

2010-01-01 05:51:59 | 自分のこと、とか
結局、謝るのが死ぬほどキライだから、遅刻もしないし。ミスが発生しないように仕事も一生懸命やる(やらざるをえない)し。
謝るのと同じように言い訳も大キライ。

つまり、自分基準(ポリシー?)なんだよね。優先すべきは。
その「自分基準」がはちゃめちゃで、他人に迷惑かけまくりなヤツもいるけど。。それはそれでダメダメなんだよなあ。

はちゃめちゃっていうか、その自分基準が、甘過ぎなんだよなあ、自分に。


というわけで今年の抱負は「自分基準を世の中基準より厳しく」かな。
毎年、明文化してはいないけど、頑張ってはいる。

雨ニモ負ケズ。。

2009-09-26 06:11:44 | 自分のこと、とか
「雨ニモ負ケズ。。」とは思ってるな、いつも。
そんな、対決姿勢というほどでもないけど。。

数年前の夏休みだったか、外出の帰りにことごとく局地的大雨(ゲリラ豪雨)に遭遇したとき。。
傘もなく(あるいは、折りたたみ傘を持っていても暴風で破壊され)、ズブ濡れになるんだけど、「あ、これも慣れだな」と。

今は、相当強い大粒の雨じゃなければ平気になってきた。傘を持ち歩くのも面倒くさいし、雨が降り出して傘をさすことすら面倒なんだよね。

ま、自分は別にどうなったっていいというキモチなんだろうと思うよ。

ここ数年のゲリラ豪雨でヤられて、雨に打たれ濡れるのがヘーキになってしまった、という方は多いんじゃなかろうか。

カイゼン

2009-09-08 05:34:05 | 自分のこと、とか
オイラは常に自身の人生をカイゼンしてゆこうと思っている。

と、いう信条だから、仕事においても容易にカイゼンのポイントを見つけられるし、少しずつではあるが実践できていると思う。なぜ少しずつかといえば、ビジネスにおいて、独力でやれるカイゼンなぞたかがしれているからだ。

オイラの今後の課題は、他人を巻き込んで、壮大なカイゼンをしてゆくことなんだろうな。人生もビジネスも。。

「同志」を集めるというね。。

移動は独りで

2009-09-01 06:08:41 | 自分のこと、とか
集団での移動(物理的な)というのは、電車でもクルマでも若干の不快を伴うことがあるものだ。

たとえばラッシュアワーの電車での移動(はいわずもがな)、たとえばマイカーやワゴンを駆って家族で(あるいは、複数家族で)行楽地へ移動する場合、などなど。。

後者は、各人、各家族でいろいろな言い分があったりして、最終的には必ず誰かが我慢を強いられる。(そして、自分は高い確率で我慢を強いられる側にまわってしまう。。)

前者は当然のことであり、皆が息苦しい電車内で、ほぼ平等に我慢をしている。


何が言いたいかといえば、移動は一人のほうがいいよね、と。。それだけ。
歩きや自転車。
マイカーもよいのだが、マイカーというのは、一人で移動するのかと思いきや、道路という共通レーンの上で皆で移動しているわけで、たとえばクラクションを鳴らし鳴らされ。。
これも若干のストレスがたまる。

もちろん歩きや自転車も公共の道を進むわけで、当然そういう可能性は秘められているのだが、時速数十キロで突っ走るクルマのレーンのほうが緊張を強いられるのは当然。自転車も、クルマのレーンを選択して進むのであればもちろん、自動車と同じ緊張を強いられるわけだ。


オイラは、移動という行為にムカシから(おそらく)非常に重きをおいている。だから、独りがいいなあと思う。
物理的移動を単なる時間のムダと考えてしまうヒトには、あまりわからんのだろうと思う。

それも否定はしないが。。オイラは、「移動」にかこつけて独りの時間を持ちたいだけなのかもしれないなあ。

イケてない。だからがんばろう

2009-05-31 07:56:12 | 自分のこと、とか
自分のことをそれなりに「イケてる」と思っている人間ほど、何のカイゼンもしない。

イケてるはずなのに、常に何らかの不満足感を根底に抱えたまま、生きている。
なぜなら、カイゼンの行動をしないからだ。


自分は、ある時期までは、とにかく自分は「最底辺層」の人間であると信じて疑ってなく、(大学時代は部屋にコモり気味で出席せず留年、やっとこさ卒業しても就職活動してないから、いきなり「自由」にほうりだされて夜間バイト暮らし、太陽の光を浴びれる昼の仕事をしたいとハケン登録、ハケンでだらだら生きてきたらいきなりの大病、一念発起して就職活動して、就職できたと思ったら3ヶ月でクビ、無職のまま結婚、その後ずっとフリー)自己評価も、他人の評価も、まったくイケてなかった。

だから、がつがつと、カネ持ちになりたい、もっと良い生活をしたい、とガンバってきた。

ある時期までは、それはとてもよかった。
カネ持ちになりたい、という動機は不純かもしれないけど、努力は、した。ガンバった。

でも、ある時期からはそれでは、ダメなのだ。


それでも自分は、自分のことを「イケてる」と思い、何の努力もしないヒトたちのことは、とうのムカシに追い抜いたような気はしている。

そのように自分のココロの中で思ってる分には、自由だ。他人がどう思うかは関係ない。

その点については、自己満足でかまわないのだ。


でもまだまだ自分は、イケてない。自分のことをイケてると評価している人間を追い抜いても自分はイケてない。

なぜなら、いまだに、ガツガツとガンバっているから。そんな時期に未だいる自分は、まだイケてない。

もっと泰然としなければならないのだ。(この歳になったらね。。)