気ままな遍路人

人生いろいろ…徒然な日記

人生の休憩時間

2007-09-12 23:18:13 | 日記

何事にも一生懸命で辺りを見渡すことも無く、一心不乱に仕事をしているほど、何かつまずきがあった時のショックは、かなり大きいと思います。なにせ、無駄なことは一切せず、効率良く仕事をこなしてきたのに、それと真逆な状況に陥るわけですから、しばらく立ち直ることにも時間がかかるでしょう。

でも、ちょっと考え方をかえてみると、立ち止まることによって、これまでの自分の生き方や急ぎすぎて大切なものを置き去りにしたことを振り返るのには、絶好のタイミングだと思うのです。

なかなか、今まで自分がやってきたことを、ゆっくりと時間をかけて振り返ってみる人は、少ないと思います。というか、生活に追われて立ち止まることを知らないと言ったほうが、適切な気もします。

このブログを読まれている方の中に、「あぁ・・、自分にもそういうところがあるなぁ。」と思われた方は、今一度ご自身の人生の足跡を振り返ってみてはどうでしょうか。


過労気味なのです

2007-09-10 15:26:54 | 日記

最近、蜜に仕事をしているので、ちょっと疲れ気味です。自己コントロールをしなければなりません。今日は午後より静養にあてるべく、ゆったりと時間を過ごしています。

明日からは、怒涛の如く体を酷使しますので、自分に休養を与えます。

日本人は、とかく休養することに罪悪感をもつ人が多いようですが、自分を苛め抜いてその先に何か栄光でも夢みているのでしょうか。夢を叶える前に倒れては、もともこもありません。逆に自己管理ができない日本人といわれるのが諸外国の印象ではないでしょうか。

という私も、以前はモーレツ社員でした。1ヶ月に200時間越えの残業を平然とこなしていました。1週間の平均睡眠時間が2時間の時もありました。

その結果、神経からくる左半身麻痺を患いリハビリに6ヶ月かかりました。今は完全に回復し、日常生活に支障はありません。

自分を守れるのは自分しかいないのです。きれい事では済まされない状況に陥ることもあります。人には諸事情が多々あり、自分の思い通りに生きられない煩わしさがあると思います。単身者・家族もち・親の介護など色々と自分を解放出来ない理由があります。

でも、すじ道が通った誰もが賛同する生き方であれば、思い切って行動に移しても良いのではないでしょうか。

周りの人に相談する・休暇をとる・転職をするなど様々な方法で自分を伸展させても良いのではないでしょうか。


遍路旅14

2007-09-09 23:15:38 | 遍路旅

お遍路に出発するとき、一番不安だったのはトイレです。途中で腹痛がおきたらどうしようとか、小用をたすときでも道端では失礼だろうとか、色々と考えて小さいことですが、不安材料の一つでした。

実際、お遍路を始めると普段の生活とは全く違い、規則正しい習慣と普段とは比較にならないほど歩いているので、体調が最高に良い状態に保たれ、朝食を摂ったあと必ずトイレに向かうリズムができ、88ヶ所を通じて腹痛に悩まされることなく、お遍路をすることができました。

また、お遍路中に水分は充分過ぎるくらい(最高摂取量は一日に500ml.×8本)とるのですが、殆どが汗となり小用で困ることもありませんでした。汗を掻くことにより新陳代謝が良くなり、今まで経験したことの無いくらいの体の軽さを感じることができます。

単純に歩くだけの行為ですが、驚くほど様々な体の変化がおきます。元々、寒い地方の人間なので毛穴の発汗調整が鈍いのですが、それも対応できるくらいになります。顎から汗を滴らせ、手先から汗を滴らせ、全身グショグショになりながらも、体力が落ちることはありませんでした。

汗対策として、吸水性の良いスポーツタオルやリストバンド、額から流れ落ちる汗を吸収するバンダナなんかも用意しておくと便利です。


遍路旅13(不思議体験5)

2007-09-08 23:01:31 | 不思議体験

19番札所・立江寺の宿坊に泊まった時の体験です。

この日の行程は、左足のくるぶし付近を痛めていたので、徳島市内のホテルから18番札所・恩山寺を経て立江寺止まり(総距離約18㎞)としました。かなり足が腫れていたので、20番札所・鶴林寺手前の宿まで(残り約13㎞)は無理と判断し、ある意味泊まるのを避けたかったのですが、立江寺に泊まりました。

やはり、第6感はハズレルことなく、宿に荷物を置き境内を散策して部屋に戻った途端に、約40分ほど全館停電となり、寺の関係者が右往左往していました。

停電の原因が解らず、宿泊者(この日は2組のみ)に懐中電灯が渡されました。渡されたところで、どうしろというのか解りませんが、何も無いよりはマシかと思うことにしました。

幸い短時間で復旧したので何事もなく過ごすことができました。でも、それからが私の忘れられない体験が待っていたのでした。

その夜は、とても風が強く部屋のあちらこちらがギシギシ鳴るくらい天候が荒れていて、しかも宿泊者が私を含め、たったの2人です。しかも本堂の真横の12畳の広い部屋です。その真ん中に布団を敷き寝るのですから度胸がいります。なかなか寝れずにいたら、夜中の2時位にトイレに行きたくなり、仕方なくトイレに向かうことにしたのですが、このトイレが長~い廊下を真っ直ぐ行った突き当りにあります。しかも、廊下の両サイドは下半分が素通しのガラスが入っていてお寺の境内が丸見えなので、お地蔵さんやら卒塔婆が見えるのです。

意を決し、スタスタ廊下を歩いてトイレまで行き、用を足し終えて戻ろうとしたとき、トイレの窓から何かが横切るのが見えました。「気のせい、気のせい。」と自分に言い聞かせ、部屋に戻ろうとするのですが体が動きません。これはマズイと思い、私なりに「お寺にいるのに何が必要なのか?毎日・毎日お経をあげてもらい何が不満なのか?明日の朝、寺を発つ前にお経を唱えてあげるよ。」とそのものに問いかけると次の瞬間、体が自由になりました。

その後、部屋に戻り、大変な約束をしてしまったなと思いましたが、腹を決めて床に就くと先ほどとは違い直ぐに爆睡してしまいました。

朝になり、約束通り本堂の前でお経を唱えて、次の寺へ出発しました。


善悪の判断

2007-09-07 22:59:33 | 日記

自分さえ良ければいいという自己中心的な考えの人は、人間の言動として善いことと悪いこととの区別がつかない、善悪の判断が狂っている方が多いようです。そして、自分の言動・行為の結果が、将来に跳ね返ってくるという因縁の道理なんかは、これぽっちも信じようとしません。

欲に目がくらみ利益を貪り、自己の快楽のみを追求していると、来世では地獄の炎にまかれ、焼けるような苦しみを受けることを知らずに平気で暮らしています。

過去(前世・先祖など)に作られた因縁ならば、しょせん人間が作ったのだから、現世の人間で直せば良いと思います。どんなに苦しいことがあっても、自暴自棄にならず、寿命ギリギリまで一つ一つ善い事を積み重ねていくことで、その苦しみから解放されると思います。

(参考文献:性霊集及び秘蔵宝鑰)