今、思い返しても『面白い』…とつくづく思うのは、禅の修行の中でそれこそ耳にタコができるほど唱え唱和してきた
『四弘誓願』というお経?・・・『衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道無上誓願成』…と短い。
まぁ、意味も読めばそれなりに、なんとなくわかるし別になんの疑問も持たずただひたすら唱和していたお経。
途中2年間ほど海外へ行っていた時期を除いて、足掛け8年ぐらい居士林と寺へ通っていた間、『四弘誓願』について
説明…というか、提唱というか、これをダシにしてお話、なんていうのは一度もなかった。・・・なのに私の中では
かなり重要な『お経』になっている…事が、実に面白い! こういうのを『熏習くんじゅう』…と、鈴木大拙さんが言っていた。
今日、この『四弘誓願』を考えたのは、Youtubeで京都大学退職教員最終講義…という動画で、この教授がだずさわった
臨床の原点…という話の中で、彼の患者さんの一人が言った言葉、『人が信じられなくなりました。生きることが空しいのです…』
こうした『生きる意味の喪失感』を抱いた人が目の前に現れたらあなた方はどう答えますか?・・・という問いかけがあったからだ。
『四弘誓願』の最初の誓願が『衆生無辺誓願度』で『生きとし生ける物を皆、救済することを誓う…』って云うような意味と思うが、
これは道元さんの有名な言葉『自未得度先度他』…兎に角まず先に他に得させる、という利他救済の心得に通じるものを感じるが
私はこれに対して、いまちょっと別な意見を持っている。
『人が信じられない、生きることが空しい…』といいながら自殺する人が多い世の中にあって
仏が一番最初に救済する、救済しなければならない『衆生』とは『自分自身』であるはずである。
四弘誓願を『衆生無辺誓願度…煩悩無尽誓願断・・・』と唱えることで、私達はすでに仏(菩薩)に救済されている…
そのことを知るために修行をしているのだと思う。
たまたま今日は『彼岸の入り』であるが、仏が真っ先に救済するのは『貴方自身』なのだ…。
昭和63年、私は36歳。接心を終え、雲水に混じって居士は馬骨独り。
老師の教え、達磨の『一黙』で口をしっかり結んでいる図
信用できないから自分が意識して向き合わないといけないわけです。
それをしないで済まそうとするから敢えて信じることが必要になるのです。
信じることは自分を誤魔化すことと何ら変わりはないわけで、そもそも人を信じようとする己の感情を抱くのを辞めることが仏の教え。
要は自分さえ信じるなという事。
馬骨さんは何て答えたんですか?
Jedem das Seine
Nicht so verschieden von Konzentrationslagern