逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

(続)「偶然と必然」を読んで

2009年12月14日 | 共産党

『科学と宗教の意外な近さ』

ジャック・モノーの『偶然と必然』くらい日本人にとって色々自分流に解釈が分かれる(利用?できる)物も少ない。
何しろ超一流(ノーベル賞受賞)の科学者の言葉ですから引用すれば、自動的に何となく『科学的権威』があるように相手(読者?)に思ってもらえるかも知れない。
只これは、日本人の完全な誤解でしょう。
科学が宗教と別物であると思っている日本人的な常識では『一流科学者の科学を論じた本だから科学の本だ』と自動的に思ってしまう。
しかし『偶然と必然』は科学論を論じたものではなく宗教論(科学と宗教の関連)を論じた哲学論なのです。(このように私でも自分勝手に幾らでも解釈が可能)
『科学』と『宗教』は今でこそ別々の全く関係ない分野の『独立したものである』と考えられていますが、歴史的に見ると、この両者には『部分』と『全体』の関係の様に分かちがたい関連がある。
今の様に科学者と宗教の聖職者が別々である社会よりも、聖職者が最先端の科学者や医者を兼ねていた世の中の方が遥かに長い歴史がある。
世界的に見ると日本は例外的で宗教者の地位(特権や権威)はそれ程高くは無いが、こんな国は世界的に珍しく極少ない。
特に一神教世界においては、今でも宗教が『善悪』の全てを判断しており、もちろんこのことは『科学』も例外ではありえない。
その意味で、『人類文化の最高峰』の地位は必ずしも『科学』が独占的に占めている訳で無い。
特に個人の中では『何が最高峰であるか』なんてのは個人個人で違ってきて当たり前である。
熱狂的な宗教信者にとっては『科学的な正さ』などはそれ程重要ごとではありません。
科学の持っている力の源泉は『正確さ』『緻密さ』以上に信じるものにも信じないものにも平等に作用する『普遍性』であろう。
ところがこの『普遍性』は単純系には単純に当てはまるが複雑系には、時には当てはまらない(今の科学ではそこまでの精度が無い)場合が出てくる。
そして人々に密接に関連してくるもの(社会科学)の多くは複雑系です。
複雑系である社会科学では今でも発展途上国状態で『科学の持つ普遍性』に限界があり、新自由主義のようなヴードゥー教モドキまでが現れる始末です。
科学と宗教の関係は今のアフガンのように科学の持つ圧倒的な『力』で都市部や交通機関や政府のような表向きのハード面は完全に(無理やりに)支配下に置いているが、それ以外の農村や周辺部は宗教(タリバン)が今でも支配していているのです。

『発展途上の社会科学と宗教』

『科学と宗教を正確さ・精密さという観点でみれば科学が上。しかし、包含する範囲の広さでは宗教が上。なにせ宗教には、善悪の観点も含まれるから』という風に考える事も出来る。
しかし、この考え方は『社会科学』を『科学』の分野に入れていないから出てくる思考でしょう。
ところが『科学の受け持つ範囲』は今、どんどん広がりに広がり『善悪以外の全ての事柄』になっている。
対して宗教が独占的に受け持つ範囲は唯一『善悪』のみです。
現在の民主主義とは独立した『個人』を単位としており、『善悪』を判断するのはこの基本単位の個人(あるいは個人の集合体としての社会)に委ねられているのです。
そして個人には基本的人権として信教の自由が保障されている。
今の世の中では全ての事柄の正誤の判定は『科学』が独占的に『最高権威』として判断しており、現在の人類の文化の最高峰は唯一普遍性を持つ『科学』以外には有り得ないのですが、科学の持つ『普遍性』は個々の個別の個人的な内面までは受け持たない。
科学は『私』と言う個人から離れる事で『普遍性』を持つことが出来るようになる。
いいかえると『善悪』を科学が判断しない事で『普遍性』を持ち得て、『科学』が宗教から独立する事が出来るようになったのです。
科学的正誤から派生する『善悪』も、あるにはあるが、あくまでも抑制的で限界を考えないと駄目です。
基本的に『科学』と『善悪』とは関係ありません。
『善悪』と別である事で、科学の『正誤』の正しさ(権威)が担保されているのです。

『共産党と宗教』

前回の記事(偶然と必然を読んで)は本来は『宗教』のカテゴリーに入れるべき内容ですがモノーは『偶然と必然』で批判する対象として元々は社会科学である弁証法的唯物論(共産主義)を入れているので、新しい区割りとして『共産党』を作りました。
『宗教から科学が生まれる』ように、その反対の方向である『科学から宗教が生まれる』可能性は大いに存在しているのです。

『神と戦うドーキンス 』

ジャック・モノーの『偶然と必然』は40年近く前に書かれた本ですが、彼と同じ分子生物学者であるリチャード・ドーキンスの最近書かれた『神は妄想である』(副題、宗教との決別)と同一趣旨の本であるとも判断出来る。
ただし、モノーの『偶然と必然』では、神に対する罵倒(批判)部分は何重にも科学的体裁と哲学的な小難しい言い回しで隠蔽されているので本心が分かり難い。
其れで別物に見える。
大きな違いは、ドーキンスでは最大の目的である『神に対する罵倒』部分が著作の大部分で露骨に表現されているのと、冷戦終結以後の著作であるので最早『神』で無くなった『もう一つの神』(ソ連型共産主義)に対する批判が省略されていることでしょう。
その為に表現方法が大きく違っているので別の分野の本であるかの様な印象を読者に与えるのです。
しかしモノーもドーキンスも著作の『動機』(科学者として神と戦う)は同じだった。

一神教特有の[神-人間-自然]という明瞭な階層性ですが、神>人間>自然の順番で出来上がっており、このヒエラルキーでは『科学』が受け持つ『自然』は最下層の卑しい存在でしかないのです。
これでは『全てに対する科学の優位性』を信条とする科学者の端くれならドーキンスならずとも我慢ならない。
天文学のカール・セーガンや生物学のドーキンスのように執念深く『神』を罵倒して当然なのです。
欧米では神と人間と自然は厳然と分離(断絶)していて完全に『別物』で、しかも支配被支配の上下関係にある。
ところが日本では宗教(神)も人間も自然の一部であり渾然一体となっているか、別々であるとしても上下関係ではなく並列関係なので、一神教世界のように科学者が神と戦う必要が無い。
神と戦う必要が無いので『緊張感』も生まれ無い。
この宗教的な緊張感の無いことが日本人の良い事なのか悪いことなのか判断の分かれるところです。

『ベルリンの壁崩壊20周年』

20年経って、生活が大幅に改善され言論の自由等が認められて、当事と比べれば東西格差は縮まったとの報道もある一方で、其れとは正反対の統一の影の部分も沢山ある。
今では東ドイツの住民の60%は『旧東独の方が良かった』と思っているそうですし、東独市民によって一度は完全に否定された旧政権党の共産党系の左翼党が地域によっては第一党に返り咲いている。
壁が無くなり移動の自由が保障されれば、経済であれ何であれ格差があれば低い方から高い方に必ず移動するのは必然です。
首都のベルリンは建設ラッシュで繁栄しているがそれ以外の東ドイツは別で現在東独の人口は1100万人になり統一当時の人口より500万人も大幅に減ってしまって8000万全ドイツの8分の1程度の割合です。これでは不満が出て当たり前でしょう。

まだ壁があった時代ですが、東では頭脳労働と肉体労働との賃金格差が無いが、西では(日本と同じように)大きく違う構造になっていた。
格差があれば、当然低い方から高い方に人が流れる経済法則の結果、若くて優秀な人材がどんどん西に流出して仕舞い、東独は日本の田舎のように過疎地化していた。
東西を壁で厳重にしきっていても毎年何万人も人口流出があって地域の共同体が崩壊していったのですから、統一して障害が無くなれば如何なるかはある程度は予想が付きそうなものです。
昨今の資本主義(新自由主義)グローバリズムの特徴である全ての物や金や人や情報、技術、資本が例外なく自由に世界中を移動すれば、良い事だけではなく『色々な弊害』も起こります。
ソ連圏からは何百万人ものユダヤ人がイスラエルに流出したが、こればヨルダン川西岸の違法入植地を建設するは、極右政党を作るはで結果的にパレスチナ人に対する人権抑圧になっている。
ロシアでは人口の4分の一近くがアルコール中毒で特に男の平均寿命を大幅に低下させていたり犯罪率が天文学的に増加したりした。
同一民族の統一ドイツの誕生(民族国家あるいは民族自決)の結果、元々民族国家でなかったにもかかわらず東欧でも民族別国家が創られる。
誰も国民が望んでいなかったのにチェコとスロバキアは別々の国家になるが、これは一番うまくいった例外で、クロアチアとセルビアのように全く同じと言ってよいほどに違いが少ない民族同士が殺しあう。(違いは宗教だけだが、其れも日本人から見れば同じキリスト教)

『宗教と科学の違いとは 』

現在日本共産党はマルクス主義という言葉は使っていません。
『マルクス主義』を『科学的社会主義』と変更したのですが理由は『誰であれ個人名をつけるのは不適当』との説明です。
しかし、『科学』では大抵最初に発明発見、理論立てた『人物の名前』がつけられるのが普通なので何とも理由が取ってつけたようで不思議。
個人名がつけられない場合でも『ダーウィンの進化論』とか『ニュートンの万有引力の法則』とか『アインシュタインの相対性理論』みたいに用いられている。、
しかし、日本共産党は『マルクスの科学的社会主義』とは呼ぶ心算はまったく無いようです。
この不思議な『言葉の使いかた』の原因は矢張り個人名では『個人崇拝』のような宗教的なことも起こるので『宗教と科学の混同』を危惧したのでしょうが、何とも姑息な小役人的な発想です。
では、科学と宗教の最も特徴的な違いとは何でしょうか。?
この両者の最も特徴的な違いとは『異端の存在を許容出来るか、出来ないか』ではないでしょうか。?
どんな素晴らしい科学的発明発見、理論、学説でも一番最初は定説(正しい学説)に対する、単なる異端にすぎません。
異端を認めない社会には発展は有り得ないのです。真っ当な科学なら『異端』(異論、反論)の存在は歓迎する。
この異端の有るなし(異端を良しとする)を科学と宗教の基準で判断すれば、近頃ネット社会だけで流行っている『にせ科学批判』(水からの伝言騒動)は間違いなく宗教の異端審問ですね。
あるいは科学的批判を許さない温暖化論議も宗教くさい。
大阪大学の菊池物理学教授の9・11関連の陰謀論論議も同じ範疇に入ります。何ともお粗末な新興宗教のきくち教ですね。
科学者だから宗教とは関係ないではなく、数学の様な誰がやっても同じ結論(答え)になるものでも宗教として成立するならどんな科学でも宗教にすること(変化)が出来ます。
ところが共産党には組織原則として分派行動を許さない『民主集中制』を標榜しているが、これが共産党が宗教化する最大の根拠(原因)となっているのですが、この事に気づいている共産党党員は困った事に案外少ない。

『民主集中制についての誤解』

『宗教』と『科学』は相反する概念で『全くの別物である』との認識が一般的ですが、実は部分と全体、あるいはコインの裏表の関係のように完全には分離できないばかりでなく共通の先祖を持っていて『人』とチンパンジーのように、違っている部分は極少数部分だけで、それ以外は多くの共通のDNAを持っている。
DNAだけを言えば、人も類人猿も同じ種類の生き物なのですね。
これと同じ事が民主集中制にもいえます。
個人を基本とする民主(民主主義)と集団を基本とする集中制(中央集権)は、まったくの別物であるとの認識ですが、実はコインの裏表の様に切り離せない関係にあるのです。
ロビンソン・クルーソーのように絶海の孤島で漂流生活をしていない限り完全な個人主義は有り得ない。
誰であれ社会生活を送る限り幾らかは国家と言う集中制(中央集権)的なものからは逃れられない。
またその逆に集団しかない中央集権の代表的組織である『軍隊』でも個人主義(民主主義)を完璧に無視することは不可能です。
何故ならどんな集団でも一人一人個人個人を集めて集団にしているのでやっぱり個人(民主)は無視できないのです。
ですから言い換えれば何処の組織も民主と集中の部分はありその意味では『民主集中制』であるとも考えられます。
政党の中で一番中央集権的であると思われている共産党ですが、面白い事に組織的には一番民主的に出来上がっている。
たとえば共産党とは大きく違い、民主党も自民党も表向きに口では『民主主義』だけを強調するが、実際にはいかにして中央集権(反民主主義)にするかに腐心していているのですよ。
自民も民主も規約で『党首一人』が全ての党役員を独断専行で選んでいますが、共産党では全ての党の役員は党大会で党員が選んでいる。
また現在、閣僚や党の幹部が色々な矛盾する方針を発表してマスコミに批判されているが、其れに対しては鳩山代表が『最後に私が(独断で)決めます。』が決まり文句になっているのです。

ところが共産党以外の政党は『民主』だけを言い、共産党だけが『民主集中制』だと言っているのです。
この事が何を意味するのか。?
考え出すと実に面白いのですが、これを論じだすと長くなるので別の記事を書きたいと思います。


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2 コメント

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ギャーァ (逝きし世の面影)
2009-12-22 13:48:15
う~ぅ。
一番、痛いところを突かれました。

>「科学」の方がある意味,「一神教」へ傾きやすい<

まったく、その通りですね。『座布団を全部もってけ。!』と言いたい気分です。
科学の持つ薬品Aと薬品Bを混ぜればCになると言うような『予言性』はインチキくさい細木和子の占いなんかと違い『必ず当たる』のですよ。
ですから科学的な知識のない人にとっては十分に『宗教』足り得るでしょう。
社会科学の最高峰を自負していた弁証法的唯物論が旧ソ連では簡単に『宗教』に変質してしまった失敗例がありますね。
あれは、科学の正しさを主張して。宗教化してしまったのですよ。

完全に誤解していますが、みんなが痺れるのは科学の普遍性ではなく、実は予言性なのです。
細木和子がブームになったのは阪神優勝を予言して当てたから。
終戦直後に日本共産党が一時ブームになったのは真珠湾の遥か前から『日本の敗戦』『帝国の崩壊』を予言していたからで、決して共産党の政策を理解してのブームではなかった。
それで2001年の9・11事件そっくりの60年前の1949年の松川など対共産党謀略三事件であっけなく支持はなくなってしまう。
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「科学哲学」の範疇ですね (kaetzchen)
2009-12-22 11:19:00
最近,私は自分のブログでキリスト教の多様性について書いてたりします.まぁ,一部のキチガイ坊主あたりは怒るかも知れませんが(笑)

ブログ主さんに一つだけお願いしたいことは,「一神教」という宗教は存在しないことです.ユダヤ教にしてもキリスト教にしてもイスラム教にしても,絶対的な正義の「神」があって,それに対立する「異民族の神」や「悪魔」と闘うことで「二項対立」が論理的に成立している.つまり数学で言うところの「二項対立」があると認めたところで「一神教」というのは単なる「レッテル貼り」に過ぎなくなってしまうことです.

反対に「科学」の方がある意味,「一神教」へ傾きやすいということが言えるでしょう.典型的なのが高校の数学で習う「数学的帰納法」.ちょっと大学レベルの数学や論理学を習ったら,あれが矛盾だらけのデタラメだということは誰にだって分かります.つまり,文科省は「数学的帰納法」を一種の「一神教」として押し付けているという言い方もできます.

# メールの方が良かったかな.私が書き込むと色々と騒ぐ人がいるので.
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