日比野誠恵の「ホッケードクターのワークライフバランス」 (2011. 2. 3)
ある日のこと、深夜勤の看護師マイケルと救急部の看護主任が何やら神妙な顔をして抱き合っている場面を目にしました。後でよくよく事情を聞いてみると、どうやらマイケルが救急部のモルヒネ系鎮痛薬を盗用していたことが発覚し、その日の勤務を最後にリハビリ施設に入るということでした。マイケルは20歳代後半のちょっと影のある「イケメン」。仕事もよくできて頼りになる看護師だったので、みんな非常に残念がりました。彼は当時再婚したばかりだったので、「どうして?」という感じでもありました。
以前、アメリカの薬物乱用・依存・盗用患者(ドラッグシーカー)について少し書きました。この国で長く臨床をしていると、医療者による薬物乱用・依存・盗用というケースにも出くわします。ただし、特に麻薬がらみで問題が起こると、ことがことだけに、職場内で大っぴらに報告されることはほとんどありません。「あれ? あいつ、そういえば見ないけれど、辞めたの?」「実は、麻薬の盗用が見つかったんだって」といったスタッフのひそひそ話から概要が分かるくらいで、詳細までは分からないことが多いものです。
『救急医チャックのアルコール依存』
チャックは50歳代半ばの救急医でした。個人的に私が知る中で、初めて薬物乱用・依存の問題を起こした医療者です。酩酊状態で仕事をしていたということで彼がアルコール依存症のリハビリ施設に入所して行ったのは、私がミネソタ大学病院の救急部に入ってすぐの頃でした。リハビリのプログラムを終えた彼は、ブレイナード(ミネアポリスから北へ車で2時間ちょっと行ったところにあるリゾート地です)のurgent care(日本で言うところの「時間外外来」でしょうか? ただし、呼吸困難、胸痛、意識障害といった緊急の病態には対応していません)で働いていると、風の便りに聞きました。
私は赴任したばかりだったので、彼の深い部分まで知っていたわけではありませんが、古参のクラークさんいわく、古くからいる救急医の1人で気さくな人柄。かなり裕福なフランス人女性と結婚していたということです。人種的にはアメリカインディアンでした。彼の場合はともかくとして、ミネソタの地で臨床をしていると、地域性もあるのでしょうか、アメリカインディアンの患者はアルコール乱用の問題を抱えている人が他人種に比べて多いような印象があります。
ご存知のように、アメリカインディアンはアメリカ建国の段階でヨーロッパからの移民に虐殺され、持ち込まれた疫病に苦しめられ、時にはインディアン居住地に強制移住させられたという悲しい歴史を背負っています。今でも独自の文化や宗教を大切に守っていますが、全体としては経済、雇用、教育などの面で様々な困難を抱えています。こうしたことの反映でもあるのでしょうか、最近の統計を見ても、アメリカインディアンのアルコール乱用率は、アメリカ全体の平均より有意に高くなっています。(30.6% vs. 24.5%)
『看護師ジェンのモルヒネ盗用』
ジェンは20歳代半ばで、ミルウォーキーの看護学校を卒業したばかり。ちゃきちゃきの(?)ヤンキー娘といった感じの女性でした。にぎやかでかわいらしく、同僚の看護師にも医師にも人気がありました。私は彼女に“seikei bomb”というあだ名を付けられ(ビールに日本酒を混ぜて作るカクテル“sake bomb”と私の名前「誠恵」を掛けているのです)、看護師たちからはいまだにそのあだ名で呼ばれています。
ある日のこと、同僚のミリス先生が記憶を失ったジェンを診察したことがありました。失神でも痙攣でもないし、ほかの器質的疾患でもなさそうだということで、彼は「何か薬物を使用したのではないか?」と疑ったようです。その後、私が彼女に「なんか最近元気がないけれど、どうしたの?」と声をかけると、“I'm just frazzled.”(ひどく疲れているの)と返され、「彼氏とけんかでもしたのかな?」と勝手に思っていました。ところが、しばらくして、彼女がモルヒネ系鎮痛薬を救急部から盗み出して乱用していたことが発覚したのです。
ここ10年ほどは、この手の乱用のおそれのある院内の薬物はすべてコンピュータ管理され、また2人以上で取り扱うようになっていたので、発覚につながったのでしょう。彼女は、それでも盗用および乱用を否定し続けたため解雇になり、看護師免許も取り消されたと聞きました。ここで薬物の使用を認めた場合は、解雇ではなく、メディカル・リーブ(医療休暇)としてリハビリ施設に入所することになります。そこでのリハビリを完了し、その後も長期にわたるランダムな薬物検査(尿検査を含みます)でフォローアップすることで、看護師免許が取り消しになることはありません。冒頭のマイケルは、そのケースでした。
それにしても、一生懸命に勉強して看護師になり、若くてかわいくて人気者の「オール・アメリカン・ガール」が、何がどうなってこういうことになってしまったのでしょうか? 私には、詳しいことはいっさい分かりません。ただ、彼女はパーティーが好きだったようで、ほかの若い看護師と連れ立ってよく遊んでいたようです。私もダンス好きということで誘われたことがあります。そうした私生活の中で、悪い友達の影響を受けてしまったのかもしれません。
『医療者の中の薬物乱用者たち』―Drug Seeker Within
アメリカの救急医学専門医が読むLLSA(アメリカの救急医に対する生涯教育の一つ)の文献(2007年)にも、モルヒネ系鎮痛薬の乱用・依存に陥った35歳の医師を取り上げたJAMAの記事が紹介されていました。そこでは、アメリカの医師の生涯における薬物乱用の頻度はおよそ8~15%で、アメリカの非医療者と同程度であったことが報告されています。ただし頻度が比較的高いのは、この手の乱用のおそれのある薬物を比較的入手しやすいと考えられる麻酔科医や救急医、精神科医とも述べられています。
また、アメリカの医師は非医療者と比べて酒量が多いようだが、違法麻薬(illicit drugs)の使用は少なく、処方箋の必要な鎮痛鎮静薬のような麻薬の乱用は多いようだとも報告されています。看護師についても、同じ傾向の報告がされているようで、薬物乱用の頻度は約10%で、非医療者と同程度とされています。
幸いにも、アメリカの多くの州では医療者の薬物乱用対策が整備されている上、多くの施設でもポリシーを作って対応しています。周到な調査を行ってなお薬物乱用の疑いが残る場合、州のPhysician Health Program(PHP)に連絡を取り、当事者に薬物検査を受けてもらって事実確認をすることになります。
結果がクロであれば、すぐに医療者向けに特化したリハビリ施設に入所することが強く推奨されています。これには当人の自殺を防ぐという目的もあります。そこでは、既にリハビリを終えた他の入所者とのグループ療法など、Alcoholics Anonymous(アメリカで始まり世界中に広まった、アルコール依存症者の相互援助運動)で開発された12段階のプログラムをこなしていくようです。その結果 医療者の離脱率は74~90%と報告されています。これはパイロットと並び、非医療者よりずっと高いそうで。
医師も看護師も医療を司る専門職であり、薬物乱用の危険性の知識は十分に持っているだろうし、専門職に就くまでには相応の教育と経験を積まなくてはなりません。ですから、薬物乱用の頻度は非医療者より当然低いと考えられます。一方で、医師や看護師の仕事は精神的にも肉体的にもストレスが大きく、薬物へのアクセスは比較的容易にできます。乱用率が非医療者とほぼ同じというのは、医療者に特有のいくつかのファクターが相殺されている結果なのかもしれません。
日本でも、薬物乱用が社会問題として深刻になりつつあるようです。だとすれば、近い将来、医療者の薬物乱用の問題が浮上してきても不思議ではないと思われます。
『末期的なアメリカ医療の真実』
山高ければ谷は深く、光あるところには影が出来るが、20世紀に眩く輝いていた超大国アメリカの闇は深い。
10人に1~2人が麻薬中毒患者で4人に1人がアルコール中毒患者である薬物中毒大国であるアメリカで、何と薬物中毒と闘う最前線でもあり最も知識も経験もある筈の医師や看護師など医療従事者の薬物汚染の現状が、一般市民と全く同じ『薬物中毒の水準』である恐怖の現実。
これは例えるなら税務署員が脱税し、犯罪を取り締まるべき警官が犯罪を犯し、火災を消火する消防士が自ら放火するのに似ていて薬物中毒者が禁止薬物を扱うなどは、本来は絶対にあってはならない事態なのです。
アメリカ社会の闇は深いが、世界の最先端技術を持つ現在のアメリカの医療の闇はもっと深い。
アメリカ精神医学会の診断マニュアルの中に「神経症」とか「ヒステリー」の項目がないとは初めて聞きました。
面白い示唆に富む情報を有難うございます。それにしても『無い理由』は何故でしょうね。
マニュアルに無いのは、そもそもアメリカには『神経症』とか『ヒステリー』に当てはまる人が一人もいないからか、それともこれは大麻の合法化の動きと同じで世間に多すぎて、そんなことにまで手が回らないの意味でしょうか。
それにしても精神疾患の診断マニュアルDSM-IVに限らずこれ等マニュアル の蔓延は時間の節約など利点も多いのですが『何故そうなるのか』との考えが無くても有る程度は問題なく使えてしまうところでしょう。
そして科学的思考・態度で一番大切なのがこの『何故そうなるのか』と考えることなのですよ。何の科学的疑問も感じなくても上手くいくので段々疑問を持たなくなる危険性が生まれて仕舞う。
医学(科学)の進歩によって一番大切な科学的思考が疎かにされると言う不思議な話ですね。
転換ミスなどの校正は自分で読み返しても間違った個所を脳が勝手に正しく読んでしまうので自分で見つけることは困難で、時間が経ってから改めて行わないと無理みたいですね。丁寧なご指摘有難うございます。
なお、2013年からのDSM-Vでは無くて現在はまだ第四版(DSM-IV) らしいですよ。
精神科医のマニュアルに、DSM-V というのがあります。
おもしろいことに、このマニュアルには「神経症」とか「ヒステリー」の項目がないんですよね。つまり、アメリカの麻酔科医は「神経症」で薬物に手を出してもごまかすことができる。
外科系で最もハードな麻酔科医が常に薬物と隣り合わせであるゆえに、厳格な管理を要求されるのは「神経症」で薬物に手を出さないための「心のカギ」なんです。
日本も麻酔科医はわずか八千人しかいないので、深刻な人手不足です。産婦人科医や小児科医と同様、医局に溢れている精神科医を使って定期的な検診を行うべき時ではないでしょうか。
なお、看護士 → 看護師です。