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橋爪大三郎・評 『日本を開国させた男、松平忠固 近代日本の礎を築いた老中』=関良基・著
会員限定有料記事 毎日新聞(作品社・2420円)
ペリーが来航し翌年に日米和親条約を、また五年後(1958年)に日米修好通商条約を結んだ。その交渉をまとめたのが、老中の松平忠固(ただかた)だ。
彼は忘れられた人物だ。徳富蘇峰は「老獪(ろうかい)で我執な俗吏」と酷評した。薩長の「幕府は無能」キャンペーンが日本史を歪(ゆが)めている。「不平等条約史観」が学校で堂々と教えられている。義憤の筆が本書に凜(りん)とみなぎっている。
松平忠固は姫路藩主の十男に生まれ、上田藩主の婿養子に。一九歳で藩主。直後に三年続きの大凶作が襲う。三年の面扶持(武士俸禄のほぼ全額カット)を命じ、他藩で米麦を買い集め、餓死者を出さぬよう手を尽くした。
(この記事は有料記事なので、残り1118文字を要約すると、)
(狂気のテロ組織「薩長」の真っ赤な嘘の)不平等条約史観に対抗する
ペリー来航で42歳の松平忠固は反対するが、老中首座の安倍忠弘は過激な攘夷論者で女癖が悪い(大奥でレイプ疑惑で評判が悪い)徳川斉昭を海防参与にするが、以後幕政を攪乱する疫病神に。斉昭が強硬に抵抗するも忠固の努力で日米和親条約調印。ハリス米領事との通商条約でも欧州諸国間と同じ関税率20%を獲得。列強を相手に堂々と外交で勝利している。(★注、イギリスの植民地インドの関税は2・5%。アヘン戦争に負け半植民地状態の中国は5%。低い関税こそが帝国主義の植民地化の常套手段)
斉昭は不平等条約でも関税自主権の喪失でもない(欧米列強と同じ扱いの)条約に怒って、以後、水戸派のテロが頻発。井伊直弼は水戸派に暗殺され、薩長はイギリスなど列強に戦争を仕掛けて敗れたことから、アヘン戦争に負けた清(中国)と同じ5%に引き下げられ日本の近代化は大きく遅れる。薩長はミスを隠そうと「不平等史観」を広めるが、明治国家を歪めWWⅡの敗北を招く。薩長とは対照的に忠固の育てた生糸産業は半世紀も外貨を稼ぎ日本の近代化に貢献。また吉田松陰が黒船で密航を企てた事件では死刑を免じて国元蟄居の寛大な処置にしたことから、松陰は忠固を生涯敬慕した。
★注、現実の日本歴史は、今までの文科省の教科書の記述とは正反対だったが、この事実を書いた本が今年6月に出版され全国紙でも取り上げられるのは感慨深い。日本敗戦から75年、やっと薩長クーデター政権の暗黒の歴史が正しく取り上げられようとしているのである。
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日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中 – 発売日2020/6/30
“開国”を断行したのは、井伊直弼ではない。
誰よりも海外情勢を認識し、徳川斉昭や井伊と対立して開国・交易を推進。そして養蚕業の輸出の基盤を造った松平忠固。その歴史的真相と実像を初めて明らかにする。
確実な史料・文献を用いた「日本開国史」への異議申し立て
松平忠固こそが、日本「開国」の舵取りだったとし、これまでの「日本開国史」に異議申し立てを行なう。大奥や上田藩の生糸輸出の話も興味深い。忠固の未刊日記や確実な史料・文献を用い、読みやすい工夫も随所に施されている。 岩下哲典(東洋大学教授。歴史学者)
明治維新を神話化するためには「幕府は無能」でなければならず、“開国の父”松平忠固は、闇に葬られる運命にあった。〈交易〉を切り口に、日米修好通商条約の「不平等条約史観」を鮮やかに覆す。世界資本主義へデビューする日本の姿を克明に描いた“開国のドラマ”。
佐々木実(ジャーナリスト。大宅壮一ノンフィクション賞、城山三郎賞ほか受賞)
当初、老中・松平忠固の主導の下、徳川政権がアメリカと結んだ日米修好通商条約は、輸入関税率20%を認めるなど不平等なものではなかったが、水戸や薩長のテロのせいで列強、特に「自由貿易帝国主義」をを推進するイギリスに口実を与え、輸入関税率5%という、アヘン戦争に敗れた清と同様の不平等条約を結ばされてしまい、その結果、日本の近代化は大幅に遅れてしまった――これが史実である。
日本は「明治維新によって近代化された」どころか、「明治維新のせいで近代化も民主化も大幅に遅れた」
しかるに、未だに日本の人々の多くは、明治維新を偉業であると信じ込まされてしまっている。
また、本著では富士の漁民がロシア人を救い、その結果外交交渉を有利に進めることができたディアナ号事件や、商人や農民といった市井の人々が養蚕業の貿易支出により日本の経済的自立を守った事実や、徳川官僚の小栗忠順が必死の外交努力により、長州によるテロの尻拭いをした。
(ちなみに、忠固の領地であった上田藩は、養蚕業の主要な中心地の一つであり、彼はそれを積極的に支援していた)本来、彼らのような人間こそ、真に日本を守った人々として尊敬、称賛されなくてはならないはずなのに、現実はその真逆であり、忠固らの名が忘れ去られている一方で、「尊皇攘夷」の名目で排外主義のテロリズムを繰り広げ、その意図とは裏腹に日本の自立を脅かした連中が、偉人とされてしまっている。
(抜粋)
例えば、日米修好通商条約を一旦「不平等条約である」と認識してしまうと、残りの史実もすべてそのコンテクストで整合性をとるように自動的に「解釈」してしまう。「史観」の刷り込みとは恐るべきものです。
松平忠固を首班とする徳川政権が日米修好通商条約(1858年)で当初獲得した輸入関税20%(他の欧米諸国と同等)が、長州藩の引き起こした狂気の攘夷戦争=下関戦争(1864年)の賠償問題と引き換えに、帝政清朝と同様の《敗戦条約》(1866年の改税約書)を結ばされ、輸入関税5%に引き下げられた。(★注、日本の関税自主権復活は44年後の1911年)
19世紀世界のパワー・ポリティクスからみれば、後進国日本の輸入関税20%という許容し難い「現実」の「改正=引き下げ」を虎視眈々と窺っていた大英帝国にとり、絶好の機会が下関戦争だった。
(抜粋)
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イギリス東インド会社の北米支社として出発したアメリカ合衆国 2013年10月14日 | 文化・歴史
不思議な国旗から見えてくるアメリカ合衆国のもう一つの姿
記事上↑に掲げた不思議な旗は、1776年7月4日『アメリカ独立宣言』前後の1775年12月3日から1777年6月14日までの1年6ヶ月間使われたアメリカ合衆国旗(グランドユニオン旗)であるが、何と、イギリス東インド会社の社旗と同じだった。
唯一の違いは合衆国旗が左上カントン部分のユニオン・フラッグ(英国旗)がストライプ7本分(赤線4本白3本)でやや縦長で不恰好に見えるが、これは英国旗を何故か90度回転させて仕舞い、カントンの縦横の配置を逆にした為である
いかにもバランスが悪く不細工な記事上↑掲載の一番最初のアメリカ合衆国旗に対して、元となったイギリス東インド会社旗はカントンの大きさがストライプ6本分(赤線3本白3本)で、現在の星条旗(the Stars and Stripes)とまったく同じ配分になっている。
(イギリス東インド会社旗のカントン部分の英国旗は、1801年からはアイルランドのセント・パトリック・クロスが加わる現行のユニオンジャックに変わっているが、七つの海を象徴していると思われる社旗本体の白地に7本の赤い横線は最初から一貫して同じである)
ジョニー・デップ主演で大ヒットしたハリウッド映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の敵役はイギリス東インド会社なのですが、不思議なことに何処にも社旗であるグランドユニオン旗が出てこない。
映画に出て来るのは大きなVに小さなoとcをあしらったイギリス東インド会社のロゴマークだけなのです。(しかもイギリスでは無く、オランダ東インド会社で「国名」が完璧に間違っている)
他愛の無い娯楽映画なのですから時代考証が間違っていても一向に構わないのですが、それ以外でも同じ扱いであるから面白い。
歴史教科書から世界のニュースまで、ありとあらゆる全ての公の映像の中では、不思議な事にイギリス東インド会社旗(グランドユニオン旗)が出て来ない。
もちろんイギリス東インド会社旗とそっくり瓜二つの初代アメリカ国旗の、不都合すぎる映像も公的な場所では出て来ないのである。
宗主国からの独立(植民地解放?)の美しい神話のアメリカ合衆国旗と、悪しき植民地主義の象徴的なイギリス東インド会社旗。
180度反する両者が、同一のグランドユニオン旗を使用していた歴史的事実は正義のアメリカとしてはイメージが悪すぎる。
不都合なアメリカの歴史を何とかして隠したい。誰にも知られたくないのである。
超ウルトラ巨大な「関東軍」としてのイギリス東インド会社
1600年にイギリス東インド会社が勅許会社として設立される。
その2年後、世界最初の株式会社組織として1602年に設立されたのがオランダの東インド会社である。
設立当初のイギリス東インド会社は、遠征航海ごとに出資者を募り貿易や略奪で得た利益を配当として分配する方式だったので、最初に出資者を集めて成功報酬をプールして配当として配る株式会社方式のオランダ東インド会社よりも継続性や計画性で劣っていた。
株式方式のオランダの成功に刺激されてスウェーデン東インド会社 、デンマーク東インド会社 、フランス東インド会社などが次々と設立される。
貿易の独占権を認められ、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。
イギリス東インド会社は貿易を独占しただけではなく植民地経営の全てを独占していて、イギリス本国以外の徴税や通貨発行、法律施行から独自の軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行うなど『国家』としての全ての機能を有していたのです。
例えるなら日本政府の不拡大方針に反して暴走して仕舞った挙句、自分勝手に張作霖爆殺や満州事変を引き起こして満州国を創った旧関東軍の超巨大な、国家の中の『国家』ともいえる株式会社なのである。
大成功した東インド会社は、巨大な文明圏だったインドの完全植民地化成功直後の1874年6月1日に突如解散している。
アメリカ東インド艦隊所属だったペリーの黒船
72年前の1941年12月8日、日本は米国のハルノートの経済制裁を目前にして山本五十六の連合艦隊が当時はアメリカの植民地だったハワイ諸島の真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を先制奇襲攻撃する大博打に打って出る。
日本軍がハワイの米軍を奇襲攻撃する88年前の1853年、アメリカのペリー提督は捕鯨船の補給や寄港地を求めて、4艘の黒船を率いて浦賀に来航して260年間鎖国していた日本に開国を要求。居丈高なアメリカの砲艦外交に対して、まったく予期していなかった外交力ゼロの無能な幕府は右往左往して時間稼ぎしか出来なかった。翌年に9艘で再度来航したペーリー艦隊に対して日米和親条約を締結して開国した、とするのが今の通常の教科書的な歴史認識なのです。
ところが、日本に開国を要求した黒船(ペリー艦隊)の名称は太平洋艦隊ではなかった。
実は、黒船がアメリカ東インド艦隊だった事実は些細な事として、日本国ではそれほど注目されていないが、多分これが一番重要な隠された真実を含んでいるのである。
アメリカの黒船来航を今までの通常の歴史で見ると真実が分からないが、『ペリーの黒船来航』の言葉を、『米東インド艦隊の来航』と置き換えるだけで、美しい正のイメージが恐ろしい不のイメージに変化するのである。
明治政府による印象操作
そもそも当時の日本(幕府)は鎖国をしていなかった。(「鎖国」が一般に普及する時期は明治時代以降である)
アメリカのペリーが要求したと言う捕鯨船の補給であるが、1840年に欧米列強に武力制裁の口実を与えない為に幕府は天保の薪炭補給令を出している。
イギリスとのアヘン戦争に破れた中国が屈辱的な半植民地化政策である南京条約を1940年に無理やり結ばされた不穏な世界情勢に敏感に反応して、江戸幕府が即座に対応しているのであるから驚きだ。
それなら表向きのペリー来航のアメリカ政府の目的は、幕府によって13年も前に実現していたのである。
文明国アメリカと未開で野蛮な日本との『未知との遭遇』は後世の作り話である。
日本は友好国だったオランダを通じてほぼタイムラグ無しに世界情勢に通じていた。
ペリーの東インド艦隊の来航は、幕府にとって何年も前からの知り尽くした懸案事項だったのである。
そもそも我が日本国は大昔から奴隷制や麻薬を禁止していたが、当時のアメリカは公然と人間を市場で競りにかけて売りさばく極悪非道な奴隷制の国家であった。
イギリスが麻薬を禁止したのは第一次世界大戦末期の1917年の話で、それ以前ではアヘン等の麻薬の吸引などは野放し状態で一般市民とか子供でも鎮痛剤として使用していたのある。
日本が列強に軍事力で劣っていたのは事実であるが、道徳とか人道的に見れば欧米の方が余程野蛮で未開だった。
中国抜きには語れないベリー来航(アメリカ東インド艦隊)と日本
日本史教科書の説明である、1853年のアメリカのペリー提督は捕鯨船の補給や寄港地、日本との交易を求めたとの記述は、捕鯨船の補給の部分は1840年に幕府から出された天保の薪炭補給令によって意味を為さない。
アメリカが軍艦の大艦隊を送るまでもなかったのである。
それなら貿易相手としての日本との交易目的が残るのですが、それも疑わしい。
1854年に九艘の大艦隊で再度来航したペリーは念願の日米和親条約を結ぶが、日米通商条約の交渉役として伊豆下田に派遣されたのは2年も経った1856年(安政3年)である。人数は初代駐日領事のタウンゼント・ハリスと通訳のヒュースケンのたった二人だけだった。
ハリスは教育者としては有能だったかもしれないが外交官としては素人同然で軍人としての経歴も無い人物だった。(日本到着の4ヶ月前にシャムとの通商条約締結でハリスはバンコクを訪問)
イギリスがやり手のベテラン外交官オールコックを日本に送ったのとは対照的なのである。
しかもハリスの秘書兼通訳を務めていたヘンリー・ヒュースケンは1861年(万延1年)に尊皇攘夷派浪士に襲われ殺されているのに、アメリカは海兵隊員の護衛など一切行っていない。(悪く勘ぐればハリスは対日開戦目的での捨て駒扱いの一民間人)
当時のアメリカが本気で日本との通商条約を急いでいたとは到底思えないのである。
アメリカは公職経験が一度も無い素人外交官のハリスを本国から派遣したのはなかった。何と中国からなのです。
今でもペリー艦隊の旗艦サスケハナ号の姿が東京のアメリカ大使館に飾られていると言うが、1853年の米東インド艦隊が来たのも本国アメリカからではなく中国からだった。
もちろん浦賀来航後にアメリカの東インド艦隊が向かった先も、やっぱり中国の上海だったのである。
今までのフィリッピン経由ではなく日本と言う便利な中継地を得ることで、中国の上海とニューヨークを世界最短の25日間で結ぶシーレーンの確保が出来れば、アメリカはイギリスやフランスなど競争相手(商売敵)の欧州諸国より俄然有利な立場に立つことができる。
19世紀当時のアメリカのペリーの黒船が、『太平洋艦隊』ではなくて『東インド艦隊』と名乗ったのは不思議ではなくて、歴史的にも現実問題としても当然だったのです。
アメリカ革命の謎(半沢直樹的な100倍返しか)
フランス革命(1789年)の13年目前の1776年がアメリカ革命(いわゆる独立宣言)の年である。
イギリス本国と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争であるアメリカ独立戦争(1775年~1783年)は、アメリカ側の正式な呼称はthe Revolutionary War(革命戦争)である。
何故か、肝心の米国国内では1776年は『アメリカ独立』の名称ではなくてThe American Revolution(アメリカ革命)と呼ばれているのです。
1776年7月4日の『アメリカ独立宣言』(The Declaration of Independence)以外、アメリカでは全て『独立』ではなく、一貫して『革命』の名称を使っているのですから不思議である。
摩訶不思議なこの謎解きは『イギリス東インド会社』のピースを加えるだけで、全ての疑問や不思議が簡単に解明出来る。
前提の『イギリス本国と、イギリス領のアメリカ東部沿岸の13の植民地の戦争』が、そもそも間違いだった。
今の歴史教科書をうっかり読むとアメリカ東部沿岸はイギリスの直轄植民地であったかに描かれているが、実は植民地経営はイギリス東インド会社の独占事業であり、13植民地も例外では無い。
アメリカがイギリスから独立するきっかけとなった1773年12月のボストン・ティー パーティー事件の主役の『お茶』はイギリス東インド会社のもの。
植民地(アメリカ)の徴税権は本国イギリス政府には無くて、イギリス東インド会社が独占的に握っていたのである。
東インド会社ロンドン本店(上司)の横暴に対する、アメリカ13支店(部下)の反乱なので『独立』ではなくて、上下関係が逆転する『革命』の名称が使われたのでしょう。
イギリス東インド会社内の『下克上』である。
ドラマ半沢直樹的な100倍返し(革命)だったのである。
丸ごと擬装されたアメリカの歴史
日本の関東軍が1932年に創った人造国家満州国の国旗は、アメリカの星条旗の精神でデザインされたと言われるが、関東軍や満州国は麻薬とは切っても切れない深い関係がある。
野蛮で非人道的な奴隷貿易を非合法化したイギリスの後を引き継いだのはアメリカ合衆国だった。
麻薬貿易でも中国に持ち込んだアヘンの4割以上がアメリカ船であった。
昔のアメリカは奴隷商人であるばかりか麻薬の売人だったが、イギリス東インド会社のアメリカ独立支店と考えれば何の不思議もない。
イギリス東インド会社からの独立なのに、公的なアメリカ史に『イギリス東インド会社』の文字が1回も出てこないのも、逆に考えれば当然だった。
徹底的に消したのである。
独立したアメリカ合衆国政府が当初イギリス東インド会社旗を、そのまま自分たちの国旗にしていたのは当然であった。
逆に東インド会社旗以外の、他の旗を選ぶ方が有り得ない話である。
アメリカ国旗のカントン部分の英国旗を90度回転させて元々のイギリス東インド会社旗と微妙に違いを出したのも当然だった。
原因が分かれば答えは簡単で、それ以外の選択肢は最初から無かった。
『アメリカ史を丸ごと擬装した』以外、何の不思議もなかったのである。
例外が一つも無い、徹底しているアメリカ流の歴史修正主義
アメリカ製のハリウッド映画に出てくるイギリス東インド会社のマークが、『大きなVに小さなoとcをあしらった旗』である。
ところが、英語の東インド会社ならEast India Company(EIC)なので絶対に頭文字はVOCにはならない。
表している『国』(ロゴマーク)が丸っきり違っていて、オランダ東インド会社のオランダ語(Vereenigde Oostindische Compagnie)の略称VOCをロゴにしたものだった。
ちなみにオランダ語 のVereenigdeは連合Oostindischeは東インド Compagnieは会社で、頭文字がVOC、ハリウッド映画ですが、何とも不思議であり政治的に偏向したインチキ。
そもそも『東インド』の意味ですが、インダス川の東の意味。コロンブスがアメリカの東側の諸島を西インド諸島と間違って命名したこととも関連している。
インドや東アジアとの交易を目的に東インド会社を1600年にイギリスで作られた。
その二年後にオランダもイギリスに続き東インド会社を世界で初めての株式会社として設立し、少し遅れてアメリカ大陸用に西インド会社を1621年に設立。北米に進出。イギリスの東インド会社とオランダの西インド会社が植民地争奪戦を繰り返すが、最終的にはイギリスが勝利してオランダやフランスを駆逐して、メキシコ以北のアメリカを全部イギリス領にする。
アメリカ利権の独占を狙ってイギリス東インド会社の北米支社がイギリス東インド会社のイギリス本社に攻撃を仕掛けたのが240年前のアメリカ独立だった。
何やら規模が違うだけで、少し前にあったどろどろの醜い兄弟や親子の親族間の利権争いそっくり。日本の大塚家具や、ロッテの日本本社と韓国支社の争いと同じ構造だからアメリカでは植民地解放の『独立』とは呼ばず、『アメリカ革命』と呼んでいるのでしょう。
(抜粋)
オールコック「大君の都」 2011年01月04日 | 文化・歴史
元医師で外交官、中国で15年も広州領事などを歴任していた経験、手腕を買われて、初代駐日公使ラザフォード・オールコックは1858年(安政5)に日英修好通商条約が締結された時期に日本駐在総領事に任命されている。
品川の高輪東禅寺に英国総領事として1859年(安政6年)から一時帰国する1862年までの3年間を綴った『大君の都』の驚愕的な内容には、今でも新鮮で『新しい驚き』がある。
アロー号事件で中国に対して過酷で残忍非道な辣腕をふるった大英帝国の切れ者外交官の対日外交交渉の内幕(イギリスの思惑)とは何であったのだろうか。
アメリカ合衆国の初代駐日公使として日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリスは有名なのですが当時の覇権国(世界帝国)イギリスの外交官オールコックの3年間の江戸滞在の記録である『大君の都』には、今我々が知っている(知っていると思っている)歴史とは全く違う別の江戸時代の日本と日本人が歴史小説以上の迫真に迫る圧倒的な姿が描かれているのです。
江戸幕府を倒した明治政府や司馬遼太郎によって作られた幕末の歴史とは全く違った別の真実の記録、それも日本人側ではなく世界帝国イギリス人外交官側から見た真実の(忘れ去られた)歴史があった。
ペリー来航を熟知していた幕府
今の普通の日本人の知っている歴史の常識では、『1853年にペリー提督の合衆国東インド艦隊の黒船が突然東京湾に入ってきて、300年の日本の眠り(鎖国)から幕府は何の対応も出来ずに、いたずらに外交交渉を引き伸ばすことしか出来なかった。ペリーは翌年大艦隊を率いて再び来航、圧力に屈した日本は横浜函館2港の開港と領事館の設置を内容とする日米和親条約を結んだ。これはアメリカの捕鯨船の燃料や食料の補給の為であった』、とするものですが本当の話は大きく違う。
当時の日本国は、根本的な『国家存亡』の全面危機に直面していた。
ペリー艦隊の日本到来を徳川幕府は、学校で習う歴史とは大違いで遥か以前、1853年のずっと前から正確に予想していた。
(160年前の当時においてアヘン戦争は十数年前であり、歴史上の事件ではなく生々しい政治の現実である。
欧米列強の軍事的な外圧は目の前の切実な脅威だった)
先ず脅威はロシアから始まっている。
当時のロシアはシベリア全土や中国領だった沿海州を獲得、樺太も占領しアラスカからサンフランシスコ近くにまで根拠地を設けていた。
欧米列強(帝国主義国家群)の中で一番日本に近く接近していたのはロシアであり、日本にとって直接の脅威であった。
1778年に、ロシア帝国皇帝の親書を携えた大砲で武装したロシアの商船が最初に日本に来航した。
1792年にも再び来航し、その後は1852年まで何度も日本に対して通商を求めて来航し、時には武力で威嚇することさえ辞さなかった。
ペリー来航前年の1852年には、頑強に開国に抵抗する日本側に対して、とうとうロシアは『来年ロシア海軍の大艦隊を引き連れて通商交渉に来る』と最後通牒を突きつけて帰っていった。
当時はロシア一国だけではなくて、世界帝国イギリスや新興帝国のアメリカも虎視眈々と日本を狙っていた。
1796年にイギリスの測量船が日本沿岸に現れてゆっくりと海岸沿いに航行したが、幕府には白人たちの行いが軍事行動の準備の為の測量であることが判っていたが阻止する力が無かった。
1803年アメリカ船が長崎の出島に来航して通商を求める。
1808年にはイギリス船が来航し長崎の町を砲撃し出島を占領、オランダ人を人質にして幕府に対して大英帝国との通商を要求するが、日本側との長い交渉の末に諦めて平和裏に撤収する事件まで起きている。
イギリスはその後も何度も来航し通商を求めたが、とうとう1824年にはイギリス艦隊は日本の首都江戸の北東150キロ地点の関東北東部に上陸したが幕府側の迅速で適切な対応に対して当初の目的を遂げることなく英軍は撤収する。
1837年にはアメリカの商船モリソン号も初めて江戸湾(東京湾)に入ってきて通商を求めたが、日本側は沿岸の砲台での警告の威嚇射撃などを行ったので諦めて帰っていく。
1846年(ペリー来航の7年前)にはアメリカ海軍東インド艦隊所属の帆船軍艦二艘が東京湾の浦賀に入ってきて通商を求めるが幕府は断固拒否する。
アメリカが1848年に戦争によってカルフォルニアなどアメリカ西岸(太平洋の東海岸)をメキシコから奪った以降にはフランスイギリスなど列強はひっきりなしにやってきて最後通牒の形で開国を要求し、イギリスの戦艦に護衛された測量船が直接東京湾に入り水深や航路の測量を行っている。日本側は東京湾入り口に砲兵隊を配備して厳重に警備したが発砲はしていない。
これ等の歴史的な経緯を見れば、江戸幕府にとってアメリカのペリー艦隊の1853年来航は予測済みの事柄だったことは十分に理解できるだろう。
日本の歴史教科書の記述の『突然のペリー来航』が如何に歴史的事実と大きく違うか。事実は正反対で『無策、無能な江戸幕府』を宣伝する目的の明治政府による悪質な政治的プロパガンダだったのです。
何を恐れて開国(通商条約)に抵抗したのか
当時のロシアやイギリス、フランス、アメリカが日本側に求めた『通商』(開国)とはいったい『何』を意味したのだろうか。
何故、これほどまで徹底的に徳川幕府は外国との自由な通商(開国)を恐れ、拒み続けたのだろうか。
現在における『通商』の意味は、何か喜ばしいもの、有利なものと考えられている。
通商関係を持つことで双方が利益を得ることが出来るし、新しい可能性や視野が生まれて来ると現代人なら思っているので、通商関係(開国)に頑強に抵抗した江戸時代の日本人とは島国根性で視野狭窄、未知の新しいものを恐れてパニック状態に陥ったとも解釈出来る。
現代人は、世界との通商関係とは日本の命綱に近い大事なものと考えていて、世界に広がる貿易(通商)なくして現在の豊かな日本社会は考えられない。
ところが民主主義の今とは大違いで、19世紀中葉の世界は全く別の『危険な構造』になっていた。
自由な通商とは恐ろしい罠であり、特に当時の日本人にとっての『世界』とは、恐ろしい脅威に満ち溢れている弱肉強食の『力』の論理で無法が横行する危険な世界であると考えられていた。
インドの植民地化とアヘン戦争後の中国
5千年近い古い偉大な文明を誇る大国インドのマハラジャ達の野望を利用してイギリスやフランスは傭兵部隊を組織して国内で血みどろの権力闘争を行い、インド人の権力者達は次第に弱体化していく。
当時の欧州諸国にとってのインド製品は魅力に満ち溢れていたが、対してイギリスフランスなど欧州製の品物は皮革や羊毛蜜蝋など大航海時代以前とさして代わり映えしない魅力の無い品物ばかりで、イギリスやフランスなど欧州側が大幅な輸入超過による慢性的な貿易赤字に苦しめられていた。
イギリスにはインドの様な何でもある国が欲しがる品物が無かったのである。
ワーテルローでフランスのナポレオンがイギリスに負ける1815年に、北西部の一部を除く全インドもイギリス軍の軍事力で完全植民地化が成功してしまう。
イギリスの東インド会社による支配により、インドの優れた繊維産業は壊滅しインドは単なる原料輸出国(イギリス製品の輸入国)に成り下がってしまい、原綿の輸入価格も綿製品の輸出価格もイギリスが独断で決定出来るようになって、やっと英国の今までの構造的な貿易赤字が解消されるのです。
徳川幕府は地理的に5000kmも遠く離れていたにも関わらずオランダや中国経由で、正確な情報を取集してインドで起こった悲惨な事態をすべて把握していた。
インドは日本にとっては中国に次ぐ心情的にも親近感の有る文化の一大中心地であり、日本人の精神的バックボーンの仏教発揚の地である。
スペインから独立したオランダは海洋国家として19世紀の初頭まではイギリスフランスなどに対抗する一大勢力(敵)であったので、遠慮することなく敵国イギリスが日本と比べられないくらいに大きな国であるインドの首を徐々に絞めて殺していく様を正確に日本に伝達していたのである。
ペリー来航の9年前(清がアヘン戦争でイギリスに大敗した4年後)の1844年オランダ王ウィレム2世はイギリスによってインドが無残に植民地化される様や中国に無理無体を吹っかけたアヘン戦争の経過など弱肉強食の帝国主義時代の世界情勢に鑑み『開国も止む無し』(武力抵抗の危険性)との国王の親書を徳川幕府の将軍に送っている。
最初は通商から始まった
当時の日本人が欧米の求める『通商』を恐れた理由は、独自の優れた文明を誇った大国インドが滅んだ最初の出来事が、何でもない普通の『通商』から始まっていたからである。
悲惨で残酷極まるイギリスによるインドの植民地化は、300年前に白人が来て南部の海岸部の幾つかの都市と普通の通商を求めるところから全ては始まった。
最初は慇懃で親切で友好的であったが、少しづつ着実に影響力や権力を持っていきインド内部の争いに介入して対立を煽り、最初の白人商人のインド上陸から300年後の最後には大文明圏である全インドを手に入れ、その時は慇懃でも親切でも友好的でも無くなっていた。
インド人は自分自身に対して自信を持っていて、欧州人を少しも恐れていなかった。
何故なら当時のインドは欧州諸国に対してほとんどあらゆる点で優れていたからです。
最初の時点では、インドは文化的にも軍事的にも経済的にもヨーロッパよりも数段勝っていた。インドは植民地化される19世紀時点でもGDPで英国を上回っていた。
しかしインドにとって、そんなことは最後には何の役にも立たなかったのである。
本当は怖い貿易・通商。trade(貿易)の意味
150年前にアメリカなど当時の列強が押し付けた『全ての障壁を失くした自由な通商・貿易』(trade)ですが、今の日本語的なイメージでは『自由な貿易』は薔薇色で、少しも『悪い』ところが無い。
ところが、この名詞としての通商(trade)の本来の意味は動詞としての『騙す』であると言われています。
広い大陸での、価値観の違う異民族相手の利害が対立する通商・取引(trade)とは騙し騙されるのが基本で、少しでも油断したら騙されて酷い目に合う危険が潜んでいた。
英語の通商・貿易(trade)には、日本語に無い『怖い意味』が含まれているのです。
tradeは、島国で同じ相手と永久に付き合う必要がある日本人が身上とする商売上の『正直さ』や『公正さ』だけでは成り立たない、彼我の『力関係』がものを言う弱肉強食の厳しい世界なのです。 (trade on には『取引します。』との訳以外に、もう一つの『付け込む。』との恐ろしい意味が含まれている)
大ヒットしたジョージ ルーカス監督の『スター・ウォーズ』の悪役は何故か通商連合だった。
英語圏では『通商連合』(Trade Federation)と言われると『油断するな』と身構えるのでしょう。
『天高く馬肥ゆる秋』の言葉の由来となった万里の長城を越えて中国を脅かした匈奴の昔から、洋の東西を問わず、通商を担う遊牧民は、農耕民にとっては貴重な品々を商う『貿易』だけではなくて、同時に恐ろしい略奪者なのです。
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(おまけ)安倍前首相 靖国神社を参拝
FNN
安倍晋三前首相は19日朝、東京・九段北の靖国神社を秋の例大祭にあわせて参拝した。
安倍前首相は、参拝後、記者団に対し、「ご英霊に尊崇の念を表するため参拝した」と語った。 安倍前首相は、9月に首相を退任した直後に、靖国神社を参拝していて、退任後二度目の参拝になる。 首相在任中は、例大祭にあわせての参拝は行ってこなかった。
★注、山口県生まれの菅直人を無理やり「東京県」出身に変えるほど長州に拘る青バッジの安部晋三らしい話である。(首相を辞める決断とは潰瘍性大腸炎ではなく8年近くも靖国参拝が出来ないストレスかも知れない)
日本の近代化を半世紀ほど遅らせたのが明治維新であり、最後にはWWⅡで日本中を焼け野原にする。長州とはアメリカ軍の傭兵組織だった破壊的カルト宗教ISIS(イスラム国)のそっくりさんだった。