10月16日 朝から良いお天気
昨日は、拙寺の観音法要でした。
本堂の左手に三十三観音を、お祀りしています。
観音様は慈悲の菩薩さま。皆様の慈悲の心が潤う事を願って、共に読経しました。
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法要の後、法話をお願いしたのは、浄土真宗本願寺派崇徳寺の住職様。
他宗のお坊さまをお招きするのは、珍しいことです。
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お話の中心は「自然法爾(じねんほうに)」について。
私たちが「自然」という時は普通、山川草木など、人間を取り巻く環境を指します。
人間は長い間、自然を支配しコントロールしようとしてまいりましたが、自然は元々支配されるようなものではありません。
仏教では「自然=じねん」と訓じ、「自ら然る」という解をとります。
人間の「そのまま」の有り様が自然であるという、意味です。
言い換えると、「法=真理」がそのまま顕現(顕れる)していることを示すのが「法爾」というのです。
「法爾自然」とも申します。
浄土宗の開祖さまは、この「法爾自然」を略されて、法然と号されました。
親鸞聖人は、『自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、
然といふはしからしむといふことばなり』とお示しです。(『自然法爾章』)
崇徳寺の住職様は、このお言葉を紹介した後、
「道元禅師様の『仏道をならふといふは、自己をならふなり』という教えと通じるものです」と、
わかりやすく対比下さいました。
法話の後は、互いの宗派の教えの類似するところと、異なるところ。
現代の仏教界の抱える諸問題。
現代社会における仏教の意義と可能性。等々を語り合いました。
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有難いご縁です。
これからは、宗派を超えて、現代に生きる仏教を模索してまいらねばなりません。
各々が慈悲の心を磨くことが、第一歩と思っております。合掌