石原さとみは苦手だった。だけど、カヨコ・アン・パタースンは悪くない。以下ネタバレ含むので本ブログのお取り扱いにはご注意を。医大生・たきいです。
『シン・ゴジラ』予告2
半年ほど前に友人と飲みに出かけた思い出の北品川駅が映画開始早々に木っ端微塵になって度肝を抜かれた。東京が大変なことになってしまったと、映画のこととはいえ開いた口が塞がらなかった。そんな暴れまわるゴジラに対して、政府は「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」を設置し、各省庁の「はみ出し者」が招集された。厚生労働省からは医系技官が巨災対に出向している。医系技官のはみ出し者という割には、劇中では対策本部を仕切っていてまともな人間なように感ぜられた。
この映画の謳い文句は「現実対虚構」とある。これにルビを振って「ニッポン対ゴジラ」と読ませるそうだ。実際に防衛省や自衛隊の全面協力の下撮影されているそうで、リアルで見応えのある作品となっている。人間がゴジラ討伐に全力を尽くして、無人新幹線爆弾や無人在来線爆弾でなりふり構わず攻撃をしかけるシーンは実に痛快であった。
ただし。対ゴジラという構図だけで主客二元論的に捉えられるほど、この作品は単純ではなさそうだ。1954年の初代ゴジラ誕生以来、ゴジラは「他者」として描かれてはこなかった。人類の核実験によって海底から誕生したゴジラは自然の象徴であり、なおかつ文明の産物なのである。我々の集合に内包されたゴジラは「自己」の一部となる。この論理が、「ゴジラとは共存していかなくてはならない」という作品終盤の台詞に繋がってくるのであろう。邪悪は我々の内部にこそ存在する。
理解しえない邪悪な存在を「他者」として認識することは幼稚な思想だ。外部に存在する邪悪な物体が清廉潔白な「自己」に対して攻撃を仕掛けてくるというのが怪獣モノの古典的な図式である。加えて怪獣は外部から、つまりは宇宙からやってきがち。怪獣をあの手この手で正義のヒーローが邪悪な敵を倒せばハッピーエンドの出来上がりとなる。だがそもそも、外部とは何なのだ。「他者」と見做したものを邪悪であると決めつけているだけではないか。人類がこのように、時として道を誤ってきてしまったことは歴史が示している。正義のヒーローというのも勝者から見た虚構の理論に過ぎない。
ゴジラとは共存していかなくてはならない。如何にして複雑系の中で「共存」の糸口は見つけ出せるのか。考えれば考えるほど難しいテーマである。もう一回映画館に足を運んで考えてみる必要がありそうだ。
(本編の前の予告編で買った食べ物を食べきってしまった人(笑))