田舎で暮らしてます。 (My country life!)

都会の喧騒を離れ、北関東の田舎で可愛いペット達と暮らし始めた中年夫婦の日記です。

恩師訪問

2012-07-10 05:50:27 | 日記
一昨日の日曜日は高校生の時に山岳部顧問をされていた小堀誠先生を訪ねた。以前お伺いした際にボランティア活動などで忙しい毎日を送られていると知っていたので、今回も事前に電話を入れ、先生の週末のご予定を確認してからの訪問である。住まいから車で3,40分の距離ではあるが、なかなか機会がなく足が遠のいており3年ぶりの再開となった。5年ほど前に故郷おやま市で再就職し、田舎に住み始めた頃に山岳部の旧友であった橋本一美君のお墓参りを年に数回も行うようにしていたが、それを機に「橋本一美君を偲ぶ会」として栃木高校山岳部に在籍していた卒業生に声をかけ有志による同窓会のようなものを企画した。その当日は当時の顧問であった小堀誠先生を始め、荒川先生や阿部先生をかこみ2次会の会場で夜中まで街のスナックでカラオケ大会となって楽しいひと夜を過ごした。そのご一度だけ、たまたま足利方面の現場で仕事があり、帰りに小堀先生に会ってみようと思い立ち寄ったのが最後であった。先生のご自宅は50号線バイパス沿いにあり、大田市、桐生市や足利市と受注した仕事の現場が佐野市の50号線バイパスを通る方向にあった為、いつでも先生宅を訪問できる機会はあったのだが、なぜか足が遠のいていたようである。今回の訪問の目的も、近況報告を兼ねてではあるが先生に高校時代の写真をお借りしたいという理由からであった。引っ越しの多い人生だったせいか、引っ越しのたびに物がなくなり、高校時代の写真なども紛失してしまっていた。息子が高校に入った頃から、父親の高校時代の写真を見たことがないという話題が家族の間で頻繁に交わされていたのだが、高校の卒業アルバムを友人から借りるという行動に結び付かなかった。5月に入院していた時に、市内に住む友人に卒業アルバムの話をしたが、探しておくと言ったまま未だに連絡がない。この歳になって高校生時代の卒業アルバムをすぐに取り出せる場所にしまっている人間はあまりいないのであろうと悟った。我が家のアルバムも数十冊あるが、押入れの段ボールの中であり、めったに陽の目を見ることはない、忘れられた存在であるのだから。そんなこともあり、顧問であった小堀先生なら山岳部時代の写真を大切に保管しているのではないかと思い、写真を見せてもらおうと思いたった訳である。ところが意に反して、事はそんな簡単に運ばなかった。写真は後で探して送りますという返事が返ってきた。当然と言えば当然なのだろうが、デジカメまで準備して、写真をお借りするのは失礼かと思い、高校時代の写真を複写するつもりでいたのだが全くの誤算であった。
 目的は果たせなかったが、話題が先生の読書歴となりある作家の作品を紹介されたのである。吉村昭という、初めて聞く作家名であった。作品は歴史小説といったものが中心でとくに戦後の動乱期における北海道や樺太についての小説も多いと聞かされた。終戦前後後という言葉には、とかく広島の原爆や沖縄における米軍との闘いがつきまとうが、終戦前後の北海道や樺太でのソ連参戦による悲劇を扱った小説は今まで読んだこともなく、それらの存在さえも良く知らなかった。さっそく、その日の夕方、夕食の買い物帰りにブックオフに立ち寄り吉村昭の文庫本を1冊購入した。「脱出」とタイトル文字が書かれた本は砂の上に焼け焦げた木片が写ったセピア調の写真が表紙となっており、これが死体を焼いた後の木片の一部なのだろうかと作品を読み終わったあとで知った。北海道の一漁村では砂浜で毎日のように死体を野焼きすることが当たり前のように行われていた。それは樺太に侵攻してきたソ連軍から逃れるために、樺太を脱出して北海道にたどり着いた漁船の中で息絶えた人々の遺体であったようである。「脱出」の光雄は、突然のソ連の参戦に動揺する樺太の一寒村から北海道へと脱出する。戦争に遭遇した少年の目を通して、ソ連参戦後の動乱を描いているがドキュメンタリーのように淡々と事実が描写されている。「苦痛を経験して生き延びてはじめて、人は心が自由になってよく物が見えるようになるのである。《昭和》とういう時代を生きたわれわれ日本人にとっての最大の苦痛は、戦争であったといえよう。」とこの本の解説で述べていたが、自分には戦争体験も戦後の体験もない。自分の生まれた昭和28年には戦争の爪あとは残されていなかったのだろう、少なくとも、ものごころがついた年齢には戦争は過去の歴史の一端でしかなかった。東京から疎開してきていた叔母は、その後も年に何度も実家である両親の家へ遊びに来ていたが、その叔母を通して戦中や戦後の話を聞く程度であった。父も終戦間際に出征して海外に派兵されていたようであるが決して海外での戦争体験を語ることはなかった。唯一父が繰り返して子供たちに聞かせていた話は、日本に送り返された時の船上での出来事であった。米軍兵士の監視下に置かれていた日本兵の中には英語を話せる者がほとんどいなかったようで、父は積極的にアメリカ兵とコミュニケーションを取ろうとしたようで、英語が通じたのが珍しかったようで驚いたアメリカ兵に「君は英語の先生でのしていたのか?」と聞かれたそうである。これが父の自慢だったようで、子供のころ何度か聞かされていた。今になって思えば、これがサブリミナリー現象となって自分の生き方に影響を与えたのではないだろうか。中学、高校と英語の授業を嫌い全く英語という外国語に関心のなかった自分が、東京の大学に進学すると英国人の英会話講師との遭遇を機会に英会話にのめり込んでしまった。英会話というよりは英国という国にのめり込んだのかもしれない。その後、私費での語学留学で2年半、そして10年の時を隔てて、ロンドンでの社会人としての生活。輸出入貿易関連の職業を転々として、バイリンガルとしての人生を歩んできた。この全ての根源は父の話にあったのかもしれない。



最新の画像もっと見る