「一日で心を鍛える方法」というものがあったら・・・いや、一日で強くなれたらと思っています。
明日は息子の命日で、ようやく納骨されることに。
今までは、S宅へ行って骨壷を抱いたり、バレンタインのチョコレートを持って行ったり、「行けば逢える」という自己満足に浸っていた。
亡くなった魂としてはどうだったかということはわかりませんが、急きょ納骨という段になりました。
17歳。進学の夢もあり、彼女もできて、苦悩する心を抱えながらも必死で生きていた事を思うと、本当にいつもいつも後悔の糸を辿っても辿っても辿りつくのは「ごめんね」という言葉だけです。
これから未来ある少年が自ら命を絶ち、そうではない私が生きているというジレンマ、矛盾は私に課せられた罪悪感であり、私が死ぬまで背負う償いでもあります。
泥の沼を、子どもを背負って逃げる夢。手が見えているのにつかむことができない夢。
1週間ほどまえ、息子が夢に出てきました。まるでさよならを言いにきたようなイメージが伝わってきました。
きちんと真正面を見据えて 私を見ていました。
ようやく魂が天国に召される旅立ちを 喜ばないといけない。ではなく、喜ぶべき。でもなく「喜ぶ」、ことがまだできない。
私が守って上げることができなかった。。だから という思いがあります。
それでも、私は毎日を生きています。
こんな思いを、後悔の念を誰にどうやって伝えたらいいのかさえ分からないままです。
息子の涙の痕を辿って追いかけたい気持ちと、悔いのない毎日をおくりたいというまるで分水嶺のような・・刃の刃先を渡り続けているような感じです。
納骨します。という知らせを受けてから、実は悲しくて悲しくて気持ちの置き場がなく、ほんの些細な事にも敏感になってしまいました。
が、いろんな人が「喜んであげなさい」とか「新たな旅立ちだ」といい、ようやく気持ちが収まってきたところです。
そして、人生とは本当に奇奇なもので、その日、ある青年の結婚式で奏楽をすることになりました。
さらに、ピアノで「いい日旅立ち」を弾いて下さいとも。
結婚式は教会式でされるということも、啓示的なものを感じえずにはいられません。
本当に複雑な気持ちではありますが、何とか気持を切り替えて一日をしめたいです。
命とは何でしょうか。親とは何でしょうか。母親とは。子どもとは。生きるとは。
神様 私を許して下さいとは言いません。が、旅立ちを迎える二人の命を、私が心から敬い、見送ることができますように、どうか力を下さい。
ああ 一日で心を強くする方法・・・・きっと 私の心の中にあるんだろうなあ。それを見つけられないか、見ようとしないか なんだろうなあ。