言語聴覚士の独り言

言語聴覚士の日記

死生観

2021-12-29 06:20:00 | 日記
私は40歳である。

子どもの頃から死ぬ事が怖くて、死とはどういうものなのか考えてきた。

幼少期の死の恐怖は自分の存在がなくなり、周囲から忘れられるのが怖かった。

今はその恐怖はない。

死を身近に感じる経験を積み、死をより現実的に捉えるようになった。

コロナ禍当初はコロナ感染により死ぬかもしれないと感じた。

死ぬ事が怖かろうが、嫌であろうがいずれ死ぬ。

死は自然であり、抗うことのできない事である。

その事は理解できるがやはり死ぬ事は嫌である。

それは今、死ぬ事が嫌であるという意味である。

つまり、死ぬ事が嫌とも言えるが、もっと生きたいという事になる。

まだやりたい事や見たい景色が山ほどある。

いつか向かえる死までそれを追い求めたい。

私は訪問してリハビリを提供する仕事をしている。

仕事柄高齢者と関わる事が多い。

高齢者はいつ死んでも構わない。もう生きていても仕方がない。やりたい事はない。と言う方が多い。

高齢になるまで生きることができて、自分のやりたい事をやりきった発言であろうか。

それとも死を現実として考えられていない為に言える言葉なのだろうか。

私が死にたくない理由の一つになっている事がある。

それは死に苦痛を伴う可能性が高いことである。

寿命がくる時に、痛みや苦しみの先に死があるとすれば、

死の前段階の苦痛を恐れる気持ちがある。

40歳の今ならば苦痛の先に死の回避があるのであれば闘う。

しかし、高齢になり人生を生ききったと思えているのであれば、闘わず、苦痛なく最期を迎えたいと思う。

今の世の中は年齢や病状に関係なく、まず闘う事を選択せざるを得なくなっているように感じる。

高齢者や希望者が初めから闘わない事を選択できる事も大切ではないだろうか。

世の中もかなり成熟してきており、生きている間は選択の自由も昔と比較して浸透してきたように思う。

死は特別でなく生の延長線である。

だとしたら死も選択できるようになるのが自然ではないだろうか。

尊厳死の是非を問うているのではなく、

死なないようにするのが常識ではなく、

どのように死んでいくかをもっと選べるようになって欲しいと思う。