TAZUKO多鶴子

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岡山・大阪・京都・奈良…台湾・イタリアでの学び

2008-08-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言
京都に来てから早1年の月日が過ぎました。
昨日早朝と今朝
「おーうーい」(『法施』と言っているそうです…)という大声で
数名が叫ぶ音で目が覚めました。
何だろう…と…今朝初めて…
温かな光景を見ることが出来たのでした。
僧侶が隣のおそば屋さんから托鉢されていた姿でした。
京都や奈良では見える形だけで無く、
昔の文化が自然に生きて残されているようです。
奈良の県庁は東大寺の近くにあり、
県庁や学校の職員室にはごく普通に『仏画』や『仏像』が飾られています。
『寺院の名』や『古墳の話し』や『神様』の言葉も会話の中に自然と出て来ます。
文化として根付いたものなので、
『宗教』が怖いものとして捉えていないのでしょうね…。
しかし岡山や大阪では『仏画』や『お札』を飾るだけで嫌だと感じる人が多くいて…。
私が京都に住んでいる事を知ったある方が
「皆が嫌がるから…」との理由で
その方が『金閣寺』で貰った『お札』を私に返された方もいらっしゃいました。
(一般的日本人の私にとって…何故私に渡すのか?今も理解出来ませんが…)
では、台湾やイタリアではどうだったでしょうか?
私の経験した台湾やイタリアの個展で学んだことは…
あの当時、
宗教的考えは違っていても
京都や奈良と同じものを残していると感じました。

今の世の中は
『唯物的』な『価値観』が強くなっているので、
形あるものにお金を出すことには抵抗がなくても、
『心の問題』のような『目に見えないもの』に対して、
または個人に利益(物質だけでなく目に見えない利益も含む)が帰って来なければ、
お金を出すのは抵抗があるがという人が増えているように思われます。

仏教以前からあるインドの基本的道徳律で、
「持つ者が持たぬ者に施すのは当然の義務」
「持たぬ者が持つ者より施しを受けるのは当然の権利」
という考えが前提にあり、
富者は施すという行為によって善行を積む。
貧者は施しを受けることにより、
善行を行わせる事に繋がる。
また、他者にものを施す「布施」は
修行者は自ら働いてはいけないとされている為、
信者からの施しのみで生きるとされるとのこと。  
托鉢は、仏教に限らずインドの一般的宗教行為の一つで、
「布施」を基本修行と取り入れますが、
何らかの対価を求めない(善行を積もう・来世の幸福を求めようなど)、
義務的・虚栄心で行わない、
自らの物に執着する心を捨てるために行うとしたそうです。
普段は自覚しない何かを『してやっている』という
傲慢な心を気づかせる為の第一歩となる修行。
つまり托鉢では、
我々が物(財)を施す布施に対して、
教え(法)を施すという布施を、
互いが布施をしあう事になる。

文化には知識では理解出来ない、
人類の知恵の固まりが沢山埋まり積もっていると痛感します。
個人主義の近年、知識があっても心の希薄では気付かぬ大切な何か…。
それを理解出来ることが、
自然を生かし人間が救われる道に繋がるのだとTAZUKO多鶴子は確信しています。


参考資料:BIGLOBEなんでも相談室