TAZUKO多鶴子

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奈良『平城宮跡』まで行って来ましたよ(^ ^)

2009-01-15 | TAZUKO多鶴子からの伝言

今日は有名な奈良『平城宮跡』まで行って来ました。
残念ながら写真を撮っていないのですが…。
次回行く時は是非!
見事な風景写真を撮ってブログ公開したいと思います。
その時まで暫くお待ちを!



< 平城宮 >
平城宮(へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界文化遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。

*平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から成り、約120haを占めていた。
794年の平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。
1852年(文政8年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。 明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、1907年『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址(へいじょうきゅうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。
のちに址(し・あと)が常用漢字外であるため平城宮跡(へいじょうきゅうせき)と書かれるようになる。
なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。


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