TAZUKO多鶴子

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京都『護王神社』の前を通りました(^-^)

2008-08-26 | TAZUKO多鶴子からの伝言


<護王神社(ごおうじんじゃ)>

京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。別称子育明神。
和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀する。

*歴史*
護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まる。正確な創建の年代は不詳である。
和気清麻呂と姉の広虫は、道鏡事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874年)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前の中院家邸宅跡(現在地)に遷座した。
大正4年(1915年)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫が孤児救済事業で知られることから、当社は子育明神と呼ばれる。
*護王神社と猪*
霊猪の手水舎
和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890年)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そのため亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。
日本銀行券としてかつて発行されていた10円紙幣は、1890年から1945年まで発行されたものは一貫して和気清麻呂と護王神社が描かれたが、そのうち1890年に発行されたものは表面の枠模様の中に8頭の小さな猪が描かれ、さらに1899年に発行されたものは裏面に大きな猪が1頭描かれた。10円紙幣はその後1915年発行のものから猪が描かれなくなったが、その後も含めて和気清麻呂の肖像画が描かれた10円紙幣は長らく「いのしし」と俗称された。


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

紀伊國屋・加古川店で出会った方からご注文頂きました!

2008-08-25 | TAZUKO多鶴子からの伝言

今日は、紀伊國屋書店・加古川店の
以前の個展イベントでご注文頂いた素敵な女性から、
新しいご注文を頂きました。
この方との出会いも忘れられない出会いとなりました。
初めての加古川店の個展イベントで出会った時から、
心安らぐ温かなお手紙や、様々なプレゼントや…
多くのご配慮を今も尚、沢山頂いております。
どうしてこんなに優しいのだろう…と感動するばかりです。
きっと…多くの苦労や悲しみを克服して…崇高なお心に辿り着いた方なのだろう…と。
今日のお電話も…
「絵を描くのがどれ程大変か…私はよく分かっているから…」…と
まるで私の苦しみを理解しているかのようでした。
優しい天使のような声の響きでした。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
…言葉には上手く言えず…
…何度も何度も同じ言葉を心の中で繰り返す私がいました。




紀伊國屋 高松店のご注文のパステル画が完成!

2008-08-24 | パステル画
紀伊國屋書店・高松店からのご注文のパステル画が
今日やっと完成しました(^ ^) 
6月の下旬から少しずつ心を込めて制作した作品。
動物を愛する優しい温かなお心をお持ちのご注文者!
ご注文の詳細をお尋ねする時にお話しをさせて頂き、
ご注文者のお声やお言葉から
そんな素敵な熱いものが伝わってきました。
そのご注文者のお名前は
小西 隆子 様。
今回のご注文者との出会いも
制作する中で多くの学びと感動がありました。
お預かりした写真。
『猫のキス』
とても可愛くて誰もが癒されるシーン。
写真の中から感じる優しさと愛。
そしてその素敵なアングル。
朧げな写真から全体を創造…
制作の為に想像力を研ぎすませる作家魂。
ペットを大切に思う
小西様の温かな優しいお心と、
飼い主を愛する二匹の猫の
言葉には決して出来ない深い感謝が、
TAZUKO多鶴子に美しい作品を描かせる
力をくれたのだと感じています。

小西 隆子 様!
人であれば、
誰もが癒される
素敵なご注文を下さり、
本当に有り難うございました。
そして…きっと、
この作品をネットでご覧下さっている多くの皆様が、
安らぎと癒しを感じて下さっていると思います。

心からお礼を申し上げます。
本当に有り難うございました!
どうか末永く作品を可愛がって下さい!

何度も…
小西様に
感謝!感謝です!!



*尚、『TAZUKO多鶴子ネット画廊』
『パステル画オーダー』にも作品を公開致しましたので
多くの方々のご訪問をお待ちしております。




『ガンジー』の言葉

2008-08-23 | TAZUKO多鶴子からの伝言
自分の手で織った一枚の布をまっとった
『マハトマ・ガンディー』。
無抵抗と断食の力で平和主義を貫き、
血を流すことなく
3億人ものインド人をイギリスの支配下から解き放った。
1937年から1948年にかけて、
計5回ノーベル平和賞の候補になったが、
本人が固辞したため、
受賞には至らなかった『マハトマ・ガンディー』。
彼の生き方は世界中に大きな影響を与え、
多くのメッセージを残し、
今も尚
多くの人々を救っている。
今日は『マハトマ・ガンディー』の多くの言葉の中から
一部を抜粋してご紹介します。

    < ガンジーの言葉 >

『明日死ぬかのように生きろ。永劫永らえるかのように学べ。』

『私は自分が死ぬ覚悟ならある。
 しかし、私に人を殺す覚悟をさせる大義はどこにもない。』

『罪を憎みなさい、罪人を愛しなさい。』



 あなたがもし、だれかの心を軽くしたいと思うのなら、
 あなたがもし、だれかの心を明るくしたいと思うのなら、

     だれかの力になりたい、
     だれかを励ましたい、
     だれかを勇気付けたい、

 あなたがもし、そう思うのなら、
 あなたが輝いていることが、
  何よりのメッセージ。
  何の言葉もいらない。

  とにかく
 あなたが楽しく、明るく、元気でいることが、
 夢を生き全力で生きること、
       その姿勢、
       その背中が、
 まわりの人を励まし、元気づけ、勇気を与える。

 だから、
  自分の人生を最高のものにすることそのものが、
  あなたが大切にしたい人にとっての、
      最高の贈り物になる。

  あなたの生き様が、
      無言のエールを送り続けている。

もし、いま発しているメッセージが、
自分の伝えたいと思っているメッセージと一致しないのなら、
いますぐ、
 自分が伝えたいメッセージを発する生き方をする。

あなたが、発しているメッセージはなんだろうか?
     My life is my message.

 口で何か伝えようとしなくていい。
  私たちの生き様自体が、
  何かをそのまま伝えている。

そんなはずはなかった、
そんなつもりはなかった、
そんな言い訳もいらない。

ただ、その伝わったものは、本当に伝えたかったものか。
自分の生き様のメッセージとして選ぶに値するものか。

「私は、自分だけがエライと思っている」とか、
「私は、ビクビクしている」とか、
「私は、楽したい」とか…
             伝わってしまうのだ。

 わたしたちの生き様は、
  正直に自分を伝えてしまうのだ。
  人生はメッセージそのもの。

 人生のムダをなくするとか、
 要領よく生きるとか、
 そういう次元の話でなく、

 「いま伝わっている生き様が、
        本当に伝えたいことなのか。」
  という次元から離れては、ならないのです。

 だれではなく、
 自分に正直に生きるのです。
 
        あなたの人生なのだから。

 あなたは何も語らなくていいのです。
  なぜなら
 あなたの人生が
       すべてを語っているのです。
        
            …… マハトマ・ガンディー ……


*「西洋文明についてどう思いますか」という記者の質問に答えて。
「ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである。」



参考資料: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』

岡山・大阪・京都・奈良…台湾・イタリアでの学び

2008-08-22 | TAZUKO多鶴子からの伝言
京都に来てから早1年の月日が過ぎました。
昨日早朝と今朝
「おーうーい」(『法施』と言っているそうです…)という大声で
数名が叫ぶ音で目が覚めました。
何だろう…と…今朝初めて…
温かな光景を見ることが出来たのでした。
僧侶が隣のおそば屋さんから托鉢されていた姿でした。
京都や奈良では見える形だけで無く、
昔の文化が自然に生きて残されているようです。
奈良の県庁は東大寺の近くにあり、
県庁や学校の職員室にはごく普通に『仏画』や『仏像』が飾られています。
『寺院の名』や『古墳の話し』や『神様』の言葉も会話の中に自然と出て来ます。
文化として根付いたものなので、
『宗教』が怖いものとして捉えていないのでしょうね…。
しかし岡山や大阪では『仏画』や『お札』を飾るだけで嫌だと感じる人が多くいて…。
私が京都に住んでいる事を知ったある方が
「皆が嫌がるから…」との理由で
その方が『金閣寺』で貰った『お札』を私に返された方もいらっしゃいました。
(一般的日本人の私にとって…何故私に渡すのか?今も理解出来ませんが…)
では、台湾やイタリアではどうだったでしょうか?
私の経験した台湾やイタリアの個展で学んだことは…
あの当時、
宗教的考えは違っていても
京都や奈良と同じものを残していると感じました。

今の世の中は
『唯物的』な『価値観』が強くなっているので、
形あるものにお金を出すことには抵抗がなくても、
『心の問題』のような『目に見えないもの』に対して、
または個人に利益(物質だけでなく目に見えない利益も含む)が帰って来なければ、
お金を出すのは抵抗があるがという人が増えているように思われます。

仏教以前からあるインドの基本的道徳律で、
「持つ者が持たぬ者に施すのは当然の義務」
「持たぬ者が持つ者より施しを受けるのは当然の権利」
という考えが前提にあり、
富者は施すという行為によって善行を積む。
貧者は施しを受けることにより、
善行を行わせる事に繋がる。
また、他者にものを施す「布施」は
修行者は自ら働いてはいけないとされている為、
信者からの施しのみで生きるとされるとのこと。  
托鉢は、仏教に限らずインドの一般的宗教行為の一つで、
「布施」を基本修行と取り入れますが、
何らかの対価を求めない(善行を積もう・来世の幸福を求めようなど)、
義務的・虚栄心で行わない、
自らの物に執着する心を捨てるために行うとしたそうです。
普段は自覚しない何かを『してやっている』という
傲慢な心を気づかせる為の第一歩となる修行。
つまり托鉢では、
我々が物(財)を施す布施に対して、
教え(法)を施すという布施を、
互いが布施をしあう事になる。

文化には知識では理解出来ない、
人類の知恵の固まりが沢山埋まり積もっていると痛感します。
個人主義の近年、知識があっても心の希薄では気付かぬ大切な何か…。
それを理解出来ることが、
自然を生かし人間が救われる道に繋がるのだとTAZUKO多鶴子は確信しています。


参考資料:BIGLOBEなんでも相談室