日本の発展を担った
明治期の有力実業家の1人として活躍した
『外山脩造』は
「近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれ」
その『河井継之助』の言に従って商人となった。
幼児より聡明にして豪胆、神童と云われ
鳶色のような鋭い目を持ち、
声がよかったといわれる幕末の志士『河井継之助』。
徹底的な実利主義で、
武士の必須である剣術に関しても
いざ事あるときにすぐに役に立てばよいので
型や流儀などどうでもよいという考え方だった。
しかし読書に関しては別で、
好きな本があると
その一文一文を彫るように書き写していたと伝えられている。
物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、
士農工商制の崩壊、
薩長政権の樹立を早くから予見していた。
藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、
本人は当然の風にしていた。
1868年の戊辰戦争では、
上席家老として中立を唱えたが、
官軍岩村参謀に容れられず、
交戦となり、河井継之助は重症を負った。
その後、
松本の勧めもあり、
会津若松へ向けて只見村を出発し、
8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。
重症の為、塩沢村では不安定な状態が続き、
15日(30日)の夜、
継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、
ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。
翌16日(10月1日)の昼頃、
継之助は談笑した後、
ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。
そして、
再び目を覚ますことのないまま、
同日午後8時頃、
破傷風により死去した。
享年42。
今日は
その『河井継之助』の言葉をご紹介します。
人間と言ふものは棺桶(かんおけ)の中に入れられて、
上から蓋(ふた)をされ釘を打たれ、
土の中に埋められて、
それからの心でなければ何の役に立たぬ。
…… 河井 継之助 ……
(かわい つぎのすけ:1827~1868)
< 外山脩造 >
外山脩造(とやま しゅうぞう、1842年11月10日 - 1916年1月13日)は、新潟県長岡市(旧栃尾市)出身の明治期の実業家、政治家。
村役人外山伝の子として生まれた脩造は、17歳で江戸へ行き、清川八郎、塩谷宕陰のもとで学業を修め、昌平坂学問所に入った。維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。
明治2年に慶應義塾、明治4年に開成学校に入った脩造は、5年に秋田県に出仕し、翌年、大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。
明治11年渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行総監役として、業務の内容に取り組み、明治15年から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。
明治20年から21年にかけて欧米の経済機関視察に加わった脩造は、信用調査機関の必要性を再認識し、明治24年、大阪に商業興信所を設立して自ら総長となった。
またその前に大阪貯蓄銀行副頭取、明治25年に衆議院議員、明治31年、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、明治32年に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。
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