TAZUKO多鶴子

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『河井継之助』の言葉

2009-01-18 | TAZUKO多鶴子からの伝言
日本の発展を担った
明治期の有力実業家の1人として活躍した
『外山脩造』は

「近く身分制がなくなる時代が来るからこれからは商人になれ」

その『河井継之助』の言に従って商人となった。

幼児より聡明にして豪胆、神童と云われ
鳶色のような鋭い目を持ち、
声がよかったといわれる幕末の志士『河井継之助』。
徹底的な実利主義で、
武士の必須である剣術に関しても
いざ事あるときにすぐに役に立てばよいので
型や流儀などどうでもよいという考え方だった。
しかし読書に関しては別で、
好きな本があると
その一文一文を彫るように書き写していたと伝えられている。
物事の本質をすばやく見抜く才にすぐれ、
士農工商制の崩壊、
薩長政権の樹立を早くから予見していた。
藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、
本人は当然の風にしていた。
1868年の戊辰戦争では、
上席家老として中立を唱えたが、
官軍岩村参謀に容れられず、
交戦となり、河井継之助は重症を負った。
その後、
松本の勧めもあり、
会津若松へ向けて只見村を出発し、
8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。
重症の為、塩沢村では不安定な状態が続き、
15日(30日)の夜、
継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、
ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。
翌16日(10月1日)の昼頃、
継之助は談笑した後、
ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥った。
そして、
再び目を覚ますことのないまま、
同日午後8時頃、
破傷風により死去した。
享年42。
今日は
その『河井継之助』の言葉をご紹介します。




     人間と言ふものは棺桶(かんおけ)の中に入れられて、

        上から蓋(ふた)をされ釘を打たれ、

            土の中に埋められて、

        それからの心でなければ何の役に立たぬ。



         ……   河井 継之助   ……
       (かわい つぎのすけ:1827~1868)



< 外山脩造 >
外山脩造(とやま しゅうぞう、1842年11月10日 - 1916年1月13日)は、新潟県長岡市(旧栃尾市)出身の明治期の実業家、政治家。
村役人外山伝の子として生まれた脩造は、17歳で江戸へ行き、清川八郎、塩谷宕陰のもとで学業を修め、昌平坂学問所に入った。維新の動乱期、河井継之助のもと、長岡で戦い、河井の遺訓により商人として生きることを決意する。
明治2年に慶應義塾、明治4年に開成学校に入った脩造は、5年に秋田県に出仕し、翌年、大蔵省銀行課に入り、国立銀行創設に力を出した。
明治11年渋沢栄一の斡旋で大阪第三十二国立銀行総監役として、業務の内容に取り組み、明治15年から3年間、日本銀行大阪支店長に就任して大阪銀行界の指導者になった。
明治20年から21年にかけて欧米の経済機関視察に加わった脩造は、信用調査機関の必要性を再認識し、明治24年、大阪に商業興信所を設立して自ら総長となった。
またその前に大阪貯蓄銀行副頭取、明治25年に衆議院議員、明治31年、浪速銀行頭取、大阪舎密工業社長、明治32年に阪神電鉄社長に就任したのをはじめ数多くの関西の会社設立に尽力し、大阪銀行集会所委員長として関西財界の指導者として活躍した。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

映画『夢』の『狐の嫁入り』を思い出しました…

2009-01-17 | TAZUKO多鶴子からの伝言
久し振りに本格的に風邪をひいてしまいました。
余りにも辛いので近所の病院で診て貰ったのですが…
「二~三日寝ていないといけないですよ!」
とお医者様に言われて
今日は仕方なく制作を断念しました。
横になって寝ていると…
ふと…昔見た映画のイチシーンの映像が出てきました。
黒澤明監督が最後に製作した映画、
『夢』の『狐の嫁入り』の幻像的な絵…。
『狐の嫁入り』は葛飾北斎も描いており、
昔から各地方でその話しが残っているようです。
しかし…その由来は鮮明に浮き上がっていません。
ただ…
近年でも親しみのある『稲荷神社』の狐から
紐解いてみると幾らかみえるような気がします。
恐らく農耕民族の日本では
アニミズムの時代…
弥生時代、日本に稲作がもたらされるにつれネズミが繁殖し、
同時にそれを捕食してくれるキツネやオオカミが
豊作をもたらす益獣となったと考えられ、
伝染病との関係も観察から知っており、
たたり神的な一面を持つ存在として
土着の神となった可能性もあるようです。
近年ではその狐が商売繁盛のお金に変化したのは、
現代の日本がお金に執着した表象となっているのでは…。
そんな事を考えながら横になって休んでいるているうちに、
久し振りに黒澤明監督の『夢』がみたくなりました。


  < 夢 >
1990年に公開された黒澤明による映画作品である。日本とアメリカの合作。当初 黒澤明監督最後の作品だった。
「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の8話からなるオムニバス形式。黒澤明自身が見た夢を元にしている。各エピソードの前に、こんな夢を見たという文字が表示されるが、これは夏目漱石の『夢十夜』における各挿話の書き出しと同じである。
  < 狐の嫁入り >
狐の嫁入り(きつねのよめいり)は、北海道と沖縄県を除く日本全国に伝わる怪異。
*一般には夜の山中や川原などで、無数の狐火が一列に連なって提灯行列のように見えることをいい、狐が婚礼のために提灯を灯しているといって「狐の嫁入り」と呼ぶ。これらの怪火は遠くからしか見えないという特徴がある。徳島県ではこれを嫁入りではなく狐の葬式とし、死者の出る予兆としている。
怪火が狐の嫁入りと考えられただけでなく、江戸時代の随筆『古今妖談集』には実際に嫁入りに遭ったという話がある。寛保5年(1745年)に、本所竹町の渡し場に現れた男が、自分の仕える主人の家で婚礼があるために渡し船を多数寄せるよう依頼し、渡し場の亭主に祝儀として金子一両を渡した。亭主が喜んで多くの船を準備して待っていると、立派な嫁入り行列がやって来たので、亭主は丁重に一行を送り届けた。しかし翌朝には、祝儀の金はおろか、渡し賃まですべての金が木の葉に変わっていた。人々は葛西金町(現・東京都葛飾区)の半田稲荷から浅草の安左衛門稲荷への婚礼があったと噂したという。
新潟県の麒麟山にも狐が多く住み、夜には提灯を下げた嫁入り行列があったといわれる。これに由来する祭事が同県の狐の嫁入り行列である。
天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶのは、天気雨のときには狐の嫁入りがあるという俗信に由来しており、「狐の祝言」とも呼ばれる。江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による『狐の嫁入図』ではこの俗信に基き、狐の嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている。
狐の嫁入りと天候との関連は地方によって異なることもあり、熊本県では虹が出たとき、愛知県では霰が降ったときに狐の嫁入りがあるという。福島県では旧暦10月10日の夕方にすり鉢を頭にかぶり、腰にすりこぎをさしてマメガキの下に立つと、狐の嫁入りが見えるという。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』