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TAKE-LOG 竹ログ

二俣城山から鳥羽山城まで散歩路

今日も運動不足解消(解消出来てるか腹を見れば一目瞭然)と、

郷土の歴史探索の散歩に出た。我が家からも見えている城山に向かった。

高天神城とならんで難攻不落と言われていた二俣城を武田信玄も攻め落すには

2ヶ月を費やして上洛が遅れたばかりか信玄の命も費やしてしまった。

 

かつて二俣川は城の直下を流れ自然の堀と急崖を作っていたので

この坂を攻め登ることは到底無理と思われる程の傾斜である、

この崖を攻め登れば写真の丸石が頭上から転がり落ちて来るのだ

この丸石は天竜川に無尽蔵にあるのだ。

 

二俣城図に描かれている当時の道に出ると道は鋭角に曲がり二俣城の大手門に至る道をゆく、

大手門から城内に入れば本丸天守の石垣が見えて来る

今川、武田、徳川と城主が変わったあと二俣城を改修したのは

徳川の家臣の堀尾氏と言われ、土と石垣を使い分けた城としては

代表される城郭である。

 

野面積みの石垣は浜松城と同じ形式を持っている

 

本丸に咲く花に当時の兵士と信康の若い命を想う、

 

いくつかの曲輪を持ち、沢山の兵が籠城出来たことを窺わせる

 

二俣城を南下すれば天竜川と二俣川の合流地点に下る

天竜川の急流が城直下にぶつかり渦巻いて恐ろしいところである

武田信玄も二俣の毘沙門堂に本陣を置き責めあぐねて二俣城を眺めていたのだろうか、

そこで”水の手を切る”というアイデアで”遠州の要”と言われた二俣城は落城した。

武田勢の三方原合戦の勝利に結びついたのである。

 

天竜川河口から26kである、この合流点から二俣川へ天竜の流れが

逆流して天然の堀を作っていた。

江戸末期になって二俣の名主である袴田氏が二俣川の改修工事を

私財を投じて完成するまで二俣の町は江戸末期まで水害に悩まされ続けて来たのである。

二俣川と天竜川の合流点から再び急坂を登ると鳥羽山城にとりつく

新緑に包まれて気持ちの良い坂道である。

この林の向こうは天竜川が蛇行して作った急崖で、

ここも難攻不落の城であったと想われる。

 

道を登ると鳥羽山城の大手門に着く、

戦国時代の城の厳しさは無くやさしい感じがする城跡である

この城は二俣城攻めには徳川家康が本陣を構えて二俣城の武田の軍勢と睨み合った。

 

三方原合戦の後、堀尾氏が二俣城と別郭一城として改修して迎賓館的な城の役目を持ち

戦国の世でありながら枯山水庭園を持っていたのである。

 

私たちは鳥羽山の新緑に包まれて一休みをして

古戦場にたたずみ植物図鑑を広げ草木染めの材料を探す

 

草を眺めて木を見上げて

「あれは染まるかしら」

「これは何草?」

「雑草という名の草はないそうだから名前はあるだろう」

と答えにつまる私がいた

 

一休みの後、鳥羽山城跡を後にして坂をくだる

この花は何?

可愛らしいねえ

野草を見ては立ち止まり

小鮒草を見つけては

「染めようか?」

「これじゃ量が足りないな」

石を敷いた広い道は戦国時代の城の印象はなく、迎賓郭を思わすに十分だ。

 

この道は春は桜の名所だが もうすぐ山百合が咲く道になるだろう、

森林の陰に咲く白い山百合の姿を想像した。

 

「この辺に美味しい蕎麦屋があったね」

「八幡屋という店だ」

そこで蕎麦を食べよう!と珍しく意見が一致

「あっ!」

自動販売機があった!


蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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