TAKE-LOG 竹ログ

6年前の今日の竹島

6年前の今日、私と妻は、生徒と友人6人が竹島クラフトセンターにいた。
午後3時過ぎに生徒の携帯電話が鳴った。
「東北地方で大地震だって仙台に親戚があるから、帰るわ」
全員家に帰った後 私はテレビを見た。
どす黒い水が畑を這うようにして流れ来て家や畑や車を飲み込んでいた。
「大変だ大津波である」

愛知県の震度も出たが、竹島クラフトセンターでは揺れは全く感じなかった。
6人の全員が地震の揺れを感じることがなかったのである。



遠州灘も大津波警報になり、三河湾も警報に鳴った。
「おい、早く逃げないと」
妻はまだやることがあるからと織機に座って仕事をしていた。
「ここは海岸部だから早く逃げないと消防に叱られるぞ」
「少し待って、津波が来たら教えて」

私は双眼鏡を持って高いところから海を見ていた」
三河湾への津波到着時間が迫っている

「津波が来たら教えてね」

その当時はまだそんな警戒感しか持っていなかった
今思えば身の毛がよだつほどの事だったのである。
津波が三河湾に入って来たが潮位の変化は感じなかった
双眼鏡では感じられないように海全体が数十センチ程上がっていたのだ。

「津波が来たら教えてね」

飛んでもない言葉があった6年前の私たち夫婦であった。


東海地震と叫ばれて50年になろうとしている、
100年毎に大地震が来ると言われてきた。
日本に住む人に与えられた宿命だと感じて生きてきた。

昭和19年私が赤ん坊の時に南海トラフに大地震が起きて
東南海地震に私は遭っていたのだ。
私は家の中に置き去りにされて祖父が慌てて家の中に入り外へ連れ出したそうである
妻も私と同じ状況で、赤ん坊が居ないと大騒ぎで助け出された経験があったそうである。

その時の母の経験談では
「ぼた(段々畑の石垣)や道が蛇のようにうねる様に揺れ、
 電信柱がムチを振る様に揺れた」

「山の斜面は大きな岩がゴロゴロと轟音を立てて落ち、
 山の木はゴーゴーと音を立てて揺れ、それは恐ろしい事だった」

「ボロ家でも倒れることはなかったが、商店の店先の空襲用の
 コンクリート製の重い桶は道路までズレ動いてしまった」

「袋井市では液状化で噴水の様に水が噴き出て家はことごとく倒れて
 死者は多数で私の祖父も腰弁当で救援に出た」

「ゆらゆらと大きな横揺れは目を回しそうで恐ろしかった」
と今回の東日本の大地震と東南海地震とは同じであったそうだ。

以上母の話である。

東日本の大地震も南海トラフの大地震も日本海溝で起きる同じトラフの地震である。

しかし、当時は軍国の世であり地震ニュースまで国家機密とされ、
東南海地震の被害は無かった事と消し去れてしまい、
学術的情報も得られなかった。

それらの情報が教訓として残していたなら今回の東日本大震災の被害も変わって
いたであろうと思う、

阪神大震災もそうだが、起ると言われる所ではなく予想もしないところで、
千年に一回の大震災が起きているのだ。
”災いは忘れた頃にやってくる”

東日本大震災で亡くなった方々と今も家に帰れない行方不明の方々の
ご冥福をお祈りしています。

その命の重さと大切さを胸にこれからの防災に
生かしていかなければならないと思っています

「津波が来たら教えてね」
と、思えば飛んでもないことをブログに書いてしまった私であるが、

93歳になる母は敗戦の年の東南海地震の話の終わりに、
その年の浜松の米軍艦の艦砲射撃による空襲を語った。

「地震も怖かったが、戦争はもっと怖かったよ」

蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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