日本に初めて棉の種が渡来したのが西暦799年11月
現在の西尾市、旧福地村であった。
三河湾の海岸に小舟に乗った青年が漂着した。
その青年は東南アジアの民族衣装を身に付けて
1弦の琴と棉の種が入った壺を持って上陸したのが、
”日本の棉の伝来の始まり”である。
(三河種の花は全体が黄色一色で萎れても黄色でピンクに変色しない)
青年は、助けてもらったお礼に棉の種と棉の栽培方法を
村人に教えた。
それが評判となり朝廷にも情報が入ると青年は朝廷に招かれ
事情を聴取され、中国人通訳によれば彼は”崑崙人”である
と、いう事になった。
そこで問題になったのが”崑崙人”である
崑崙といえば北アジアの崑崙山脈が有名であるし
当時の唐の最奥に位置して神聖なる山であり宝玉の出るところ
それが崑崙山であった。
しかし、温暖な土地で育つ綿花が北方アジアは考えにくい
ましてや暖流に乗って日本まで漂着した船の存在と
青年の衣装と持ち物を考えるととても崑崙山脈からとは
考えられないのであった。
写真(三河種の棉)葉脈も茎も緑色である
崑崙とはどこか、青年はどこから来たのか、
なぜ?日本の三河湾に漂着したのか、
私の謎解きは20年前の[三河地棉]の棉の作付けから始まった。
それは[ミカワ・テキスタイル・ルネッサンス事業]の根元にも
関わる悩ましい問題であった。
世界最大の海流の暖流(黒潮)に乗って来て三河湾漂着は
日本人なら伊良湖岬のヤシの実の唄からも連想できる、
だが、その出発点はどこかが問題で
コンロン、・・・、オムロン(これは体温計だ) ・・・ロン
などの地名を世界地図から探すと、インドシナ半島のベトナム南部に
似た地名の港町が多いことに気がついた。
写真(三河種の棉)葉脈も茎も緑色である
そして、青年が持っていた1弦の琴の存在である
1弦の琴はベトナム南部の民族楽器であった。
そこで、ベトナムの歴史を調べると
遣唐使 平群広成の偉業にたどり着いた。
遣唐使といえば空海である、空海の乗った船も嵐に会い漂流して
中国の福州にたどり着くことができたが、
平群広成は唐から日本へ帰るために中国の長江を出たが途中
暴風雨にあって漂流、風に流されて東南アジアベトナム南部の
崑崙國(チャンパ)に漂着したのである
判官の平群広成と百十五人の人のうち生き残ったのは四人だけであった。
続日本記の平群広成が8世紀に漂着した崑崙國はチャンパ王国であった。
のちに中国人鑑真も渡航の失敗を重ね盲目になりながら753年に
日本に戒律を伝え唐招提寺を開いたこの歴史の当時、
西暦799年にベトナム崑崙王国の青年が三河湾に漂着し
三河に棉の栽培を教えたことが日本の棉の始まりである。
写真(三河種の花は萎れても黄色で色変わりはしない)
崑崙人の青年は朝廷に招かれて大阪南部で棉の栽培をしたが
その後、棉の栽培は絶えてしまったと記されている
しかし、三河で育てた棉も絶えたとは記録されてはいないのである
そればかりか地元の福地村では天竺神社(天竹神社)をまつり、
神事として棉の栽培を続けて来た事実がある。
私が天竹神社の棉の世話人鈴木稔さんからいただいた
三河種の花と他の和棉の花と実の違いを見るたびに
もうすでにベトナムにもないであろうミカワ種の遺伝子を
命をかけて日本まで持って来た崑崙王国の青年の思いを感じるのである。
現在ベトナムにこの花が咲く棉の種類が存在しているのだろうか
まだまだこの問題が残っているのである。
写真:アプランド種の花も黄色一色だが、アップランド種は花も大きく上を向いて咲き、
萎れると花びらがピンクに変色して落ちるのである。
今度はベトナムである、”両国の文化と歴史のロマンを求めて”
国際交流ができたら嬉しい限りである。