世界中から熱苦しく・・・「ふじもん世界放学ブログ」

元「変な学校先生」私ふじもんが、ただ今世界を駆け巡っています!世界の今と僕の魂をお届けしますので、ぜひお読み下さ~い!

【ふじもん世界放浪「放学記」第3章北米編 「デジカメ」の功罪・僕が思うこと。】

2013-10-17 00:06:07 | 日記
世界一周 ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。「いいね!」と思っていただけたら、バナーにクリックをぜひともお願い致します!


2013年10月16日。

《デジカメ。今現在カメラを使っている人で、デジカメじゃない人は限りなくいないだろう。とっても便利なこのデジカメ。大切な旅の友であるが、その功罪について僕は思うところがある。》

当たり前だけど、僕は写真を撮る。と言ってもそんなに本格的に写真を撮る人ではないので、まぁ安いデジカメにお世話になっているのだが、それでも十分綺麗に記録を残すことはできる。

こんなことを言うと「いつの時代の人間だ!」って言われてしまうかもしれませんが、デジカメって便利ですよね(笑)。だって、カードさえ入れ替えりゃあ何枚だって取り放題だし、必要ない画像はどんどん消せばいい。画質だってちょいといじれば調整できるし、色々な機能も満載だ。

環境のためにもいいですよね。フィルムだととりあえず現像しなければいけないし、必ず紙を使うことになる。でもデジカメならデータとして保存しておけばいいわけだし、必要なものだけ印刷すればよい。今のデジカメは使い方もとても簡単になっているし、旅をしていてもフィルムカメラをみることなどもうまずない。


でもね、僕思うんです。その便利の裏側には、1つの「罪」があるんじゃないかって。

たとえばもしフィルムカメラを使っていて、たとえば16枚しか写真が撮れないとする。」すると僕たちは、必死に考えて大切に写真を撮りますよね。失敗したらそれで終わり。ミスは許されない。しっかりと場所や構図を考えて、1枚1枚必死に撮る。

しかしデジカメだと、そんなことは考えない。バンバン撮りまくって、いらないものは後で消せばいい。だから人は、大切に写真を撮らなくなる。撮るだけ撮って後は消すだけ。

僕はここに、「人間の心の落とし穴」があると思うんです。それは、大量生産大量消費的な、言うなれば「ものを大切にする心」を失うことにも繋がるのかなって。

限られた枚数ならば、1枚1枚「必死に大切に」撮る。しかしデジカメならば、ほぼ何も考えない。もちろん良い写真を撮ろうとはするが、「良くなかったら消せばいい」という思いはきっとどこかにあるはずだ。それって何だかまるで、「限りあるものなのに何も考えずに消費をしまくる現在の資本主義経済における先進国」みたいな状況だなって感じるんです。

僕は今日、「ブライスキャニオン国立公園」という場所に行きました。何千年もかけて形成された奇石群が一面に広がる景観で、その迫力と美しさは圧巻です!聞いていた以上に素晴らしい場所でした!今日はほぼ一日ブライスキャニオン国立公園にいたのですが、さて僕は何枚写真と撮ったのか?数えてみました。

なんと、その数283枚!たぶんそれでも少ない方だと思います。僕は写真を撮らない方なので、撮る人は僕の何倍もシャッターを切っていることでしょう。

あ、ではせっかくなのでブライスキャニオン国立公園の写真も少し・・・(笑)夕日に輝く奇石群の光景は本当に素晴らしかったです!



デジカメって便利なんですよね、本当に。そんなの当たり前の話っちゃあ当たり前の話なんですが、この「撮ってダメなら消せばいい」的な発想になってしまうのが、僕は何だか人間にとって大切な「何か」を忘れさせてしまう1つの要因になってしまうような気がするな・・・と、考えてしまう。

「ものを大切にしよう!」当たり前の話ですよね。

でも、僕たちは本当に「ものを大切に」できているのだろうか?

今目の前にある「もの」は、全て有限な資源から作られていることを、僕たちは、いや日本人は、どこまで考えられているのだろうか。

古より日本に存在する素晴らしい言葉、「もったいない」。この「もったいない」という表現、英語をはじめ他の国の言語では、非常に翻訳が難しい表現らしいですよね。

もったいない」。こんな素晴らしい感覚を持ち合わせてきた僕たち日本人

別にデジカメを否定しているのではありません。僕だって(安物だけど)デジカメを愛用しているし、これからフィルムカメラに変えようなんて思ってもいない。本当に便利で、素晴らしい発明品だと思う。でも、便利だからこそ、その裏にあるちょっとした影の部分を考えてみたいと思うのだ。

ブラジルのマナウスにいるとき、僕は日本人移住者の方にお伺いをし、インタビューをさせていただいた。その方は移住1世で、大変なご苦労をされてマナウスでの生活の基盤と移住日本人としての地位を築いてこられた方だ。

僕はその方に、「これからのブラジルの日系の子ども達に、あるいは日本の子ども達に、最も必要な教育は何だとお考えですか?」と質問させていただいた。

そのお答えは次のようなものだった。

「ものを大切にする教育ですね。今の子ども達の周りにはものが溢れている。全てのものには作る人がいて、限りある大切な材料が使われている。しかし、ものが溢れ返ってしまうと、そのことに子どもは気付くことができない。全てのものは大切であることを理解することができない。いくらでも手に入ると勘違いしてしまう。私は長い間日本に行っておりませんが、きっとそいういう状況でしょう。ブラジルの日系の子ども達も同じですよ。」

「私が子どもの頃は、とにかくものがなかった。だから何でも大切にしたし、何でも利用してきた。そのころの時代に戻れと行っているわけではないですし、私が偉いわけでもありません。しかしそれでも今の子ども達は、あまりにもものを粗末に扱いすぎる。私はそのこととても心配に思っています。」


非常に簡単で単純なご意見だが、だからこそ大切なことなのだと僕は思い、今でも心に残っている。


「ものを大切にしなさい。」その精神は、今僕たちの心のどこにあるのだろう。

「もったいない」の気概は、魂のどのへんにいるのだろう。

写真を撮ることがフィルムからデジカメに変わったことで、それイコール「ものを大切にできない心になってしまう」なんてことはないだろう。しかし、写真だけに関してはそれでよくても、そのような「何でも撮りたいだけ撮って、要らなけりゃ捨てればいい」という考え方そのものが心に及ぼす影響というのは、少なからずあるんじゃないかなぁと思っている。


資源は有限であり、これまでのような「大量生産大量消費」の時代は終わりを迎えなければならない。理屈としては、きっとほとんどの人がわかっているはずだ。

コスタリカで微生物を使った環境保護活動を行っている、ある日本人の方にインタビューをさせていただいたときのあるコメントが、僕の脳裏に焼き付いている。

「一番難しいのは、人間の意識や考え方を変えていくことですよ。」

バンバン写真を撮っては消去するという行為自体はそれで問題なくても、そこから派生する「心」への影響。そういう小さな影響が、人間の形成に何かを与えているのかもしれない。


ブライスキャニオン国立公園。とっても綺麗だった。バンバンシャッターを押した。strong>僕はこれから、撮り損なった写真を消していくだろう。そして明日の明後日も、同じことを繰り返していくだろう・・・。

2013年10月16日。おっちゃんがちょっと気分屋で、たまにカチンと来ることがあるKanabのRV Parkにて。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿