故田丸寛先生没後11年-に寄せて 3年まえのブログより

2022-12-16 | 日記

2022年12月16日(金)今日は2度アップしました。その1

田丸寛を偲ぶ 2011年12月15日 死去 音楽家・指揮者 

2019-12-16 | 日記

2019年12月16日(月)3245歩とプールで50分

田丸寛 1950-2011・12・15

わがメサイア合唱団の初代指揮者であるだけでなく

私の指導していた合唱団風 も不定期に指導をお願い

していました。

アンサンブルババロアや・ぞうれっしゃ合唱団でも

お世話になりました。

鹿児島県民第9(ベートーベン)の永年指導に当たら

れました。

2001年には、ルーマニアの演奏旅行 鹿児島混声合唱団

や個人有志の15名位?で、ルーマニアの国立合唱団の40人

と一緒のステージ。

鹿児島出身の国際的指揮者尾崎普也氏ルーマニア国立

交響楽団指揮者)の指揮によるバッハのマタイ受難曲

(3時間余りの曲)の演奏に参加出来たのは、私にとって

大きな財産となりました。

 ルーマニアの宮殿でのコンサートには ハンガリーやイギリス

❓からの観客も来るほどの一大行事だったと聞きました。

(この中には鹿児島からの10数名団員が含まれています)

あまりの長時間演奏で途中ソリストの時は椅子に掛けたりしました。

電話帳2冊分くらいの楽譜を途中で落として・・

というハプニングもありました。

向こうの合唱団員は自分のパートだけの楽譜で薄っぺらでした。

2012年3月に、アイルランドでメサイア全曲を歌う東京の

辻正幸さん率いる合唱団と演奏を決めていたのに その3ケ月

前に先生は亡くなられたのです。

私もその旅行をとても楽しみにしていました。

鹿児島からはソリストだけが一人代表で参加されました。

ロンドンに住む先生の娘さんが1月に出産予定で、3月には

会えるととても楽しみにされていましたが、

叶いませんでした。

 

息子さんは東京でお笑い芸人として頑張っていられます。

2014年の12月15日

お母さまとお墓参りのついでにてんがらもん放送中の局に

立ち寄ってくださったのでした。

父さまの還暦(寛暦)コンサートにはゲストで相方を連れて

帰省されステージを務めました。

 私は先生のレッスンが大好きでした。最後の1年は、がんと

いう不治の病と闘いながらでもメサイアのレッスン日は

あまり熱心には練習もされずに、・・多分とてもしんどくて

ジョークだけは連発して居ました。

「私は胃癌退職しました」と自分の病気にもユーモア

たっぷりに私たちを笑わせていました。

 

 2011年 12月15日死去 63歳 田丸寛 (わが師)

 1950年生まれ 合唱指導者・指揮者

 鹿児島メサイア合唱団 発起人 初代指揮者 

 2001年ー2011年 2月まで

 1971年鹿児島大学ポリフォニーコール指揮者 市立少年合唱団

 鹿児島混声合唱団 グリーンエコー・ゴスペル合唱団

 寛暦コンサート・象列車合唱団・鹿児島第9合唱団 

 他鹿児島の合唱指導の中心で活躍

 2年前のお盆に先生のお墓にお参りしました。

 

 

私は田丸先生に指揮法や合唱指導を教授願いました

 池辺晉一郎氏(作曲家)といいコンビでダジャレ名人でした。

池辺先生は九州のうたごえ祭典で「悪魔の飽食」合唱団の

指揮をお願いして 田丸先生が指導されました。

 

 

12月20日、メサイア合唱団はランチタイムコンサート

を予定しています。

先生がいらしたら…成長したメサイア合唱団の演奏を

聞いていただけるのに残念です。

先生の時代のメンバーはもう4人しかいません。

せめてこうしてブログでしたためておきたい。

先生とうたったメサイアはっても楽しかった。

今は…音が正確に聞こえなくなり苦痛を伴っています。

区切りをつける時が近づいています。

いつか先生と一緒にまたメサイア歌える日が来ると信じています。

待っていてください。

 

 

 

 

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