"Freedom Betrayed (裏切られた自由)
- フーバー元米大統領回想録の要旨
第XVIII部 会議、会議、また会議-ポツダム会議とその後
第82章 日本に対する措置
会議(ポツダム会議 : ボツダム会議は45年7月17日に始まり8月2日に終った。)の前日本はすでに繰り返し和平を求める合図を送ってきていた(広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。
原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる。)。日本による和平努力の回顧はこの会議での現実の状況に光を当てることになろう。
45年2月早々、ルーズベルトはマッカーサー大将から日本との和平条件を述べた長文の報告を受け取った。その条件とは、天皇の地位を保障した無条件降伏、そしてロシアに一切の妥協を行わないよう強く求めたものであった。
45年3月、ヤルタ会議の後、駐日スエーデン大使は重光外相から日本のために和平交渉の仲介に立ってくれるよう依頼を受けた。しかしその効果は皆無で、ただ日本が和平を決断したとの徴候として重要とされただけだった。私は先に(第76章) 日本の天皇が45年4月軍主導の内閣に代えて文民内閣を任命したと述べた。以前から米国に友好的であった鈴木貫太郎の内閣には、反軍閥であり41年の参戦に反対した東郷茂徳外相が入っていた。
45年7月、日本政府は再度和平の望みをかけて近衛公のモスクワ派遣を提案した。日本は仲介者として中立国を必要とし、ソ連はまだ中立関係にあると思ったのである。7月13日、ソ連は近衛使節団の訪問の通知を受けたが、18日に受け入れを断った。7月21日、日本政府はモスクワ大使に、近衛使節団は終戦のためのソ連の仲介を求めるためであるとの理由を述べて受け入れを要請するよう、強い指示を出した。ソ連は7月25日にこの要請を受け取ったが、返事をしなかった。
また東郷外相も7月駐露大使佐藤尚武と緊急電報のやりとりをしていた。この通信はすべてワシントンに傍受され解読されていたが、無条件降伏でなければ戦争を終結したいとの強い願望があった。
このように7月26日のポツダム会議で最終通告が出される前に日本から6カ月にわたって和平の模索があり、また会議から2週間前には日本からソ連に前向きの提案が行われ、それをトルーマンもバーンズもスティムソンも通信傍受によって知っていたのである。
例え日ソ中立条約があるとはいえソ連がどのような意図と立場で戦争に望んでいたか分からなかったというのは、日本の対外諜報能力が実に残念な状態であったことを示す。そもそも真珠湾の電報授受から今日に至るまで、外務省の弱さは言語に絶すると言わねばならない。
ここで重要なのは、(1) 少なくともパーンズ長官はポツダムに到着前に日本からの提案を知っていたこと、(2) スターリンは秘密のヤルタ極東合意で約束された広範なシナ地域を獲得するまでは対日戦を終結させたくなかったと推測される、ということである。
日本による和平の模索に共通しているのは、日本の皇室の保全である。スティムソン長官はずっと以前からその条件を主張しており、7月2日トルーマン大統領に宛てた対日和平条件・警告に関するメモで「(降伏条件)受諾の機会を確実にするため・・・現在の皇室の下での立憲君主制を排除すべきではない」と述べた。
バーンズ長官はスティムソンのメモが最終通告の基礎とされたと言うが、メモにある強い勧告は最終通告には取り入れられていない。フォレスタル長官、グルー国務次官、そして私自身の同様な勧告 (第76章) も無視されている。
7月26日に出された対日最終通告は次の通りである--
(1) 米国大統領、シナ共和国相当、大英帝国首相は連合国側の数億の人々を代表して会談し、日本に終戦の機会を与えることで合意した。
(2) 米英シナの巨大な陸海空軍は西側諸国の軍により何度も強化され日本に最後の一撃を加えんとしている。この軍は日本が抵抗を止めるまで戦争を続ける全連合国の決意によって維持されている。
(3) 立ち上がった世界の自由な民の力に対するドイツの無駄な抵抗の結果は日本国民にも明白であろう。いま日本に対峙するわれらの力は、ナチスの抵抗に対して加えられその国土と産業と全ドイツ国民の生活を壊滅させた力よりはるかに大きい。われらの決意とともに軍事力が加えられたならば、日本軍と日本国土が完全に破壊されることは不可避である。
(4) 日本帝国を崩壊の瀬戸際まで追い詰めた軍事顧問に依って支配され続けるか、あるいは理性の道を選ぶか、日本はいま選択の時を迎えた。
(5) 下記が条件である。我々はこれらから逸脱することはなく、これらを変更することもない。返答の遅延は許されない。
(6) 日本国民を欺き誤って世界征服へと導いた人々の権限と影響力が排除されねばならない。無責任な軍国主義者が世界から駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新たな秩序は不可能と考えるからである。
(7) 上記新秩序が樹立され、かつ日本の戦争遂行能力が破壊されたとの証拠が示されない限り、連合国が指定する日本領土の諸地域は、ここに規定される基本目的の達成を確保するまで占領される。
(8) カイロ宣言の諸条件が実行され、日本の主権は本州、北海道、九州、四国、その他我々が指定する小島に限定される。
(9) 日本軍は完全に武装解除された後帰国が許され平和的かつ生産的生活の機会が与えられる。
(10) 我々は日本国民が人種あるいは民族として奴隷化されることは望まないが、連合国捕虜に残虐行為を働いた者も含め戦争犯罪人すべてに厳格な正義の報いが加えられる。日本政府は国民における民主主義的傾向の復活と強化のためあらゆる障碍を除去せねばならない。基本的人権を始め、言論、宗教、思想の自由が確立されねばならない。
(11) 日本は経済維持のため、正当な現物賠償のための産業の維持が許されるが、戦争のための再軍備を可能にする産業の維持は許されない。このため、原材料の利用は許されるものの、その支配は許されない。最終的に世界貿易に参加することは許される。、
(12) 連合国の占領軍は上記目的が達成され日本国民の自由な意志に従って平和的かつ責任ある政府が樹立された時に日本から撤退する。
(13) 我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、この宣言の受諾に適切な保障を与えることを要求する。さもなければ日本は速やかかつ完全に破壊されよう。
上記のうち太字とした部分は問題を含む箇所であろう。
7月30日から米国代表団がポツダムを離れた8月2日までの間に原子爆弾を投下する決定が行われた。日本の降伏は不可避との証拠があるにも関わらず、 原爆は広島・長崎に投下された。スティムソン長官とマーシャル大将のどちらも原爆投下を勧告した。後に米国戦略爆撃調査局はこのホロコーストを次のように述べている--「大部分の産業労働者はすでに出勤済であったが、多くの労働者は通勤途中であり、殆どすべての学校生徒や一部の産業労働者は戸外におり、防火帯を設けるための建物撤去や有価物の田舎への疎開のため働いていた・・・警報が発令されず人々は小規模な飛行機隊に注意を払わなかったため、爆弾は無警戒の人々を突然に襲い、人々は避難することができなかった。多くは戸外で、その他の殆どの人は遮蔽力の薄い屋内あるいは商店で被爆した・・・
8月8日の新聞に広島の大災害についておぼろげな記事が掲載されたが、3日後長崎市内では殆ど警戒が高められてはいなかった・・・
米国 (少なくとも共和党) は、原爆投下が「ホロコースト」であったとの認識を持っている。
8月8日、ソ連は日本に宣戦布告した。
8月10日、日本は皇室保全を条件としてポツダムの最終通告を受諾した。日本政府の声明は次の通りであった--「・・・日本は45年7月26日ポツダムで3首脳により発せられ後にソ連も署名した共同宣言の条件を、わが陛下の君主としての大権が損なわれないとの了解の下、受け入れる用意がある・・・」
リーイ司令官は次のように記録している--「天皇については殆どなんの感慨もなかったが、日本の降伏のためにはその利用が必要と信じていた。大統領の取り巻きの中には天皇の処刑を望む者もいた。もしその勢力が強かったなら、我々は日本との戦争をなおも続けていたかもしれない・・・天皇の地位が解決すべき重要な点であることは明白であった・・・」
わが国は8月30日、日本に次のような返書を送った--「日本政府からの『わが陛下の君主としての大権が損てわれないとの了解の下』を含んだポツダム宣言条件受諾の声明に関し、われわれの立場は次の通りである--降伏の瞬間より、国家を統治する天皇と上記政府の権限は連合国軍最高司令官に従属し、この最高司令官が降伏条件の実行に必要と判断する措置を取る。」
この返書の意図が譲歩であったのか、あるいは「最高司令官」への権限委譲であったのかは明らかでない。最高司令官マッカーサー大将は日本降伏とともに、宗教的および特定の世俗的権威を伴った皇室の保全を発表した。
ポツダムより3カ月前にこの保障が日本に呈示されたならば、数千の米兵の命は救えたのに、と多くのわが国民は思うだろう。そして数千の女性と子供、非戦闘員を殺戮した爆弾も投下されることはなかっただろう。
「数千」ではなく「数百万」である。
第83章 原子爆弾投下のその後
日本での原爆投下は米国民の良心を動揺させ続けている。もちろん世界中の考える人々にとっても同じである。この恐怖の兵器の使用を正当化する試みがなされてきた。しかしわが国の軍人も政治家も戦争終結に必要だったと繰り返し述べるだけであった。
45年8月29日、AP通信は次のように報じた--「バーンズ国務長官は、原爆のために日本は敗北した、との日本の主張を批判した。長官は、広島の原爆投下より前に日本は敗北を認識していたとのロシアの証拠と呼ばれるものを引き合いに出した。それによれば、ロシアのモロトフ中央委員はポツダム会議で米英両国に、日本がモスクワに戦争終結の仲介を頼むため代表団を送りたい、と求めてきたと告げた、長官はこれを日本が敗北を認めていたことの証拠と解釈したと言うのである」--
45年9月20日、日本の空爆を指揮したルメイ大将はAP通信に次のように述べた--「原子爆弾は戦争の終結に無関係であった・・・ソ連が参戦しなくとも、原爆の投下がなくとも、戦争はあと2週間で終わっていただろう・・・」
このインタビューには対日戦に参加した2人の将軍も立ち会った。ジャイル、オドネル両大将である。両人ともルメイ大将の発言に同意した。
同年10月5日、ニミッツ提督はAP通信のインタビューで同趣旨のことを述べ、同日議会で特にこれを強調して述べた--「原子爆弾によって対日戦に勝利したのではない。事実は、広島の破滅によって原爆時代が世界に発表され、ソ連が参戦する前に、日本はすでに和平を求めていたのだ。純軍事的な観点から原爆が日本打倒に決定的な役割を果たさなかったと言っても、これはこの新兵器の恐るべき力を過小評価するものでは決してないのだが・・・」
また45年1月25日のNGSでの演説で同提督は「原子爆弾は、すでに不可避的な結末に到達しつつあった流れを早めただけだ」と述べた。
リーイ司令官は著書の中で言う--「広島と長崎でのこの野蛮な兵器の使用は対日戦で大きな助けとなってはいない、というのが私の意見だ。効果的な海上封鎖と通常兵器による爆撃の成功で、日本軍はすでに敗北し降伏を準備していた。原爆計画には莫大に金額が費やされたので、科学者やその他の人たちは原爆の実験をしてみたかったのだ、というのが私の感想だ」--
この他、当時の指導者たちが原爆投下をどう見ていたか、これに注意を払うのは記録のためにも望ましいだろう。英国戦争内閣のハンキー卿は言う--
--「45年7月、ポツダムに集まった連合国指導者たちは原子爆弾という究極の手段の採用を決めた。想像し難い危険な決定だった。その爆弾はかつてこの世に生まれた兵器の中でも最も残酷で殺傷力の強いものであること、民間人も軍事目標も差別することなく爆撃することをかれらは知っていた。日本はすでに和平を求めてソ連に打診したことも、ソ連が対日参戦を宣言する間際であることも知っていた。それなのに、一言でいえば浅はかな戦いで、降伏条件を呑ませるためもっと通常の手段を採用しよう、と立ち止まって考えることもしなかった。ソ連の参戦の結果を知るためもう少し待とうともしなかった。
この爆弾の使用が国際法に違反しないかどうか、調べたことを示す明らかな証拠もない・・・もし敵国が原爆製造問題を解決済であって爆弾の使用がわれわれより早かったなら、その使用は戦争犯罪のリストに搭載され、その爆弾使用を決定し、製造し、あるいは使用した者は有罪とされ絞首刑となっていただろう。」
偉大な、そして良心を持った軍事学者ハンソン・ボールドウィン氏は次のように言う。これは多くの人たちの考えを代表するものだろう--
--「戦争が終わる頃すでに屈伏し敗北した日本に対して原子爆弾を使用したことは、かつて挙げられたいかなる過ちよりも大きな過ちを明白に示す。それは、わが国の計画策定者が視野の狭い狂った目でたった一つの目標、『戦争に勝利』 だけを見つめていた、ということだ。原爆投下を自己弁護するスティムソンの雄弁な弁解のどこにも洞察力の証拠が見いだせない。有名なハーパー誌で述べている弁解は、原爆によって戦争終結が早まった、ということだけだ。しかも何という犠牲を払ったことか ! 」
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